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2023-07-12 35:18

#127 道(タオ)とは何なのか?老子が捉えた世界のカタチ

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

老子は、道と無という概念から世界の成り立ちを考えています。そして、彼は名という要素があらゆるものの存在を生じさせると説いています。世界のカタチについての話です。また、彼は無名と有名という世界観を説き、人間の認識の仕方によって見える世界が違うことを説明しています。話の中では、老子が捉えた世界のカタチや道についての話があります。また、その中では人間の愛情や感情から国と関わる方法までを説明しています。

老子の世界観
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き、老僧思想の老子というところだったんですけれども、
あれだね、前回ちょっと焦って、老子って何者なんだよみたいな話をね、
結局何をしたんだみたいな答えをせいてしまったんだけれども、
前回の話を聞くと、やっぱりその、得体の知れなさみたいなものこそが老子の、
その情報も少なかったりとか、あるんだなーみたいなのがわかって、
だからこそその時代を生えてから、作っていくことで老子の輪郭をなんとか捉えていこうみたいなね、
その難しさみたいなものは感じた気がした。
よかった、そう。前回ちょっと言い忘れてるから、ちょっとアントで思い出したんですけど、
その老子が、何だろう、こんな人じゃないかって聞かれてるのが、
しばせんが書いた本に残ってるらしいんですけど、それ自体も結構だいぶ古い本だし、
そのしばせんの本の中ですら、老子の存在がちょっと疑われてるみたいな、
あの、ちょっと前回ね、3人ぐらい候補がいるって話をしたと思うんですけど、
それがしばせんが書いた本の中に出てくるらしいんですよね。
そうなんだ、それすらも、あれだよね、式だよね。
たぶん式かな、ちょっと式の中に書かれてるのかわかんないんだけど。
いずれせよしばせんが書いた何らかの本に。
そうそうそうそう。
じゃあその、歴史として記述するにもある程度、
色付けというか肉付けして、フィクション的なエピソードを書くにしても、
あまりに材料少なすぎたんだ、そういう当時の歴史家にとっても。
そうそうそう、とか自信がないっていうね。
しばせんすら自信がないから、それで複数開けてるみたいな感じでいくと、
その当時ですら、今の時代からしたらこれ嘘だろうみたいなものが残ってるようなところですら、
きっと自信がなくて色々、こんな説もあったかも、あんな説もあったかもって書いちゃうくらい、
ローションの実際自体がよくわからないみたいな。
すごいね、魂というか思想だけが一人歩きというかね、その後引き継がれてると。
その神秘性もまたたまらない感じがするね、確かに。
やっぱりそういうミステリアスな感じというか、そこは含めてローションの部屋かなとは思ってるんですけど、
一応今回と次回ぐらい、今回次回次回ぐらいはローションこんなこと話してるってお伝えしていきたいと思うんですけど、
さっぷり言うと、前回も言った通り、そもそもこの世の中ってどんな成り立ちをしてるんだっけみたいな話をした上で、
それをどうやって人間社会とか政治とか、そういうのにちょっと使っていくんだっけみたいな、
そういうことを考えてるっぽいよねみたいなふうに言われますと。
そっかそっか、諸子百家だもんね。
そうそう、諸子百家だから、ただ単純に世界ってこうなったよねとかだけじゃないんだよね。
ちゃんと各王様とか諸皇に、こういうふうにしたほうがよくなりますよってちゃんとコンサルできないという意味ないんだもんね、当時としてはね。
そうそう、ある程度。
それは別に理論整然と、世界はこうである、世の中とはこうである、だからこうすべきだとかでは全然ないっていうのが面白いとかそういう特徴でもあるので、
今回は一応ですね、老人とかそもそも、前回ちょっと孔子と比較される部分があるんだけど、
ちょっと孔子と比較しながら、どんなことを言って、老人は世界っていうのはどんなふうに捉えたのかみたいなところをざっくり掴んで、
次回そういう考え方をした老人って、世の中のこととか人間社会のことってどうしたらいいって言っていくのみたいな、ちょっとそういう順番でお話ししていこうかなって思ってますと。
なるほどなるほど、今回は世界とは何かへんってことなんですよね。
そうだね。
世界とは何かっていうのも明確に話してるわけじゃないんで、なんとなく老人の世界観へんぐらいな感じかな。
はいはい、なるほどなるほど。
なんとなく老人が世界をこんなふうに捉えてましたよみたいなことをちょっとお伝えしていこうかなというふうに思っておりますと。
はい、わかりました。
で、ちょっとその話をする前に、前にというか前提として、ちょっと孔子の話を少しだけさせて欲しいんですけど、
孔子っていうのは儒家っていうより、何気にも前回儒教って言ってくれたと思うんですけど、
そこの創始者というか、孔子の教えが発展して儒教になっていったみたいな感じなんですけど、
大きな教えっていうのは、要は社会秩序、やっぱり世の中が乱れてる。
要はみんな戦争とかもして、国民も平静して大変だみたいなときに、やっぱりそういう人間愛とか、そういう要素で慣れておせようみたいな話なんだよね。
これちょっと前回もお伝えしたんですけど、そういう家族愛とか、徴用の女みたいな要は、
上目の人に対して自然に尊敬の念が湧き上がるみたいな感覚ってすごく孔子的。
それが自然かどうかっていうのはちょっと今の2020年とかの現代においては議論があると思うんだけど、
そういうのは自然な感情だっていうふうに孔子は言いますと。
先祖とかね、ちゃんと大事にするとかね。
先祖とか、皇帝とかもそうなんだけどね、要は偉い人に対して自然に敬うみたいな話があったとして、
そういう気持ちを国家の規模を広げていくと、要は国家全体の秩序っていうのが成り立つよねと。
無理やり上の人は敬えとか、家族を大事にしろとかって言わなくても、自然にそういう尊敬とか親しみの気持ちがあれば、
社会秩序って成り立つよねみたいな考え方が結構根本にあるらしいんですよね。
なるほど、もともと人間とはそういうものじゃないかみたいな話ね。
無理やりそれを強いるわけじゃなくてね。
なんかね、やっぱりそういう生前説とか成約説みたいな比較とかもこの中国史なんか出てきたりするんですけど、孔子は結構生前説寄りな感じだよね。
で、やっぱこれって戦争のね、実際に食いや食われるやみたいな事態においてはさ、やっぱりちょっと理想主義っぽいというか、
やっぱ難易度が高い部分もあって、
速攻性も低そうだもんね、なんかね。
そうそうそう。やっぱりなかなか受け入れられなくて口を回ったみたいな話もあると思うんですけど、
最終的にはなんだかんだ言って、それは大事なんだけど、でも秩序を乱したら罰するよみたいな、
やっぱ結構そういう法律とか権力とか暴力みたいな、やっぱそういうところに行き着いちゃうんだよね。
なるほど、そっか。その理想を実現するための法律が厳しくなっちゃうみたいなね。
そうそうそうそう。
そうなっちゃうと結局理想的にはそういう親しみの自然な感情からと言ってるけど、結局この国なんかすごい法律主義じゃんとか、
めちゃめちゃなんか罰されるじゃんみたいなことがまんま普通に起きちゃいますよと。
こういう形式的な感じが批判対象になってて、それを親と批判したというか乗り越えようとした代表として言われるがちなのが老子ですみたいな話がありますと。
なるほど、はいはいはい。
具体的に本当に同じ代の人なのかとか、老子が孔子を意識して孔子を乗り越えようとしてそれを言ったのかっていうのはまたちょっと別問題らしいんだけれども、そう解釈できるよっていう。
はいはい、明確に孔子を意識してたかはわからないっていう話。
そうそうそう。
はいはいはい。
道と無の関係
やっぱりそういう形深いの家族愛とか通常とかじゃなくて、もっと本質、さっき言った通り世界の成り立ちってのはこうなってるから、良い国家とか良い社会っていうのはこういうものなんだみたいな。
ちょっと前回言ったように構造主義的というか全体からのアプローチを取ろうっていうのがちょっと老子的な感じなんだよね。
その根本的な概念になるのが、前回も言った道、タオルであります。
今回は道っていうふうに言っておこうと思うんですけど、道って何かっていうと、これも一言では全然言い表せないですけど、
それをあえて誤解をされずに言うと、万物の根本みたいな、あらゆるものが道から生まれる、そういうものなんだみたいな感じなんだよね。
はいはい、一気に分かんない、なんか哲学っぽくなってきたね。
そう、哲学っぽくなってきたし、だからそういう存在を考え出すと、道とは何かが言えないんだよね。
そこからすべてが生まれてくるものって、そのものを指してはないんだけど、概念としては道と言っておこうぐらいの感じなんだよね。
はいはいはい。
で、ちょっと前回のお便り紹介の回でも触れたんですけど、その有名な言葉にね、道は一を生じて、一は二を生じて、二は三を生じて、三は万物を生じますみたいなのがあるんだけど、
だから道が始まりなんだよね。だからその道っていうものからあらゆるものが生まれてきます。
で、それと同じような形で、天下のものは、これ配定ができると多分存在者なんだけど、天下のものっていうのは有、あるっていうことから生じて、
その有、あるっていうことは無から生じるみたいなこともローして言ってるのね。この辺がちょっとね、抽象度がかなり上がってきてると思うんだけど。
うんうん、面白いね。あるとなしの二言論じゃなくて、天下のものはあるから生じ、あるっていうのはさらに無から生ずっていう、なんか3つぐらいなんかあるもんね、ここ。
そうそうそう、そういうことそういうこと。だからここではローしては、無いっていうのはあるの否定、あるものが無いじゃなくて、無っていう存在はあって、そこから有、あるものっていうのが生まれてくるっていう、
この次元でいくと、道と無っていうのが一緒なんだよね。
はいはいはいはい。
なので、道と無っていうのが同じ存在、要は同じものに対して別の名前をつけてるんだけど、その根本からあらゆるものが生まれてきますみたいなことをローしてだと言うんだよね。
そうなんだ、ローしが道と無は一緒って言ってるのかな。それともやっぱりここも解釈でしかないのかな、ここも。
解釈。道と無は同じだとは言ってなくて、道っていう言葉と無っていう言葉をつなげ合わせると、これは同じもののことを言ってるだろうっていう解釈だね。
なるほどなるほど、OKOK。
結構こういう考え方って、これだけいろんな思想家の話をすると、そういう発想もあるよねっていう感じだと思うんですけど、この当時の中国でこんなこと言ってる人は本当にいないわけだよね。
なるほど、確かにその存在とは何かみたいな話だね、それこそ前回のハイデッカーじゃないけれども。
言ってね、こんだけ世の中が荒れてて、みんながどう統治するかとか、国を守るかとか倒すかとか言うときに、そもそも道というものがありましてみたいな。
まあそうだよね、確かにね。こうしてこうしてこうすればこの国は安泰でしょうとかっていうときに、こんな大きなことから無とはみたいな話が始まるみたいなね。
なになにみたいな感じだと思うんだよ、やっぱり聞いてる方も。
だからこそやっぱり発想力というかインスピレーションを与えたみたいなところにもつながってくるんじゃないかなとは思うんですけど。
面白いのが、このユーみたいな世界、要は無からユーが生まれますみたいなユーとかって言ってる世界も、全然まだ生き物とか人間とか社会とかが出てくる前の世界の話なんだよね。
ただ何らかあるものが生まれてきましたよぐらいな感じなので。
名と世界の成り立ち
こっからどうやって人間の社会が生まれてくるのかっていうところに対して、老子は名というまた別の概念を持ってくるんですよ。
なるほど、無があってユーってあるっていうのがあって、そこからさらにいろんなものが生じますよっていうときに、そこで大事なのがこの名ならという話。
これっていうのは言葉とか名付けの考え方と結構近いんだけれども、世界っていうのはまずは無名、要は名前がない、名がないという状態なんだよね。
これは解釈がなかったらいろいろあるとは思うんだけれども、いったんその分別作用、物事を分ける作用がありませんっていうふうに捉えるのがいいかなと思います。
よくこのラジオでも一元論、二元論とかって言うと思うんですけど、一元論とか二元論とかってそもそもそういう区別すらない状態っていうのが、そもそも世界の成り立ちなんだけど、そこから有名、名前がある、名付けられるっていうことによってあらゆるものが生じてきますよと。
はいはい、すごいな。あれだよね、当初から言ってる存在が話するのだ的な話だね。まだ名前もないし、人間にとって意味があるかないかもわかんないものに名前が付くことで初めてみたいなね、世界に現れてくるみたいな。
人間の世界に意味を持ってくるみたいな感じなんだけど。面白いなと思ったのは、この無名と有名って話があって、無名っていうのは世界に名前がない状態のところで、有名っていうのはそれに名前が付いて現れてきた状態なんだけど、
この有名も無名もあらゆるものに影響を及ぼしているという点では、同じような働きだみたいなことを言ってるらしいよね。
要は、無名の世界がバチッと切り替わって有名な世界に変わっちゃったんじゃなくて、無名のもとに世界を見ることもできるし、有名、名前があるというもとに世界を見ることもできると。
要は、人間の認識の仕方によって、立ち上がってくる世界とか、見える世界って違いよねみたいなことを言うんだよね。
これ結構驚きで、今からすると、トランス状態とかストリーの状態になって、世界の認識変わるみたいなこととか、人間の認識を変えると世界の認識も変わるとかって、なんとなくあるとは思うんだけど、これ2500年目の話だからね。
そうだね。さっきはハイデッカの存在とか、そういうのに結びつけようという感じも受けたけれども、同じ時代だと思うんだけど、ブッダの悟りにも近い感覚もあるのかなと思うよね。
人間ってなんとなく有名のもとに世界を見ているっていうのが基本のデフォルトだとすると、悟りって無名のもとだけで世界を見ることっていうことではなくて、無名のもとにも有名のもとにもどっちにも見ることができる状態を悟りみたいに言うみたいな、そういう感覚とも近いのかなって勝手に思った。
そうだね。結構やっぱり難しいのは、中国に仏教が入ってきたときに、老子の考え方を使って仏教を理解しようとしたみたいな流れがあったらしいんだよね。
あ、そっかそっか。順番で言うとそうだもんね。仏教入る前の話だもんね、これ。
前の話。だから例えば、長い歩いたときにクーみたいな発想があったときに、このクーっていうのは老子が言った無なんだみたいな話を言った人もいたみたいで。
ああ、そういう話も出てくるんだ。なるほどなるほど。
同じ名前とか名とか言ってるし、本質があるとかないとか話みたいな感じなんだけど、でも実はちょっと違くて、あくまでも仏教の悟りとかっていうのは、そもそも現世というか人間として生まれた以上、その穢れとかその煩悩とかでは逃れられないから、
それを全部消し去って仏の世界とか別の世界に行きましょうっていうのが悟りというか仏教的な考え方なんだよね。
ああ、はいはいはい。
だからこの世はあくまでも穢れだというか救いのない世界で、あの世がやっぱり救いのある世界なんだけど、老子はそういうことは言わないんだよね。
なるほど。そっかそっか。世界観が違うね。確かに。
あくまでもこの世において、名がある世界とない世界があって。
世界の認識の違い
はいはいはい。ああ、そっか。理想教みたいな、離脱した後の世界みたいな?
うんうん。
そういうのを想定してないのか?あくまでも現世の話をしてるのか?
あくまでも現世の話だし、よく桃源郷みたいな話って言われたりするじゃないですか。
中国でその山の奥にすごい色んな素敵な実がなっていて、誰もがみんな幸せに暮らしてるみたいな話もあるんだけど、
あの桃源郷とかっていうのはもう全然違う世界にある場所とかじゃなくて、やっぱりこの世のどこかにある場所っていう感じなんだよね。
ほうほうほう。なるほど。
やっぱり中国の思想的には、どっか遠い世界で救われるよりは、この世界のどこかにある理想教みたいな感覚が強いんだと思うんだよね。
はいはい。そこはなんかやっぱりこの春秋戦国時代の厳しさみたいなものを感じるね。理想では終わらせないというか、現実に対処しなきゃいけないという厳しさみたいなものがね。
やっぱりそういう違いがあるなっていうのは面白いと思うんですけど、この無名、名前がないっていう三角の下を世界を見ることができる人が、いわゆる中国でいう聖人、聖なる人たち、あとは仙人みたいな人たちなんだよね。
はいはい、そうなんだ。
だからこのロゴ的に言うと聖人という人たちは要は道、要はもっと言うと万物の根本である働き自体に則って活動することができるとか、その働きと自分の立ち振る舞いっていうのを調和させることができる人、ことを聖人と言いますと。
ほうほうほう。
やっぱり道っていうのは物みたいにここにあるとか目の前に存在するものではないから、それを獲得するとかっていうよりあくまでもその道を自分自身で体現するとか、自分は道とやっぱり一つになっているみたいな、結構そういう感覚になっていくみたいなんだよね。
なるほど、はいはい。
そうか、それはやっぱり自分たちを目に映るっていうと、それも聖人視点から言うとどっちかわかんないから。
体全身で感じるとか、その中に生きるとかっていうのは近いだろうね。
そうだね、そこは有名の元に基本いるから、そこからどう、これを抜け出すかじゃないけどね、なるほどね。
そうね。
はいはい、面白いね。
これがまた面白いんだけど、そうやって他の人たちがそういう道っていうのを感じてそこに生きるようになった人たちが聖人なわけじゃない。
この人たちは道に乗っ取って何をするかっていうと、特に何もしないんだよね。
特に使命はないんだね、別に。
使命はない。
使命はないっていうか、道っていうのは自然、おのずからあるみたいな意味合いでの自然なので、自分の意思、それこそ使命を帯びてとかっていう感じじゃなくて、何にもないんだよね。
ただあるがままみたいな、本当に。
なるほど、さっきね、今使命っていう言葉を使ったけど、それは今、今回の話でいうと、無からまず有が出てきました。
有に名がついたものが使命だから、無名の立場、そっちで一体化して、そこと調和している状態からすると、やっぱりもうそれは使命は名があるものだから、調和してない可能性も高いというか、ないんだね、そこはね。ないというか。
道からは使命は出てこないね、たぶん直接的には。道から出てこないって言ったら違うか。全部道から出てきてるんだけど、道そのものには別に使命とか方向性とかはないっていう感じなんだよね。
無の方から見ると全部取り込まれちゃうんだね、一つの使命っていうものがあったとして、一つのね、もしくはいろんな使命があっても全部取り込まれちゃうんだね。
そうそうそう。
っていう感じのすごく壮大な世界観があるんだよね。
なんなら私がないっていう意味では無視っていう立場があるらしくて、それも自分に囚われないとか欲望を持ったりしないみたいな、これだけでちょっと仏教っぽいかもしれないんだけど、
人間はもともと欲望を持っていてそれを潰すんだみたいな仏教的な感じっていうよりは、無名の世界で生きたらそもそも欲望なんて感じようがないんだみたいな、そういうところが老子が言っている無視、私がないっていうことですと。
はいはいはいはい。
そうするとこっから、やっぱり中国の聖人のイメージっていうのは世俗を離れて、竹林とかでのんびりとよくなくだらだら過ごすみたいな、世の中の聖人とかにはむしろ関心なく、ちょっと超越しているような存在?
いやーそうね、ここまで来るとさっきなるほどって言った戦国時代から離れていくね。
そうそうそう。やっぱりそういうイメージっていうのが、ある種の一つの理想像というか、世間のことに煩わされない墓地みたいなのが一つの理想だったり、それが行き着くと結局普通の人間とは違う、まさに神のような境地で世界を見ているみたいな、そういうことにどんどんつながっていくんだと思うんだよね。
たださっき冒頭させたとおり、孔子が要は形式主義で役立たんっていうのを批判したのが老子だとかって言ったじゃないですか。これだと結局老子も一つの理想主義というか、別に孔子の乗り越えとかじゃなくてみたいな感じだと思うんですよね。
うーん、そうね。結局、この話を日々戦っている諸公を聞いたとしてさ、「で?」ってなるじゃん。「で?」ってわかったっちゃわかったけど、「で?」ってなるよね。
そう。なんか役立つのみたいな。
うん、なっちゃうの。
そう。なので、うさんくさな話があって、この辺まで来るとさ、「要は無名の世界があって、あなたもそこに至れば欲望がなく穏やかに生きることができます。」みたいな。
うーん。
ちょっと生きやすなこと言われたらちょっと避けるじゃん、そんな人。
そうだね。ちょっと分かんないし虚無主義的な風にもなってきちゃう感じするし。
そうそうそう。
っていうところがあるんで、やっぱりここからは土台の考え方とか価値観的な話ですと。
はいはいはい。
こんなふうな種族を超越したとか、要は竹林にいるのが幸せだぐらい、幸せかどうかは分かんないですけど、自然だぐらいの感覚から、どうやって世間とか国家っていう話に向き合うのかっていう。
はいはいはい。その視点というかその認識からね、状態から。
そうそうそうそう。
成人がね。
そういう世界から国家とか世界秩序とかっていうのを見るからこそ、やっぱり他の人ができない主張とか意見とかができるようになってくるわけだよね。
うんうんうん。なるほど。それはありそう。
さっき何か言ってくれた通り、老人と言えども諸子百家の一つであって、結婚主というかそういう人たちにやっぱり話を聞いてもらって、
実際に政治の役に立ててもらわないと、ある種の存在理由がないわけだから、そういう意味でちゃんと現実的なところに降りてきますと。
はいはいはいはい。
じゃあそういう話ってなんだっけっていうところはですね、次回。
これ道を体現した成人みたいな人が、どんなふうに政治とか人間社会と関わっていくのかというところをお伝えしていきたいなというふうに思っている感じでございます。
そうなんだ。一応そういう話もあるんだね。
これはこの順番として、今回世界観だよね、そういった無とか未知みたいな。
それをきちんと体現しているというか、無名有名、どっちの世界からも物事を見れる人を成人みたいな話があったんだけれども、
その老子、今回たぶん話している内容が5000字超えていると思うんだけど。
はいはいはい。
老子はたぶんこの世界観の話をした上で、次回これを実際にどう人間の世界というか社会、どう生きていくのかというところに結びつけていくのかという話になっていくと思うんだけど、
具体的にそこまでの話は老子もしているの?
えっとね、老子もしているというか、そこはもう切っても切り離さないというのは本当は正しいんだよね。
何かというと、今ちょっと僕は便宜上の説明のために、まず世界観の話をして、次に社会に役立てましたという話をしましたという順序で話しているんだけど、
老子の中ではそれも全部一緒なんだよね。要は衝突があって世界観編、世の中編とかいうことじゃなくて、
さっき言ったのは道は例えば1から生じる、2は3を生じて産むって言った後に、君主はこうすべきっていうのはそのままダイレクトに言ってるんだよね。
あー、なるほど。そっかそっかそっか。もうその五線字が、たぶんコンパクトなコンサルの資料というかプレゼン資料としてもパワポだよね。
簡潔に伝えないといけないから、プレゼン資料だったのか、その五線字は。だから短いみたいなね。
それを諸君に伝えて回ってみたいな話なのかな、そのテンプレが。
ちょっとね、どうなんだろう、別に大沢に読んでもらうために書いたわけじゃなくて、純粋に知り合いに一回だから書いたよみたいな逸話が、そうしたら残ってるんですけど。
はいはいはい。
結構これも難しくて、要はローションに読み方がいっぱいあるんだよね。そういうすごく壮大な宇宙観を説いた、何だろうな、世界系の思想家だっていう風にもちろん読むこともできるんだけど、
さっき言った通り、でもそれって全部、やっぱり君主がどうすべきかとか、国を作るにはどうすべきかというところときっとも競反せないから、すごくやっぱり現実的な政治的な思想家だったんだっていう人もいるんだよね。
老子の捉え方と世界観
あー、そうなんだ。そっかそっか。じゃあ今回は世界観の話だけ聞いとって、順番に話してくれてるから、じゃあそれをどう活用していくのかみたいなところに行っちゃうんだけれども、そこはもう本当に全部一体になってるってことだよね。
そうそうそうそう。
言ってくれてる通り。はいはい、本来はね。
本来は。だからさっき言ったような道は一路精緻みたいなのも、別にそれは応用のことを言ってるんじゃなくて、単純に物事には順番っていうのがあって、それは政治も一緒だよぐらいの意味で捉えた方が良くないかみたいな。
はいはいはい。
でもそのぐらい応用の意味を読み取ることはいらないんだぐらいのことを言う人もいて。
なるほどなるほど。本当に国が反映していくとか、戦争に勝つとか、結構そういうところにダイレクトに通じてるだけだよっていうふうに読めるっちゃ読めるんだ。
そうそうそう。やっぱりその辺が前回のお伝えしたろうし研究の難しさとか。
はいはいはい。
どこまでそこの、要はやっぱりこの3Dってさ、いかがでも読み方とか捉え方を変えることができちゃうから、一つの文字からさ。
うんうんうん。
そこの難しさはあるよねっていう感じ。
道と成人君子
そっか。ちょっと早く次回聞きたいね、これ。
そう思ってもらえると。
でもなんかこれはちょっと僕の理解の仕方ですけど、哲学者の面白さってその人独自の視点とか観点で世界を見たときに何かを説明しようとしたらそれが独自性があるとか、他の人が言ってることと違ったりするときに繋がるってのはやっぱ面白いなって思ってるから。
こういうね、要は孔子だったらそういう世界よりは人間の愛情とか感情っていうものから説明しようとしたと思うんだけど、老子はもっとそういう大きなたおとか道っていうものから成人っていうものが生まれて、その成人っていうのはどんなふうに国と関わるんだみたいな。
もっと言うと要は君子っていうのは成人であるべきなことを言うんだけど。
そうなんだ、そこも言ってるんだ。
そうそう。道にのっとった政治って何よみたいな話って結構ね、それは無茶だよみたいなことも言ってるんだよね。
矛盾してる感じするよね、それが。そうなっちゃうと。
そうそう。でもそれはそれでやっぱり一つの考え方として面白いし、なるほどそういうふうな発想で世界を見てるからそんなことを主張するなっていうのがやっぱりなんとなくわかりやすくなるんじゃないかなと思ってるので。
確かにな。今矛盾って言っちゃったけれども、根本に今回で言う無名の世界観みたいなものはあったとすると、そこからたまたま出てきたあるっていうものと、そこから生じたさらに現実的な答えみたいなもの、成人君子みたいな人が出した答えは間違ってはいないはずだもんね。
間違ってたとしても根本には道っていうものがあるから、そこからフィードバックを得て、本来の無名状態から見た理想って言うとおかしいんだけども、どこまで国とか人とか世界っていう枠組みを無名状態、調和するっていうふうに捉えるかっていうのもあると思うんだけども、
だから人が調和する、集団が調和する、国が調和する、世界が調和するみたいな、そこへどこまでのスケールで物事を見ながら進めていくかみたいなものが王様とかトップに問われるみたいな、そこの広がりだったり応用の効かせ方だったりとかっていうのは出てきそうな深みをすごい感じるね、今回の話から。
そうすると矛盾とは言えないかも。
いいですね、第1回と第2回で兄貴の老子の捉え方がどんどん深まって。
いやもう道教入るよ、もう。
もうね、うっつり入らなきゃいけない兄貴はスクラテスも全部入らなきゃいけないし、キリスト教も仏教も道教も全部入っちゃう兄貴は。
次回には忘れてるんだけどね。
いやー面白いね、そっか、いや、たぶん前回ばかり言えづらかったからの反動かもしれないけど、勝手にね、今までのね、いろんなね、ハイデンカーだったりとか、実能主義とか、あと仏教とか禅とかね。
そういうものと絡めるとその、結構今回って、あとクーとかね、あとウナガリさんとか、そういうところからすると結構すんなりこう、世界観って、すんなりって言うと分かった気になるのもあれやけども、すごいすんなり楽しめている感じがする。
良かったです良かったです。
そうですね。なんで、今回はそういう土台、つまり老子の世界観的な話をしたので、次回はそこからどういうふうに世の中の仏教を語っていったんでしょうかというのを具体的に見ていきたいなというふうに思っております。
はい、了解です。
ではこの世界観をもとにですね、次回どんな話になっていくのか楽しみにしていきたいと思います。では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
35:18

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