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2023-08-20 51:30

#138 『自省録』~ストア派の哲学を体現したマルクス・アウレリウス

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

マルクス・アウレリウスは、ストア派の哲学を体現した自省録について紹介されています。彼の思想的な行為や自生力についても考察されています。マルクス・アウレリウスの自省録では、人間の生き方について語られています。彼はストア派の哲学を体現し、一つ一つの選択を見極めて自然と調和し続けることが正しい生き方であり、自己啓発の一環として考えることができると話されています。今回のエピソードでは、マルクス・アウレリウスが体現するストア派の哲学について解説されています。

マルクス・アウレリウスの背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もストア派ということで、前回は自然と調和して生きるみたいな話、これを西洋的な、当時のストア派の価値観的にはどういう話なんだろうね、というところを見てきたんですけれども、今回は実践編みたいな感じになっていくというところでした。
そうですね。今回、ストア派の第1回でもお伝えしたマルクス・アウレリウスという、ストア派で最も有名だと言われているローマ皇帝ですね。ローマで一番偉い人がいるんですけど、この人がまさに自然と調和して生きるって、どうしたらできるのか。
自分は調和して生きたぞ、みたいなことっていうよりは、やっぱりそれってある人の理想状態みたいな感じだから、そこに向かって自分はどんな努力をしているというか、どういうことを気をつけているかとか、どういうふうなことを考えているかっていうのを、ある人が書きつけてきた日記とかみたいなのがあるんですよね。
それが今も時代も残って、マルクス・アウレリウス、ちょっと長いんで、今日アウレリウスさんって呼ぶんですけど、アウレリウスさんが何を考えていたのかとか、どういうことを日々書きつけられていたのかっていうところをご紹介しながらですね。
僕自身が改めて読んで、心に残った言葉とか、この辺のすごくストア派的なことを指し示しているみたいなところをご紹介して、ロジックとか知識としてっていうよりは、まさに生き方として知るっていうような時間にしたいなっていうふうに思ってました。
はいはい、なるほど。そういった生き方を見ながら、実際に生きたい人がどういうふうに言葉を残しているのかというところから逆から下がっていこうみたいな雰囲気かな。
アウレリウスさんがストア派をめちゃめちゃ発展させましたとかではないらしいんだけれども、それをちゃんと吸収して、日常こんなふうに使っていたとか、自分の生き方の土台にしていたよっていうのが残っているので、そっちからもストア派的なことを感じられるんじゃないかなっていうところですね。
また話をする前に、改めてアウレリウスさんはどんな人なのとか、個人の時代背景のところをお伝えしたいんですけれども、彼は西暦121年にローマで生まれているんですよね。
なので、最初にお伝えしたストア派のゼノンがそうしたと言われたところからすると、もう4、500年ぐらい経ってるのかな。
結構経ってるね。
そうだね。時代的には結構後の人です。もともといわゆる名門貴族みたいな生まれの人ではあるんだけど、親が皇帝だったみたいな感じではないんだよね。要は後取りとして生まれたわけじゃなくて。
そうなんだ。
結構幼少期からめちゃめちゃ優秀で、周りからも注目を浴びてたっていう中で、当時の皇帝ハドリアヌスさんって書いてあるんだけど、その人もすごくこの人はいいなって目をかけていて、
有意言でアウレリウスさんを養子にするぞという話があり、その流れの中ですぐ皇帝だったわけじゃないんだけど、
ハドリアヌスの次の皇帝がいて、その次ぐらいにアウレリウスさんが皇帝だみたいな感じでなりましたっていうところのようです。
そこはもう天才系というか優秀だったんだね。
小さい頃からずっと。
元々は結構病弱で、読めなかったよみたいな人らしいんですけど、ただやっぱり読書好きで、内向的で自分で色々考えたりとか、すごく本を読んで勉強するのは好きっていう人で。
ここまで聞くと皇帝っぽくないよね。
そうそうそう。
向いてなさそう。虚弱そうな感じが。
正直向いてなかったんじゃないかと思うんだよね。
向いてなかったっていうのは、本人はすごい成果を出してるのよ。
当時パクスローモーナーって言われてるような、いわゆる平和なローマっていうのは200年ぐらい続いた時代なんだけれども、それの終わりみたいな感じで、結構皇帝になってすぐに、いわゆるゲルマン人だから当時からするとちょっと野蛮人っていうか、ローマ以外の人が攻め入ってくるとか。
あとは川が氾濫するとか地震が起きるとか、結構そういう災害が立ち続き起きたらしいんだよね。
なので戦争もしなきゃいけないし、そういう災害の対処もしなきゃいけないしみたいな。
で、それをきちんと乗り越えていくんだけれども、その中で侵略した部下が氾濫を起こして乗っ取ろうとするとか、奥さんが病気になくなっちゃうとか、結構辛いことが次々に起こったらしいんですよ。
でもそんな辛い中でも、そういう氾濫した部下とかいたら普通だったら打ち首じゃんみたいな感じじゃないですか。
でもその人の家族とか支持者、そういう氾濫を起こした人に慈しがった人とか、その人を立てて次の行典しようとか言ってた人に対しても寛大な処置を取るように触れを出したりとか、
あと奥さんの死をきっかけにして、それをある種痛もうという感じで、ローマの国町中にいた貧しい子どもたちを特肥で教育する施設を作るみたいな、今でいうと公教育みたいな施設を作って、それを奥さんの弔いとするみたいな感じで、
すごい人道目あふれるというか、本当に当時といってもいろんな人がいたとは思うんだけども、ちょっとそういう皇帝イコール先生君主みたいな、好き勝手権力でやってるんじゃないかみたいなところからすると、本当にすごい道徳的なというか、世の中の人のためにいろんな仕事をしてたような人ですね。
なるほど。今の価値観から見ても、見た時に結構近い感覚でいいことをしてるな、みたいな雰囲気ってことはね。
そんな平和主義みたいな感じだと、戦争良かったんじゃないとか、戦えなかったんじゃないかって思うんですけど、実はそんなこともなくて。
そうなんだ。
基本的にはやっぱり戦争嫌いな人なんだけど、いざ戦うぞってなったら、どこまでも勇敢に戦ったぞとか、基本的には数々の大勝利を収めて、すごい民衆からも頼りにされてるというか、慕われてる、本当に理想の君主様みたいな感じだったらしいんですよね。
ほうほうほう、すごいね。
なんかね、平和冒険してないってことだよね。たぶん平和の中で出てきた皇帝だけれども、強かったんだね、ちゃんとね。
そう。話せばわかるとか、お互いに平和を与えちゃうとか、口だけじゃなくても本当に戦っても強いし、ちゃんと勝って成果を残すし、みたいな。
なるほど、そりゃね、こんだけ名前が残ると有名人だという話だね。
そうそう。
ぐらいの活躍をしてると。
アウレリウスの人間性と価値観
そういうことなんです。
実際、後年っていうのもそうだし、当時アウレリウスさんが死んだ後100年ぐらいはローマの人たちが、アウレリウスさんを家の守護神として肖像画を家に掲げておいてたみたいな、そういう風習も残ってたぐらいらしくて。
はいはいはい。
本当に神様みたいな、そういう扱いを受けるぐらい素晴らしい人だったようですと。
なるほど、そういう人のちゃんと書いた日記が残ってるっていうのはすごい話だね。
そうそう。
これぜひ前回も言ったんだけど、本当にいい本というか、一家に一冊あって悪くない本だと思うんで。
当時の人とはちょっと一緒じゃん、一家に一冊置いときみたいな。
確かに。
祀ってるじゃん。
守り込みにしておこうみたいなね。
で、実際に自制録っていう本に何が書いてますかっていう話なんだけれども、さっきも言った通り、スタッフも哲学者ではなく実践者なんだよね。
だから結構自分自身も自分は哲学者じゃないというか、慣れなかったみたいな感じで書いてたりするんですよ。
そうなんだ、はいはい。
校庭やっちゃってるから忙しすぎて哲学をいっぱいやる時間もないし、本当はたぶんそっちが理想だったんだろうけど、なかなかそういうふうには過ごせなかったみたいな。
それはちょっと寂しがってるような言葉もあるんですけど、まさにストア派的に考えて生きてきたみたいな感じもあるし、
自然と調和した生き方
その言葉が後世に伝わったことによって、やっぱりアレルギスさんってすごいストア派の重大な人物だよねみたいな。
それがやっぱり歴史上繋がって残ってるっていう感じですと。
哲学者はあくまで校庭というか哲学者ではないんだけれども、ちゃんとそのストア派の中の重要人物としては捉えられてるってことなんだね。
そうそうそうそうそう。
なので今回ですね、そんな素晴らしいアレルギスさん、本当に悪いことなかったのかって言ったらわかんないですけど、
わりとパッと調べる限りではそれだけで素晴らしい人だったみたいな感じの方の残した言葉に触れながらですね、
ちょっと僕自身が感じたこととか、兄貴が今日僕が話したのを聞いてもらった時にこんなことを感じたよみたいなところは雑談的になっちゃうかもしれないんですけど、話しながら
ストア派ってこんなのあったよとか、アレルギスさんこんなこと考えたんだよみたいなことを皆さんともちょっと分かち合っていきたいなというふうに思っております。
はいはい、いいねいいね。
そういうのが実際実践した人ってどんなこと言ってんの?みたいな話を持ってきてるんで、ちょっとやっていこうと思うんですけど、
まず前回というかずっとテーマとして置いているような、自然と調和して生きる。
これって前回でも、いわゆる応用的な無意自然みたいな感じの内容とか、自然といっても外にあるいわゆる環境としての自然と、自分の中、心とかも含めたものの自然という両方があるよっていう話だと思うんですけど、
アレルギスさんも当然この自然と調和して生きるということを重視しているし、いろんな会社にそれに近い言葉って結構使ってるんですよ。
そうなんだ、はいはい。
それが具体的な、自分がまさに生きている中でもっと自然と調和していきたいみたいな、そういう思いのこもった言葉になっていて、
それによってより深みを持ったものとして伝わるんじゃないかというふうに思っている。
ちょっとこんな言葉を最初にお伝えしたいんですけど、実際こんなことが書いてあって、
誰もですね、人であればその利益を受ける、要は自分にとっていいことっていうのを受け取るのは嫌がることはないよねと。
で、あれば自然にかなった行為こそ有益、利益があることなんだから、人に利益を与えることで自分に利益をもたらすことを嫌がるなっていうふうな言葉がありますと。
要は自然にかなった、要は自然と調和した生き方っていうことが人間にとって利益があることなんだと。
その生き方をすることで結局その周囲の人に利益をもたらすとか、まず先に与えることっていうのが大事であって、
それを人に与えたら自分は受け取れないんじゃないかとかっていうふうに思うのは間違ってるよみたいなことだと思うんですよね。
なんか名言な感じだね。
情けが人のためならず的な、それのもっとどっちかっていうと自分が正しく生きている中でどんどん他人に良いことを与えていきましょうみたいな感じだと思うんだけど。
ストア派的なのかね。それとも当時にもそういう価値観ってあったのかね。どうなんだろうね。
これはストア派的じゃないかなと思うな。やっぱりそもそも自然ってそういう人間が土台として生きるべきそういう働き。
ストア派の哲学と自生力
人間の信頼みたいなところと、やっぱりそこからそういう行為だよね。思ってることを考えてることだけじゃなくて、実際何をしたか。
ストア派って思想的なっていうよりちゃんと実践的な行為、何かを行うことで世の中を良くしていくようなところがあるから、そういうことをちゃんと大事にしようねっていうのはある種アレルギーさん自身の今しめみたいなものがあると思うんだよね。
自生力でどっちかっていうと内省するというか、書きながら自分の思考を整理する部分もあったんじゃないかっていうふうに言われていて、
なのでやっぱりアレルギーさん自身も自分の利益を優先したいとか、自分だけがいいみたいなことをしたいって思う瞬間もあったんじゃないかと思うんですけど、
でもそれは違うぞと。あくまでも自然に従って自然と調和して生きることが自分にとっての利益なんだから、それをやってその上で誰か周囲の人を豊かにするとか、
やっぱり自分がそれ大変でも自然と調和している限りも、その大変なことを自分にとっての利益なんだから、それを嫌がるなよみたいな。結構そういう自分への今しめ的な感じもあったんじゃないかななんて思うんですよね。
自生力だから、そうかそうか。嫌がるなんて人に言ってるわけじゃなくて、その時には自分に対して言ってるような感覚なのかな全部。
もちろんね、誰か目役にこの人に対してっていうのもあるんだけども、結構君よみたいに言ってるところがあって、君っていうのは結構アレルギーさん自身のことを指してることも多いんじゃないかみたいな話もありますね。
自然と調和して生きるというのは時には大変だし、やっぱり人として自分を優先したくなることもあるけど、やっぱりそうじゃないぞっていうのを書いてるような言葉がこれなんじゃないかなっていうふうに思っております。
いくつかもどんどんいこうと思うんですけど、前回まさに兄貴がさっき言ってくれた、いわゆる無感動とかアパテイアみたいな、要は自分にとってコントロールできることとできないことを区別して、コントロールできることだけに集中しなさいよみたいな話があったと思うんですけど、
それについてアレルギーさんはこんなことを言ってますと、このきゅうりは苦い。ならば捨てるがいい。道に茨がある。それならば避けるが良い。それで十分だ。なぜこんなものが世の中にあるんだろう?などと考えを加えてはならない。
そんなことを言ったら君は自然を極めている人に笑われてしまうぞって感じだと思うんですよね。ちょっと説明すると、笑われてしまうというのは結局、自然ってもっというと宇宙みたいな無駄なものがないんだよね。
思想的な話の時に、自然っていうのは教育のものだから、自然っていうのは完全な調和が取れてるっていう話もそうだし、きゅうりが腐って苦いみたいなものも、そのまま腐り続ければ土に帰って栄養を与えて次の植物を育てるしとか、茨も別に人間を妨げようとしてるわけじゃなくて、ただただ普通にそこにあるだけ。
それに対してこれは苦くてまずいとか、この茨は邪魔だと思うのばかりなんだよ。こっちの人間が勝手だから。
それっていうのはすごく、自分にコントロールできないこととか、自分の範囲外のことに対して不平等を言ってるよねっていう感じなんだよね。
そこの感じって伝わるかな?
伝わるし、今回の自然と調和してっていうのは無意自然ではないよっていう話はあったんだけれども、このきゅうりが例えば自分にとってはまずいけれども、例えば土とか畑にとっては肥料だよねみたいな話って、そこは前回の掃除のところかな。
感覚に結構近い感覚はあるのかなとは思ったね。道は一緒だけどそのきゅうりが苦いっていうのは一緒だとしても、立場によってね。町なのか掃除なのかが違うみたいなさ。
このストア派だったりとかアウレリウスがそこまで意図して、自分の価値観以外の裏側、別の主観というか別の立場から本当に意味があるとかっていうのを想定してるかわかんないんだけれども、なんか近いなとは思った。
確かにそれによると結構近いところはあるかも。私が言うとそのストア派的には別の立場に立とうとか、違う主観を持とうみたいなところまではあんまり言ってなくて、あくまでも自然には無駄がないとか無意味なものはない。
それを無意味だって思うのも人間の勝手、要は自分の勝手だよねっていうふうな感じなんだよね。
はいはい、そこでは言ってるという話だね。
やっぱり自分が受け取った感覚では、きゅうりは苦いとか茨があるっていうまでは別にいいんだけど、そこからそれが邪魔だというふうになると、それは勝手に想像してしまって間違いを犯しているし、
自然に対する無知、要は無意味なものはない、自然に対してこれは無意味だとかって言ってるわけだから、要は知識が足りてないとか、自分の学びが足りてないっていうこともばれちゃうぞと。
はいはいはいはい。
そんな態度で、すごしたらいつまで経っても自然と調和なんてできないぞみたいな、そんな感じの言葉かなっていうふうにはちょっと僕は思ったんですよね。
なるほど、確かに確かに。前回はソウジと近いとも言ったけれども、確かにもうちょっと具体的な自分の生き方みたいなものにリンクしている感じはしたね、今の話は。
そうだねそうだね。やっぱりストア派とか聖はどうしても人間理性とか、自分の思考をどう使うかみたいなところが前提にあるから、
ローストしたときはそれもこういった、それも全部忘れ去った境地みたいに言っちゃうと思うんだけど、そこまでは結構大きな区別があるかな。
もう一個この自分でコントロールできることできないことみたいなのに関連してもう一個言葉を持ってきてるんですけど、
どんなことを言ってるかっていうと、他の人のふてふてしい態度に腹が立ってしまうときに考えてみなさいよと。
この世界に恥知らずの人間が存在しないことがあり得るだろうか。それはあり得ないですよね。それだったらあり得ないことを求めちゃダメなんです。
その人はこの世界に存在せざるを得ない、恥知らずなふてふてしい人の一人なのであって、そんなふうに思ったら君はもっと個人個人の人に対して寛大な気持ちになれるだろうっていうふうに言ってるんだよね。
これも皇帝が言ってる言葉って思うとすごい重みが深いというか、なかなかこんなことを言える人いないんじゃないかなって思うんですけど。
やっぱり僕らの普段暮らしている会社とか組織とかに関してはそう思うんだけど、いろんな人がいたりとか、成功する人もいれば失敗する人もいたり、有志な人がいればそうじゃない人もいるよっていう中で、
やっぱりその人が悪いとか、全員が優れた人だけだったらいいのにとかって考えるのは、やっぱりあり得ないこととか、ある種それは自然に反していることだからこそ、自分自身の認識の仕方だよね。
そういうふうに別にこの人が悪いんじゃなくて、世の中はそういうふうにできている。良い人もいれば悪い人もいる。優しい人もいればちょっと意地悪な人もいる。それが現実世界なんだから、ある種その中でどうするか、自分がその現像をどう受け入れるかっていうことの方が大事だよねっていう話だと思うんだよね。
なるほどね。すごく合理的だね。
他者への寛大さ
やっぱりそう思うよね。
思う思う。さっきのキュウリの例えがあったからより分かりやすいんだけれども、同じ話だもんね。苦いキュウリがこの世に存在することと、こういうふてぶてしい態度を取っちゃう人がいるっていうのは全く同じことね。
そうそうそう。
それに対して逃げーなこれって起こることと、こういうふてぶてしい態度を捉えた時に自分が腹が立つっていうことって、そこって確かに前回も言ってたけどさ、そこが分かれずに一体の感情と事実になっている場合が多いよね確かに。
そうねそうね。
実際に腹立つしね、腹立つ人が目を巻いたらこの野郎って思うんだけど、そこを区別しなさいって話だね。こういう人がまずいますっていう事実と、自分が腹が立つっていうのは本当にそれって一体となってるんですかっていう話ってことだね。
そうだね。
これちょっと実は次の認知行動旅行の時にも僕お話しするんですけど、
手ぶてしい人がいて腹が立つっていうところまではしょうがないと。要は怒りを覚えたってところがいいんだけど、それでその人を怒鳴るとか処罰するっていうのはやっぱりやりすぎというか、そこがやっぱり区別しなきゃいけないんだよね。
少なくともっていう話だね。
確かに実践的な見たらそっちの方がっていう感じなのか。何個か軽快なのがあって。
コントロールしやすいみたいなのがある時に、やっぱりその行動をちゃんとコントロールしましょうと。
なるほど。
その手前の認識として、やっぱりそういう人っているよねと。そういう人がいない世界なんてありえないんだからっていう風に思っておくので、すごく大事だよねみたいな感じかな。
確かにな。この立場で言ったら結構悟りに近い感覚というか、レベルまでの。結構高レベルな話かもしれないね。悟りすら覚えない。
あとやっぱりそうなっちゃうと、あまり心地を大事にしない寂しさみたいなのも出てくると思うんだよね。
あまりにも俯瞰的に見すぎてって話だね。
目の前の人を見てるっていうよりは、このふてぶてしい人は自然が存在を荒らしめている、ふてぶてしい何千人の中の一人だみたいになっちゃうと。
それはそれで、超俯瞰しすぎるというか、行き過ぎちゃう感じもあるんだけど。
でも皇帝ぐらいの立場だったら、そのぐらいの方がむしろ安定するのかななんて思ったり。
確かにそこ一歩間違うとというか、そこで前回ちょっとハテナがついたんだけど、無感動。
無感動じゃないよねみたいな感覚もあったんだけれども、確かに無感動になりうるね。
なりうる。
そこがやっぱりこういうところにも深まってるかなっていう感じですね。
はいはいはい。
あともう一個同じような話でこんなこともあるんですけど、
要はちょっと無作法者なんで、要は作法を知らない人とか、いわゆる知恵がないというか、物事の正しさを知らない人がいたときに、
その人が過ちを起こしたからといって、何の悪いこととか怪しいべきことがあるだろうかと思っていると、
その人がそんな風にすると予期しなかった、君こそ責められるべきではないか考えてみなさい。
だしたら君の理性は、その人が過ちを起こすと考える手立てを君に与えていたはずなのに、
それを忘れてしまって、こいつが過ちを起こしたと驚いているのだから。
みたいなことを言ったりするんだよね。
ここまで来ると結構今のビジネスシーンというか、割と仕事で化石じゃなくて自責にしなさいみたいなことって言われたりしたことあるかな?
あるよね。自責志向とかってよくあるよね。
自責志向みたいな。結構そういうところと本当につながってくるかなと思うんですけど、
まずは他人のせいにするんじゃなくて、自分の至らなさを考えましょうとか、そこから成長とかが出てくるし、
ストラファー的に言うと自然と調和する道が開けてくるんだよみたいな感じだと思うんですよね。
皇帝との親和性
現実にそういう場面に出会った時にそこまで考えられるかっていうのはあると思うんだけど、
やっぱりアルシュ・アウレリウスさんとしてそういうことを書き残したことによって自分をちゃんと安定させ続けるというか、
いざ何かそういう場面に出会った時にもうろたえずに冷静に対処できるようにしておくみたいな、
そういうことをストラファーから学んでるってことだと思うんだよね。
はいはい、なるほどね。これは面白いね。
そういう皇帝みたいな人との親和性が高いのかな、今のところ見た感じ、このストラファーの考え方というか。
でもね、普通の人でもそうだとは思うんだよね。
家族であれ、人と良好な関係を築こうと思った時に、やっぱり目の前のことに一気に注視すぎないというか、
ちゃんと自分が信じる道を歩むためには自分をちゃんと安定させ続けるみたいな、
そのための手法というかスキルとしてこういう考え方とかを身につけておくっていう感じだと思うから。
なるほどなるほど、そっかそっか、別にそういう経営者とか皇帝みたいな上のトップに立つような人たちだけではないって話か。
そういう普段の生活の中でも使えるというか、全然あり得る話か。
そうね、役立つって感じだね。
前もお伝えした通り、結構奴隷出身の人、有名な人がいたりとか、
また普通の一般的な人の学校みたいな感じ、今の学校とはちょっと違うと思うんだけど、
そういうストラファー的な考え方を学ぶような場所っていうのもあちこちにあったよって話だから。
自然に従って生きる
はいはいはいはい。
なんかそれ、帝王学とかよりは普通の人が生きる道しるべとして学ばれたっていう感じだなって思いますね。
なるほどなるほど。
やっぱりアレルジーさんの言葉で聞くと、皇帝で言った立場から書いてあるから、
そういうちょっと重厚さという、何だろうな、そういう重みもね、伝わってくるなって感じがするんですけど。
なるほどなるほど。
そっちにちょっとイメージがね、皇帝のイメージがそっちに寄せられちゃう感じがするだけだって話ね。
でもね、やっぱり実際、次の言葉とかもね、ちょっとそういう重さというか総合の感じの言葉があるんですけど、
例えばこんなのがあって、人類っていうのはお互い同士のために作られたんだと。
なので、彼らを教えるか、さもなくば絶え忍べっていう言葉があるのね。
要はその、スタッフ的にはやっぱり理性を持っているのがすごく大事だから、
人間っていうのは他の動物とか植物よりは明確に上なんだよね。
要は理性を持っている存在として、他の動植物を割と使うみたいな発想があるんだけど、
人間っていうのはみんな理性を持っているわけだから、
それっていうのはお互いが使う使われるじゃなくて、お互いに助け合う存在なんだっていう話があるんだけど、
ただやっぱりそれを、みんながみんなさっき言った通り優秀みたいな世界でもない?
それはそれであり得ない世界だから、
そしたらその人たちを教育するというか教えるか、自分が耐えるかどっちかしかないよっていうふうに言ってるんだよね。
なるほど。これも実績みたいな感じだね。
そう、本当に実績だし、助け合うっていうふうに自分は思ってるんだけど、そう思わない人もやっぱりいる。
他人から奪ってやれっていう価値観を持っている人もいたときに、
それはもう教育するか、自分が諦めるか、耐えるかしかどっちかないよと。
それをね、だって公が権力のトップだったらさ、処罰しろとか気に入らない奴は粛清しろみたいなのも、
多分言える立場であったと思うんだけど。
そうね、だってね、殺してしまえホトトギスでいいじゃないっていう話だよね。
やっぱり耐え忍ぶなんだよね。
しかもさ、これがさ、ただ単純に平和な世界に生きてきて、
陳詞黙行してましたみたいな物事を考えてふけてましたみたいな人だったら、
それはそうかもしれないけど、ちゃんと戦争とかもしたり、いろんな厳しい判断もしてるわけだよね。
そういう人がこういうことを考えてたり言ったりしてるっていうのが、やっぱりなかなか伊達じゃないなみたいな。
いやー、そうだね、確かに。
そうね、思うんですよね。
そんなあれでしたんですけれども、これまで結構自然と調和して生きるとか、
コントロールできることとできないことみたいなテーマに言葉を選んでたんですけど、
結構人生観とか、死についていろんなことを書いてるんですよ。
そういうのもあるんだ。
もともとストア派的には、死ぬっていうことに関しても、ちょっと客観した態度を取るというか、
やっぱりそれも自然に起きることだし、コントロールできないから、
変に恐れすぎるとか死が怖いみたいなのも、間違ってるよねみたいな考え方があるんだよね。
はいはい、なるほど。
それを思想として語るっていうのは、自分の人生として語るって結構違うじゃないですか。
アレレスさんは自分の人生として死にどう向き合うかみたいなことを書いてるから、
それはすごく言葉の思いがこもってるなと思って。
あくまでその理論と実践で言うと、自分なりに噛み砕いた実践的な考えだったりとか、
そこを書いてるよって話なんだもんね。
そうそうそうそう。
それも少し長いんですけど紹介したいと思ってて、次から読みますね。
常に次のことを心に思っていなさいと。
いかに多くの医者が病人を診察して、そのあげく自分自身も死んでしまったこと。
死ぬこととか不死、死なないとかってことについて議論を交わした哲学者が、
または多くの人間を殺した将軍が、あるいは不死身であるかのように権力を振るった暴君が、
そのあげく死んでしまったことかと。
しかもこれがすべて束の間のことなのである。
要するに人間に関することはたりそめでありつまらぬことかに大度注目するのが大事だと。
昨日は少しばかりの年益、明日はミイラか焼かれた灰。
これはちょっとずつとしてお別れすればいいんですけど。
昨日も明日も取りに足らないもんだと。
だからこの僅かな時間、人間が生きる時間って本当に僅かな時間なので、
これを自然に従って歩んで安らかに生を終える方が良いよ。
あたかもよく売れたオリーブの実が、自分を生んだ大地を褒めたたえ、
自分を見慣らしたときに感謝しながら落ちていくように生きてまた死んでいきなさい。
こんな風な言葉が残ってるんですよね。
結構ここは内容なんだけど、表現とか比喩の豊かさみたいなものを感じて、
結構他の歌詞は簡潔に書いてることが多いんですけど、
ここは明日はミイラが焼かれた灰だとか、売れたオリーブの実が落ちるようにとかって、
結構山上の豊かさみたいなのを感じることもあって、好きな歌詞なんですけど、
やっぱりこの死ぬっていうことに対しても、ある種みんなに起きることだよね。
人間の理性を発揮する
そういう感覚だと思うんだよね。
どんなに死について考えた哲学者とか、
福寿美香のように振る舞わせた暴君とかであっても、結局は死んでしまったと。
だとしたら、自分が生きる、死ぬ意味っていうのは自然に従って生きる。
自然に調和して生きる。
それはやっぱりやり続けていくことしかないんだよっていう。
第一巻の時に言った、目的、何かに到達することが大事なんじゃなくて、
その到達しようとするために努力し続けるとか、
そのプロセスが大事だっていうところの考えっていうのは、
すごくここに構えてるんじゃないかなって思うんだよね。
はいはい、なるほどね。
そうか、自然っていうのもね、
前回からストア派で言う自然っていうものの定義と見てきたけれども、
この自然っていうのも結構レベル高い話だもんね、そもそもはね。
そうねそうね。
自然に生きるっていうのは結構ダラダラと生きて、
その日暮らしでいいんだよっていうわけではなくて、
無駄に高い理想を掲げすぎる。
そこに悪せく無理するとかじゃなくて、
ちょうどよく頑張れよと。
自然に頑張れよっていう、
なかなかレベル高い話はしているけれどもねって話でいいんだよね、ここはね。
そうだねそうだね。
あとやっぱり人間にとっては理性をちゃんと働かせる。
人間を持っている力としてのものを最大限発揮するっていうのがまさに得だよね。
誰かにもそう思うんですけれども、
得を発揮するっていうことがまさに自然の在り方だから、
それを発揮せずに、
まるでダラダラと日暮らししているっていうのは自然なんだよね、
このストア派の人たちからすると。
なるほど。
求めているものは高いし、
やっぱり理想の生き方を目指せっていうような強い主張はある。
なるほどなるほど。
すごく難しいけれども、
自分の器っていうものをちゃんと理解した上で、
その器ではね、自分がダイヤなのか、
他の別の原石なのか、
その器を把握した上で、
自分なりの最高の輝きを見つけなさいみたいな、
確かその得っていう話は、
そんな感じだったもんね。
やっぱりちゃんと磨いて光らなきゃっていうところが結構あるかな。
自分なりにというところはね。
自分なりに。
ただの石イコールというか、
例えば鉄鉱石なのにダイヤになろうとは思うなよみたいなところが含まれてるって話ですよね。
そうだね、それはあると思うし、
正直やっぱり光るかどうかもわからん。
でもやっぱり磨き続けなきゃいけないっていう、
そういう感じは強いよね。
そこは無理というか、
最初難しいって言ったけど、そこの部分だよね。
自分が何なのかは結局誰にもわからないというか、
その基本わからないよっていうところはあるって話だよね。
うん。
やっぱり究極的にはそこはわかんないんだけど、
やっぱりちゃんとスパに向かい続けるとか、
自分を磨き続けるっていうことは裏切らないし、
それが自然と調和して生き方になれば、
それでオールオッケーみたいな感じかな。
あー、そっか。
ちょっとストイックさの雰囲気がわかってきたというか、
見えてきた気がするね。
さっきさ、難しいって言ったのが、
結構自分の器を把握するみたいなところ、
自分がダイヤなのか鉄鉱石なのか、何なのかわかるみたいな話をしたけど、
そこが難しいんじゃなくて、
そこはもう無理という話だね。
そうだね。
無理は感覚はあるって話だね。
そうだね。だから本当のところはわからないんだよね、
自分がダイヤか鉄鉱石かっていうのは。
はいはいはい。
なるほど。
ストア派の哲学
それってやっぱり結構難しいよね。
難しいと思う。
とにかく磨き続けるしかないっていうね、
その大変さがあるわけだ。
うん。
私はやっぱりそれが自然と調和して生きるっていう、
それこそが自分を磨き続けるっていう話だから、
そのレールに乗るというか、
あくまでもある種そのレールに乗った生き方、
自然と調和するというレールにちゃんと乗ってるかどうか、
それだけがやっぱり自分の正しさにつながっていくみたいな感じかな。
ちょっとね、重要な話だけど、
キリスト教でもさ、やっぱり神が自分を救ってくれるかわからないけど、
でもやっぱりそういうふうに、
強らかに生き続けるとか、
神に奉仕して生き続けるってこと自体が、
ある種救われてる証明なんだみたいな、
結構そういう考え方があったと思うんだよね。
確かトマンス・アキナスとかの時かな、
多分スタンスが逆というか、
その時ちょっとちゃんと覚えてるかあれだけど、
なんか現在っていうものがあるから、
当時のキリスト教でいうと、
マイナスからプラスに持っていくというか、
マイナスからゼロに持っていく感覚があるのかな、
理解してるんだけど、
このストア派に関しては、
ゼロからプラスに、
プラスっていうのは無限で、
どこに行くかわかんないんだけれども、
常にそっちのベクトルに向けて頑張っていきましょうみたいな、
意味でそこの違いはあるけれども、
ちゃんとベクトルは上に向いてるというか、
そういう感覚はあるのかなと思ったね。
そうね、まさにストイックっていう、
今兄貴が言ってくれたんだけど、
最後に僕が持ってきた言葉は、
かなりストイックなというか、
油断のない生き方みたいな感じを、
アレリウスさんが言ってるのがあるんで、
ちょっとそれを紹介、
今日最後にしたいと思うんですけど、
どんな言葉かっていうと、
人生における救いっていうのは、
まず一つ一つのものを徹底的に見極めて、
それが実際何であるか、
その原因とか要素っていうのは、
何かを検討することにあるんだと。
そして心の底から正しいことを行い、
真実を語ることにある。
最後に善行、良い行いっていうのを、
他の良い行いと次々に繋いでいって、
その間に隙間がないようにして、
人生を楽しむこと以外に何があろうか、
っていう風に言ってるんだよね。
これも結局、
時々良いことをするじゃダメなんだよね。
時々自然に調和するじゃダメで、
常に調和し続ける。
そうするとやっぱりその行いっていうのは、
自然に従ってることだから、
常に良い行いが行われていく。
自然と調和した生き方
っていうのをずっとぐるぐるぐるぐる回し続けて、
それを楽しむんだと。
さっき言ったような、自然調和してるっていうことが、
自分にとっては利益なんだから、
その利益っていうのを受け取り続けなさい、
っていう感じだと思うんだけど。
でもそれっていうのはさっき話したような、
自分を磨き続けるとか、
正解か分かんないけどやっぱりそれをやり続けるっていう話だから、
やっぱりそこには、
何かに自分を賭けるというか、
より良いものになろうとし続けるっていう結構強い意志が必要だなって思うんだよね。
なるほど。でも確かにそうだよね。
さっき自分の器が分かんない、結局は分かる術がないみたいな話と繋がると、
すごく現実的というか、
本当に実践的だなって思ったね。
この話に関しても。
やっぱり一流の人ってさ、
やっぱり磨く、ある意味プロセス、
ある意味そこをちゃんと楽しむと。
そのストリックな状態、自分を磨いてる状態すらも楽しみ続けなさいと。
結局それに完成するってことは基本ないんだから、
そうじゃないとやっぱり続かないし、
そこを楽しむっていうスタンスがすごく大事だよと。
そこがね、ストイックってすごく筋力的だったりとかさ、
無理してるとか我慢してるみたいなイメージがあるとは思うんだけども、
あの人ストイックだねって言った場合にね、
一方でそれを言われた本人っていうのは意外とそう思ってないケースっていうのもあると思ってて、
たぶんこのアウレリウスが言ってるのはそういう話だよね。
そこの一個一個、なんかその物事を腹立ってる人、
嫌な人と会った時にもきちんとそれを冷静に、
これ何なんだろうと、ちゃんと見極めて、
これは何が起こってるんだ、自分はどうするのか正しい。
本当にその我慢、我慢することは正しいかもしれないし、
もしかするとここで起こることは正しいのかもしれないし、
そういうことを冷静に自分の中で答えを出した上で、
それをやり続けると。
そこから逃げないと、むしろ。
そうだねそうだね。
耐えるにしてもそれって、
はたからしたらさ、さっきのさ、変な人がいたら耐えるしかないとかさ、
教えるから耐えるしかないの、耐えるって逃げてるように見えるんだけども、
実はそれは人間じゃないんだよと。
そういう一個一個の選択の、
熱量と合理性と冷静さみたいな。
それをちゃんと楽しむみたいなね。
ただ一方でちゃんと明確なのか何なのか、
ゴールみたいなものはきちんと見据えながらあそこに向かうっていう、
謎の目標はあるみたいな。
面白い話だね。
そうそうそう。
だからやっぱり、
ストラファーの考えに基づいて生きるって本当にこういうことなんだなっていうのは思うんですけど、
やっぱり自分が主人公じゃないんだよね。
あくまでも自然と調和するってこととか、
人間を持っている理性っていうのが主人公であって、
たぶん自分が皇帝だったのもたまたまだし、
戦争員になるのもたまたまだんだけど、
そのたまたまに関してちゃんと最善のことを尽くすとか、
一つ一つの選択に対する冷静さ
やっぱり自分が何かをやりたいとかっていうよりは、
何が正しいのかっていうのを常に考えておくっていうのは、
やっぱりすごく難しいけど、
RLSさんはそこに取り組んだ人なんじゃないかなっていうのを改めて感じたんですよね。
なるほど。
具体的な目標がないと何も動けないようなさ、
どこに向かえばいいのかわからないような感覚もあると思うんだけども、
今のハイドの話でいうと、逆にだからこそ、
その時々のとか、自分がどこに生まれて、
誰として生まれ、どういうふうに求められみたいなね。
そこを常々きちんとストア派的な観点から、
自分ってどういうふうに生きていくんだろうな、
何者になるんだろうなっていうのをその時々できちんと見定めて、
その時の最善を尽くすことで、
また行くべきところに行くよね、みたいな。
しかもそれはちゃんと今回で言う自然と調和した生き方として、
何かを成し遂げるっていうのも結果論でしかないみたいなね。
そのために自分は生まれてきたとかじゃなくて、
それも結果論ではある。
だからどっちが先かっていうのは意外とわからないんだけども、
自然と調和するとそうなっちゃうよねっていう話なんだね。
これは面白いね。
さっきから面白いしか言ってないけど。
結構こうやってどっちが先かで難しい話になることが多いと思うんだけど、
ハヤトが言ったさ、結構自己啓発っぽい部分もあるよねとか、
そういう見方も受け受けると思ったけれども、
結構そんな単純な話でもなさそうというか。
そうだね。
雑談でまた話したいのは、結構僕自身が今悩んでるというか、
どうしよう、どうバランスを取ろうと思って、
自分で目標を立ててそれを達成するっていう生き方も尊いなと思うし、
でも逆にその日その日をちゃんと生きてとか、
あんまり変に目的とかにとらわれずに精一杯生きるみたいな、
それはそれでいいよねって結構思う。
両方の感覚が最近あって。
そこをスター派で言うと、別に目標なんていらないから、
定義をしっかりすればいいんだって話もあるし。
面白いね。そこはぜひ雑談で深掘りしてみたいね、その話。
そんな話もありながら。
そうすると、今回また次もスター派の話をするんですけど、
その次のプラガマティズムでも結構その辺りの話が出てくるんで。
そうなんだ。
今回と次回はそんな感じのテーマを裏テーマというか、
本編しながら話していくかもしれないですね。
なるほど、ちょっと自分はどう生きるのかみたいな話ね。
もともと哲学ってそういうものだからね。
そうだね、我々は何者なのかと。
どこから来てどこに行くのかという話。
どこに行くのかどう生きていくのかと。
でもいいね、あんまり意外とやってなかった気がするから。
そうだね、やっぱりちょっと馴染みやすいし、
アレルギーさんはそんな人だったんだって感じる部分もあったと思うので。
でもいろんな言葉があるんで、
ぜひぜひ、よかったら図書館とかに行ってみてください。
3回目ぐらいのオススメなんですけど。
ぜひ読んでみてくださいという感じでして。
次はですね、
第1回でもさせた通り認知行動療法と呼ばれる、
現代の心理学的なケアというか、
患者さんをある種直していくっていう方向に対して、
ストア派っていうのはすごく近いんじゃないかみたいなことを言ってる人がいるんですよね。
そういう人たちの話をしながら、
実際ストア派ってより具体的な生きていくシーンでどうやって使っていくのとか、
さっき兄貴も言ってくれたように、
肯定とかだったら馴染むかもだけどみたいな話をした時に、
普通の僕らみたいな一般的に生きてる人にも役立つというか、
そういう考え方なんですよっていうところまでお伝えしたいなと思うので。
そんな感じで、ぜひ次回ストア派編の最後として、
全然言葉としては違うんですけど、認知行動療法っていうものを取り上げながら、
ご説明してみたいなというふうに思っております。
わかりました。
次回より実践的というか、
肯定の偉い人の言葉というよりは、
もうちょっと心理学に身近な話というところですので、
次回も楽しんでいきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もありがとうございました。
51:30

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