1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #173 栄西の禅と出会った道元..
2023-12-24 43:33

#173 栄西の禅と出会った道元がたどり着いた悟りの本質

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

道元は禅の世界を深めていく過程で、栄西と出会い、禅とは固定化されたものではなく、常に変化していく存在であるという結論にたどり着きました。また、道元は仏になることはスタートではなく、常に位置や在り方を変え続ける存在であるとして、仏も永遠不変の存在ではないと述べました。道元は道芸に対して独自の解釈を示し、仏性は存在全体を指し示すと考え、世界そのものが仏であると理解しました。しかし、この解釈には一元論的な考え方との違和感があり、道元は仏になるための修行や学習の必要性を明確に否定しました。このように、道元は禅の修行と悟りの関係や人間と仏の分け方について語っています。

道元の生い立ちと思想の難解さ
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回まで、栄西見てきたんですけれども、禅がどう日本に根付いたかというような話になっていました。
ですね、はい。今回は道元ということで、逆に生い立ちとかをちょっとさらっとお伝えして、
久々に思想とか哲学的な部分にフォーカスしてお伝えしていきたいなというふうに思っています。
はいはい。
もちろん、前回取り上げた栄西とかさ、あと一遍、浄土教、浄土師の時にお伝えした一遍とかも、
ちょっとあっさりに伝えてしまったんだけど、やっぱりすごい人ではあるんだよね。
うんうんうん。
で、道元は結構ね、なんだろう、ちょっとレベル違いというか、
なんかあんまり僕も鎌倉仏教ってこれまで勉強しなかったんですけど、
それでもやっぱ道元の思想はすごいぞとか、なんかめちゃめちゃ難解だけど深いみたいな話を聞くぐらい、
結構、なんだろうな、道元はすごいみたいな感じなんですよ。
あー、元々そういう評価は高いんだ、道元の。
まあ、おそらく評価というか、なんかそういう話を僕が見聞きしたっていうぐらいなんだけど、
本とか読んでる時に、この思想は道元に通じるものがあるとか、
だから道元もこういうことを言っていたみたいな話で、
あー、なるほど。
なんか名前がちょこちょこ出てくるんだよ、全然その仏教と関係ないところとかでも。
なるほど、うんうん。
うん。なのでやっぱりその、なんだ思想の、なんだろうな、独特さとか、
なのでやっぱりこう、他とはちょっと違う感じっていうのはあるなーなんて思ってたんですよ。
なので、まあもちろんね、こういつも通りさ、あのね、全部理解してますなんてはもちろん言えないんですけど、
まあなんか少しでもね、この道元の世界とか、まあそれに通じたその禅の世界、日本のその道元っていう人が考えた、
まあ禅、考えたというか、あのー、ある種深めていった禅の世界っていうのをね、今回お伝えしていきたいなーなんていう風に思ってます。
という感じですね。
はいはいはい。いやー楽しみだね。その禅っていう意味では、その、ね、前回の映冊はすごかったけれども、
うん。
その日本の禅そのものっていうね、中身は見てこなかったからね。
はい。っていう感じなんですけど、まあちょっとね、さらっとまあ例え生涯はお伝えしていこうと思うんですけど、
えっとね、道元さん生まれたのが、えっと、1200年。
うん。
まあぴったり200、1200年で、えっと今から、今2000、もうなんかわかんない、2023ですか。
うんうんうん。
から、700何十年、70何年前ですと。
うんうん。いつもそこ、そうこう、あれだが苦手だよね。
苦手。
先に書いといたら台本に書こう。
そうだね。
何百年前。
今の、あれだったらカットします。いいですけど。
いいですよ。
あのー、はい。でですね、えっと、実は生まれが、あのー、公家?だからその貴族というか、
うんうん。
その貴族、29年、しかもその中でもかなり、その位が高い官僚の、家の出身なんですよね。
んー、あー、じゃあかなりもうど真ん中の生まれなんだ。
あ、そうそうそう。
えっとね、英才とかも地方の、みたいな感じだったもんね。
うんうん。
豪族の。
道元の禅への鑑賞と比叡山での学び
地方の、とかあったんだけども、ほんとにど真ん中。京都の偉い人と真ん中みたいな家系ですと。
んで、まあその両親が誰かみたいなちょっと諸説あるらしいんですけど、まあいずれにしても、その国のめっちゃ偉い人のもとに生まれたんだけれども、
8歳までで
両親お父さんもお母さんも
亡くしちゃったみたいなことを言われていて
やっぱりその時は
葬式のお香というか
そういう煙を見て
このような儚さというのを知って
出家を決意したのだ
みたいな言い伝えが残っています
当然家柄もいいので
12歳の頃には
比叡山に行ってるんですよね
早いね
多分そういう
もちろん古典とかいろいろあったとするんですけど
ただこれも逸話なんだけど
結構もう
1歳とかそろそろ9歳くらいで
仏教の経典とかも
読み通して
理解できるくらいの
そういう
なしこさというか聡明さがあったよ
みたいな話もあります
当然
桃源はやっぱり
お母さんというかそういった両親が亡くなったことの
儚さというところで出家をしているから
どうしたら仏になれるのか
とか
そういうご両親をどうやったら供養できるのか
みたいな
結構純粋な気持ちで学びたいという風に
行くんだけれども
そこで桃源が見た
比叡山で見たものは
悟りじゃなくて
高い地位とかさ
名誉とか
そういうのを目指して修行している
先輩たちだったらしいんだよね
わーそっか意外なギャップがあったんだね
そうそう
純粋に仏教深めようと思うときに
やっぱり立心
この世の政治はどうだとか
多分そういう話がいろいろあったんだろうね
前回の英才はそういう
むしろ権威と通じることで
全員を広めたんだけど
同源は英才が活躍したから
数十年後にもちろん生まれているから
やっぱりまた違う環境があったんだろうね
当然生まれが良い同源に対しても
やっぱり有名で立派なお坊さんになれよ
みたいな
ほとんど偉くなったら
それこそいろんなことできるようになるぞ
みたいな
多分漢字の声がかかったらしいんだよね
なるほど
悟れっていうよりは
それこそ有名で立派なお坊さん
そう立派なお坊さんになれよと
そういったときに
まさに兄貴が言ってくれた通り
あれなんか違うぞと
なんか自分がやりたい悟りに対して
純粋な仏教を学べる環境だっていうふうには
やっぱり到底思えなかったみたいなんだよね
なのでやっぱりこの名誉とか利益ですね
道元の悟りの追求と総統宗の創設
そういうのを求めずに
ちゃんと悟りを求められる生き方ってないのか
みたいなことを思っているときに
いわゆるこの中国の禅僧
座禅というかその禅の教えを
実践している人のお話を読んで
この禅っていうのが
自分の目指すものに近そうだぞみたいな
そんなふうに思って
比叡山を降りちゃうんだよね
わー大きいんだそこで
降りちゃう
そこから英才が開いた賢人寺に行きます
なるほど
この時が17歳ぐらいらしいので
それでも5、6年くらいは比叡山で
やっぱ修行はしてたらしいんだけど
そこである種見限って
禅の世界に入るっていうのが
この10代の話になっている
にしても若いね
まだ10代だからね
そこから賢人寺で禅の修行をして
そこから23歳の時に
その英才の弟子の妙禅
ちょっと英才の時に言ったかもなんだけど
道元は一応英才の孫弟子にあたるので
その英才の弟子の妙禅という人と一緒に
中国に渡ります
そこで4年間かけて
禅の教えを中国で学んで
その時に如生さんっていう
中国のお坊さん
偉いお坊さんがいて
その人を本堂の師匠として
その人について禅を治めて
日本に帰ってくるんだよね
あとは日本に戻ってきて
お寺を開くとか
本を書くとかね
いろいろなことをやっているんですけど
だいぶ飛んだね
だいぶ飛んだ
そこはいろいろあるんだけど
一旦今日は思想とかにフォーカスしたいんで
日本に帰ってきたあたりは割愛して
それが今
世の中的には
総統宗として広まっているものですよと
なんかねちょっと調べたら
今の日本には
日本の日本の日本の日本の日本の
1万4000ぐらい
この総統宗の道場というか
起業できる場所があるんですって
下手したらコンビニぐらいみたいな話だね
そうそうそう
っていうことなので
やっぱりすごい
もっと広まっているというかね
まさに民衆を含めて根付いたものだ
みたいな話なんですけど
そういうふうに
どうやって広めていくかとかも
面白いんだけれども
ちょっと英才と似たような流れになっちゃうので
早速ね
道芸の
思想
何が善っていうのを備えに
なんだろうな
ぴったりきて
どんなふうに深めていったのか
ということをね
見ていきたいなというふうに思っております
今の調べたらコンビニはね
5、6万っぽいね
5、6万
さすがにコンビニはなかったね
1つ上げるとみたいな
ぐらいの感じかな
でもそのぐらいね
やっぱり広まってる
そんな感覚はないけどね
実はあるんだろうね
そうそう確かにね
あまり別に街歩いてて見つかるとかではないだろうけど
まあそんぐらいありますと
はいじゃあね
ここから実際道芸の善みたいな話を
仏教とか大乗仏教と絡めて
お伝えしていくんですけれども
ちょっと本題行く前に
一個気になったのが
今回エピソードは
ある程度割愛するっていうことだったんだけれども
この英才の臨済宗の兼任寺で
学んだっていう話があったんだけれども
結局その後自分の総統宗を開いて
そこからは出てるような形になってると思うんだけど
そのたちってなんかあったのかな
見解しちゃったとか
そうね実はなんかそこはね
あのちゃんと分かってないんだけど
なんか道芸は別に自分で宗派を開きたいとは
思ってなかったらしいんだよね
ああそうなの
そうらしい別に総統宗をここに開きますとかって
言ってるわけでもなかったらしく
ただただ自分の教えを
極めて広めてたら
これは臨済宗とまた違う総統宗だ
みたいな風に
弟子というか
多分そういう人たちが作っていった
みたいな流れらしいんだよね
うわああそうなの
面白いね
じゃあ自分としてはその
兼任寺で学んで
その中の
一人としてというか
独立したのかもしれないけど
その流れの中で
自分なりの悟りを
見てたら
周りの人達が勝手に
道芸さんすごいすごすぎる
と言って
増統宗みたいものできちゃった
そうね
まあ多分なんかのもうちょっと段階はあるだろうけど
大まかにはそんな感じらしくって
だとするとそれはすごいね
そうそうだから
今度出てくるんだけど
真願もさ
法念に学んで
でも浄土真宗は伝ってるじゃない
うんうんうんうんうんうんうんうんうんうんうんうんうん
でも信楽もさあ青年に学んででも上度信宗って伝ってるじゃない
うんうんうんうんうんうんでも上度真宗って伝ってるじゃない
親鸞も別に自分で宗派を広こうと思ってなかったらしいんだよね
あーそっかそっかそういう話もしたっていうか
ちょっとしたかな軽くしたかもなんだけど
そういう意味ではちょっと近いところが
これまでどこまで行きっていうのかわからないけどあるみたいで
要は自分の推しを追求して
要はオリジナル師匠を超えて
多分自分なりの考えを広めていったら
それが新しい宗派になっちゃったみたいな
自分がもしかすると超えたとも思ってないし
師匠とか自分が組んでくれたそこの
例えば神壇だと浄土宗
道元だと銀材宗にリスペクトは持ってたかもしれないけれども
周りが放っておかなかったレベルの話なのに
そうそんな感じみたいだね
それが本当かどうかは別としても
なんかやっぱりすごいね
そうだね
あんまりこう
道元が浄土宗を開けましたっていう感じよりは
あくまでもそのなんだろうな
廃祖としてなんか後からある種眺められましたみたいな方が
なんか近いみたいだね
そっかそっか
じゃあ銀材宗の限界を道元が乗り越えたとかじゃなくて
自然となんか違う感じになってたみたいな
そうそうそう
話だなね
そうなんです
やっぱりこれからちょっと伝えてくるんだけど
そのくらいやっぱりこう道元が開けたりとか
道元らしさというか
道元のオリジナリティっていうのがやっぱあるんだよね
なるほど
うん
うん
でもありがとう
やっぱりそのあたりがね
確かになんでとかね
全然違う教えなのとかっていう話
確かにあるかなと思うときに
仏教の悟りの本質
別になんか全然違うことをやろうとか
喧嘩したとかではないっていう感じですね
そうかそうか
じゃあそこを踏まえておいてね
うん
いやーなんかこんだけそうな人だとね
なんか絶対エピソードも知りたいわってなりそうだけど
まあとりあえずそこは我慢して
今回は一旦そうあの
はい
何に話したかってとこちょっとここから見ていくと
そうですね
なのでちょっとね
ここからは少しそのなんだろうな
理想スイッチを入れて
皆さんもぜひ聞いていただきたいと思うんですけれども
はい
えっと
まずねこう仏教でいくと
まあとにかくやっぱりこう悟りっていうのが大事になるんですよ
で当然ねあの仏陀あのお釈迦様も
ある種自分がいろいろな修行とかを経て
まあ悟ったっていうことから
まあその内容をみんなに伝えたっていう
ことが始まりなんだけど
特に大乗仏教においてはやっぱりこのいわゆるこう一般人
まあ凡夫としてのこの和刺しっていうものが
どうやってこの自分自身のままで悟りを開けるのか
まあ仏になって
まあ他者にね
許しとか施しとか
あるいは救いを広めていけるんだみたいな
そういうことをね
根本的に向き合わなきゃいけないんですよね
これはなお大乗仏教の根本にあるんですよ
からこの前回の浄土教のことを伝えたと思うんですけど
これはやっぱ自分自身の力じゃなくって
阿弥陀仏のね
まあ利器とか本願っていうものによって
まずはその足利で仏様にならせていただくのだと
うんうんうん
だからその阿弥陀仏っていうその札きはあるんだけど
自分が仏になるとかならせいただくっていう
その悟るっていうことは
まあ根っこにはもちろんあるんだよね
なるほどあそこそこはちょっと誤解してた
かもね
大乗仏教を
誤解というか
大乗仏教を
多分
お坊さんたちだよね
ガチで出家というか
やってるような人たちは
こういう感覚を持ってるって話なんだ
好みこのままで
その上で
周りを救うという順番が
あるわけじゃない
例えば
一般大衆というか
素人エベの人たちは
南無阿弥陀仏といえば
悟れるでしょう
というところである程度満足感を得ると思うんだけど
そうすると
それで許されるのであれば
なんでお坊さんの存在が
必要なのかという疑問が
ちょっとあったんだけど
そこをもう
ハードル低すぎてみんな一緒じゃん
お坊さんの価値も下がるんじゃないか
と思ってたんだけど
そこはやっぱり
ある程度一定程度の
違い
ただ信じてる人と
それを信じさせるというか
方の違いというのがあるんだね
こういうスタンスとして
今の現在の
お坊さんがどこまで
もちろんあると思うんだけど
もともとは
象徴仏教に対して
お前らは自分のことしか考えてないと
自分たちというのは
大きな悪者で
あらゆる一切主情を救うんだ
ということが
発想点にあるから
やっぱり
自分が悟ることと
悟った者を救うってことは
イコールで結構繋がるんだよね
その順番とか
悟った後に救うのか
救うから悟れるのかとかっていうのは
多分いろいろバリエーションもあるんだけど
なるほどなるほど
うん
そこは常につきまとってるわけだね
そうそうそうそう
そこに
なんだろうな
うーんと
なんていうの
その大象仏教の
うん
お坊さんたちはと
そうですね
そうです
そうですはい
例えば象徴教はそういう形になるし
さらにその前にやった空界も
密教も一応大象仏教の中といえば中なので
あらゆる存在は
すでに仏であるっていう考え方から
やっぱりこの自分
この人間として
その江戸では穢れた世界でいる人間っていうものにも
仏の性質っていうのはあるんだと
うんうんうん
そういうところからね
修行を
まあ通じてそれを自覚することによって
仏になれる
つまり悟れるんだよみたいな
そういう風に言ってたかなと思うんですよね
はいはいはい
うん
まあさあね実はここに
この大きな問題があるよねっていうことから
道元の話に入ってくるんですけど
うんうんうん
まあそれが何かっていうとね
仏にまあ要はなりましょうとか
リンゴのイディアと空の考え方
悟りましょうっていうことを目的に追うちゃうと
うん
仏とか悟りっていうものが
ある種こう理想化というか
なんかこう目的化されちゃうじゃないですか
うんうんうんうん
そうなっちゃうとその
で悟りとか仏っていうのが
やっぱり何か到達する
そういうゴールだったりとか
なんか明確な教えみたいに固定化されちゃって
はいはいはい
そう
っていうとその
凡夫であるね
僕ら人間っていうのは変化するんだけど
仏っていうのは要は普遍なものだからね
仏っていうのは要は普遍な存在
うんうんうん
になっちゃって
要は悟ると自分たちも永遠不変の存在になるんだ
みたいな
まあそういう認識になっちゃいますよねと
うんうんうんうん
うん
なんかこれはわかるよね
要は悟りっていうとなんかこう
極楽浄土に行って永遠に生きていくみたいな
そういう感覚ってなんか
うんうん
まあ別に思想的にっていうよりは感覚的にあると思うんですよ
そうねなんかまあゴールあのなんだろうな
人生ゲームのゴールみたいな
あそうねそうそう上がりみたいな
上がった後はもうあの
うん
こう回せばお金が入ってくる状態みたいな話で
悪いことも特に起こらずにね
そうそうそうそうそう
そうねそうなの
でもね前のあの何回か言ってた
うん
あの仏教だったり禅のどこかは忘れたけれども
うん
その悟りって実はスタートだよねみたいな話はね
してたから
そうねそうね
やっぱりその目的にしちゃうことの危うさみたいなものは
やっぱあったからね
うん
そうそうそう
やっぱりそこはまさに言ってくれた通り
スタートだし
うん
まあもっと言うとそんなにこうなんだろうな
そもそもサソルとか仏っていうものを
なんかそれが具体的なものとして考えること自体が間違いだっていうのが
実は道元の発想なんだよね
はいはいはい
うん
つまりその全っていうかそのこれもまあ大乗仏教の根底にあるんだけど
うん
あの一回さナーガールジュのリュウジュっていう人やったと思うんですよ
うんうんうん
あのスーパーラジオでも
うんうんうん
覚えてるかな
なんかその時空の思想とかをね
そうね
なんかお伝えしたんですけど
うん
うん
でまあだいぶ前なのでもしあの忘れてるとかまだ聞いてないってことはよかったらねまたこれも聞いていただければと思うんですけど
うん
まあすごいざっくりあの空あの色即是空とかの空ね
うんうんうん
っていうものをまあすごいざっくり話すと
うん
あのあらゆるものっていうのはあの自らこういうものを
うんうんうんうん
自らこれこれであるみたいな性質これを自称って言うんだけど
ん?
自称
自称
あの自おのず
うん
自分の自に性質の性とか性格の性で
ほほほほ
理性じゃなくて自称って読むんだけど
うんうんうんうんうん
うん
これをえーとあらゆるものを持たないんだっていうことが空であるってことですって言います
ちょっとこの辺難しいと思うんだけど
うんそうですでになんかよくわかんない話を
そうだよね
し始めてるねはいはいはい
あのわかりやすく言うと今さまたリンゴを出すんだけど
うん
僕らがリンゴっていうのはある種リンゴらしさとかリンゴとしての性質まあプラトン的に言ったらイディアだよね
うんうんうん
このリンゴのイディアを持っているからリンゴはリンゴであるみたいな風にまあ結構自然に考えちゃうと思うんですよ
でもこの
ブックのナーガール・ジュナの空の考えからすると
リンゴらしさとかリンゴそのものの性質っていうのはないんだって話をするんだよね
じゃあ何があるのみたいな話でいくと
全てはやっぱり無常であって変化するなと
いわゆる諸行無常みたいな話なんだけど
リンゴらしさとかっていうものもそれが固まった瞬間に
それは変化しなくなってるじゃないですか
だから常にリンゴらしさって固定のものがあるんじゃなくて
リンゴリンゴリンゴリンゴみたいな
それをリンゴとして認識し続ける瞬間があるみたいな
これは空の考え方は違うんだけど
イメージしやすい感覚でいうとそんな感じなんだよね
なるほど
まあ
よくあの禅の例えとかで出てきたけど
水の流れのようなみたいな
その瞬間瞬間で形を変えるみたいな
リンゴもその瞬間瞬間で形を変えるのだみたいなね
そうそうそう
人間が認識できる形でさっきの表現をするとみたいな話だよね
そうね
悟りと仏の存在の変化
話を言葉で無理やり伝えようとすると
無理やり
そうです
そうです
やっぱり空っていうものはちょっと言語化できるとか
そもそも言葉として
あの
捉えられないみたいな話もあるので
まあすごく無理やりなんだけど
あの話をするとまあそんな違いがありますよと
まあそれぐらいリンゴって何物でもないよって言うんですね
リンゴっていうのは実は
そうだね
シーン
あの
空とかその
雷女ブックの感覚でいうと
そういう風に固定化されたものはありませんと
はいはい
そっか
何物でもありませんじゃなくて
何物でもあり
何物でもありませんと
はいはい
はいはい
ありませんなんだね
リンゴを走る
そうだね
そうそうそうそう
何物かではあるんだけど
そう
何物であり続けることはできないっていう感じかな
はい
まあ
そういうようなちょっとね前提から
あの話をしていくんですけど
えっとね
まあ
さっき言った
諸行無常っていうのは
お釈迦様がこれ言ってるんですよね
なので
どう言うかすると
まさにこうお釈迦様が
諸行無常って言っている以上
悟りっていうものも
いわゆるそれ自体固定化されたものじゃ
要は変化していくもの
なので
仏も永遠不変じゃないよね
っていう風に言うんだよね
はいはい
なるほど
それにも適応しようと
なるほどね
そうそうそうそう
それは例外じゃないよねと
うんうんうん
だから
その悟って仏になったらゴール
ではもちろんないし
仏がスタートだみたいに
いわゆるそんなスタートラインが
控えてるっていうことでもない
要は仏っていうものを
常にその在り方とか位置を変えていくから
そもそもスタートとかゴールってものは
成り立たない世界観になっちゃうんだよね
なるほどね
確かにさっきのリンゴので言うと
ここまでこういう認識をしたら
リンゴになった
リンゴになったらやばいみたいな話だね
それまでリンゴじゃなかったものが
やっとリンゴになれたわいって言って
うん
それがゴールでも
ダメだし
そうリンゴになったことを
スタートだと捉えて
リンゴとしての人生を歩んでくってのも
ちょっと違うよねっていう話ね
その瞬間にリンゴが固定化されちゃうからね
はいはい
それを悟に置き換えると
わかりやすいよねと
そうそうそうそう
そんな単純な話じゃないよね悟にもっていうね
そうなんです
はいだからスタートもなければ
道元の独特な解釈
ゴールもないみたいな
難しいけど
さっきの準備運動で
なんかイメージはできてきてる
気がする
はいそうなんです
なのでそもそもやっぱり
この世の中の捉え方が
人間のやっぱり自然な考え方
ちょっと違うとこから発想してるから
やっぱ難しいんだよね
なのでさっき言った通り
悟りっていうのは何かこう
人間が変化して永遠不変の悟りになる
っていう風に
ある程度捉えやすいんだけれども
そうじゃないんだと
じゃあ道芸にとって悟りとは何か
仏とは何かみたいな話なんだけど
これがねかなり独特な解釈をしてるらしいんだよね
らしいっていうのは
僕もなんだろうな
一般的な解釈はこうで
このぐらい道芸が独特だっていう風に
言えるわけじゃないから
ある程度
修行とか読んだ上の話ってことはね
本を読んだ時に書いてますっていう
独特だって書いてるから
言ってくれてるだけなんだけど
はいはいはい
このそよてつラジオでも
時々さ
仏教の言葉として
一切衆生を失う仏性みたいな
そういう言葉を言うことあるじゃないですか
言葉としては
なんかヘイトが言ってるのを聞いたことがある
はいはい
なんかいろんなとこで
それをやられたりもするので
なんか聞いたことあるよって方もいるかもなんですけど
これ自体は
涅槃経っていう経典に抱えてるらしくって
これは日本語にある種読み下す
訳すと
あの
一切の衆生
まさにあらゆる衆生とか存在ではね
っていうのは
室っていうのはことごとくっていう風に読むらしくって
ことごとく仏性
仏の性質っていうのがある
これは宇だよね
室のあり
っていう風に読まれていて
なので
一切衆生を失う仏性は
一切の衆生はことごとく仏性がある
という風に読まれてます
うん
そうすると意味としては
あらゆる存在っていうのは
みんな仏性
仏の性質を持ってるよねっていう
さっきまさに空海の
ちょっと話に触れたときに
言ったようなことになります
もう悟っているのはお前らは
っていうね
そうそうそうそう
っていう風にも言えます
とか
悟ったはいないかもしれないけど
仏の性質を持ってるから
修行でそれにちゃんと気づけば
悟れますよ
みたいな感じになるんだよね
うんうんうん
うん
まあそれを言うと
それでも全然いいんだけど
道元からするとちょっと引っかかるのが
要は
こういう風に読んじゃうと
要は
存在を
あらゆる存在と
仏性
仏の性質っていうのは別のもので
で仏性って何か固定的なものが
個々の存在にちょっとずつ
分け与えられてるみたいな
だから
存在っていう器に
ちょっとずつ仏性っていうのは
なんか注がれてるみたいな感じになっちゃうよね
うわぁ
二言論的に考えてますねと
そうそう
まさに
兄貴も
すごい
なんかその二言論一言論が
ちょっと定着してきましたね
兄貴にも
これだけやってくると
そうだね
道元は
そこに自己矛盾というか
解釈の矛盾か
そういう風にその
経典に書いてる限りは
そんな二言論的な感じで
書いてるわけないよねっていう違和感を感じちゃったのに
そんな二言論的な感じで書いてるわけないよねっていう違和感を感じちゃったのに
世界は仏である
そうだねとか
マルシュ一切が空であるとすると
そんな風に化けて考えるっていうのは間違いだよねと
だって仏も空なんだからってさっきの話ね
さらにそういう風に分かれちゃうと結局
さっきさ修行を通じてそういう仏性に気づくとかさ
仏性を高めるみたいなちょっとこと言ったと思うんですけど
そうなると結局その多い少ないとかが問題になっちゃって
なんかそうやって仏性を高めるとか増やすみたいな
それこそもっともっと物とか物体化しちゃう感じになっちゃうじゃないですか
なるほど
なのでそれが本当にさっきも繰り返しになっちゃうんだけど
やっぱりあらゆるものは空であるみたいな考え方にも違うし
兄貴がまず言ってくれた一元論的な
あらゆるものを2元論だとあらゆるものを分けて考えちゃうとか
独立したそれぞれの古物
古のものとして考えちゃうようなやっぱり発想に
すぐ囚われちゃうよねという風に言うんだよね
なるほど
でもさこの一切しろしつ物性という言葉自体は
涅槃経に書いてるわけよ
だからこれを否定するってことは前回かな
Aさんの時にも言ったようにその経典そのものを否定することになっちゃうよねと
そうだねそれはさすがにちょっとダメというか
オリジナルすぎるよね
やりすぎるんだよね
なんでどうするかっていうと
これはまさに神羅の時と同じなんだけど
この必有仏性というのは
この必有仏性という漢字が4文字並んでるわけよ
この言葉の読み方自体を変えちゃいましょうって話なんだよね
そうなってくるよね
そうそう
彼道元はこの言葉をどう読むかっていうと
必有は仏性なり
っていう風に読みますと
要はことごとくあるっていう風に
ちょっと副詞とか動詞的に捉えてた
この必有っていう言葉を
もう名詞
必有っていうあらゆる存在っていう風に
名詞で捉えちゃうんだよね
それが仏性であるっていう
要は必有イコール仏性っていう風に
読み換えちゃうんだよね
そうなるとさっきはさ
一切主情が仏性
を持っているっていう風に分けた読み方になっちゃうんだけど
要は一切主情
それすなわち必有であり仏性であるっていう
全部が繋がる解釈ができるんだよね
一元論っぽくなるね
そう一気に繋がっちゃうでしょ
もっと言うとこの必有っていうのは
要はあらゆる存在ではあるんだけど
要はその存在の集合体って考えると
まさにこの世界
要は人間世界だけじゃなくって
仏の世界とか地獄とかね
そういう世界も含む
この世界全体っていうのを指すんだと
そうなると要は必有っていうのは
個々一個一個の存在なんじゃなくて
その存在に分かれる前の世界そのものなんだ
それが全体としてあるのが
必有っていう言葉であって
その世界全体っていうのが
まさに仏性そのものであるっていう風な
理解になるんだよね
だからもう世界は仏である
っていう風に言っちゃうと
さっき言ったような
その存在と仏が分かれるとか
じゃあなぜ仏っていうものがあるのに
この世界には仏っていうのがいないのかとか
っていうことは問題なくなっちゃうんだよね
なるほど
うんうんうん
なんなら世界が仏だからみたいな感じで
もう言い切れちゃいますと
なんかそうだね
その全ては一つなのだみたいな
ちょっとその仏教の感覚と
すごいバッチリはまる感じもするね
そうそうそう
この読み替えはすごいなって思ったんだけど
つまり道元からすると
やっぱりこの仏性仏の性質というか
仏のなんだろうな
仏要素みたいなものが仮にあったとして
それっていうのはその個々の存在内側にあるものとか
あるいはどっか遠いところに隠されていて
修行を通じてそれを暴き出すとか
見つけ出すみたいなものなんじゃなくて
そもそもこの世界にすでに現れてるんです
世界そのものが仏性仏性だから仏性だから
我々の目の前にもありありと現れてるんですと
ただ僕らの凡夫っていうのは
それを見ることができない
要はそれを分節化して固定化して
っていう風なフィルターを通して見ちゃうから
世界っていうそのものじゃなくて
個々のもの
要はリンゴとか木とか土とか空とか
そういうものを積み上げていった結果できるのが
世界だっていう風に捉われちゃってるねと
だからこの世界そのものとして現れてる仏性仏性っていうものを
捉えられないんだけど
そこを悟るっていうことをすると
ちゃんと全から一を捉える
修行や学習の必要性の否定
要は全体から世界っていうものを捉えて
その中にあるリンゴとか木っていうのも
世界と繋がっているとか
世界と別れてないっていう風に捉えられるんだと
そういう風なことを言い出すんだよね
ほほー
どうですか
これがその当時
いってる人いなかったんだねこれ
そう
イなかった
わぁー
すごいね
すごいすごいと思う?
凄いと思う
嬉しい嬉しい
思うてる
あのー
違和感を持って
それに対してきちんと
無理のない解釈を
きちんと
示している
無理がないというよりは
きちんと自分が悟る
人生を見つけたときの違和感を感じて
そっちに悟るという方面に
きちんと整合性が
これも一つの解釈ではあるけれども
整合性をより持った解釈として
説得力を
持ってきちんと説明しているな
という意味で
世界はやっぱり
一つだったんだという話ではない
そっちでは分かった
という話ではない
俺も世界と
一つだったんだという気づきが
あったし
道元さんすげえの方ね
すげえの方
俺も悟ったという話ではない
でもね
数十分話したけれども
ちょっと伝わるぐらい
すごいというか
ちゃんとしているという感じは
あるんじゃないかと思うんですよ
無理言ってないよねみたいな
そうだね
だからこれで悟れる
という話ではないし
もしかすると
これを聞いていただいて悟れる人が
かなり修行を積んでいる人だと
いたのかもしれないけど
なるほどそこかみたいな
そういうレベルの
転換点というか
そうそうそう
タイムシフト的な感じなのかなとは思った
やっぱり西洋というか
ロジックとか論理で
見る目からすると
やっぱり子というか
自分があって世界が
他の存在があって
自分がどう他の存在を捉えるか
とか
他の存在からどうやって
自分というものを定義するかみたいな
やっぱりそういう二元論的な
考え方というのが基本にあるんだけど
それは道元というか
陸鏡の発想からすると
やっぱり1から前を捉える
ちょっとボトムアップ的な捉え方なんだよね
やっぱり繰り返してこれもなっちゃうんだけど
やっぱりこの道元は
全体からやっぱり
1というそれぞれの存在を捉える
しかしそれは別に分かれてない
前側一位一側前とか
まさに空側絶式
色側絶空ということを
ちゃんと
教えとして整えてるんだよね
要はそうなると結局
まさに自分勝手な解釈とか
やっぱりそういう極端な解釈が出てくるんだよね
例えば道元に関しても
さっきの話を踏まえてこんな疑問が言えますよねと
例えばこの世界が仏性の表れとか
仏性とイコールだとした時に
僕ら人間はその一つなわけじゃない
分かれてないからね
結局はでも僕らもすでに仏であるとか
救われているから
わざわざやっぱりそれを得るために
学んだり修行したりする人って
なんかあるの?ってことなんだよね
確かに一つって言われちゃうと
だって仏が世界に現れてて
自分も世界の一つなわけだから
だって仏イコール自分
っていうとこまでも言えちゃうじゃない
すべてが一つならね
ことはじゃあわざわざ仏になるための修行とか
学習とか努力って必要なの?みたいになっちゃいます
実はこの道元っていうのは明確にね
これもロジカルに否定するんですよ
へーできるんだ
面白いんだけど
あのもともと道元っていうのは
修行と悟りの関係
士官多座っていう言葉があるんですけど
ひたすらねやっぱ座禅に打ち込みなさいっていうぐらい
修行っていうのはめちゃめちゃ面白いんだけど
めちゃめちゃ重視してるのね
ほうほうほうほう
うんでさっきさそのなんだ
あーそうスタートとゴールがないみたいな話をしたと思うんですけど
うんうんうん
まさにそんな感じのことを表す言葉があって
それが
えっと修正一等ってことがありますと
これ修は修行の修ね
に正はあの悟り
あの神羅のさあの経行心証っていう本を読んだと思うんですけど
一見
正って証っていう言葉でこれは悟りっていうような意味なんだけど
はいはいはいはい
だからこれは修修行と正悟りっていうのは
あの一つと等しいなので
要は同じであるって話なんですよね
はいはいはい
なのでこれも実はさっきまさに同じ話で
要は本来的にはさ仏教って修行教えを聞いて
例えば修行を教えとかそれを信じてで
意見とか研鑽を積んで積んで積んで積んでやっと悟れますっていう
そういうやっぱ段階とかステップを徹底するんだよね
うんうんうん
でも道元はこの修正一等って言葉で
修行と悟りは一つだっていう風に言ってるんですよ
なので道元は修行を通じて悟るんだじゃなくって
修行こそがそのまま悟りの一つの在り方なんだっていう風に捉えてるんだよね
へーはいはいはい
これがさっき言った人間っていうのは
そもそも仏とイコールであるからね
仏なんだから修行しなくていいんじゃないかっていうのに対して
いやいや修行っていうのがそもそも悟りなんだから
人間が悟りと同じなんじゃなくって
修行をしていることが悟りと同じなんだっていう風に言うんだよね
はいはいなるほど面白いね
人間そのものをすごいちゃんと分けてるねすごいね
そう分けてる
人間存在そのものがというわけじゃないのか
そうそうそうそう
ただただ生きている凡夫である人間が
同じなんじゃなくって
うんうんうんうんうん
修行をして正しく悟りに向かっている人間が
仏であるってことは言えるよねっていう風に分けたんだよね
はいはいはい
まあそこは確かに否定
それ言われちゃうとムググってなるね
なるほど
人間と仏の分け方
確かに俺ただの人間だってやっぱり無理じゃない
うんうんうん
だから修行しましょうねって話なんだけど
ちょっとね今回も結構40分くらい話してきたので
うんうん
どうしてねそんな人間が悟りと同じなんで
どういう風に言えるのかとか
そういうね
師匠を一刀みたいな言葉を通じて
道元が言おうとしたかった
言いたかったことは何なのかっていうのを
また次回ちょっとお伝えしていきたいという風に思っています
おーなるほど
ここをさらに深くみたいな話なんだね
そうなんですはい
はいはい
これだけでねまたちょっと1回分話せちゃったんで
台本を開けました
えーそうなの
はい
いやーそのぐらいやっぱ面白いんですよ
うん
なるほど
まあそうはね
確かに
あのー
おいたちエピソードみたいなのを犠牲にした
会があるというか
するだけの価値がある話だね
これはね
そうなんですそうなんです
はい
ちょっとね正直道元で2回でもちょっともったいないというか
もっとやりたいっていうぐらいなんですけど
まあそれはそれねまた道元会作ってもいいかなって
今思ってるぐらい
道元面白いってなってるんで僕自身が
はい
まだこれやって次回やっても足りないぐらい
やっぱありそうだな
そうですね
うーん
あー
うん
じゃあ着地開始
あ、お Forintだ
モンスポソ
方向 In Search
前回ね、エイサイが多分こういうロジック的なところ入れなかったから
予定かもしれないけど
なんか
道元の禅のすごさみたいなものを迫力が伝わってくるね
あー嬉しいですね
あのいね
この場でちょっともしなんかあのー
紋則師禅のことちょっと学びたいよとか復習したいよとかはですね
あの臨済ですねの禅の話も何回かしているかなと思うので
もしよかったらそのあたりもちょっと復習とかで聞いていただけると
また次回も含めてあの道元の話より面白く聞いていただけるんじゃないかななんて思ってますので
よかったらそちらもお聞きいただければななんて思ってます
そうですね確かにあの前だとそういうもともと禅がどこから起こったのかみたいなね
あのだってだるまさんの話
あそうだね
とかねその後のその禅門道のね変な禅門道が1回あるよみたいな紹介もあるからね
あります
聞いていただけると
そうそうそうあの次回はちょっと予告なんだけど次回久々にねあの禅門道を1個取り上げます
あーいいねちょっとほんと禅門道会だってやるねあの1回やろうよっていうか
やれやれ言ってさそう
まあこれは個人的な希望なんだけどねまだ実現してないからさ
はい
たまに欲しくなる
うん
うん
うん
はい1個取り上げるんで久々にそれもねちょっとお伝えしていこうと思っておりますのでお楽しみください
わかりました
じゃあちょっと次回引き続きこんなちょっとものすごい道元さんのさらに中身を見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います
では引き続きよろしくお願いします
お願いします今回もありがとうございました
43:33

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