君主の影響力
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も老子ということで、前回は老子の世界観みたいなものを見てきたんですけれども。
そうですね、前回もお話ししたんですけど、老子と言うと諸子百家っていう、ある種王様というか、政治をする人へのコンサルみたいな立場というか、仕事を担いない人だったので。
前回はどっちかというと、世界観とか世界ってどう成り立つの?みたいな、それが道だよみたいなことをお話したと思うんですけど。
それが現実の政治とか、罪をまとめるぞみたいなところに役立たないと意味がないみたいな感じになっちゃいますと。
はいはい、成人とか言っても、別に属性離れしたとか、そういう方では全然ないってことなんだね。
そうそうそう、そういうイメージもあるけど、やっぱり住み食って生きているみたいな感じではないから、ちゃんと政治に役立つとか王様の役に立つみたいな。
そこは老子にもあったってことだよね。
そうなんです。
思っていると、法治とかみたいに、そっちの現実世界のことだけを言うんじゃなくて、
あくまでも世界というのは成り立っていて、こういうふうに成人がいるから、教えというか、そういう世界の成り立ちに乗っ取って政治をすると、世の中も丸く治まるよね、みたいな。
そこがちゃんと繋がっているっていうのは、ちゃんとというか、
老子的にはね。
そう、老子的にはね。老子的にはちゃんと繋がっているっていうのが特徴かなという感じで思っています。
なるほど、はいはい。
今回、前回の道、それって無と一緒だよみたいな話をしたと思うんですけど、
そういう世界観がどんなふうに、この実際の政治とか世の中と繋がるのかっていうのをお伝えしていきたいと思っています。
はいはいはい。
今回、キーワードとして2つ持ってきてて、
1つが無意。無意って何か、成すことがない、みたいな。
よく無駄だとか無意、無意だって言わないか、あんまり日本語で。
老子だと無意自然とかっていう言葉は聞いたことあるけど。
そうね、無意自然の無意だと確かにわかりやすいか。
成すこととか成さざるとかっていう時の言葉だと思うんだけど、成すことがないって話ですと。
はいはい。
あとは水だね。
これがちょっとキーワードとしてあるんで、これをちょっとお伝えしていくんですけど、
まさに今ね、兄貴が言ってくれた通り、無意自然。
要は、自然っていうのも、いわゆる森とか林とかじゃなくて、
自らあるとか、ありのままにあるみたいなことの意味の自然なんですけど、
そういうふうに、ある種、ありのままにあって、
自分から何かを成すことがないっていうのが無意って言葉だし、
あと水っていうのも、要は自然に高いところから低いところに流れていくとか、
流れに沿って緩やかに進んでいくみたいな象徴っていうようなイメージがあると思うんですけど、
そういうようなものとして、水のような政治みたいな話が出てきてて、
例えば、これも例としてあるんだけど、
浄泉水の戻しみたいな言葉って聞いたことある?
これね、日本書の合いにもなってるんですけど、
これも浪子の言葉なんだよね、実は。
ああ、そうなんだ。知らなかった、それ。
浄泉っていうのは、いわゆる良いことというか優れたことって話だけど、
それが水のようであるとか、良いことっていうのは水のことだぐらいの話をしてて、
水とは何かみたいなのが結構中心テーマとして出てきたりします。
ああ、そうなんだね。
おいしい日本酒は水のように飲めるとか、そういう意味じゃないんだね、別にね。
まあ、お酒はそういう意味はあるかもしれないけど、
もともとの意味は全然違うんですよ。
浪子から来てるんだね。
そう、浪子から来てるっていう感じでね。
なので、実際どういうことか、
無意とか水って何言ってんのっていうのを、
今日ちょっと見ていきながら、
浪子が考える政治に対するあり方とか、
王様とか君主のあり方っていうのを見ていきましょうっていう感じですね。
なるほど、なるほど。
前回は哲学者というか思想家というか、
そういう側面だったけど、
今回はもうちょっと諸子百家的な振る舞いというか、
どういうふうに考えてたのかっていうところに近くなってくんだね。
そうです、そうです。
はいはいはい。
早速ね、この水の話からちょっと指摘したいんですけど、
実際こんな風に言ってるよっていう言葉をちょっと紹介しますね。
で、航海っていわゆる大きな海が百国なんで、
谷とか山ですね。
大きな海が山に対して王であり得るっていうふうに説明してるんだけど、
その理由っていうのは、
いろんな山に対して、
その大きな海っていうのは下っている、
要は下にあるからこそ王なんだと。
だから民衆に立とうとすると、
必ず言葉によって民に減り下って、
民に先ずる、民の先に行こうとしたら、
必ず体によって後ろに下がるんだと。
王様とか君主が争わないからこそ、
天下にはその人と争うという人はいなくなるのだ、
みたいな言葉があるんですね。
なんといった意味が通じる部分もあると思うんですけれども、
王様と民衆の関係
今でいうとサーバントリーダーシップってお兄さん聞いたことあるかな?
知らない。
リーダーのあり方として、
もともとはリーダーって先に立つ人とか、
戦闘に立ってみんなを引っ張っていく人みたいなイメージがあると思うんですけど、
サーバントって保護士するとか、
使えるという意味があって、
メンバーもある種下から支えていくとか、
ある種ボトムアップというか、
そこをすくい上げていって、
みんなを前に前に押し出していくみたいな、
そういう考え方があるんですよね。
組織論とかリーダーシップ論の中で。
結構これに近いんじゃないかなと思うんですけど、
民衆、要は普通に考えたら、
それこそ2500年前とかの話だし、
王様が一番偉い、
王様というか君主が一番偉くて、
民衆をそこに突き下がるんだみたいな感じの世界観だと思うんだけど、
そうじゃなくて、
君主っていうのはもう民より低いんだと。
逆にそういう風な位置にいるからこそ、
全体を統治できる、支配できるんだみたいな考え方なんですよね。
要は海ってさ、結局、
山よりも低いところにあるけど、
だからこそ全部の山と接しているとか、
全部の山に影響を与えているみたいなイメージなんですよね。
これは逆で、
王様とか君主が一人山の上にいて、
民が下の海の方にいると、
結局君主だけは孤立していくとか、
君主と民衆の繋がりがわかんなくなってくるじゃないですか。
ここで前回お伝えした、
聖人とか道っていうのが出てくるんですけど、
道って全てのものを生み出した源じゃないですか。
道っていうのは全部の存在に浸透しているんだけど、
それをある種、自分の中に取り込んだ聖人も、
そういう存在、要は全ての存在に自分自身が影響できる存在だっていう考え方があるのね。
ここで老子は聖人イコール君主みたいになっているから、
その君主も全部の存在に、
要は自分の影響力を与えられると。
その影響力の与え方って、
こういう大きな海みたいな、上から引っ張っていくんじゃなくて、
全てのものに浸透しているという在り方だよね、みたいな。
そんな風なイメージの連続で話していくんだよね。
王様っていうのは一人の人間ではあるんだけど、
全ての民衆に対して影響力を発揮できる根拠があるとか。
実際にそういうことができるっていうのが、
そういう人の上に立つからじゃなくて、
むしろ人よりも下にいて、
全体に対して浸透しているからなんだ、みたいなことなんですよね。
そこを今のような話をすると、
王様とか側近にいる人たちが、
なるほど、なるほどって言いやすいってことはね、
ここは論理的に説明されているように感じるというか、
しているからってことだね。
普通に考えたら、王様ってさ、
自分が偉いとかトップだとかさ、
要は特に戦国時代だから、
弱いやつは殺して、
でも自分が這い上がるみたいな時代なわけだよね。
そう。
そんな中でこういう話がどこまで受けられたかとか、
ぎゅーたんも聞いた方も衝撃だとは思うんだよね。
まあ、そうはね。
組織の大きさとかにもよって、
リーダーのあり方って変わると思うから、
そこが国にマッチすれば、
こういう考え方もうまくいくんだろうね。
あまりにも大きくなってきたとかね。
そうそう。
なので、やっぱり老子の何だろう、
ちょっと逆説的なというか、
そういう発想で多分相手に衝撃を与えつつ、
自分の中で聞いてみたりとかもあったんじゃないかと思うんだけど。
これは怖いね。
王様と道の関係
でも確かに側近からするとちょっと、
嬉しいかもしれないし、
まあ難しいところだね、これは。
確かにさっき大きさの話をしたけど、
これは組織とか国の大きさだけじゃなくて、
メンバーによっても変わるもんね。
メンバーの特性と、
やる仕事と、
割り振りによってね。
でもこういうのが合うような国もあったろうね。
うんうん。面白い。
でもね、これちょっと最後にさせようと思ったんだけど、
この実際の老子のこういう政治的な働きかけっていうのが、
ちゃんと福音師とかに伝わって取り入れられたかっていうと、
あんまりそんなことはなかったらしいんだよね。
ピンとこなかったんだ、当時。
確かにわかるけど使えねえよみたいな感じだったんじゃないかな。
うんうん。
やっぱりちょっと理想論的というか、
そのままいってもいいなところが正直あったんじゃないかっていうのは、
この後もいろんなエピソードをお伝えしてくるんですけど、
でも老子の中でやっぱり一貫していて、
君主っていうのはやっぱり一人じゃないですか、
その一つの国にね。
だった時に、これってつまり、
前回さ、道から一が生じ、一から二が生じ、
みたいなことを言ったと思うんですけど、
この道から生じた一っていうのが、
つまりこの君主だみたいなところの含みもあるらしいんだよね。
これは解釈なんだけど、
つまり道は一を生み出したっていうことは、
要は王様とか君主っていうのはやっぱり道に通じているとか、
道により近い存在だっていう考えがあって、
そこから二とか三っていうような民衆とか、
そういう国ができてくるから、
結局その道に則っているとか、
そういう聖人としての在り方を身につけている王様っていうのが、
そういう民衆がいっぱいいて、
そういう国ができているっていうことの前提なんだよくらいのことも、
ある種解釈ができたりするんだよね。
面白いというか、そこは当時の諸子百家の、
王様への伝え方とか、
王様の立ち位置みたいなものを象徴している気もするね。
その王様っていう身分というか権威みたいなものが、
元からあるのか後から取りに行くのかみたいな、
そういうどこに持ってくるのかみたいなね。
王である時点でそこは一なんですよっていう、
どっちが先かって話なんだけど、
そこも面白いね、捉え方として。
まさにどういう権威づけるかとかもそうだし、
さっきサーバントリーダーシップっていう、
小法事するようなリーダーみたいな話もしたんだけど、
ただただ減り下るとか、
伝えるってことじゃなくて、
やっぱり自分が国の前提だとか、
その君主があるから国があるみたいな、
そういう感覚っていうのはまだ残ってるんじゃないかなって思うんだよね。
それはでも当時の世界観というか価値観からすると、
それでも先進的というか、
激しいことを言ってたんじゃないかなっていうのは、
思いながら読んでましたと。
はいはい、そうだね。
こういう王様、
要は道を体現していて、
海みたいにみんなに浸透していくよみたいな、
仮に王様がいたときに、
それがどんな国を作るのかっていう話に行くわけですよね。
はいはいはい。
ある時の理想的な共同体とか国家として、
老死がどんなものを思い描くって言うと、
これがまさに無意、さっき言ったキーワードの、
小さな国と共同体の理想
成すことなしっていうのを表してるんですよね。
うんうんうん。
ちょっとそこを見ていこうと思うんですけど、
そういう成人的な君主に表されている国がどんな国かって言うと、
一言で言うと小さな国で、
人数も少ないっていうね。
そうなんだ、大きさも規定してるんだ。
かつ文明の利益があっても、
用いない、使わないようにして、
人々には命を大事にさせて、
遠くに移動したりさせないようにする、
みたいに書いてます。
その他もいろいろ書いてるんだけど、
今っぽく言うと、
それこそ異色獣みたいな生活必需品だけに、
専念させて、
贅沢とか娯楽とか芸術とか、
そういうのは一切しないし、
そもそも生まれた土地でずっと一生生きていくみたいな、
そういうちょっと鎖国的な、
ちっちゃい国とか共同体みたいなものを、
老舗は理想だっていう風に言ってるらしいんですよね。
へー、これはなんで老舗がそう考えたのかっていうのは、
すごい興味深いところだね。
でもどう?そういうものが理想だっていう時に、
端的にどう思わなきゃやったら?
ちょっと無理じゃないかなと思うね。
そうだよね。
老舗が言う無一税みたいなさ、
とことん矛盾してる気がする。
人間が既に贅沢とか、
そういう芸術とか文化とか、
多分既にある程度は知ってしまってるからこその争いもあると思うんだけど、
当時ね。
人の世界と道徳性の視点
忘れろっていうのは無理があるから、そもそも。
人間がそういう営みをするっていうことを、
それを自然と捉えていないのかなとか、
いろんなちょっと矛盾感じるね。
あー、すごいね。いいね。面白いなと思ったのが、
やっぱアイキがさ、
今生きてる人間っていうのを基準に考えてるじゃないですか、
老舗はあくまでも道を基準に考えてるんだよね。
おー、はいはいはい。
だから人間がそういう欲望を持ってるっていうのが、
本当に自然かどうかっていうと、
老舗はそうじゃないって言うんだよね。
あー、その前提から言ってると。
持ってると、老舗なりの時代分析があったんじゃないかっていう話もあって、
要は春秋戦国時代とかって、
戦ばっかりなってくれてて、
みんながみんな争ったりとか、
そういう時代っていうのでいくと、
要はそういう人間の欲望、
要は偉くなりたいとか、
いい暮らしをしたいとか、
飢えるのが嫌だとか、
いろんな欲望っていうのがむしろそういう混乱とか、
戦争のもとなんじゃないかっていうふうに、
多分考えてたんじゃないかっていう話があるんだよね。
はいはいはい。
一回その方針はね、まさに兄貴が言ってくれた通りで、
やっぱ人間の欲望とか、
愛情とかも含めて、
それは自然なものだから、
それをある種の道徳性を持ってコントロールして、
うまく方向づけていこうねみたいなことを、
孔子とか儒家の人たちは考えてるんだよね。
おー、そうなんだ。
それに支配されてるのかな、我々は。
やっぱりね、僕らはどうしても、
そういう世界観っていうか、
価値観で生きちゃってるからなんだけど。
そっちとは多分馴染みあるんだよね。
多分宗教的な価値観のほうが。
そうそう。
前回、第1回も言ったけど、
そういう親愛、家族の愛情とか、
親しみとかっていうものを、
いかに広げて、
国家に浸透、ある種国家の運営に入れ込んでいくか、
っていうのが孔子が考えたことだけど。
孔子からすると、それは仁義なんだよね。
無意、成すことなしじゃなくて、
人が成すことなんだよ、その感情っていうものも。
人が成すことだから、
道に残った自然の在り方とは到底言えないよ、
っていうふうに考えるんだよね。
わー、面白いね。
そっかそっかそっか。
宗教的な感覚からすると、
自然の在り方っていうのを、
欲望もあるよねとか言っちゃうんだけど、
いや、そうじゃないと。
そこの捉え方がすでに違うんだね。
そう。
それは人の世界の話だと。
わー、面白いね。
なるほど。
全然スタート地点が違うんだ。
やっぱり、これも孔子の時にお伝えしたけど、
要はそういう道徳性とか、
そういう人々の整然性的なところでやろうって言ってるけど、
うまくいかなくて、
結局法律ができちゃうとか、
権力が大きくなっちゃうとかって話をしたと思うんですけど、
結局、孔子からすれば、
そういうのも全部仁義だから、
どんだけ道徳性とか法律とかって言っても、
結局一緒だと。
人の世界のことだっていう意味では。
はいはいはいはい。
そうやって結局、
自分に都合のいい法律を作って、
その結果主義を出し抜いて、
自分だけが得をするとかっていうことも起きちゃうから、
結局そうやって全部欲望があるとか、
そもそも仁義、人の成すことに則って、
国を作ろうとしてるってことはもう間違いだよね、
民衆の愚かさと統治の難しさ
ぐらいのことを言うんだよね。
なるほどなるほど。
土台が間違ってるよね。
はいはいはい。
そう聞くと、
なるほどって思う部分もあるんじゃないかと思うんですけど、
やっぱり、
人の欲望とかを自然とみなすんじゃなくって、
その体格にある無欲だよね。
王様も民衆も、
何も欲しがることがないし、
何にもせずに、
ただただある人生きていく。
生きるに必要な食べ物とか飲食があれば、
それで良しとするぐらいの感覚を、
一つの理想としてるんだよね。
こういう風に聞くと、
なんとなく説得力もあるかなって思うんだけど、
自分がその国に住んでるとか、
そういう君主になりたいかって言うと、
結構それはハテだなと思うんだよね。
小さい国で満足しろって言われてるからね。
それはね、
現実に強い国にすぐ滅ぼされちゃうじゃん、
文明の力も使わないみたいな。
ちょっと無理があるね、確かに。
そうなっていくと、
現代とかでも、
日本でも、
政治の話はあまり深入りしないですけど、
戦争が、
憲法を救助が云々とかさ、
戦争は悪いとはいえ、
防衛力はどうだとかって、
そんな話でもあるじゃないですか。
そこっていうのが、
老子化されてても、
それは全部人の世界の話だから、
そんなレイヤーで議論してるんじゃねえ、
って気にしてたんだよね。
なるほど、なるほど。
そのルールの上に立ってる、
間違ったルールの上でなされてる教理だから、
一旦解体しましょうと。
考え直しましょうと。
そもそも論でね。
難しいね。
人間からすると、
そうは言ってもね、みたいな。
今更全員スマホ捨てましょう、
って言ってるようなもんだもんな。
そうそうそう。
スマホが人間が、
それこそ豊かにいけるかもしれないけど、
それは無理だよね、みたいなところが、
どうしても明確にしちゃう。
あとはね、
無欲で欲を捨てましょうぐらいなら、
なんとなく互換できる部分もあるじゃないですか。
でもね、そこから結構一歩進んで、
無知というか、
民衆は愚かな方がいいぐらいのことに、
読めちゃう部分もあったりするよね。
そこは読めちゃう、みたいな感じなんだね。
そう言い切ってるわけではなくね。
言葉をまた障害するんですけど、
民衆が統治しにくいっていうのは、
要は智慧があるからだ。
もう言っちゃってるね。
昔の道、要は、
いわゆる聖人というか、
理想的な君主っていうのは、
民衆を賢くしたんじゃなくて、
オッカにさせたと。
オッカっていうのも、
要は、
知恵を働かせずに、
素朴な本性とか、
ありのままのものに従って、
過ごさせていたんだ、
っていうような言葉があるんですよね。
へー、はいはいはい。
だから、
愚かって書いてるんだけど、
愚かがいわゆる、
本当に愚か、
いわゆる僕らが使うような意味での愚かとか、
知恵ながらないとか、
何も知らないって意味じゃなくて、
あくまでも素朴な、
心情にのっとって、
生きてたよっていうことらしいんですよ、
解釈的には。
そういうことも言っていて、
そこまで言っちゃうと、
映画の悪役というか、
ちょっとね、
ディストピアを作ろうとしてんのかな、
みたいなさ。
そんな感じするね。
そう、そう、感じもあるんですけど、
でも確かに、
国を治める立場からすると、
やっぱり知恵があると、
要はズル賢さとか、
要はもっと俺の方ができるって言って、
逆上されちゃうとか、
っていうようなこともあるから、
それはそれでやっぱりね、
一種説得力がある話だとは思うんですよね。
どうなんだろうね、ただ、
今回のさ、
初心百科、
春秋戦国時代を切る初心百科と、
その一面を見ていくっていう意味では、
やっぱでも結構こう、
変なこと言ってるね、
とはいえね、
感じる今のところね。
なかなか王様とか、
受け入れが大変じゃないかな。
まあこのね、
おほろかな方が統治しやすいっていうのは、
確かにその一面はあると思うけどね。
統治する面から言うと。
でもやっぱり、
もう一面だよね。
それで本当に国が強くなるんだって。
そうそう。
多分じゃあさ、
一生懸命頑張る国があったとして、
本当にそれでいいんでしたっけって、
やっぱり普通のまま思うじゃない。
だからこそ、
さっきも言った通り、
歴史上ね、この老死の考えを具体的に、
めっちゃいいっすねって言って、
実現しようとした国とか、
政権っていうのは、
ほとんどなかったらしいんだよね。
なるほどー。
はいはいはい。
やっぱりね、
第1回言った通り、
歴史の考え方とか、
参画要はありのままっていいよねとか、
道っていう断末の根源があって、
っていうものは、
脈々と受け継がれていて、
はいはいはい。
なんかその、
そんなままじゃないんだけど、
例えば漢王朝、
秦の始皇帝がいて、
その次が漢王朝になるんですけど、
そこの先ぐらいまでは、
結構その道の自然だとか、
おのずからあるみたいなところを、
うまく取り込んで、
逆に、
生まれながらに役割があって、
それを成すべきだみたいな、
要はあるがままっていうのは、
そういう生まれついての、
持った能力とか、
身分とかに、
従って生きるべきだ、
みたいなところに接続されて、
王様とか貴族は、
もともと王様とか貴族として生まれて、
一生そのままで、
民衆は民衆でみたいな、
そういうことを、
説明するロジックに、
使われちゃったりするらしいんだよね。
なるほどね。
前回も今回もだけど、
例えばその水、
さっきの常然水の如しみたいな、
とか、
海の方が、
山とかよりも海で、
そっちの方が強いみたいなさ、
そういう浪利展開だったりとか、
感覚ってのは、
応用が効きそうだもんね。
そうそうそう。
やっぱり、
実行するとか前提は難しいけど、
海のような王様、
だから、
みんな従ってね、
とか、
いろんなレトリック的な形は、
使えると思うんだよね。
そういう意味では、
発想の広がりとか、
イメージの深まりっていうところには、
すごく影響があるとは思うんだけど、
やっぱりこの、
老子の成人像
現実的な、
統治するとか世の中を作っていくっていう意味で言うと、
やっぱり孔子から始まる儒家。
やっぱり方が力を持ってたよね。
結構一般的な説。
てか、
常識的な考えっていう感じみたいですね。
なるほどね。
惜しいね。
大きな意味では、
すごい正しいこと言ってるのに、
なんだろうな、
ちょっと才能なかったのかな、
戦国時代的な。
すごい失礼な言い方だけどね。
すごいね。
切りぶった切ったね。
これ王様にさ、
だってさ、
やらなきゃやられる。
明日にはやらなきゃやられる。
敵の国にかもしれないし、
もしかしたらその誘致にかもしれない。
っていうさ、
世界をさ、
一瞬一瞬をさ、
死に物狂いで生きてる人たちにさ、
国は小さい方がいいんすよ、
みたいなさ、
ちょっときついかもしれないね。
そうだね。
だからやっぱり、
政治の才能があったかっていうと、
確かになかったりとか、
何もその、
老子が作っているこの
道とか田穂っていう世界観自体が、
やっぱり人位全部を
切り捨てるみたいなところに、
仮に行っちゃったとすると、
そこの遠い人の世の中で
やっぱり生きていかなきゃいけない、
この機微みたいなものとかも、
失われがちになるとか、
そういう感覚があるのかな、
なんて思ったのに、
前に聞いた話で。
そうだね、
その感覚が強いかな。
一方でやっぱりね、
前回の世界観。
道っていうものがあって、
そこからあるものがあって、
その上に名が付けられるみたいなさ、
有名無名みたいなさ、
ああいう概念はさ、
本当にね、
なるほどって思うから、
そこがすごい、
偉そうに言うと、
惜しい。
惜しかったなって。
アイディアはいいけどね、
実行力が足りなかったみたいなね。
なぜか上からだけど。
面白いね、
面白いし、だからこそ、
老子の人となりが、
あまり残ってないのかな、
そうだね。
応用可能性が高いがゆえに、
老子の、
いわゆる水のような感覚とか、
その自然みたいな感覚を、
さっきのようなさ、
新王朝が倒れて、
頬でめちゃくちゃ縛られて、
がんじがやめてきつかったと。
始皇帝一代ですぐ潰れちゃったと。
死んだ途端と。
やっぱり人間は自然がいいんだ、
みたいなね、
反動として、
目が向けられるみたいな、
そういう強さはあるのかもしれないけど。
そうだね。
じゃあそれが具体的にどうなる?
ってなった時は、
老子のそのものじゃなくて、
さっき生えておいてたような、
人は生まれた時の、
身分だった時に従って
生きるのが良いとか、
そういう、
人間の、
もうちょっと、
統治者というか、
その時々にあった使われ方を、
多分できる、
根本的なところには、
すごくアクセス、アプローチしてたんだな、
っていう。
そこは本当にでも感じた、
その力強さは。
良かった。
だからやっぱり、
老子が政治の世界というよりは、
ちょっと思想的な世界で
伝わりやすいっていうのも、
そこのバランスがあるんだろうな、
と思うんですけど、
こういう風に見ていくと、
まさに、
切っても切り分けられない部分は、
正直あるんだよね。
どこまでが世界観的なもので、
どこまでが政治の話かっていうのは、
結構ごちゃっとなっちゃったんだけど、
こうやって整理してみてみると、
こっちはやっぱりイケてるけど、
こっちはイケてなくね?とか、
ちょっとこの接続は無理があるんじゃない?
改めて僕、面白いなって思ってたんですけど、
今回はね、
政治とか共同体のやり方っていうのを
見てきたんですけど、
次回で老子編の最後で、
老子編やって、
次は創始編に行こうと思ってるんですけど、
改めて世界観とか、
政治とか見てきた中で、
この老子が理想とする成人、
道を体現してる人っていうのの
在り方っていうのを見ていきたいなと
思いますと、
成人っていうのは道を体現した人
ぐらいのことを言ったんだけど、
そもそも成人って何かっていう話は
まだできてないと思ってて、
前回も言ったような、
ちょっと仙人みたいな感じで、
接続を離れて、
全然違うところにいるみたいな在り方と、
やっぱり今日お伝えしたような、
民主と関わって政治を担う
君主みたいな役割とっていう、
その二面性が絶対あるんですよね、
この老子の成人には。
老子編の最後
だからこそ、
今日もお伝えしたような逆説とか
矛盾とか、
いろんな解釈ができるみたいな
面白さがあって、
それ自体が考えさせる教訓というか、
確かに人間ってすごくあるよねとか、
そこまで言い切るのはちょっと難しいけど、
わからんでもないとかっていうね、
結構その面白さがまたあるので、
次回はこの成人っていうものをテーマにして、
老子の最後のお話というのを
していきたいなというふうに思っております。
いやーちょっと味わい深いね、老子。
その今日はね、
ちょっとこの当時の時代に
合わなかったんじゃないかみたいなね、
ちょっと切って捨てたような言い方をしてしまったんだけれども、
一方でやっぱり当時の
混乱具合っていうものが
想像つかないじゃん、現代のね。
我々にはね。
こんなにその何百年、五百年ぐらい
戦いは国を拾いられるという
世界観の中で、
そこに対してもういいじゃん、
みたいな。
もうやめようよっていう視点から、
考えるとその老子のね、
ちっちゃな国でとかっていうところの
切実さ?
平和への
切実さみたいなものをちょっと感じた気がするから、
なんかそういう
こう味わい深さ、
当時の時代に合わなかったとか、
王様には受け入れられなかったんだよねっていう、
そういう単純じゃない
なんかね、こう味わい深さを
感じてきた、なんか老子。
いいですね。
なのでね、やっぱりそういう世界観を知ることで、
発想が広がるというのはもちろんあると思うんで、
次回その辺りを
ぜひ成人のところからもまた
伝えていきたいと思うので、
ぜひお世話になっていただけると嬉しいです。
はい、了解です。というわけで、
次回老子編最後ということで、
引き続き楽しんでいきたいと思います。
それでは次回も
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もありがとうございました。