1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #160 空海が乗り越えたかった..
2023-11-08 43:24

#160 空海が乗り越えたかった仏教の課題。大乗仏教とも禅とも違う密教の哲学

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

空海は乗り越えたかった仏教の課題について話しています。彼は大乗仏教や禅とは異なる密教の哲学を提唱し、密教において修行や儀式が重要視される一方で、実践面の陽気も伴って仏として正しく在り続けることを追求しました。また、神秘体験を通じて仏と一体化することや現世において仏の世界を見出すことについても言及がありました。彼は国外の地政工事や民衆との交流を通じて仏の在り方を体現しました。この話では、密教の特徴である言葉やマンダラについても触れられています。次回では、密教の哲学とは何か、成仏の概念や他の仏教との違いについて説明し、最澄や鎌倉仏教などの流れを紹介します。

人間性と仏教の融合
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続き空海ということで、前回促進成仏のいろんな解釈があるよね、という話を見てきたんですけれども。
そうですね、前回ね、これ空海がいたというよりは、後の解釈本とか、あるいは自分自身が空海のことを改めて読んでいる時に、
きっと空海ってこういうことを乗り越えようと思ったんだろうな、みたいなものが3つあるよ、というふうなことをお伝えして、
1つがね、前回お伝えした、この人間というのがどうやって仏になるんですか、みたいなことに対して、
そもそもその前提として、人間も含めてあらゆるものが仏なんだっていう、その前提をひっくり返したというか、そこに切り込んだんですよ、みたいな話をしたと思うんですね。
それまではというか、他の仏教は仏教、仏になり得る、みたいな感じで、人間とか仏というものは、ちょっと二元論的にとか、一体ではないみたいな感じだったよね。
なる、みたいな感じだった。
変化してなる、みたいな感じだったので、そうじゃないんだよ、みたいなことが結構特徴ですよ、という話をさせていただきましたと。
そもそも仏である、仏に戻るぐらいの感覚なんだ。
そうそうそうそうそう。
それが一つ目の乗り越えなきゃいけなかった、乗り越えた課題というふうにお伝えしたんですけど、
今日はちょっとその残り二つの課題みたいについて話をしていきますと。
二つ目っていうのが、いわゆる細けになるっていうことと、あと現世の人を救うのをどう両立するかみたいな話なんですけど、
これちょっと唐突かなって感じるかもなんですが、
お釈迦様時代の仏教のこととか、そのぐらいまで戻ると、
基本的な目標っていうのは、やっぱり自分の生きる苦しみ、生老病死、立つと思うんだけど、宿泊ですね。
これをどう取り除くかっていうことが最終的な目的だったわけなんですよね。
その悟りを開いたお釈迦様がその教えっていうのを伝えたのも、もちろん他の周囲の人を救うためなんだけれども、
究極的に自分が自分を救わなきゃいけないというか、自分で悟りを開かないとダメなんだぞっていうのが、もともとの仏教のスタンスなんだよね。
細部と現世の救済
なるほど。先生として、師匠として教えてくれはするけれども、
皆さんを救いたいっていうよりは、救い方を教えてあげるよみたいな話だったんだね。
自分が理解した法則というか仕組みを皆さんに伝えてあげましょうみたいな感じなんだよね。
救い方というか、自分の救い方か。自分の救い方を教えてあげますよと。
あとは大乗仏教とかやってくれると、出家しなくても救われるぞとか、あるいは仏様が救ってくれるぞみたいな話もあるんだけれども、
救いというのはいわゆる涅槃に行くこと。前回結構兄貴とも悟りとか涅槃に行くとか行かないとかって話をしたと思うんですけど、
一旦悟るということが涅槃に行くことだとしたときに、やっぱりこの身このままで生きている自分が救われるというよりは、
いわゆる輪廻を下脱、輪廻から越えてもう一回生まれることのない涅槃に行くっていう、それこそが救いなんだみたいな話になってるんだよね。
来世こそはっていう感じだね。
この世の生というよりは来世、来世、来世みたいな話になっちゃうんだけど、その意味でも結局救われるとか言っても、
それって自分の問題?自分が救われるのか、自分が涅槃に行けるかどうかっていう話なので、言うなればちょっと利己的な部分を含むんだよね。
まあそうだよね。そこはやっぱり個人的な営みだよねって感じる部分の雰囲気な気がする。
だから学挙って意外と慈悲とか利己、利多みたいな話が普通に一般的なイメージとしては強いかなと思ってて、
特に最近それこそウェルビングというかマインドフルネスとかっていうところに触れてらっしゃる方だと、まさに慈悲の瞑想みたいな感じで、
自分のためじゃなくて他の人のために祈りなさいとか、他の人が幸せであるようにというふうに瞑想することで自分も穏やかになりますみたいなことを言われたりするんだけど。
うわーそういうのもあんだ。はいはいはい。
でもそれはやっぱりもともとの自分が仏になるとか、自分が救われるってところからすると結構発展した形の仏教なんだよね。
うんうんうん、なるほどなるほど。もともとはそういう感覚はなかったんだもんね。
そうそうそうそう、そうなんですそうなんです。だからまあその、いざ他者を救うにしても結局は自分がまず悟りを開いて仏になればならんみたいな話だし、
大乗仏教でいうとその日は無限大の未来にやってくるみたいな、それでやってくるのか来ないのかみたいな、まあまあそういう世界観なわけなんですよね。
はいはいはい。
だからやっぱりこう、自分が仏になるっていう話と、他者をどう救うみたいな話っていうのは結構分かれてたんだけれども、
そこにきて密教っていうのはね、やっぱり前回おっしゃった通り、生きているこの身、このままで仏になれるというふうに解きましたと。
で、そうするとじゃあ仏教になった自分が何をするかっていう、いわゆるアクション、実践の問題が出てくる。
これ前回も最後に言ったんですけど、仏になった私何するの?っていうのが出てきて、そこでやっぱり出てくるのが救いとか救済っていうテーマなんですよね。
へー、あー、そういう順番だったんだ。ほうほうほうほう。
これはちょっと空間をやってるっていうよりは、そうであろうとかそういうところに直面したであろうみたいな、ちょっと解釈も含む話ではあるんだけど、
結局そうじゃないとさ、やっぱりじゃあ、いわゆる仏教でも広めたいし、密教では日本に根付くようにして、日本という国を良くしたいと思ってるわけなんだよね。
ということは、やっぱり自分が仏になったことで、あなたにとってどんなメリットがありますかとか、
密教っていうものをやることで、世の中にとってどんな良いことがありますかっていうことをアピールしなきゃいけないわけよ。
そうなると結局、仏になった自分がやっぱりこの国を、国を救うってちょっと広いけれども、やっぱり日本という国を良くします。
みんなの生活を良くしますっていうことをやっぱり伝えていく必要があって、
これ第1回で申した通り、2回ってさ、東に行って密教だけじゃなくて、いわゆる土木技術とか医学とかさ、
それでも色々学んできて、実際に民衆に頼られて治水工事しましたよみたいな話をしたと思うんですけど、
これもどこまで意識したかとかはもちろんわかんないんですけど、
ただ学んできた知識を生かそうとか、民衆の役に立ってポイント稼いじゃおうみたいな、
そういうことではなくて、あくまでもそういうことをすること自体が仏としての在り方というか、
仏として生きていく中で他者を救うんだっていう、そういういわゆる実践活動なんだっていうふうに言うことができるんだよね。
実践活動と他者の救済
なるほど、なるほど。
変な話、なんで仏教とか密教という秘密仏教と言われるような、ちょっと手が届かなさそうなと言っている部会が民衆の中に入って、
民衆を救うようなことをしたかっていうのがまさにここにあって、
結局どっちも仏になじむとか仏であり続けるっていうことに対して必要な行動なんだよね。
なるほど、そうか。空海ほどの天才みたいな人で、自分の考えとかに忠実に多分行動するであろう人が、
自分が悟った後ではね、それを免許改善された後に、日本に行ってひたすらそれをこもって秘密にして、
少数生にただただ教えるとかじゃなくて、結構開かれた生活、開かれた活動をしていたってことには、
それなりの意味があるだろうと推察されるという話なんだね。
たぶんこれほどの人が、ある意味他の人が行っても良さそうな行政に頼っても良さそうな、
まあいなかったかもしれないけど、そもそも活動しているってこと自体がってことか。
そこは空海は言ってないのか?自分では言ってないのか?
空海自身は言ってはいないんだけれども、密教の考え方を紐解いていくと、そういうふうに説明できるような感じかな。
前回にもお伝えした通り、即心浄土の即心という言葉に、自分だけじゃなくて他人にも含むみたいな話があったじゃないですか。
だからやっぱり仏の世界に行くと、自分と他人も一緒みたいな世界観になるから、
人として誰かのためにやるっていうことよりは、仏としてあれべきことをするとか、仏のイメージを示し続けるっていうことが、
すなわち土木工事をするとか、地製工事をするということとイコールになってくるんだと思うんだよね。
なるほど。これは面白いよね。この概念から考えると、慈悲の心だったり、他人へ良いことをするみたいな、
そういう概念すらも一つになっちゃうと、多分自分が善行を行っているみたいな概念もないのか。
ないね。
施しをしているとかさ、そういうのもちょっといやらしいというか、そのすらみたいな。
そうそうそう。
I'm 仏、You are 仏な世界なわけだから、どっちも仏だし。
We are 仏。
We are 仏みたいな、そうそうそう。All 仏みたいな世界だから。
そっか。それで工事するよねと。自分できるし。
そうそうできるし。やるよねと。
さっき言った通り、やっぱり仏教ってもともとはちょっと利己的というか、自分の苦しみを取り除くみたいな感じなんだけど、
そういうことと、やっぱり現世の人を救うとか、周りの人に復位の手を差し伸べる、それもすごくちょっと分かれてる。
そういうちょっと仏教では扱いにくかったテーマ、要は悟るためには涅槃に行かなきゃいけないんだけど、
涅槃から人間にどう働きかけるかみたいな、ちょっとやっぱりやりづらいテーマが、
自分則他人、自分則仏だったら、もうそれって当たり前にやるよねみたいな。
そういうふうな、なんだろうな、世界観になってくるんだよね。
すごいね。利己的っていう言葉の概念も拡張すると、自分っていうものがそこまで拡張されてると、
利己的っていうものはもう世界のためみたいな、イコール世界のためっていう。
そうそうそうそう。
なっちゃうのか。
なっちゃう。だからやっぱりね、自分に優しくすることは世界に優しくすることだし、
世界に優しくすることは自分に優しくすることだみたいな、本当にそういうふうな感じになってくるんだと思うんだよね。
そこには何も計算もなくだね。
そうそうそう。当たり前のようにあるべきことをしています。
だからやっぱりこのままの自分に救いがあるみたいな話にすると、
ちょっとこれは源泉薬的な、仏教を信じるとこの世界で良いことが起きますよみたいな発想にもつながってくるんだけど、
でもこれって今は当たり前じゃなくて、要は神社にお祭せを入れて、
拝んだら良いことがあるみたいなのって、僕らの感覚としてあるとは思うんだけど、
そういうことをすることで、やっぱり自分にとって良いことがあるみたいな感覚ってあるんじゃないかと思うんだけど。
神様、仏様っていうのはあるよね。
そういう意味でいうと、当時の仏教、密教以前の仏教はそういうことではないんだよね。
やっぱり今のこの人間としては自分に利益があるというよりは、仏になるっていうことが目的だから、
今の人生は苦しいのはしょうがないみたいな、そんな感じだったんだけど、
いずれにせよ、この世界で生きている中での仏としての在り方とか、
生き方っていうのは態度で示したっていうことも、空海の大きな功績だったんじゃなかろうかみたいな、
そんな風にも言われてるんですよね。
面白いね。密教って閉じてるんだと勝手にやっぱり名前の雰囲気から思ってたけど、
やっぱりこれは元々インドとか中国で持ってたイメージかはわかんないんだけど、
やっぱりそういう密教っていうもの自体にそれを広める、プロモーションするっていう仕組みも、
多分織り込んだのかな、そこはどっちがね。
そこがすごくさっきの自分イコール世界みたいな話と、結果そのコミュニティというかさ、
そうやってくると、みんながそういう考えと良い方に回るはずだから、
そのプロモーションと現実的な世界での利益みたいなものがすごく合致してる感じがするね、そこは。
むやみ人を集めるとかって感じじゃないよね。
そうだね。やっぱり自然と良いものだと思うから自分も増えたくなるみたいな、そういう仕組みもあっただろうし。
本当にね、やっぱりクルカイってすごいプロデューサーなんだよね。
『仏が精神である』という認識の広まり
ちゃんとスポンサーとしての天皇、帝っていう人をつけて、
やっぱりいろんなところにお寺を運営しながら、自分の世界を広げていくみたいなことをやってる人だから。
Bは仏が精神であると、それは確かにすごい広まりもあるし、
それを上から後押ししてくれるそんな強大な権力があると、進みやすいみたいな部分もあるのかもね。
そうだね。
一つ目の課題としての、自分が仏なりというか、自分の下達とか悟りっていうものを目指す仏教と、
世の中への影響というのをどう広げたかみたいな話が2個目の話だったんですけど、
最後はこれまではかつてきて重複した部分もあるんですが、
まさに仏としてどうやってこの世界で生きていくかっていう話なんですよね。
これもちょっと前回の繰り返しになっちゃうかもしれないんですけれども、
リンネ天聖から抜け出して、ネハに入っちゃうと。
そしたらもう二度と生まれ変わることはないから、
基本的には人間の世界を確立されて、あるいは人間の世界を含む世界全体っていうものを捉えるようになってて、
あまり現世のことを考えなくて良くなっちゃうんですよね。
でも、何度も言った通り、現世で仏になるんだったら、
やっぱり現世での生き方に仏として向き合わなきゃいけないと。
さっきの話と一緒だね。
これ前回ちょっとちょろっと言ったんですけど、
密教においては神秘体験が結構重視されるんですよ。
密教、ちょっと近づきがたいみたいなイメージがあるっていうふうに言ったと思うんですけど、
それは実際そうで、やっぱり修行の場を見ると、
めちゃめちゃ特徴的な道具があって、それを儀礼的に扱いながら神秘体験を得るみたいな、
そういう世界観ではあるんだよね。
神秘体験を得るところも、修行というか、
もう入ってるんだ。密教の中に。
勝手に体験してくださいね、じゃないんだ。
じゃなくて、ちゃんと修行を通じてそういう体験をしましょうね、みたいな感じらしいんだよね。
これはお釈迦様の話でいくと、
悟りを得た時に仏と直接的に会話をしたみたいな話もそうだし、
あとは空海においても、こういう伝説があって、
若い時の修行中に金星が飛んできて、
口の中に飛び込んできたんだって。
ちょっとよくわからないんだけど。
それがある仏様を指していて、
つまりそれは空海の仏が一体化したのだ、みたいな。
私はそういう体験をしたんです、っていうのが残ってるんだよね。
空海の私の神秘体験、体験。
神秘体験語録みたいなのが残ってます。
それは認識の話で、そんなことあり得ないでしょと。
金星が口に入ってどないやねんっていうふうに、
ある種これを主観的にというか、自然科学的に言うのは簡単なんだけど、
修行をしている究極の三角的な状態の中で、
まさにそういう体験をしたんだっていう、
主観的な凄みっていうのは、やっぱり否定できないと思うんだよね。
そうだね。
結局自分が得た経験だったり、
悟り的なものをどう表現するかみたいな話であると捉えれば、そうやね。
そうなんです。
空海にとってはそれが仏様が口に飛び込んできて、
一体化したっていう表現になってるわけなんだよね。
こういう仏と会話しましたとか、仏と一体化しますとか、
すごそうなのはわかるんだけど、
やっぱり神秘体験をした後にどうやって生きていくの?みたいな話なんですよね。
神秘体験でちょっと怪しい雰囲気もするじゃない?
めっちゃするよ。ちょっとじゃないよ。
ちょっとじゃなかったか。
危ない危ない。ちょっとと思ってたんですけど、めっちゃしますよね。
それがあくまで一時的にヤバい体験であって、
ずっと神秘の中で生き続けるわけじゃないんだよね。
逆に言うと神秘の中で生き続けてる人がいたら、それはちょっとヤバい人なの。
そうだね。
あえて言葉は言わなかったけど、やっぱりちょっと薬的な感じになっちゃうと思うのよ。
そしたらやっぱり、でもこれも同じ話で、
神秘体験を経ちゃうと、この世界っていうのがすごく色あせて見えちゃうというか、
世界の輝きがなくなっちゃうんじゃないか?みたいなことがある種考えられるんだよね。
仏と一体化したその瞬間っていうのがあまりにも尊すぎて、
一体化した後の自分は別に普通に人間として生きる自分なわけじゃない。
人間としても仏ではあるかもしれないけど。
すごく極端な話であれだよね。
悟って現世に対する魅力とか、現世にいる意義とかがもう全くないと。
神秘体験と仏の世界の捉え方
いっそ早く真似犯だったりとか、この一体と思った世界に行きたいからすぐ死のみたいなのもあり得るわけじゃん。
すぐ先に飛び込んじゃおうみたいなのもあり得るってことだよね。
そうです。その通りです。
なぜ現世に生き続けなきゃいけないのか。
そっちの方が違うかな。どうやって生き続けていくかというよりは、
なんでこの世界にいなきゃいけないの?っていう問いだね。そういう意味で言うと。
仏になった俺なのにみたいな。
早く現世から逃げればいいじゃん。
そして次のモネハイ行きたいじゃん。ここも早く。
っていうのは自然な感覚な気がするよね。
みたいなことに対しても、これも答えとしては前回お伝えしたことなんですけど、
即戦状仏に3つの読み方というか解釈の仕方があるよって言ったときに、
最後の3つ目の速やかに仏となるっていう読み方があったじゃないですか。
つまり修行とかを続けて、神秘体験というのもできる限り何度も何度も訪れるものではないんだけれども、
次の境地に至れるように修行を重ねつつ、
自分が仏であり続けるように生き続けるのは挑戦し続けるんだみたいな。
そういう日常の姿勢にこそ大日如来の神秘が立ち現れているんだっていう風な考え方があるんだよね。
つまり神秘体験というものはそっちに仏とか大日如来がいるんじゃなくて、
そうじゃない領域にこそ仏の世界というのを見出していくんだと。
さっき言った通り神秘体験から比べるとこの世界というのは輝きのない、
涅槃に比べたらつまらないところに見えるっていうのは実は偏見で、
この世界も当然大日如来のところが現れているわけだから、
そこにちゃんと仏の世界とか大日如来の御心っていうのを見出していきましょうよと。
それをやっていくのが正しい仏としての生き方なんだよ、みたいな風に言うんだよね。
それはすごく納得するよね。
やっぱりあれはダメ、涅槃はいい、人間の世界はダメみたいな、
それがすごく差別的というか、やっぱり仏的じゃないよねって話の中で、
涅槃と垂れもの、やっぱりそこの厳世にも仏を見出していこうよと。
ある種、むしろそれを自分自身に体現していこうよ、みたいな感じだと思うんだよね。
6つぐらい世界があったとして、もちろん涅槃に行けるのは悟った人だけっていう、
ちょっと特別感があるんだけれども、ビップな感じがするから、早くビップルームに入りたいんだけど、
ビップルームだけにいて、そこで豪華な暮らしというか、悟った暮らしをしているのが、
じゃあ本当に悟ったことなんですかねと。
本来それぞれの6って便宜的に分けているのを、本当は1つだって悟ったはずなのに、
なんで6つに分けたうちの涅槃ルームにだけ居たがるのあなたはと。
ちゃんと普通のビジネスホテルに泊まればいいじゃんと。
ビップルームじゃない、普通の席に座ればいいじゃんと。
そこにはそこの意義もあるんだし、意味もあるんだし、
全部1つなんだから、どっちが良い、どっちが悪い、どっちの価値があるか、
だから現世に価値がないとかって言ってるしんで、お前の悟り嘘だぞと。
そうそうそう。
それはそう言われるとそういう気もするよね。
ちゃんとこの仏教の前話1みたいな概念からしても納得感がある。
そうそうそう、そうなんです。
やっぱりそれはちょっと大乗仏教的だし、
密教がそもそもお釈迦様が言った言葉としての仏教ではないみたいな話もあるから、
そういう意味ではちょっと違う考え方ではあるんだけど、
そういう自分の苦しみを乗り越えるだけじゃなくて、
ちゃんと仏の世界がこの世界に現れているとすると、
やっぱり仏教と密教というのはこういう風にふらさなきゃいけないとか、
こういう風に考えなきゃいけないよねみたいな、
やっぱりそこまで結構突き詰めて考えてるんだなっていうのは感じるんだよね。
いやーすごいよね、これは。
やっぱり属性から離れる仙人みたいな風になっちゃうようなイメージがあるんだけど、
そうじゃないんだよっていう、
何かやっぱりブリエとかを極めた達人みたいな振る舞いに近い気もするよね。
そういう意味だとね、前のちょっとさ兄貴も禅の話とかしてくれたじゃないですか、
禅の世界だったら師匠とかにどう言ってるんですかって言われたら怒られちゃうねみたいな話をしたと思うんですけど、
そういった意味での、やっぱりこういわゆる民衆と触れ合い続けるとか、
いわゆるこの姿勢、要は出家して山奥にだけこもるんじゃなくて、
街中にも出ていくみたいな、
そういうのって何となく禅に近いという風に感じる方もいるかもしれないなと思うんですよね。
実際に僕もちょっとそう思ったんですけど、
やっぱりある種、禅でいうと日々はある種ちゃんと生きていくんだと、
別に仏教だ、悟りだとかって忘れて、
とにかく日々よく生きていくのだみたいな話ってあったと思うんですけど、
実はそれ自体は密教で愛いらないんですよね。
なるほどね。
例えば魚を売りに行くとか野菜を売りに行くみたいな話が確か禅とかであったと思うけど、
それって死にようと関係ないじゃんみたいな禅問答があったよね。
そうだね。
その時の心持ちが実はこの禅と密教では実は結構違うんだよって話だよね。
そうだね。心持ちの話でもそうだし、
さっきの魚話でいくと、魚を売ってきました、お金を得てきましたって言った人に、
お前の心はどこにあるみたいな話をして、
いわゆる野菜を売りながら魚を売りながらもやっぱり仏であることを忘れちゃダメだよみたいな。
その時にもちゃんと自分は仏であるとか、
やっぱり仏の道に伝えるものとして何を教えるかっていうことを忘れるなって話だよね。
じゃあ禅でも一応そういう話はしてるのか。
そういう話はしてる。
だから、単純に言えばどっちかっていうと、やっぱり修行的な発想で、
もちろん禅も修行もするし、お経も読むんだけれども、
どっちかっていうと修行なんてやめちまえみたいな。
それも時代によって、とにかく座禅に打ち込めみたいなもちろん禅宗もあるんだけど、
それこそ禅の時に話したと思うんだけど、
そんな座ってるばっかりだったら悟りなんてできないぞみたいな。
言った弟子を褒めるみたいなエピソードがあったと思うんですよね。
みたいな感じで、あんまり修行に打ち込むよりも、
もちろん生き方が大事だみたいな話になっちゃうんだけど、
そうやって明教からすると近くって、やっぱりちゃんと修行にも打ち込むし、
神秘体験って伴わなきゃいけないんだと。
自分が悟ったってその瞬間で捉えなきゃいけなくて、
それをやってない以上、その禅っていうのは単なる無意、
何もしない状況に陥りやすいんだと。
その人が悟ったとか仏になったとか言ったとしても、
本当にそれって悟ったのかってわからんよねみたいなことも起きますよねと。
これちょっと禅の時にお伝えした話は、よかったらまた禅の回も聞いていただけたらと思うんですけど、
やっぱり急に悟ったり、
本当に急に悟ってるのかってお互いに探り合うみたいな話があったじゃないですか。
あったあった。
そういうのは密教ではないんだよね。
そこがちゃんと体系化されてるからね、修行の内容と成果の確認みたいなものがね。
やっぱりそういう禅とかだとちょっと緩すぎると。
密教の哲学と修行
密教みたいにちゃんと修行をして、
格式に則ってやっぱりやんなきゃいけないよ、
みたいな考え方が密教からしたときの禅への批判みたいになってくるんだよね。
なるほどなるほど。
密教がどういう修行をするのかとかは今回話してないからわかんないけれども、
禅が違うとするとすごくぬるく見えるだろうね、確かに禅が。
そうねそうね。結局何もしてないじゃん、みたいなね。
禅からしたらそれはそんなことはないんだぞっていうふうになるとは思うんだけど。
そんな形式ばっかりみたいなね、逆にね。
逆にね、そうそうそう。
本当にそれで時計の姿勢を体現したりするのかとかってなるんだけど、
それはそれぞれの宗派とか流派があるから。
あったときにやっぱり密教っていうのは、
もちろんそういったね、やっぱり儀礼とか修行とか儀式というのは大事にしながらも、
やっぱりそれ以外の場でも仏としてどう正しくあり続けるかとか、
この世でやっぱり生き続けるかって、
やっぱりそういう実践面の陽気が伴っていることによって、
やっぱりそれ前の仏教とはやっぱり違うっていうふうにもなるし、
実際にやっぱり国外の地政工事とかやっぱり民衆と交わっていくことで、
やっぱり仏としての在り方を体現しようとした。
これだと僕の半分というか妄想も含むんだけれども、
もし勝手ながらその境界な気持ちを想像すると、
そういうことでもなるんじゃなかろうかみたいな。
そういうふうに思ったんですよね。
いやー、今までで一番仏教の、
大乗仏教とか禅とかの違いってものが、
すごい見せてもらっているなーって感じが。
嬉しいね。
確かにそうはね。
禅っていうのは確かに生活とすごく密着していそうで、
そういうことをずっと考えながら、
仏教に近づきながら生きていく。
修行しながら生きていくみたいな感じがするけど、
密教はまずちゃんとそういうシステムがあるんだから悟れと。
まず悟って、その上できちんと悟りっていうものを維持したまま生活していくんですよっていう。
大乗仏教は皆さんいつか悟れますよみたいな話で。
全部目的だったりとか、
ある程度実現したい世界っていうのは似てるはずなんだけれども、
アプローチだったりとか厳密な生きる人生哲学みたいなものが、
ちょっとずつ多分違うんだろうな。
面白いね。
本当に仏教面白いじゃなくて、
それぞれ面白いみたいな感じっていうのは、
ちょっとより味わいが深いというかね。
嬉しいですね。
なんか面白いですね。
カレーのスパイスでさ、カレー美味しいじゃなくてさ、
実践面の陽気と仏の在り方
やっぱりクミンが効いてるねとかさ、
やっぱこのチキンペッパーこっちの方がコクがあるねみたいな、
そういう楽しみ方に近い気がする。
確かにね。
だからスープカレーとか邪道だけど、
でもそれも一応カレーだよねみたいな。
そうそう。
なんかそういう、
それはできるとは思ってないけど、
そういう違いを説明してもらってるんだなっていう感じですね。
そうですね。
でも嬉しいです。
やっぱり最初に言った通り、
やっぱり哲学でも分かんないし、
西洋哲学と東洋哲学も分かんないし、
東洋にもやっぱり仏教だけじゃなくて、
インドもあれば、ポチブットもあれば、
もちろん他の宗教もあればみたいな、
宗教というか思想もあればみたいな話だと思うんですけど、
やっぱりそれをね、
こんだけやっぱりいろんな話をさせていただくことで、
何気にもちょっと、
ある種受け取る側にも入れ物ができてきたというか、
ここができてきたみたいな感じだよね。
いやーそうだね。
作ってもらってるって感じだね。
仕切りを作ってくれてる感じ。
やっぱりそうなるとね、
本当により面白くなってくるというか、
より具体的な話をしても、
これってこういうことだったんだみたいな話にもなると思うし、
やっぱり繋がりができてくるじゃないですか。
だからこれ、密教と前提、近いとか遠いっていう話が成り立つんだとか。
もっと言うと、やっぱり今回もね、
その空海は前提となる、
そもそも仏になるんじゃなくて、
みんな仏であるんだみたいなね、
それが言われたと思うんだけど、
それと西洋でも同じで、
やっぱり前提条件とか世界観とか、
そういうものを変えると、
そこから出てくる人間感とか、
仏の在り方っていうのが変わってくるみたいな。
はいはい、あれだよね。
今回も話したかもしれないけど、
キリスト教でいう三位一体なのか違うのかみたいな話とかも、
そこって結構大きな前提条件だもんね。
そうそうそうです。
だからキリストっていうものはね、
イエスキリストと神の関係とか、
そういうものをどう捉えるかによって、
その後の話とかが全部変わってくる。
全然違うもんね。
そうそうそうそう。
やっぱりそれがまさにコンセプトだし、
やっぱり中心にあるテーマとしての促進成仏。
促進成仏っていうものをどう捉えるかによって、
やっぱり空間で密教が彩られているっていうのは、
まさにそういうことだと思うんだよね。
たぶんそういうレベル、
さっきのキリスト教の三位一体レベルでの
転換だよね、これはね。
いやーそうだと思う。
転換というか、
前提条件作ったというかね。
もちろんね、それまでの大乗仏教にも、
自分自身仏になるみたいな話とか、
別にそんな無限大の先じゃなくって、
わりと早く仏になれるんだぜ、
みたいな考え方もあったらしいんだよね。
はいはいはいはい。
だから完全に空海という天才が、
言葉やマンダラの特徴
それをゼロから発明しましたというよりは、
やっぱり元々あった考え方とか、
なんとなく生み出され始めていた思想みたいなものを、
ちゃんと背景化してとか、
みんなが座るように原稿化し広めていったっていう。
やっぱり当時のやってる側の違和感だったりとか、
あと信じる側のニーズみたいなものとか、
いろんなものが多分あったんだろうしね。
そうそうそうそう。
そういう意味では先駆者だし、
やっぱりちょっとマーケター的な、
やっぱり世の中のニーズを積みつけて、
それを提示してあげるみたいな、
やっぱりそういうのもあったんだと思うんだよね。
そこのセンサーがすごかったんだね。
そうそうそうそう。
なのでね、そういう意味で言うと、
前回と今回の促進乗仏というテーマに、
空海がこれまでの仏教と何が違うのかとか、
他の同じ時代にある禅とか、
そういうのも含めてもっと何が違うのかという話を
ちょっとさせていただきましたと。
ただね、やっぱり兄貴が言ってくれた通り、
そもそも密教とはみたいな話とか、
どんな修行があるのかとか、
他にどんな特徴があるのかというのはね、
あんまり伝えられなかった。
逆に言うともう促進乗仏ということだけで
こんだけ話してしまったので。
確かにそうだね。
それをやるための修行だからね。
確かにここ分かんなきゃ、
その修行の話にしても何も分かんないもんね。
そうなんだよね、そうなんだよね。
ただやっぱりそこもちょっと僕もあんまり
めちゃめちゃ詳しく語れるかみたいな話もあるし、
それを語ったところでね、
皆さんぜひ密教徒になって修行しましょう
という話でもないから、このソルデーツラジオは。
じゃあ次回は密教に体験してきました?
みたいな話かもしれない。
違いますね。
もしくはもうやったことある?
いや、まだないですね。
まだないっていうか、
やったことあるとかって言ってる人は
たぶん偽物と思うんだよね。
そんなファッションみたいなもんじゃない?
そうそうそう。
ちょっと行ってきましたみたいな感じじゃないからさ。
やってないの体験会?
そういう密教の儀式体験会みたいなさ。
でもね、正直あるんだよ。
本当は体験っていうか、
それを密教の方が語ってくださるみたいな場は
やっぱあるみたいで。
まさにね、ちょうどなんかチラシでおいさの
ちょっと収録日で言うと、
今日は11月2日なんですよ。
木曜日なんですけど、
11月4日土曜日に
そういうイベントがあるっていうチラシを見て。
ちょっと京都っぽいね、それはなんか。
そうそう京都だからね、やっぱあるみたいなんですよね。
で、そういう風会が言ったことを
密教の人がお伝えしてみますよみたいな
密教にお伝えしますよとか
空海が歩いた道を一緒に歩きましょうみたいな
そういうツアーのチラシを見てめっちゃ行きたかったんだけど
ちょっとね、家の事情で行けなかったんで。
そういうのは結構大丈夫そうなやつなの。
宗教という視点で一回宗教フィルターみたいなのがさ
神秘体験フィルターが発動しちゃうから普通は。
そこのお寺はちゃんとしたとこなのかとかさ
宗教ですよ、信仰宗教なのかちゃんとした宗教なのかの違いもさ
素人にはわかんないじゃん。
仏教的なのもいろんなあるしさ
友達とかでも実はここ教霊とかって話されても
仏教っぽいけどこれ何なんだろうみたいな
毎月集まりがあるみたいな
何なんだみたいなもうわかんないじゃん。
確かに確かに。
そこの判断がつかない怖さがある素人はね。
そうだよね。それは確かにそうだと思うのと
僕も結構いろんなところの座禅道場行ったりとか
教会に行って
日曜日オープンになったやつあるじゃないですか
教会に行って一人で最善列で本を読んで
ほっこり過ごすみたいなこととかしてるので
割とそういう危険かどうかみたいな
センサーは働きやすいんですけど
大丈夫なところでした。
こっちそんなチラシ入ってないからね
ちょっと面白いね。
そういう環境によってやっぱ違うんだな。
ホスティングされてるというよりは
コーワーキングスペースのところで
週一ぐらいで行ってるんだけど
そこに掲示がされてて
こういうイベントあるんでよかったらどうですか
みたいな感じだった。
僕は図体験しないんでやっぱり
偉そうには何も言えない。
仮にしたとしても偉そうには言えないんですけど
やっぱり空海の密教の特徴である
言葉だけで言うと
獣王神みたいな思想とか
密教で重視されるマンダラとかさ
よくあると思うんですよ
中心に仏がいて
その周りに仏さんが
いろんな仏さんがいるよみたいな
そういう絵とかってあったと思うんですけど
神学模様みたいな絵みたいなやつ
そうそうそうそう
マンダラ模様とかって言うよね
言うよね
まさにマンダラなんだけど
そういうものが何かみたいなことについて
せっかく密教とか空海のことをお伝えするので
ちょっと広く浅くにはなっちゃうんですけれども
マンダラってこういうものですよとか
神言っていうものがあって
マントラそっちはマントラなんだけど
こういうものですよみたいな話をすると
ちょっとして
空海の最後の愛という風にしたいなという風に思っている感じでございます
はいはい
いやーそっか楽しいね
確かにこの順番じゃないと無理か
確かに
そうね
最初から密教の修行を教えてとかってなると
意味不明だもんね
到達点が分かんないもんね
そうそうそう
密教の哲学と他の仏教の違い
何で修行するのかとか
仏になるんだね密教思ってやっちゃうと
結局他との違いとかね
旨味がやっぱり分かんないなと思うので
促進成仏の概念が分かんないとね
仏になるとは
なるわけじゃないしみたいな
そうだそうそうそう
成りみたいな無くていい
すでにみたいな
ところの違いが分かんないもんね
この四字熟語だと
そうなんだよね一般的なイメージからするとね
だからそれこそは
生身達仏ってその辺でシュンって
あの時になるみたいな
そういうやっぱイメージになって
トランスフォームするイメージになっちゃうから
そうならないんだけどね
これも密教は違うんだっていうと
そこを重点的に
お伝えさせていただきましたよっていうのが
これだと
密教で味わっていただけるんじゃないかと思った
みたいな切り口だった
というところですね
というやり口だった
切り口
やり方
まあいいんだけど
あれだね
これまた話ずれちゃうけど
阿弥陀仏と問わればシュって成仏する
みたいな間違いなくたぶん
新蘭の浄土神宗の話なんだけど
やっぱりちょっとそれは
違うから
だいぶ違うから
新蘭の話次にしてもいいなっていうのは
改めて思ったらちょっと
迷ってたんですよ何やろうかなとか
ぜひお願いしたいね
一応さ
全く自覚はないけど
お寺はうち浄土神宗
だからね
また皆さんもあると思うんですよ
全く墓参りに行くと
全くお寺の宗派はこれだみたいなのがある
ときに
それってね
鎌倉仏教とかから流れてるものが
多いから
そうなんだね
鎌倉仏教と最澄の流れ
全然意識しないけどね
〇〇寺ってあったときに
〇〇宗って書いてるはずだもんね
そうなんだよね
この辺の話はね
面白い
さっき鎌倉仏教って
言ったけどね
どこの流れも分かんないし
でも鎌倉仏教っていうのは
最澄が作った方なんだよね
そうそう
最澄の天台宗で学んだ人たちが
それぞれ始めたよ
みたいな流れでもあるから
じゃあぜひ
最澄も含めて
もし流れがあるんであれば
空海の後だと
時代的にも流れ的にも
ずっと入ってきそうな気がする
次回予告
そうですね
次回は空海とか密教の
最終回として
そういったいろいろなテーマとか
キーワードをご紹介しつつ
雑談も含めて
鎌倉仏教
最澄から
そっちになる流れみたいなところを
またお伝えしたいなと思いました
次回は空海には
最後になりそうということで
密教の
中身ですね
密教は何なのかというよりは
そこを見て
楽しんでいきたいと思います
では次回も引き続き
よろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
43:24

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