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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学院について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学院馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の関野京介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
荘子の存在と背景
はい、今回から荘子編ということ、荘子でしたっけ?
荘子ですね。
ちょっと間違えてる。
ちょっとそこから、どういうことだっけ?
そうですね、普通に荘子って言うらしいぞと、僕らって荘子、荘子、老子と荘子って学ぶと思うんですけど、
今は荘子なんだっていう話らしいので。
じゃあ、うちらって人にも、今の中高生は荘子って習ってるのかもしれないけど、荘子と言われてたってのも事実ではあるんだね。
そうだね。それは間違えてるわけじゃないんだけど、同じ荘子って言う人がいろいろらしくて、
そもそも先生っていう尊称だから、荘先生だったらみんな荘子、荘子になっちゃうみたいな感じがあるんで、
区別するために荘子って呼んでるよみたいな話らしいです。
このラジオでも荘子でやっていくんですけど、
前回は老子やって、今回は荘子なので、老子を受け継いで荘子がいろいろやったのかなみたいなことがあるとは思うんですけど、
実はここもそんなに繋がってないらしくて、
別に老子がいて、それを受け継いで荘子がいたみたいなのはフィクションだみたいな話があるんだよね。
フィクションとしてはそういう話はされちゃってる部分もあるんだ。
間違いなくされてるんだけど、事実はそうじゃなかったんじゃないかみたいな。
荘子のストーリーテリングの特徴
やっかいなのが、老子が前回お伝えした通り道であったりとか、また政治みたいな感じで、
結構大きな世界観の話をしてるじゃないですか。
実際荘子もそういうちょっと大きな世界観の話とか、
ストーリーとかイメージで物を語ってる部分は結構あるんですよね。
なのでその中、言ってることは結構近い気がするとか、言い方?
要は孔子とかみたいに一個一個詰め上げてちゃんと言っていくんじゃなくて、
ストーリーで伝えていくみたいな。
そういうところもあって、老子と荘子って近いよねとか、ほぼ一緒じゃんみたいな。
そういう解釈ができたんじゃないかっていう話がされてます。
老子は春秋時代か戦国時代に生きた諸子百家の一人みたいな。
やっぱ無とか無名とか有名とかすごい世界観を発揮しときながらも、
全然使えない戦略を諸公に提案したみたいなさ。
そういう感じが前回ので浮かんだというか、教えてもらったんだけど、
荘子は何かまとめるというか、何やった人なの?
荘子もいわゆる諸子百家の一人で、
時代的には老子より100年以上先ぐらいの人らしいですと。
ただ老子もそもそも実在したかみたいな話があるんで、なかなか難しいんだけど、
荘子はただちゃんといた人であろうと。
要はその存在自体はちゃんとしてただろうというふうなことは言って分かっていて、
大体紀元前4から3世紀ぐらい。
今からすると2300年前とか400年前とかに多分いた人じゃないかっていうふうには言われてますと。
ちょっと簡単に一隣というかどんな時代なのかっていう話なんですけど、
本当の名前は荘州さんっていうらしくて、
田舎っていうかいわゆる当時の中国でいうところの征服されちゃった地域の出身の人らしいんだよね。
結構伝わってる話で言うと、結構言葉作弁で議論には負けないんだけれども、
それがあまりにも大げさで、要はストーリーとか例え話とかが多すぎるから、
取り留めもないしどう理解していいかもわからんわみたいな感じで、
この荘州は荘州でいろんな君主に話はするんだけど、
雇ってもらえませんでしたよとか、役立てられませんでしたみたいな話がありました。
そうすると君主の方が諦めちゃうみたいな。
君主の方は結構いいこと言ってるし、
名声もあったのかな、そういうちょっと有名な人だから、
うちで働かないかっていうふうに大金を積んで雇おうとした人もいたらしいんだよね。
荘州の方がそんな窮屈で、
国のためとか君のためとかっていうようなのも、
負けんだし不自由だし嫌だみたいな、
俺はのんびり生きるんだ、平和に生きるんだみたいな感じで雇ったんですよみたいな、
そんな話も残ってたりするらしいんだよね。
そりゃ諸子百家なのかそれは。
確かにね。
そういう挙動もあったってことだね。
だから結構貧乏な感じで、お金がないけど、
でも普通に奥さんとか子供もいて、弟子もいて、
何人いたかってのはあんまりわからないらしいんだけど、
全く世界から離れて一人気ままに竹林で暮らしたとかではなく、
普通に生きてた、当時で言うと。
そうなんじゃないかみたいな捉え方もされてたりします。
で、掃除は何があったかって言うとそれも結構難しいんだけども、
1個ね、その掃除陣って後の人が掃除をどう解釈したかみたいな話で言うと、
2つの方向性があって、
普通にこいつはデタラメの言うだけのやつだみたいな。
伝え話とかで煙に巻く真理を知らない人だみたいな。
そういうふうに悲観的に言われることもあれば、
正しいとか間違ってるとかそういう世界を越えていて、
何事にも囚われずに自在に言葉を操ってるすごい人だよみたいな。
そういうふうに言われることもあって、どっちも本当だね。
なんか同じことを言ってるよね。
そうそう、両面でね。
それ哲学上的には同じことを、同じ無名の世界のものを名付けただけだよね、それぞれ。
評価としてはそれを真理を知らない人ととるか、
真理みたいなものを越えてる人かみたいな。
そういう評価があるよねって感じですね。
荘子の概念と理解の難しさ
で、たとえばさ、兄貴、こちょうの夢っていう話って知ってる?
古代表現みたいな話。
ああね、そっかそっか。
ちょうちょはね、こちょうって。
ああ、はいはいはい。
鬼滅の刃に出てきてる。
鬼滅の刃出てきたと思う、確かに。
こちょうはね、あれなんです。
なんか寝てる人が夢の中で自分はちょうちょになって、
ひらひら飛んでたんだけど、
起きたら人間になって戻ってて、
自分は人かちょうちょかわからんみたいな、そういう話なんだけど、
これ実はソウジーが言ってるんだよねっていう話をしようと思ったんだけど、
そんな風に、
要は、たとえばなしというか、やっぱストーリーなんだよね。
要は人がちょうちょになるなんてあるわけないとか、
起きて、ちょうちょか夢かわからん、人かわからんくなったみたいな、
夢か現かわからんくなったみたいな話って、
それだけ聞いたら別にそういうこともあるよねとか、
別にそれってお前がボケてたわけじゃねえみたいな、
まあそういう話なんですけど、
実はその根底にちゃんと物にかけるっていうのが仏化なんだけど、
あとは一生の生、一生にするみたいな、
この生って等しいとかって意味があるんだけど、
同は同じね。
等しく同じであるという正同という概念が実はあって、
そういうのをちゃんと知ると、
なんとなくただ不思議なことを言ってるだけじゃないよみたいなことも、
伝わるかなって思ったりしてます。
なるほど。
なんかよくわからない話の根底にもなんか共通の概念というか、
そうそうそう。
ありそうだぞと。
そう。一応そういうのは言っているぞと。
ただただなんかよくわからん気分に巻いた人っていうよりは、
一定そのなんか表現したいこととか、
その相似なりの概念みたいなのがちゃんとあって、
その土台に立ってこういう故郷の夢みたいな、
そういう話をしているんだよということを、
今回は相似編というのを通じてお伝えしていきたいなというふうに思ってますという感じですと。
なるほどなるほど。
やっぱり老子の時と同じようにまだ上手く掴めないね。
全体的に。
そうですね。
でもちょっと老子があったからこそ、
なんとなく回を重ねていくごとに、
ちょっと老子すげえとか思ってもらったように、
掃除すげえってなるんじゃないかなっていうちょっと期待もあるんだけど、
はいはいはいはい。
やっぱりどうしても捉え所がないとか、
話を紹介したと全部が全部イメージとか例え話になっちゃうから、
なんかおとぎ話を聞いてる感じになっちゃうんだよね。
ちょっとそういう概念的なことも含めてお伝えしていきたいのが今回ですよという感じですと。
はいはいはい。
結構いろんな話を今回もお伝えしていくんですけれども、
さっき言った通り、
掃除って中央の人っていうよりは、
征服された田舎の人なんですよね。
で、前回も話したその孔子、
いわゆるその儒家の創始者である孔子は、
どっちかっていうとこの有力な国の生まれで、
要はやっぱりその秩序を維持するというか、
自分の国をやっぱり建てようと思うと、
浪子と掃除の関係
今の国が続けばいいってやっぱり発想になるんだよね、たぶん。
なるほど、01じゃなくて100みたいなイメージになってくるってことね。
そうそうそうそう。
どう広げていくかとか、
今あるものをどうより良くしていくかみたいな感じなんだけど、
やっぱり老舗もそうじゃなくて掃除も、
いわゆる反対政府というか、
征服されちゃった側の人だから、
豊かさとか権力を握っているとか、
そういうことに対するちょっと反発とか、
皮肉めいた感じがあるんだよね。
なるほど。
やっぱり言っていることとかも、
さっきも言った通り、
大変金を積まれて、
普通だったら受けるだろうみたいなことも、
そんなお金なんて土地ないし、
君主に召し掛かられるとか、
本当だったら光栄なことなはずなんだけど、
掃除からしたらそんなものは不自由だとか、
私を捉えてくれるなみたいな、
結構そういう感じになるんだよね。
なるほどね。
出世街道ではあるけれども、
同時に降りたら死ぬっていうのが決定する、
死ぬか生きるかみたいな世界に飛び込むっていうのが
決定したってことだね、それはね。
やっぱり話としても、
君主とかにやり込めるとか、
権力とかそういうものに対して、
唾を吐くじゃないけど、
一歩引いてるみたいな感じかな。
ちょっと下に構えた感じがあるけれども、
育ちが影響してるんじゃなかろうかみたいな、
そんな風に言われてることもあったりします。
そういう意味で言うと、
あんまり掃除神はスキャンダラスというか、
世の中を逃げ合わせましたとか、
っていう感じではなさそうなんだけど、
第1回でお伝えしたいのは、
浪子と掃除の関係を最初にお伝えしたいと思ってます。
前回は兄貴も言ってくれたし、
今日も浪子と掃除ってセットだよねみたいな、
風な感覚で話しちゃうんですけど、
後の時代の人たち、
後って言っても1世紀とか2世紀だから、
今からしたら2000年くらい前なんだけど、
人たちのフィクションなんじゃないかみたいな話があるんですよね。
そもそもさっき紹介した掃除の名前、
宗宗っていう人ですよとか、
出身は田舎の方でみたいな話っていうのは、
支部船の士気っていうのが書かれてる情報らしいんだよね。
士気って聞いたことあると思うんですけど、
この士気自体がどこまで士気ですかみたいな話がある中で、
特に浪子と掃除の関係っていうのは、
結構その、何だろうな、
手術をちゃんと書いた、
いわゆる電気っていうよりも、
浪子を牽引づけるために、
浪子と掃除ってのはセットにしたとか、
浪子を掃除として、
掃除がいて、そこから道家みたいな、
そういう一派ができたみたいな、
そういうことを牽引づけるために書かれたんじゃないかみたいな。
もう脚色どころじゃないんだね。
思想の正当性を担保するとか、
塾に対して道家っていうものはちゃんとあったんだよ、
みたいなことを位置づけてあげるみたいな、
そういう思惑があったんじゃないか、
みたいな解釈があるらしいんだよね。
老荘思想の解釈
それも解釈ではあるけどってことだね。
ヒクションだっていうのはほぼ間違いなさそう。
そうなんだ。
歴史の教科書レベルだと、
浪子思想で浪子がいて、掃除がいて、
みたいな感じなんだけど、
それは結構、取っ払わなきゃいけないとか、
ほぼ間違いだって思わなきゃいけない、
みたいな感じがありますよ。
さっき言った通り、
孔子とか中郎の権威とかに反発してるっぽいとか、
孔子による道とか、
世界全体から捉えられる感覚っていうのは、
結構近いところかなって。
道っていう言葉も使ってるの?概念とか。
そうだね、道っていう言葉も使ってる。
ただ、使われる方とか、
それによって何を表現しようとする方は、
ちょっと違うらしいんだよね。
それは難しいね。
難しい。
見直しいか。
結構、老子はどっちかっていうと、
世俗世界を越えて、
まさに有名と無名という世界があった時に、
その無名の世界っていう方が、
よりポンポンだよねとか、
そっちに従って生きてることが、
やっぱいいよねみたいな話があるんだけど、
掃除はどっちかっていうと、
人の心とか、
この世俗世界の中で、
どうやってそこから真実の世界にたどり着くかみたいな、
そういう下脱っていうと、
言葉が飛躍しちゃうというか、
仏教的になりすぎちゃうんだけど、
あくまでもこの現実世界があるとか、
ちゃんと生きてるっていう世界を認めた上で、
そこから当時は天みたいな、
理想の世界とか、
人々のありのままに生きていく、
そういうのがいいよねみたいな感覚はあるんだけど、
掃除の思想と成果
そういう世界にどうやっていくかみたいなことを、
結構中心的に説明してますよみたいな感じが、
掃除にはあります。
はいはいはい。
もちろんね、
諸社会の政治的な感じはもちろんあるもあるんだけど、
それね、
老後世から流れてくる掃除とかっていうことっていうよりは、
掃除は掃除の思想として何を言ったのかとか、
どういうことを主張しようとしたのかみたいな、
何を成し遂げたのか成し遂げなかったのかみたいな、
そういうのを今回掃除編ではちょっとお伝えしていきたいなというふうに思ってるって感じですね。
ほうほうほう。
なるほど。
はい。
面白いね。
ここまでの話を聞くとね、
やっぱり老後世と掃除は別だっていうのはあるけれども、
でも概念で言うとね、
さっきの、
なんかちょっと違うのか、
そこの感覚があると少し掃除の理解役立つぐらいの感覚の方が正しいのかな。
そうだね。
比較したときに、
老後世はやっぱりいわゆる宇宙論というかね、
どうやって宇宙はできたかみたいな方を言ったけど、
掃除はそこまでは言わないと。
はいはいはい。
ただいわゆる人間のありきたり、
普通の感覚から道徳を説くとかってことでもなく、
ちょっとその間っていうのが変なんだけど、
そのモチベーションがやっぱり、
いかに今生きてる人がもっと理想の世界に行くかみたいな。
はいはいはいはい。
ところで、
土台にしてっていう感じかな。
老後世とかはどっちかっていうと、
そもそも今生きてる人っていうのは間違って生きてるというか、
正しくない生き方をしてるから。
あーはいはいはい。
無名の方に正解があるからみたいなね。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
結構そこの力の置き方とか、
ような分かれ方っていうのは結構違うかなっていう感じですね。
はいはい。
なるほどなるほど。
ただやっぱり、
いわゆる西洋哲学みたいなロジカルさとか、
もちろん緻密な議論もあるはあるんだけど、
全部を説明しようとしてくれるみたいな感じでもないので、
はいはいはいはい。
ちょっと掴みにくい部分とかもあるかなとは思うんですけど、
だからこそちょっとこの考え方って面白いねとか、
こういう比喩の表現とかって、
すごいイメージが膨らんできて深まりがあるよねみたいな、
そういうことはあるかなと思うんで、
はいはいはいはい。
兄貴とか聞いてくださる皆さんも、
そういう楽しみ方を教えていただけると、
いいんじゃないかなっていうふうに思ってる感じですね。
うんうん、なるほどね。
ちょっと前回と同じようにね、
ちょっとずつこの創始のベールが剥がされていくみたいな、
感じなのかなと思うんで。
はいはい。
ちなみにさ、この創始か、創事でいうと、
さっきほら弟子がいるとかっていう話もあったんだけれども、
なんかその、例えばその創事が残した本だったりとか、
なんか弟子がまとめた本みたいな、よくあるね。
よくある弟子がまとめた評点じゃないけどねとか、
あと例えば老子でいうと、
老子の流れを中で同居ができた、みたいな話があったんだけれども、
この創事はそれでいうとこの後、
何か創居ができたみたいなさ、
あとこういう系譜があるとか、
何かそういうのがあったりするの?
そういうことで、やっぱりもう流れとしては、
老子と創事がいて同居ができたみたいな感じなんだよね。
あー、そこはやっぱり合流しちゃうというか、そうなんだ。
そうそうそう。
老子の創事と同居
一緒というか、老子がめちゃめちゃすごい創事者で、
創事がそれを受け継いだ弟子で、みたいな感じになっちゃって、
そこから同居の流れができましたみたいな、
結構そういう風になっちゃうんだよね。
あー、そうか。
みんな本当にその歴史的にはどうか知らんけれども、
結構やっぱり一つにはまとめられちゃってるんだろう。
創事層&同居みたいな、そこはもうセットなんだ。
そうそうそう。
それが常識だったのを今、実は違うんじゃないかとか、
そこって本当は区別されてるっていうのが、
むしろ出てきてるみたいな感じなんだよね。
そこはもう今の学者さんたちが、
資料も少ない中で解き明かしていってるっていう話なんだ。
そこはもう現在進行という話になってくるんだ。
この辺りの範囲でいうと。
今って言っても、もちろん数十年くらい流れとしてはあると思うんだけど。
創事が書いた本とかっていう意味で言うと、
まさかの創事っていう書物が残されていて、
創事が全部書いたかって言うと難しくって、
どこが本当に創事が書いたやつで、
どこがこうした人が入れ込んだりとか、
他の人がこれを創事が喋ったよって言ってたかとかっていうのは、
正直わかんないらしいんだよね。
老子っていう本もそうなんだけど、
やっぱりこのタイミングでできたとかっていうよりは、
やっぱり長い時間をかけて編参されて、
付け足されたりとか削られたりとか、
いろんなためで今のこれを老子として、
呼ぼうみたいな、まとめようみたいな感じになってるから。
そっか、大英博物館に当時の2千何百前の、
畜管だっけ、なんだっけ。
畜管、竹の筒みたいなやつね。
老子が書いたとされる畜管が残ってますではないんだよね。
ないないない。
もう編参というか、映されて映されて、
編集されて編集されて残ってきてるものみたいな、
そういう感じではあるのか。
草字との関係
だから、老子とか草字に関しては、
その本、書名としての老子と草字も、
その2人が直接書いたって言いにくいところがあって、
プラトンとかポッカとかさ、
そういうものはプラトンが書いたとか言えるんだけど、
たぶん残ってんのかな、たぶん。
残ってないじゃないですか。残ってんの。
でも、プラトンが書いたものをちゃんと翻訳したとか、
それを元に書き写したっていうものが残ってるんだよね。
で、その信憑性も高かろうみたいな話なんだね、そこは。
言ってあると。
でもやっぱり、もう老子とか草字ぐらいになっちゃうと、
果たしてどこを書いたのかとか、
そもそもこれは草字だったのかとか、
本当に書いたのかみたいなぐらい信憑性が薄くなっちゃう。
同じぐらいの年代なのにね、その残り方の違いも面白いね。
そうなんだよね。
やっぱりね、書物というかね、
書いてる言葉が残るみたいな話ってすごいよなって思うし。
なので、草字に関して言うと、
一応、草字っていう本、
そして今、たぶん岩波書店とかかな、
どこかから出てるものもあって、もちろん読むことはできるんだけど、
それもいろんな変算とか、
これは草字として納めてよかろうみたいな、
そういういろんなものがあって残ってるものって感じですね。
なるほど、そうかそうか。
今回はそうだね、結構面白いね。
何回も言うけど、老子、草字、同居ってものが
基本的には繋がってるっていう感覚がある中で、
今回はそこを解きほぐしながらというか、
もうちょっとフラットな視点からそれぞれを見ていくよという話なんだね。
はいはいはい。
いつか同居もやるの?
同居はどうかな?
ちょっと思想が強すぎるというか、
僕も正直知らない部分はあるから、
興味があればとか、やってほしいという声があれば
やりたいなぐらいですね。
了解しました。
次回は同居ということで、
老子と同じように捉えどころもない草字っていうものを
なんとなく見てきたというところだったので、
次回から具体的な見ていきたいというところでしたので、
また次回以降その辺楽しんでいきたいと思います。
次回も引き続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もありがとうございました。