1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #174 座禅と悟りは同じもの!..
2023-12-27 44:02

#174 座禅と悟りは同じもの!道元が導き出した禅の極致

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

道元は、さらに深いところへと進んでいく。仏性と存在の関係について話しています。座禅を通じて自己を忘れることで、自己も空になります。修行とは悟りであり、座禅を継続することで自己を忘れ続けることになります。もちろん、座禅をするときには、食べたり寝たりも必要です。それらもすべて座禅であり、座禅は自己を忘れ続けることであり、修行と悟りは同じことを道元は示しています。道元が語る禅の極致は、修行を通じて悟りを得ることであり、座禅とは異なる厳しさと誠実さが求められます。道元は南禅の猫の話を例に挙げて、善悪の判断を超えた禅の世界を示しています。悟りの世界で肯定されるためには、実際には難しい教えであり、自由な行動をすることは許されません。道元は、そうした人々を破門し、欲に囚われずに悟りを実践することが重要だと示しています。座禅と悟りは同じものです!これが道元が導き出した禅の極致です。

道元のさらに深いところまでの話し
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いしま〜す。
よろしくお願いしま〜す。
はい、前回から道元の話を見てきたんですけれども、今回も引き続き、道元のさらに深いところまで見ていこうというところでした。
はい。ちょっとね、前回の振り返りを簡単にさせていただくと、道元はですね、この一切衆生を失う仏性というですね、結構有名な言葉が仏教ではあるんですけど、
これは元々は仏性、仏の性質というのがあって、それをあらゆる存在が持っているのだと。
まあ、僕ら生まれた世界に生きる人間を持っているんだというふうな解釈だったんだけれども、
そうなると仏性、仏性というのと存在というのが分かれちゃうから、そうじゃなくて、
失うあらゆる存在、むしろ世界というのがもう仏性なんだみたいなふうに読み替えて、
ある種二元論的な考えじゃなくて一元論的にします。
そういうふうに思いましたよ、みたいな話をさせていただきましたと。
そこの気づきがやばかったよねっていう話だったね。
そうそうそうそう。そこをちゃんとね、気づける、言葉にできる道元すげーっていう話もしたと思うんですけど、
これ実はちょっと前回振れ忘れちゃったんだけど、なんでやっぱりそこに突き詰めてやれたかっていうと、
なんかこれ自身がやっぱり、道元自身がね、取り組んできたというか、
やっぱりすごく悩んだ問いだったんだよみたいな話だったんですけど、
あーそうなんだ、ほうほうほう。
つまりというか、もともとね、前回お伝えした通り、比叡山で10代の時に学んでいるんですけれども、
比叡山の教えっていうのは、もともと人っていうのは本来仏性、仏性っていうのは持っていて、
その本質、要は人の本質もなし、仏性の本質も清らかであると、正常であるっていうのが、
現実の教えとして学ばれているわけなんだね、比叡山では。
で、そうすると、なんだろうな、なんでやっぱりそんだけ勉強しなきゃいけないのとかさ、
本質が清らかなんだったら、それをある種なんだろうな、別に大事にしておけばそれだけでよくないみたいな感じで、
なんであえて比叡山なんていう存在がいるのか、ぐらいのところまでやっぱり行っちゃうわけよね。
道元がね、これは。
うん、そうそうそう。
はいはいはい。
その時に、やっぱりこうさ、あの、親鸞とか法蓮とかもそうなんだけど、
結構本来仏、人間ってのは本来仏なはずなのに、やっぱどうしてもそうは思えないっていうか、
うんうんうんうん。
そんなにこの仏の教えっていうのが単純だとしたら、なんでこんな風にわざわざ色々勉強しなきゃいけないのか分かんないみたいなことっていうのは、
やっぱりまあ自然に出てくるんだと思うんだよね。
自然にというか、多分純粋に仏教を学ぼうと思えば思うほど、やっぱり勉強しなきゃいけない。
思うほど、やっぱりぶち当たる壁だと思うんだよね。
うん、なるほどなるほど。
うん。
そんな簡単じゃねえし、実際みたいなね。
そうそうそうそうそう。
で、いろんなやっぱり解釈もあれば、そのね、彼方の教えもある中で、なんでそれをやらなきゃいけないんだっけっていう風に多分なっちゃいますと。
で、道元もね、いろんな先生にこう、問いというかね、そういう質問をぶつけたんだと思うんだけど、
やっぱりこう、満足をね、あの、得られる答えがなくて、だからこそやっぱ比叡山を置いて、ケンニジに行ったんだよみたいな。
で、そっから中国までわざわざ行ってきましたんだよみたいな、まあそんな流れがあるんですよね。
うんうんうんうん。
っていうような、どうして俺はこんなことやってるんだっていう風な、こう、道元さんがですね、ま、ある日たどり着いたキーワードっていうのが、前回最後にちょっとお伝えした、えっと、
首相一等、修行と悟りっていうのは一つであるっていうような言葉なんですよね。
うんうんうんうん。はいはいはい。
はい。
で、今回はこれをまあ、深く見ていきますよという話なんですけど。
これについてちょっと、あの、道元が実際書いている、あの、言葉っていうのがあって、ちょっとそれをね、あの、わかりにくいと思うんですけど、一旦読ませていただくと、
えっと、仏性、仏性ね、これの道理っていうのは、あの、仏性は成仏より先に具足せるにあらず、具足っていうのは伴うとか、あの、なんだろうな、現るとかそういうことね。
具足せるにあらずと。
成仏より後に具足するなり。
仏性を必ず成仏と同賛するなり、同じ時に現れるんだというふうに言ってます。
うんうんうんうん。
これどういうことかっていう話なんだけど。
道元からするとね。前回のさすとおり、支通は仏性であると。要は、この世界そのものが仏だっていうふうなことが、まあ、団塊でも言えますと。
うん。
それっていうのはあくまでも 仏の世界から見たというか
悟った存在がこの世界を認識した時に 初めてそんな風に立ち現れるんだっていう風に言うんだよね
うんうんうんうんうん
だから前回言った通り ただこの身この青の人間が世界を見ても
それはある種ものが集まった世界だし 存在は存在だし
そこに仏性っていうのは現れてはこないですと
まあそうね そんなセンスはないよねって話ですね
そうそうそうそう そんな風には見られないと
だからこの質は仏性なりっていう この世界は仏だっていうのは
あくまでも悟った存在とかそういう悟りの世界から 道元が語った言葉なんだよっていう風に
受け取る必要があるんだよね
うんうんうん あくまで悟った人が言ってる言葉ですよと
そうそうそう
人が悟った世界から言ってる言葉ですよと
うんうんうんうん
存在と仏の関係性
だから いくら言葉でこの仏性が世界に現れてるとは言っても
やっぱりそれはそういう風に認識できる存在にとってはっていう話であって
それがやっぱり悟りを開いたとか仏になった自分とか人間っていう存在なんだよね
で じゃあそれってどうやってなれるのっていうことが今度出てくると思うんだけど
そうね そここそこが教えてほしいとこだよね
蘇りたい人からすると
そうなんです そうなんです
で そこにじゃあ 逆にどうやってもなれないかっていう話が
これもちょっと前回お伝えしたんだけど
道元は いわゆるこの存在は自分の中に仏性があって
それを磨くと仏になれるっていう発想を否定したじゃないですか前回
うんそういうもんじゃないよってね
そうそう そうそう
そうすると存在 自分という存在と仏ってのが分かれちゃうからそういうもんじゃないよと
で したら
っていうとそれは修行だって話をするんだけど
ここで修行っていうのは別にね
苦行に打ち込むとか
山を駆け回って
陣通りというところを掴めて
自分というものを
すごく超人的な能力を持つとか
ということじゃなくて
ただただひたすらに座禅をすることなんだ
それがここでいう修行なんだ
というふうに言うんだよね
そうだよね
だってね
じゃあ修行するよって言われたらさ
修行すればじゃあ慣れるんですね
戻っちゃうもんね
戻っちゃうとか
修行を通じて自分を鍛えるんですね
変えていくんですねって
そうじゃないと
でも道元っていうのは
修行を大事にするんだけど
その修行っていうのは
自分とは何かを探求することですと
自分とは何かを探求するというのは
つまり自分を忘れることであって
ほう
つまり自分っていうのは固定化されちゃうじゃないですか
要は自分は何か何かって突き詰めちゃうと
結局それは自分というものを固定化することになっちゃう
それって前回言った
仏を固定化するとか
空がなくなる
空から離れていくということに
つながっちゃうんだよね
リンゴの例えだったりとかね
リンゴみたいなものをリンゴって固定化しちゃうのか
という話だよね
自分というものがどこかにあって
本当は自分がゴールに行くみたいな
自分探しじゃなくて
常に自分自分自分自分として生きていくとか
自分自分自分としてあるっていうのを
座禅を通じてやるんだと
つまり自己を忘れる
そういうことによって初めて
自分と全世界というのが関係しない立っているんだとか
つまり空の概念
やっぱり全ては
自分らしさというか
そのものらしさとは持たない
自分らしさというか
そういう世界において
自分とか他者とか
あらゆる存在っていうのが
ある種空ゆえに
自称がないがゆえになり立っているんだ
っていう
そういう理解に至ることができますよ
座禅と悟り
っていう風に言うんだよね
なるほどね
はいはいはいはい
座禅っていうのはあくまで手段なんだよね
これはちょっと
通りがいいから何回も言っちゃうんだけど
ウィトゲンシャインのやっぱり
はしごを捨てるみたいな話だったじゃない
うんうんうん
そんな感じで
座禅っていうのは手段であって
その座禅を通じて自分を忘れるんだと
それを忘れたらもう座禅もいらない
まだはいらないんだけど
はいはいはい
でもやっぱり座禅をし続けること
イコール自分を忘れ続けること
イコール悟り続けること
っていう風に
ここが繋がっていくんだよね
うーん
じゃあ
修行イコール悟りではあるんだけれども
うん
これは多分ローデンが
悟ってない人側に分かる言葉だった
概念として使ってくれてる言葉であって
そうですそうですそうです
修生一等か
修生一等
それをもって座禅をしながら自分を忘れる
自分が空であるっていうところまで至った人は
そこまでもしいてたとしたら
その一等っていうところの本当の意味も分かるし
別に座禅してない人が
ある意味普通に生きている
普通に買い物をしてる
ご飯食べてる状態でも
常に座禅っていう状態に自分を
その空だけれども
持っていくっていうことができるようになってるよね
っていう話ね
そうです
これがすごく禅なんだよね
やっぱり禅ってさ
リンザーの時にちょっとお伝えしたかもしれないですけど
いわゆる普段の生活においても
やっぱり
禅として生きるとか
禅の規則において生きることで
悟り続けるようにあるみたいなさ
そんな話を何回かしたと思うんですよね
あったと思う
座禅と自己の忘却
当然ねやっぱりお坊さんと言うと
当然さ
食べたり寝たりはしなきゃいけないわけですよ
食べるためにはご飯も作らなきゃいけないし
ご飯を作るためには食材を手に入れなきゃいけない
街にも行きましょうみたいな話なわけで
そういう行為ももちろんするから
当然
しかんたざ
ただひたさに座禅をせよって言って
座禅だけをしてるわけじゃないんだけど
ただそういう買い物に行くとか
まさに何聞いてくれたように
ご飯を作るとか食べるとか
っていうのも
それも全部座禅なんだと
座禅とか禅なんだと
はいはいはい
その瞬間にもやっぱり自分を忘れ続ける
やっぱりご飯を食べて
美味しいと思う自分というのを固定化せずに
美味しい時は美味しいと思う
噛む時は噛むと思う
寝る時は寝ると思う
みたいな感じで生きていくと
それは自分を忘れ続けている
はいはいはいはい
自分というのを何もなくして
要は
なんだろうな
法を受けたように生きることではないのよ
まさにこの忘れるっていうのも
ただ自分と食べるという行為が一体化しているとか
食べる時とその食材が一体化している
その食材と
それを育ってくれた土と一体化しているみたいな
そういう風な繋がりの中で
要は
自分の食材と
あらゆるものを分節化しない
二分化しない
そういう世界において生きていることが
まさに仏の世界
ご飯を食べることと悟り
仏の認識を生きていることなんだ
そんな風に言える
道芸はここまでは言ってない
とは思うんですけど
僕が今説明を
参画としてはそういうことなんじゃなかろうか
という風に思うんだよね
なるほど
確かにね
前回リンゴの例えがあったから
すごくイメージが
しやすいと思うんだけれども
人間に置き換えた時に
それがどうしても固定化しちゃってる
っていう話だったんだよね
それが例えば
こうやって
道芸の話から言うと
修行座禅を通じて
自分を忘れていく
固定化しているということに気がついて
それを一体にセットして
空に近づいていく
空っていうものを
周りに体感するときに
本当に体で理解する
空って言ったときに
初めて
まず悟っている
今までは
座禅をしている
自分
空っていうものないかを
身体的に理解しようとしている
自分ってところなんだけれども
そこに至った瞬間に
この今座禅している
空っていう
前提があるけども
自分は
座禅をしている自分でもあり
悟っている自分でもある
っていう状態に至るわけだね
増長している状態
そこに至って初めて
座禅っていうものをしていなくても
悟ってる状態っていうものが
備わっている人間って
僕らになれて
だからそうなると
さっきハヤトが言った
一瞬一瞬
例えばご飯を食べてるときは
美味しいと思う自分っていうのが
あるんだけども
それも
その
その瞬間瞬間
一瞬だけ聞いとればそうかもしれない
っていう風になるんだけども
実は
その瞬間であっても
ご飯を食べている自分と
悟っている自分っていうものが
もう同居している
同時に存在する
存在として
なるってわけだよね
その
シュレディンガーの猫じゃないけど
生きてもいるし
死んでもいるみたいな
状態が同居しているっていう
シュレディンガーの猫が
あると思うけど
そうだね
まさにそれではね
蓋開けてみたら
死んでるかもしれないし
生きてるかもしれないんだけどっていう
でもそれって固定化されてると
そうなんだけども
実はそんな固定化されても
なんじゃないよ人間はっていう
すごくね
あの現実世界からすると
とても認識できないし
あの理論的には破綻してるよね
生きてもいるし
生きている状態と
死んでる状態が
同居している状態が
変みたいな話だけど
ただそれが実は
こういう悟りとか
悔うという概念からすると
そんなに無理のない状態なんだよ
って話だよね
修行と悟りは同じ
そうそうそうそう
悔うの状態からすると
別に生きていると
死んでるのは同居
というのも
それは別に破綻しないというか
別に同居し得るに
悟ってる状態で
ご飯を食べているっていうのは
むしろ当たり前のことである
なぜなら世界は仏であって
自分も仏なんだから
仏もご飯を食べましょうと
話になるんだよね
はいはいはい
まあ
言葉で言えばさ
あーなるほどねって思うんだけど
これを
心態的に理解するとか
そういう風に生きるのは
なかなか
まあそれは
難しいというか
わからないですよ
そんな話では
道元はこんな風に言ってます
また道元の言葉を
紹介するんだけれども
はいはいはい
仏道仏の道ですね
これを習うというのは
自己を習うなりと
自己は自分です
自己を習うと言えば
自己を忘れるなりと
いう言葉で表現しているんですよね
これがまさにさっき言った
座禅ということを通じて
自分というものを突き詰めるんだけれども
突き詰めたのは結局は
自分を忘れる
自分を落としていく作業なんだと
いうふうな言葉で表現しているんだよね
なので
やっぱりさっきさ
比叡山で学んだとき
なんでこんな学ばなきゃいけないんだとか
なんでこんないろんなものを
詰め込まなきゃいけないんだって話をちょっとしたと思うんですけど
上弦からやっぱり言わせると
やっぱり仏の正しい教えっていうのは
やっぱり外にある真理とか
学んで外から取り込むとか
内側にある仏性みたいなものを
磨いて磨いて大事にするっていう
外とか内側にある
こっちにあるんじゃなくって
まさにこの自分の生き方というか
生きていることそのものが
悟りであるっていう
修行っていること
まさに座禅を通じて生きていることそのものが
仏性なんだっていうような
そういうふうな領域を
やっぱり道元は見いだすんだよね
すごいね
確かにさっき聞いた道元の疑問ではね
修行って何のためにするとか
全部これで答えられてる感じがするね
そう答えられてる
そうなんです
なのでやっぱり一回悟ったから
OKっていうものでもないし
やっぱり修行イコール生きている
生きている瞬間瞬間において
常に悟り続けているのだとか
その悟っているということ自体が
修行をしている
要はそういう状態として
生きていることを示しているのだ
っていうふうなことが
まさに修行と悟りは一つである
同じである
同じである
同じである
同じのだっていうことに
つながっていくんだよね
それを広げていくと
まさに自分と世界は等しい
世界というのは仏と等しい
っていうそのイコールっていうのが
延々とつながっていく
確かにそう考えると
すごい深い言葉だね
さっき悟った後は
その言葉を忘れてもいいみたいな
雰囲気もあったけれども
これはやっぱりそうでもなくて
ただその言葉の
えっと
なんだろうな
そもそも捉え方
変わるだけで
さっき言ったことなんだけど
もう復唱になっちゃうんだけど
そこでご飯食べてても修行みたいな
そういうふうになるってことなんだね
そう
里と跡は
歩いてても修行みたいなの
歩いてても修行
それはこの修唱一等っていう言葉には
もうどっちも含まれてるんだ
里に至る道も
至った後の
だからすごい言葉はね
これって
すごいことだよね
そう
だから
これちょっと
今回盛り込めなかったんだけど
ローゲンの時間論っていう話も
めちゃめちゃ深いテーマがあって
ハイデガー的な
ハイデガー
そうそう
ハイデガーとも結構比較されることがあるぐらいなんだけど
えー
そうなの
本当にそう
まさに
さっき言ったように
修行を通じて仏になるとか
ストリーを開くっていうのは
要は
いわゆる線としての時間
過去から未来につながっていく時間
でもそうじゃなくて
この瞬間
瞬間
瞬間
瞬間に
ストリーというものが立ち上がられているみたいな
そういう未来と過去がない
要は
修行とストリーっていうのは一つだっていうのは
時間的にも同時だっていう話になってくるから
そう
そういう風な時間論っていうのも言ってるんだよね
わー難しそう
そう
なので今回ちょっとそれを省いたんだけど
それもまたいつか
まさにこう
ハイデガーと比較とかも含めて
お伝えできたら面白いんじゃないかな
なんてちょっとね
思ってました
まあ
ハイデガーも
盛り返してないから
相当難しいけど
ちゃんとハイデガーも
変え教えてほしいけど
はい
あのね
その時はねちょっと
めっちゃ脱線したんだけど
時間とは何かっていうテーマでやりたいなって思って
はいはいはいはい
はい
これは
現代物理学における時間論もそうだし
すごく面白いんですよ
時間とは何かの
時間っていうものをどう認識していくかって
面白い話なんで
やりましょうという感じなんですけど
ちょっとごめん
もう一回
道元の悟りと修行の関係
道元に戻りますと
ここまで話してきたことが
非常に大きなところの
道元の悟りとは何かっていう話と
そこに対して修行とは何かっていう話でしたと
うんうんうん
これは前回からお伝えしている通り
やっぱ仏教
特に大乗仏教の根本なんだよね
要は
仏陀お釈迦様は
修行を通じて悟りましたと
我々は悟るためには
修行っていうのが必要ですっていうのが
あらゆるその
やっぱり仏教の宗派において
基本的には必要なんだよね
うんうんうん
だからこそ道元もやっぱり
いわゆる自分が仏に変化をするとか
黒黒浄土に阿弥陀仏の計らいで
舞い出していただいて
そこで修行させていただくのだっていう
世界観とはまた全然違う
ある種仏教的な厳しさとか誠実さ
やっぱり自分好みが仏であると言ったら
やっぱ修行が必要だと
はいはいはい
その修行っていうのは別に
やみくもにやることとか
何かそれによって
自分を鍛えるってこととかってこととも
全然違うような世界観なんだよっていうことを
ちょっとお伝えできたんじゃないかな
なんて風に思うんですよね
すごいよね
確かに
仏陀が修行してるからには
それは不要だとは
もちろん言えないって部分が
座禅と禅の極致
多分こういうのを極めようとする人たちにはあって
ただなんでだっていうところだし
仏陀がやったとされるしをやったら
やったところで悟れない人もこんなにいるのはなぜだっていう
多分いろんな積み上げなんだね
それまでの
そうなんですよね
すごいな
でも道理がそこに一定の答えを
そこそこ仏陀が修行した意義みたいなとこも
このロジックで説明できそうだ
みたいなとこまで含めて
すごいこと言ってるんだね
しかもそれをさ
僕らみたいな仏教のことをほとんど知らないとか
修行したい人でも
なんとなく分かりうるというか
もちろん道元の言葉そのままじゃなくって
いろいろ翻訳とか
いろんな学者さんが
ってことを伝えてるから分かるってのもあるんだけど
でも一定800年後に生きてる僕らからしても
なんとなく共感理解できる
そんな風にまとめてくれてるのは
めちゃめちゃすごいなと思うんだよね
そうだね座禅ってそんなに崇高なものを
崇高というかね
すごいことだったんだ
座禅だけじゃない
っていう話なんですけれども
でちょっと面白い話になるんだけど
こういう考え方があるとさ
世の中っていうのは
ボンプ我々みたいな悟った人間の認識と
仏の認識を悟った人の認識っていう
二つの認識において捉えられるんですよ
みたいなそういう話になっていくんですよね
はいはいはい
だから世界は同じなんだけど
本来は仏だ
だから本来仏教でいうところの真実の世界は
仏の世界なんだけど
我々みたいなボンプからすると
ただの世界ただのリンゴただの花
ただの風みたいな感じで
それぞれは全部独立して分かれた存在
固定化された存在ですというふうに
同じものをね見たり聞いたりしても
全く違う受け取られてるんですよ
そういう考え方になります
というようなことは言えるんだよね
さっきただの世界ってあったけど
ただの自分って話だよね
ただの自分
そこにアプローチせよって話だよね
そうそうそう
でここでちょっと前回予告していた
みんな大好き禅問堂
やっとそうだそうだ
やっと入ってくるし
兄貴が言ってくれたまさに猫の話なんですけど
これね禅の社会で結構有名らしい
南禅断病っていう猫ね
南禅さんって人が猫を斬ったって話があって
おぉー
中田ちゃんこくん
へー
はい
南禅さんっていうのは
中国の禅の偉いお坊さんですと
本当にいわゆるだるまから続く
禅の直系みたいなお偉いさん
前禅シリーズやった時にも出てきた
そうそう
不覚南禅さんっていうとおもうんだけど
でこの人の弟子たちが
一匹の猫について言い争ってたんだって
何を言い争ったかは
分からないんだけど
何らか言い争っていた時に
南禅さん師匠が来て
お前らと
禅の一号をここで言い表せるなら
この猫を助けるが
言い表せないなら猫を
斬り殺そうっていう風に言うんだよね
いやーって弟子がね
何も答えられずにチーンとなった瞬間に
猫がね
ついに斬り殺されちゃいました
ニャンという話なんですよ
猫さんかわいそう
っていうね
以上です
どう思いますか
言い争いの内容を知りたいな
それはね
分析している人の思考だから
ダメなんですよ
何を言い争ったとしても
猫はね
斬り殺されちゃうんですよ
禅の一号
禅を一言で言い表せってこと?
そう
禅の真髄を言えと
今この場で
なるほど
まあそういうことだよね
ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ猫について
言い争っているけれども
今この場で禅の一言で言い表しなさいと
難しいね
この猫は生きてもいいよりも
死んでもいいよりも
死んじゃいましたね
もう死んじゃう
無理でしょこれ
猫を殺したかっただけなんじゃないの
これ
まあいろんな話があるわけですよ
当然その後世もね
いろんな評価があって
それこそになんでひどいね
とか
いろいろあったらしいんですけど
道元さんがね
南禅の猫と善悪の判断
これはどう評価するかというと
道元がこの話を
知ってるのか
何百年前に同じ話を
はいはいはい
なんでさんの話を聞いて
道元と弟子がまさに
これってどう思うって話をしてるんだよ
うんうんうんうん
はいで
南禅が猫を斬り殺したという行動を
仏のね
御心の大いなる働きである
という風に評価してるんだよね
つまり猫を斬ったという事実はあるんだけど
これは南禅の仏の心の働きであって
それによって弟子を悟らせようとしたんだと
だからこの仏の世界から見たら
猫を殺したというこの事実
この世界っていうのは正しいんだ
いいことなんだっていう風に言うんだよね
ほうほうほうほう
だからその猫が殺されて可哀想とかっていうのは
まさに凡夫の認識だという話なんだけど
それに対して弟子が言うんですよ
でもさお師匠さん道元さんと
でも猫を殺すっていうのは
仏のね厳しい教えである不摂生か
要は殺すなっていう
その教えに背いてませんかと
あー確かに
それに対して道元は
いやそれは背いてるよっていう風に答えるんだよね
うんうんうん
そうえじゃあなんでそれで悟れるんだと
要は殺すなって仏さんお釈迦さん言ってるじゃないかと
でも殺してるじゃないかと猫をね
うんうん
なんでそれで悟りっていうものが
繋がるかが分かりませんって意味なんだよね
末藤もじゃん
末藤もうん分かんない
そうでも道儀は優しいから教えてくれるんですよ
うん
多分これが臨済とか昔のお墓だったら
もうカーってやられておしまいになるんだけど
殴られたりすることになるんだよね
奪われたりして
もうお前らだからダメなんだってなっちゃうんだけど
道元はちゃんと教えてくれますと
要は摂生要は何かを殺すっていう罪を犯すことと
悟るっていうのは別なものなんだと
でこの一つの行為を要は殺すっていう行為は一つなんだけど
そこに悟りと罪っていうのは両方備わってるっていう風に言うのね
わーすげー
はいはいはい
同じことですよ
世界は一つなんだけど
本腐の認識と仏の認識があるんだって話と同じことを言ってるんだよ
わーうんうんうんうん
はい
なのでちょっと取り上げたよって気弁っぽいかもしれないんだけど
実はそうじゃなくて
そう
殺すなって教えも結局はいわゆる悟ってない人とか
本腐に対しての教えなんだよね
うんうんうんうん
うん
これはいわゆる善悪の判断であって
そもそも殺すなって教えも結局は
殺すのはダメだよ殺すのは悪いことだっていうのは二元論的な発想です
うんうんうんうん
一元論的な世界に行くと善悪の判断はないし
このことは全てあるがままというか繋がってるとすると
別に根っこが生きてようが死んでようが
人間が生きてようが死んでようが関係ないんだよね
はいはいはいはい
本来はうん
ただそれはあくまでもその行為が悟りの世界を目指すとか
その世界に生きているという前提があって初めて成り立つ世界ですと
だから
ナンテンが猫は嫌いだから殺したっていうのは
明らかに悪だし罪だし間違いなんだよね
多分そう
そうだよねそこはやっぱりあるって話なんだね
そうそうそうもちろんそれは罪なのよ
うんうん
ただナンテンが悟りの世界において弟子たちを悟らせようとして猫を殺すっていうのは
うん
善も悪も超えた話だから悪くないんだよね
そんな善悪で語るような話ではないよね
そもそもって話ね
善でもあるし悪でもある
って話ってことになっちゃうってことね
そこは東京してるよ
善でもないし悪でもないかな
要はそれを超えている
要は
仏の働きそのままだから
良いとか悪いとかって言葉で
評価できない話なんだよ
へーはいはいはい
だから逆に言うと
そういう風な
なんだろうな
事実を突きつける手間で
悟りの世界に弟子を至らせようとする
その働き自体が
素晴らしいっていうのが
道芸の評価なんだよね
へーはいはい
なるほど
ここは賛否や偽装だけど
話はわかる
そうそう
なので
繰り返すと
悟りの教えと欲の誘惑
何千何秒寝居を殺すというのも
悟りの世界においては
肯定されますと
ただね
やっぱりそれは
難しい教えなんですよ
ほうほうほうほう
難しいっていうのは要は
実際ねこれ
道芸が実際あったことなんですけど
そういう風に言われちゃうと
じゃあ好き勝手やっていいんだとか
自分が悟っているっていう
世界においては
何でも自分の欲しいままにしていいんだ
っていう風にやっぱり
解釈したい人が出てくるんだよね
うんうんうん
実際道芸は晩年に
そういう弟子たちを破門してます
はいはいはい
あのー悟ったって言い張って
好き勝手やっちゃう人たちをね
そういうこと
そうやって主張して
俺は悟ったから何をしてもいいんだとか
それの認識であれば
これはいいんだっていう風に
言っちゃってる人を
実際破門してます
そのぐらいやっぱり
人間っていうのは欲に囚われやすいし
自分の認識で
世界を捉えてる人が
やっぱり悟りがないまま
せっかくするとか
悟りがあればせっかくしていいっていうのは
これただただねやっぱり
自分の狭い認識の中の話で
やっぱり正当化しちゃってるんだよね
そうはね
悟りはそうはね
おかしな話だね
おかしな話じゃない
そんなために悟ることって間違ってる
だから前回も言ったけど
大乗仏教っていうのは
自分が悟るんじゃなくて悟ることで
やっぱり世の中の主張を救う
とか
慈悲の心を
やっぱり周りに分け与える
っていうこともやっぱり分けては考えないんだよね
なので
ちょっとねこう
Aさんの時に農人さんっていう人を
ちょっと触れられたと思うんですけど
すでに悟ってるから
寝てるだけでいいみたいな
それっていうのはやっぱ道元の発想からすると
やっぱりすごく否定すべきというか
やっぱり正しくない
教えなんだよね
その修行をすとばしてるじゃんと
いう話になっちゃうね
そうそうそう
とかもちろん修行をしているとか
悟りを思考しながら
要は寝ているとか
寝ていることも座禅だってこともなくはないんだけど
それも言葉として成り立つんだけど
それが本当に生き方としてとか
道元の厳しい指導
周囲に対して仏の道を示すという生き方として正しいかって言うと
自分よりも劣っているっていう風には捉えたと思うんだよね
これは別に道元がいいってことじゃなくって
もし本当に仏の道を世の中に広めるとしたら
やっぱり自分の道の方が正しかろう
っていうことは思ったんじゃないかと思うんだよね
まあそうだね
今回道元の話聞いてくると
そうだよね
悟った側の話からすれば
寝てる時も修行である
言えるけれども
寝ることが修行なんだって言われると
違うから
そうそうそうそう
っていう話だね
それは教えを正しく
伝えられないかもしれないけど
そういう話だよね
その意味においては
やっぱり教えとしては
質が低いということは
道元だったら言うんじゃなかろうかと思います
うんうんうん
あくまでも道元の観点からですよね
もちろんそれに対して
質とか言ってるからダメなんだっていう
教えも反論も
多分できちゃうっていうのがね
難しいことなんだけど
まあそうだね
でもその方法論
先生としてどうかねっていうね
ロンプがそれで悟る道を
うち本当に先生
それでいけると思ってるんですかと
いう話はありそうだけどね
そこにね
そうだね
うんうんうん
まあ
まあちょっとこの辺はね
解釈というか僕の想像だから
別に能人が悪いとか
道元がいいとかってことではないんですけど
だからただ
やっぱそういう道元だからこそ
やっぱり士官多座とか
首相一等みたいな
やっぱりただひたすら修行
修行としての座禅をして
それによって悟りと等しいっていうことを
座禅の実践と救いの世界
その世界で生きていくんだと
こういうところに
ある種ね真面目な道元だからこそ
まあ自分の自衛の安らぎというか
まあそういう救いを見出すことができたんじゃないか
っていうふうに思うんですよね
確かにここへのロジックがあった上でだよね
あった上で
それが広まってる上で
能人みたいな話があればまた別だけど
あの浄土信州的な話だよね
例えば本当に
何も病気でただ寝てて座禅も組めないんで
寝てるって人に対して
なるほどね
あなたはそれのままでも悟れますよ
寝ててもいいんですよっていう
うんうんうんうん
みたいな背景文脈があればいいかもしれないけど
確かにね
それはなしでさ
全員ラムラムで寝てれば悟れます
あそうなんだって
文字通りただ2回しちゃうと危ないみたいな
はいはいはい
あーそうそうそう
本当にそうだね
うん
やっぱりね
こう一遍みたいにさ
まさにこう
浜阿弥陀仏すれば悟れます
その札を持ってれば悟れますよってね
はいはいはい
みたいな
まぁ救われますか
うん
っていうのもやっぱり
それやって救われる人もいただろうけれども
やっぱり道元にとっては
やっぱりこの自分自身の戻りついた
やっぱり修行をし続ける
座禅をし続ける
やっぱりその世界っていうことが
救いの世界であるっていうことが
すごくしっくりきたんだろうっていうのは
なんかすごく想像ができるんだよね
なるほど
いやーなんか強いね
でもそう考えると
やっぱ1日5分でもその
うん
その悟りの形であるというか
主将一等である座禅を組もう
でそれ以外の時間も
もうちょっと農作業したりとか
いろいろ生きるためのその
仕事
してる中でも
常に信心深刻を忘れないでくださいね
みたいな話が例えば道元からあった時に
それはなんか実行できそうだもんね
こっちは今ね
うん
まぁそう言ってるのか知らんけど
そうだね
まぁあの道元の座禅っていうのは
もっと本気の座禅なので
そんなやわじゃないんですけど
ずーっとやるって話してんだ
ほんとにずーっとやる
なるほどなるほど
ちゃんと時間も決められて
うん
あのなんだろうな
本気でやるって感じ
あーそれそれじゃあちゃんと厳しいんだね
出家しないと厳しいぐらいの話とかあるのかな
そうそうそうそう
はいはい
そう
まぁいわゆるねちょっとなんだろうな
日常に取り入れましょうとか
よう描画的なマインドフルネス的に
ちょこっとやればいいんですよってことではないんだけど
あーそうなの
はいはい
うんやっぱりひたすらいいんだからね
うん
うんうんうんうん
やっぱりそのぐらいのなんだろうな
覚悟というかやっぱり
仏になるっていうのはやっぱり簡単ではない
だからこそこのぐらいのやっぱり
いろんな思想っていうのが
これでも全然
まぁ表面っていう感じなんですけど
でもやっぱりこのぐらいなんだろうな
深みを感じるというか
なんかちゃんとやっぱりこれは知ってて
よかったねって思えるぐらいのなんかね
あの教えになってるんじゃないかなって思うんですよね
うんいやすごいね確かに
そう考えたらやっぱその浄土真宗とか
そっち系とはまたま違うんだなっていうね
何ですよね
そうそうそう
なるほどな
ろうそーがそっちやっぱ絶対たべきみたいなところ
行き着くという話とかそこにいたる
やっぱり学び尽くしたからこそ
自分には無理だっていう
亜流浄天巻っていうのは
そりゃそれでね
あの危機迫るというか
さやっぱり真実があると思うんだけど
ここに対してこの善とか道理について
自分で悟るというところちゃんと
まあ諦めてないというか
そうかそうかそうか
話だもんね自分でやろうって
できるよって話をしてる
みたいな感じで比較とかしながら
っていうのも面白いかなと思うので
今回ね一応今回で
玉倉仏教編
前編後編まで終了で
というか私テーマで
と思ってるんですけど
やっぱりまさに今みたいな
浄土教と禅の比較とかさ
神乱と道芸の100とか
一編との比較とかっていう風に
やっていくとすごくこうね
立体的になってくるというか
そうだね
また全然違う
ブックの捉え方ができたんじゃないかな
自分自身としては
思っちゃったりするんだよね
それぞれの
生まれた背景だったりとか
課題とかもやっぱり違うから
それぞれが見てる世界が
違う中でどう悟るか
っていうところを
突き詰めるとそれぞれ出てきた
っていう話だったりとか
さっきみたいなちょっと一辺
みたいなのとか農民みたいな
草の根的なね
権威からはちょっと
外れてるというか
そういうのも理由があったし
支持されたからこそここまで
残ってるんだな話も
そこの
どれが好きとか
嫌いとかってのは超えてね
それぞれ納得性があるな
っていう話も
それで言うと今回の道芸は
それを全部
飲み込むぐらいのインパクトがあったけどね
そうだよね
やっぱりこうロジックで
やっぱり説明してくれるし
やっぱりちゃんとこの
本筋を通っている
やっぱりあちこちのさ
座禅と悟り
ここには公害者こっちには公害者
これを解釈するとかじゃなくて
本筋のやっぱり一切主導
室部省
っていう言葉からここまで
広がるんだみたいな
そういう凄さが感じるよね
あー確かにそうだね
あれこれに軸回してるっていうよりは
凄い力強いもんね
なんかシンプルだし
そうそうそうそう
だからねやっぱりそこの骨太さというかさ
なんだろうな
やっぱり幹の太さっていうところを感じるのが
やっぱり道芸のこの思想
なんだろうな
っていうのをなんか今ね
声に来て話してても改めて感じたんだけどね
なるほど
確かになここまでの話を
その英才人材集では
してなかったとすると
もう総統宗だ総統宗だってその
自分が言ってなかったかは知らないけども
もちろん人がね
俺たちがこうなっていう気持ちも分かるね
これはね
そうだね
やっぱりこの首相一等とか
なんだろうこの室は仏性であるっていう見解は
あのやっぱり道弁のオリジナリティ
あーはいはい
らしいので
うんうん
じゃあ分けなきゃいけないねそっか
そうだね
まあもちろんねこう
そういうことを言ってた人と言ってた人と言ってた人と言ってた人とは
多分参考にしてきてはいただろうけど
ここまで強く打ち出したのは
オリジナルっていう感じだから
やっぱりそこから
まず新しい宗派とか
そこに共感して
やっぱり自分たちは他と違うぞって言って
ある種組織化していく
そういう流れはやっぱりあっただろうね
そんな感じでですね
鎌倉仏教編お疲れ様でしたという感じで
年末を迎えて
ちょうどね次で2023年が最後なのかな
なるかな
うんうんうんうん
別段階で最後
まあちょっとキリもいいので
あの本当はさっき言ったような
時間論道芸の時間論とか面白そうと思ってやろうと思ったんですけど
まあ結構ねキリがいいので今回
まあ年末だし
まあちょっとね神社仏閣
こういう雰囲気とかも残しながら
あの雑談をして
まあ年末を迎えて
和の感じね
和の感じでそうそう
新年からはまたちょっとね
あの新年雑談みたいな感じで
まあちょっと今年の
今年が2024年か
豊富とかはまたね
やっぱ兄貴とも話しつつ
2023年も振り返りるという
ちょっとお話をしたうえで
新しい試みを2024年に
今度はあのまた西洋というか
そっちの方に戻っていくんだけど
新しい試みを2024年にしていきたいな
っていう思いもあるので
なんかそのあたりもですけども
お話をするのを
ちょっと2024年第一回持って行きたいな
っていうふうに思った感じでございます
年末年始挟みつつまた次回引き続き楽しんでいきたいと思いますので
今年もありがとうございましたということで来年も引き続きよろしくお願いします
お願いします今回もありがとうございました
44:02

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