1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #45 ヘーゲルの弁証法をハンバ..
2022-09-28 53:21

#45 ヘーゲルの弁証法をハンバーガーで考える

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はヘイゲルの人となりとか、あとヘイゲルは何者だったのかと、何をした人なのかというところを全体像をつかむというところで教えてもらいました。
今回はヘイゲルといえば弁償法というところで、その弁償法の中身について見ていきたいと思います。
はい、よろしくお願いします。
では、早速その弁償法とは、みたいなところに行くんですけど、やっぱり世の中一般でとか、僕らが普通に知っている、思っている弁償法とヘイゲルが言う弁償法ってやっぱり全然違うっていうのがあるんですよ。
全然違うっていうか、やっぱり深さが圧倒的に違うみたいなのがあるので、
最初にその一般的な弁償法ってどういうものだっけみたいなところから、そこ中でヘイゲルはこんなことですよみたいな話を今日はさせていただこうと思っているんですけど、
ちょっとだけその歴史的なというか、哲学史的な部分で言うと、弁償法って実はヘイゲルが何もないところから、こんなのがあるみたいに言い出したとか発見したっていうものでは特に実はないですと。
やっぱりここもすごいなって思うんだけど、いろいろたどっていくと、古代ギリシャ哲学、特にやっぱりプラトンにたどり着くっていう風に言われていますと。
へー、結局そこなんだみたいな感じだね。
結局そこ、そうそう。もちろんその前のソクラテスとかヘラクレイトスとかっていう人たちを源流とする言い方もあるんだけれども、
一体学問的に言うと、プラトンであろうと。
なるほど、弁償法的な形で物事を捉えたりとか発信したのはプラトンが最初であろうみたいな感じか。
そうだね。かつそれをただ物事を捉えるだけじゃなくて、学問的にとかある種体系的に、システム的にこういう考え方だよみたいに言ったのがプラトンだという風に言われていますと。
そうなんだね、ぽんぽん。
面白いのがアリストテレスは弁償法っていうのをちょっと低いものというか、論理的には劣ったものという風にみんなしてるんだよね。
へー、そうなんだ。
要は真なるものから真なるものを導くっていう、要はAはAであるとかAはBであるみたいな方が、要は論理としては綺麗であるみたいな。
要は正しいものから正しいものを生み出しているから。
そうそう。で、弁償法はちょっとこの後言うんだけど、要は否定を否定していることによって新しい真なるものを生み出すみたいなのって、ちょっとねじれてるじゃない。
ねじれているというか、否定してさらに否定してみたいなマイナスのマイナスがプラスみたいな話だから。
03:06
そうなんだ、そういう意味なんだ。そっか、アリストテレスが否定したっていうのが今のAからAしか生まれないみたいなさ。
結局は乗り越えられない。新しいものって生み出し、真なるものから真なるものって生み出しようがないというか、延長線上じゃんみたいな。
そういう意味で批判したのかなと思ったんだけれども、ちょっと違うんだアリストテレスは。
アリストテレスはそもそも論理的にちょっと破綻してるというか成り立たないんじゃないみたいな話で考えてたのかな、その否定から否定と否定みたいな話。
そうだね、アリストテレス自体は結構カテゴリーとかあと三段論法みたいに、全体と部分みたいなものを結構大事にするから、やっぱりそことに含まれないよ。
全然違うカテゴリーのものを比較するみたいなのがあんまりフィットしなかったんじゃないかと勝手に思ってるんだけど。
そっか、なるほど。三段論法だとAとBからCの共通点とか、新しいものは確かにCとCから新しいものが生まれるっていう可能性は確かにあると思ったけれども。
アリストテレスから言うと、三段論法は論理として通じてるけれども、この伝承法的なやつはちょっと飛躍してるんじゃない?ちょっと想像しすぎじゃない?
そうね、論理としてちょっと弱いんじゃない?みたいな風に捉えてたっぽいです。だからあんまりその後の近代の前、中世とかだとそんなに大事にされてなかったんだけれども、改めて取り上げたのが、実はカントだっていう流れがあります。
だからプラトンがあってアリストテレスがあってカントがあってヘゲルがあってっていう、これもざっくりした流れだけども、伝承法に関してはそういう流れもあるよっていうのが書かれたりします。
へー、なるほど。
というのかで、ヘゲルが改めて取り上げた伝承法とは何ぞやっていう話なんだけど、一般的にはさっき言ったような否定を否定することによって新しい概念を生み出しますみたいなことだって言われてます。
例えば具体例で言うと、ネットでググった時に出てきたのが、パンが食べたいですと。でも肉も食べたい。肉が食べたいです。そしたらハンバーガー食べりゃいいじゃんみたいな例が出てきましたと。これは果たして伝承法なのかみたいな。
なるほど。
確かにパンは肉じゃないし、肉だけじゃ栄養価が高いからと言った時にハンバーガー食べるっていうのは新しい概念っぽいんだけど。
友達とご飯食べに行こうって時に、俺パン屋行きたい、俺肉屋行きたいみたいな。ステーキ食いたいんだみたいな人がいた時に、よしじゃあハンバーガー行こうかみたいな。
06:02
それって伝承法なんですかね?伝承法的とも言えるんですかね?みたいな話なのかな。
そんな話、そういう話。
実際どうなの?これ伝承法なの?
ヘイゲル的に言うと伝承法ではないです。
これが論理的に伝承法じゃないかっていうとちょっと分からないというか、どうなんだろうって思いながら例として引いていきます。
ヘイゲルが伝承法について、前回もさすとおり、伝承法とはこうであるみたいなのを別に論述したとかってわけじゃないんですよね。
いろんな説明をしているから、簡単に理解できるものじゃないよっていうふうにはされているんだけれども、いろんな論文とか本を読む中で見えてきた観点を説明していきたいなというふうに思っております。
まずヘイゲル自身の言葉として言うと、ヘイゲルも哲学者、哲学者だし、哲学する以上、全ての真実とか根底にある一つのものとか、そういうものは大事にしています。
というふうになった時に、全ての真実のものの一般的な成り立ちとして3つあるっていうふうに言っていて、
一つが、抽象的側面、あるいは誤性的側面、要は理性とかを使う部分、理性って言うと言葉がまだじゃが一旦誤性とか言うんだけど、
側面と、あとは伝承法的側面、あるいは否定理性的側面、要は否定をしてそれによって乗り越えるみたいな、これがちょっと矛盾とか伝承法的な考え方ね。
もう一個が、紙面的側面、あるいは肯定理性的側面の3つがあるというふうに言います。
ちょっとこれ言葉難しいので、一旦「まあ、そんなのあるんだ」ぐらいに思っておけばいいんですけど、
つまり、伝承法的側面っていうのは、否定に対してかつ理性っていうのも使えますよっていうふうに言います。
この3つがあるというふうに言われていて、つまり一般的な話として、やっぱりあるAっていうものがあって、そこにAじゃないものがあって、
それがお互いに作用し合うことによって、より高い次元のB、Aでもあって、Aじゃないものではあるみたいな、
この辺すごい仏教っぽいというか、東洋っぽさもあると思うんだけれども、
09:00
そういうAであるものとAじゃないものが統合されて、両方の要素を持ったBが生まれるんだみたいなことを、実際ヘイギルも言ってはいます。
ただ、こういう捉え方はヘイギルに言わせると、ある概念に対して、思維的に、だから、別にやらなくてもいいのに変に混乱を招いてしまって、
結果的にその概念の中に矛盾があるかのような、単なる見かけを生み出す一つの外的な技術に過ぎないっていうふうに実は言いますと。
自分でそう言っちゃってるんだ。捉え方間違えると、単なる技術というか表面的な技術になっちゃうよねみたいな話をしてるんだ。
そういうこと、そういうこと。例えば、パンと肉って、確かに別々のものだけど、矛盾はしないじゃん。
パンがあるから肉っていう存在が脅かされるとか、パンと肉が対立して、どっちかが消えないと、どっちかが概念として残らないとか、そんなことはないじゃん。
確かに、トレードオフな関係だとかって確かに聞いたことがないな。
前回言ったみたいに、やっぱりヘーゲルはいろんな対立とか、個人個人が自分の存在を主張すると、お互いある種否定してしまうみたいな、そういうことを世の中に捉えてたわけだけど、
よくある、例えばハンバーガー食べてる時にパンの味が強すぎて肉の味が消えるみたいなことがあったら、それ矛盾してるかもしれないけど、別にそんなことを普段考える人ないですよと。
なるほど、まあそうか。でも確かにさっきみたいにこういうふうにレインジャーされちゃうと、確かにこれが弁償法の説明ですって言われちゃうと、確かにそこは対立概念としてパンと肉が対立してるかのように確かに認識しちゃったね。
そうそうそう。でもそれって本当に単なる見かけとか矛盾があるかのように見えちゃう使われ方だよっていうふうに言いますと。
じゃあなんで単なる見かけになっちゃうんだろうみたいなところにヘーゲルは考え進めていくんだけど、それはあくまでも、
ここで五星がちょっと関東の五星と違うんで後で補足するんですけど、五星っていうのはヘーゲルはその物事をバラバラに捉えるとか、
それを固定化しちゃって、世の中にいろんなバラバラなものが個別にあるよみたいな、そういう人間が生まれ持っている先天的な思考の次元にとどまっていて、
その次元で生きているからこういう見かけの矛盾が発生しちゃうんですよって言いますと。
つまりそこには真の矛盾ってなくて、別の固定されているものがあるだけですと。
12:05
なるほど、パンと肉があるだけだよって話に近いんだな。
そうそうそう。さっきの通り相互作用っていうのがあるんだけど、別にパンと肉が相互作用しているわけではないから、
別々のものがあるだけだよねっていうふうに言いますと。
本来ヘーゲルの伝承法において問題にしたいものとしては、
いわゆる五星の物事をバラバラに捉えるものから非五星、つまり五星とは全く異なる次元に、
五星とか人間の感覚、認識作用が変わることだっていうふうに言われますと。
つまり伝承法の根本っていうのは、五星と非五星が相互に矛盾して対立して、
それが五星より一個上の次元に行くみたいな構造があるんだよっていうふうに言うね。
すごい、なんか西洋哲学なのに東洋っぽい感覚質が効いてて。
そうよね。やっぱり全てのものがバラバラにあるとか、それが統合されるとかっていうと、
やっぱりこれくらいの西洋哲学とちょっと違う感じがすると思うんですけど。
論理を積み上げているというよりは、結構考えるな感じるに近い雰囲気があるね。
なんかね、二つを統合して次の次元に行きなさいみたいな。
だからやっぱりアリステル席にもそれはちょっといかがなものかとか思ったりもするんだけれども。
こういうちょっとヘーゲルの五星について補足しておくと、
カイトの五星、前回やったような五星が感性と支え合ってみたいな感じはちょっと違います。
実際そのカイトの五星がなんだったかっていうと、すごくざっくり言うと、
その感性、物事を感じる能力とか、目の前にこういうものがあるよっていうのを感じて、
五星がこれはマイクだみたいに認識されたことだったと思うんですけど、
ヘーゲルはそれを実は感覚的確信っていうのと、あと知覚と五星っていう三つに分けるのね。
さらにね。
だからカイトの感性は感覚的確信になって、カイトの五星を知覚と五星っていう風に分けます。
日本多分婚約の問題なんてすごいわかりづらいんだけど。
そうだね、五星って被っちゃってるからね。
これも実際ヘーゲル自身が挙げてるのかな、例があって、
その塩ってありますよね。塩っていうか、目の前に塩があると皆さん想像してくださいと。
実は塩があるって言った時点で、五星とか理性を使っちゃってるんだけど。
15:02
まあ、言ったんですけどね。
まず目の前に白い粉があります。
思っていると粒々の何かがありますみたいなのが感覚的確信ですと。
あとここに何かがあるとか、これがあるみたいなもんね。
で、例えば、ここが今、インマンさんがいるのがキッチンだとすると、
ここに白い粉があって、なめたらしょっぱかったから塩であるみたいに捉えるのが知性ですと。
はいはいはい。
ここまでは多分なんとなくわかるというか、まあ、数字そうだよねって感じだよね。
で、その目の前の塩に対して、白くてとか、一個一個の結晶でできていてとか、これは調味料でとかっていう、
まあ、いろんな属性を僕らは付与することができると思うんだけれども、
その場合、目の前にある塩っていう存在の独自性、
つまり目の前の塩であるっていう一つのものっていうことと、
そのいろんな属性、白いとかしょっぱいとか調味料であるとか、いろんな属性を持っているっていう、いわゆる「他」。
だから一対他っていうのの両方が存在しているよねっていうふうにヘーゲルは捉えますと。
うーん、なるほど。その目の前の白い粉を見たときに、人間はそこまで物事を捉えたり考えたり感じたりするよね、みたいな話ね。
そうそうそうそう。
つまり、感覚的確信、これは何々である、塩である、みたいな一つのものであるっていうふうに感覚的には確信する、感じるのに、
知性はあれやこれやっていろいろ考えて、その目の前のものをいろんなものの集合体だっていう「他」からできる存在だっていうふうに捉えますと。
はいはいはい。
なのでじゃあもうちょっと説明すると、ここでその知覚、ヘーゲルが言う感覚的確信、知覚、互生の中の知覚っていうことで言うと、
知覚は、はじめ、その対象は一個単一のものだけれども、人間の側、僕らの側にいろんな属性を付与する特徴があるんだっていうふうに感じるんだけれども、
そうすると目の前の対象から、目の前の塩そのものじゃなくて、塩一般っていうものについてされちゃいますと。
そうすると、他の塩と目の前の塩は区別つかなくなるよねっていうことをヘーゲルは言い出すのね。
つまり僕らが目の前にある塩って、しょっぱくて、しろくてとかって言うと、別にそれ他の塩も一緒じゃんみたいになっちゃいますと。
はいはい。
で、これが塩ぐらいなら別にいいんだけど、例えばあなたとか、カンノ・キョウスケっていう人間とかでやると結構怖くて、
18:05
塩は目の前に、今オンラインだけど兄貴がいるわけじゃない。
兄貴に対して感覚的確信としては目の前の人間存在がいるって思うんだけど、兄貴っていうのは、いわてに住んでいる30何歳の男性で、兄でとかって言うと、
そんな人はまあ、多分いっぱいいます。
まあまあ、自分にとっての兄とかじゃなくてね。
そうそう。世の中一般的な兄っていう属性を持っている人ですよとかって言うと、まあ別にいますよねと。
そうするとあなたと人一般の区別がつかなくなっちゃうよ。
知覚ってそういう働きを持っているよっていうふうに平家は言うのね。
うーん、なんか仏教っぽいな。
じゃあそこで知覚がどうするかっていうと、さっき言った通り目の前に一つのものがあって、自分がいろんなものを付与してるんだじゃなくて、
目の前のもの、塩とか兄貴の側にいろんな要素があって、それを自分が一つに統合して、
これは目の前にあるこれから料理をする塩であるとか、自分自身、観音、駿という人間の兄であるっていうふうに、人間の側がまとめてるんだっていうふうに捉えるようになります。
こんなふうに知覚っていうのは目の前にある対象と知覚自身、自分がどっちが単一一つの存在で、どっちが他なのかっていうのを決定することができずに、めっちゃ矛盾してるんだよっていうふうに平家は捉えます。
こういう矛盾をずっとしてるのを知性だけだと解決できないから、それを乗り越えるために、誤性が必要になるよっていうふうな話をする。
やっと誤性出てきた。
というのが感覚的確信と、視覚と誤性っていうのが三つの役割です。
すごいね。デカールトで出てきた人間、自分はあるっていう感覚と、ドカンと出てきた理性、誤性、感覚みたいな話を弁償法的に考えるとこうなったみたいな説明になるのか。
そこを乗り越えようとしたこの三つに分かれたみたいな感じだろうかな。
なるほどね。すごいね。さっきからちょっと仏教っぽいみたいな話はしたけれども、とはいえやっぱりすごく厳密に言葉を定義して、これはこうだみたいな話をしてるという感覚は確かにあるけれども、物事の定義の仕方がすごいね。
面白いよね。やっぱり仏教は楽っちゃ楽なんだよね。全部ないからみたいな。目の前のものもないし自分もないからみたいな風にあるし言い切っちゃうこともできる。
21:03
ただそれだと虚無主義になるから有意識とかできたっていう話をしたと思うんだけど、ヘイギルというか西洋にはそういう全てのものはないみたいなものはやっぱりないから。
そうね、ちゃんとある前提で積み上げてるもんね。
ある前提だから、目の前のものは単一だもんだけど自分が多義性を付与するとか、でもその多義性を付与しちゃうと目の前のものから一般性がなくなっちゃうから、自分が一般性を作るんだみたいな。
その後結局、自分とか知性は何のことをしてるんだっけみたいな混乱が生じるよねっていうのを炙り出すというか、表現してるっていう感じだね。
物が人同士でもいいし、塩と人みたいなものが2つあった時ですらそうってことは、特に人間だったらね、そんな人間がお互いを経緯したりされたりしてるってことはかなりの矛盾だらけというか、すごい世界だよねって確かに思うよね。
自然に言っちゃったけど、どっちかわかんない世界っていうのがずっと構築され続けてるみたいな感覚なんだよね。
まさにまさに。だから平優はそういう世界観を見た上でいろんなことを論じているから、AがあってBがあるとか、Aと非Aは全然別物だみたいな感じじゃない哲学とか思想を展開するからやっぱりわかりづらいかななんてのは思いますね。
平優はよっぽど弁償法をみんなが適当に使ってて、イラッとしたのかな?そうじゃないやろみたいな。
すごい鋭い人だったんだと思う。論理的に言うと、リンゴはリンゴでナシはナシって言うんだけど、リンゴとナシの違いは?とか、リンゴを見た時にナシを思い浮かべる人間の知性ってなんだ?とかってことを仮に考えると、そっちがちょっと素朴だったりするじゃない?人間の感覚として。
そうだね、確かにリンゴを食べれるってした後でナシになってたら食べちゃうもんね、多分全然。
そうそうそうそう。っていうか、結構人間の素朴な部分とか自分の感覚的なことをちゃんと向き合った人なんだろうなっていうのは感じる。
今言ったように感覚的確信がまず面倒くさいものを素朴に受け取って、知覚はそれを受け取ろうとするんだけど、その位置と他っていう矛盾が発生して、それを乗り越えるために誤性が必要だみたいな3つのことを言ったんだけど、
実はこれさっき「使用」とか「人」とかってやったんだけど、例えばエネルギーみたいな抽象度の高い概念を考えた時に、これって要は感覚で捉えられないじゃないですか、エネルギーって何?みたいなのを言われた時に結構難しいじゃない?説明するのも。
24:14
そうだね、見えないし。
しかし、知性でそれを捉えきれないんだよねっていうふうに考えます。例えば電気とかガソリンみたいなものが車を動かしますみたいなのを考えた時に、これはヘゲの例っていうか説明で見た例なんだけど、
電気とかガソリンが車を動かすっていう、車が動いたことで僕らは初めてエネルギーがあってとか、エンジンを動かしてそこでエネルギーが使われてるんだっていうふうに実感するんだけれども、
それってあくまでも物の内側にあるものが外側に現象として起きたことっていうのを外から僕らは推測することしかできません。
こんなふうに外と内とか、ホームシスト現象、要は電気とかガソリンが分かりやすいか、ガソリンとかだと液体のものがあるんだけど、それがある人燃やされることでエネルギーになるよみたいなことって、
知性だけだと分からない。その液体がどうしてエネルギーとか推進力になるのかっていうのは知性では分からないんだけど、それを行ったり来たりしながら理解するのが誤性ですよと。
これは感覚の世界と知性の世界というのを統合する働きでもあって、かつ分裂した次元に留まっている。要は感覚の世界と知性の世界というのは別だよねっていう前提の中で、
それを何とかあっち行ったりこっち行ったりしながら理解しようとするっていうのが誤性だよっていうふうに捉えますと。
はいはい。好き勝手に近くの方で考えちゃったことだよね。目の前に一員に対して他を付与しようだったりとか、もしくは逆に一員固定しようという働きを、ちゃんとその手綱を握るのが誤性だよみたいな感じだね。
そうだね。手綱を握れないんだけど、一旦あっちこっち行っちゃってるよねとか、一応自分は立っていて犬みたいに、それこそあっちこっち行ってるんだけど、自分もここにいるよみたいな感じが誤性の働きだっていうふうに言いますと。
ちょっと途中脱線したっぽくなっちゃったんですけど、ここで改めて弁償法の話に戻ると、冒頭でもお伝えしたパンと肉を食べたいからハンバーガーだみたいな話って、弁償法っぽく見えるんだけど、
結局ヘイケルの感覚からすると、誤性、いわゆる具体的なものを掛け合わせたとかくっつけただけに留まってますよと。ヘイケルはそもそも哲学するってことの前提に、
27:10
実は分裂とか対立があるよっていう、第一回で話したようなことを言うんだけど、分裂って何かっていうと、それこそ無限と有限とか、自由と必然みたいな、
そういう概念的なことの、二元論的な対立があるよねっていうふうに言うのね。
実はこれがヘイケルからすると、これは誤性が生み出したんだっていうふうに言いますと。
つまり、感覚的確信と知性から得られた世界っていうのを、あっちとこっち、要は両方行き来はできるんだけど、それが別々のものであることには変わりないから、
誤性はこっちには自由があって、こっちには必然とか不自由があるとか、あっちには無限があるけどこっちには分裂があるみたいなふうに捉えちゃってるよねっていうふうに言うのね。
でも、この二項対立がずっと続いていると、結局それぞれ交わらないとか、
世の中っていうのは、それが良くなっていかない、要は分裂したままだみたいになっちゃうんで、これを乗り越える必要がある。
それができるのが弁償法なんだっていうふうに言いますと。
これを平気に言わせると、誤性っていうのがさらに次元を上げる。それこそ知性が誤性だったみたいに、誤性が次は理性になるっていうふうに言うんだけど、
理性っていうのは僕らが一般的に使う理性っていう言葉とちょっと違ったりはするんだけれども、
ただ、必然と自由を統合したものは?とかって聞かれても、パッとは言えないじゃない?やっぱり。
うん、分かんないね、確かに。
分かんない。なぜかっていうと、やっぱりそれは誤性っていうか、日常的な知を加えた理性のより高次な知の次元の話だから、
やっぱりそこっていうのは簡単には取られないし、逆に言うとそれを誤性から理性に引き上げるための方法論が必要で、
それが弁償法なんですよっていうふうに平気で言いますと。
うーん、はいはいはい、やっとなんかあれだね、ちゃんとした弁償法の定義みたいな話になったね。
そうですね。
はいはい。
え、じゃあここまでどうでしょう?
いや、そっか、これ最初のハンバーガーの例、パンを食べたいと肉を食べたいっていうのが、そこがこれ矛盾じゃないよねっていうのは、
30:01
あくまでその、例えばその二人の人が話し合ってるというか喧嘩してたとして、
うんうん。
それをあくまで知覚レベル、知性レベルでの話をしていて、まだ誤性レベルの話ですらないよね。
今のところが多分、弁償法的?弁償法じゃない違和感の正体みたいな感じなのかな。
そうね、まあ一応、誤性としてパンが食べたいとか、肉が食べたいっていう、そのなんだろうな、
要はもう、パンってなんだっけみたいな感じであってないから、
うん、あの、俺が寝ているパンはパンなんだっけとかってなってないから、
なのでその誤性までは普通にあるんだけど。
知性だとパンは何なんだ?じゃあ、まだ確定されてない段階?
えっと、で言うと、パンは多分、頭の中に一般的なパンがあるけど、
それが目の前に本当にあるんだっけとか、
目の前にあるパンは自分が思っているこの一般的なパンって一緒んだっけとかっていうのをグルグルしちゃってる状態?
うん、知性。
知性が近くか、近くだね。
うんうん、じゃあそれに対して一定の解答というか、結論を出してる状態が誤性なの?
自分が食べていいパンだとか、これは食べちゃダメなパンだとか?
パンだとか、あとは自分が思い描いているパンっていうものをパン屋さんに行けば同じものがある。
要は同じものではないじゃん、イデアみたいな話で、本当に思い描いている理想のメロンパンがあるかっていうときに。
大きさ14.5cmで厚みがとか、そういうレベルの話になっちゃうってことで。
うん、そういうのになっちゃうんだ。
そういうことではない。要は何となく思い描いているパンっぽいものがパン屋さんに行けばあって、
それを食べれば自分が満足するみたいなことを思っているっていうのが結構性的な多分生き方で。
はいはい、なるほど。じゃああくまでその中で矛盾はしてないよねっていうだけでってことか。
うん、そうそうそうそう。
だから仮にパンが食べたい、肉が食べたいっていう、そもそも次元がそんなに概念的な対立ではないから、
これは弁証法って言っては難しいとは思うんだけど。
はいはい、まあそれともそうだよね、二元論ではないもんね、最初言った通りね。
そうそうそう。
だしある意味これって最初ほら否定の否定みたいな話してるから、自分はパンは食べられないんですっていう人と、
自分は肉食べられないんですっていう人がいた時に、じゃあハンバーガー食べようっていうのはちょっと答えとして違うかもしれないんだよね。
確かにね。
何も乗り越えてないよっていう。
乗り越えてない、確かに確かに。
まあそういう二人がパンは食べたいけど肉は食べたくない人がいてとかっていう、そんな対立が起きた時に、じゃあスパゲティにしようみたいな、
33:00
全然違う概念の食べ物を選ぶっていうのはちょっと弁証法っぽいかもしれない。
まあそれちょっとコムに入っちゃってるからね、肉派の人にちょっと申し訳ないから寿司ぐらいにしとく。
寿司も肉入ってるから、おにぎりにしようか。
おにぎりにしようか、じゃあパンはおにぎりにね。
穀物になっちゃうから、じゃあリンゴでも食っとくかみたいな、果物にしようかみたいな。
そうね、そうね。
今回の日って思ったのは例として、ちょっとハンバーガーの例があったから、それで言うと、たぶんちゃんと矛盾になってるからね、そのAと非Aみたいな話があったけれども、
例えば食べ物で言うと、自分は肉が食べたい人と、自分は肉が食べられないっていう二人がいたとき、それはもうトレードオフだよね。
そうだね、そうだね。
それは矛盾だよね、矛盾ですよね。
絶対交わらない、ハンバーガーみたいなの作れないもんね、足したらゼロになっちゃうというかね、なくなっちゃう。
みたいなときに、大豆でできたお肉を作って、肉食べたい人も、これ肉じゃないけどすごい肉っぽくておいしいから、ちょっと参りをこんで食べましょうと。
はいはいはい。
肉食べれない人も、これ肉じゃないからおいしい大豆だねって言うのを食べれる。
それは確かにどちらもこういった存在、弁証法のときに生まれた麹の肉みたいなさ。
そういう感覚で言うと弁証法的と言えるかな、こっちは。
そうだね、そっちの方がより近いと思うし、まさにアニカル言ってくれた通りで、その元となるものがちゃんと対立しているかとか矛盾しているかって、
さっきの有言と無言とかって、無言って結局どこかで限るものというか、有言がないと本当に無言かどうかってわからないとか、
有言っていうのも結局限られてないものと比較しないと有言ってことは言えないみたいな、要はちょっと温妙、温妙したっていうか温妙力とかってわかる?
頭の2つ。
黒と白です、その頭のやつ。で、お互い黒の中にも白があり、白の中にも黒があるみたいなやつだと思うんだけど。
確かにあるね。
そうそうそう、あれって結局、有言の中にも無言があるし、無言の中にも有言があるみたいな、お互いを一部取り込んで存在しているみたいな考え方だったりするんですよね。
うーん、ああ、そっか、だからお互い白と黒の穴みたいなところね。
そうそうそうそう。
へー、そうなんだ。
別れてないってことなんだよね、あれ。
はいはいはい。
だからまさに言ってくれた通りで、本当にAとBと並べたものが矛盾しているかとか対立しているかとか、お互いに取り込まれているか、それぞれが。
36:02
うーん。
っていうことは結構大事で。
ああ、なるほど、そっか、そこはちゃんとその、孔子の、まあ、そもそも弁償法的に融合できる可能性っていうものを否定してないってことなんだね。
そうだね、そうだね。
例えば、なんだろうな、本当に交わらないものって多分あって、なんだろう、例えばハサミとイルカみたいな。
うんうん。
例えばね、ハサミとイルカって、なんか違いすぎて、別にもう関係とかないじゃん、多分。
まあ、うん、そうね、無理やり持ってくることはできるかもしれないけど、ちょっとなさそうだし矛盾もなんもしないし。
うんうん。
だからね、やろうと思ったら連想ゲームみたいにハサミでイルカの折り紙のなんか作りますとかできるって言う、それは弁償法ではないみたいなことで言うと、ある程度その関係性とか対立しているだから、相互作用を生む存在が何かより構図もなるっていう、こういったものが弁償法だよっていうのは結構大事かもしれない。
なんでもかんでも、あの、引っ張ってきちゃダメだよっていう。
うんうんうん。
うん。
まあそこそこハンバーガーの例みたいな話だよね。
そうだね。
あれもパッと聞くと、
うん。
あの、納得しちゃいそうになるし、
うんうんうん。
それがね、多分その、まだ肉とパンだからいいけれども、これを概念レベルでやられちゃうと、
うん。
結構そのそもそも論のところでその前提が、
うん。
かみ合っていないとか、
うん。
矛盾してないとか、でその弁償的にやろうとした時に出てきた答えがそれっぽくなっちゃうんだけれども、
うん。
それはちょっとただの組み合わせだよねみたいな。
あ、そうそうそうそう。
うん。
ことに、多分そこのその神秘眼じゃないけどね、
うん。
そこが多分、なんか、もうこんだけやっぱ強力な、前回もあったけど強力な武器になりうる。
うん。
こういう行動の武器だったりとか、その人に物を伝える武器みたいな表現の武器になりうるってことを考えると、
うん。
大変いけどそこの対策じゃないけどね、
うん。
毒にも薬にもなるその物の、そのまあ下毒剤みたいな話、
ここをちゃんと理解しとくと、あのちゃんと弁償を使えますよ、もしくは使ってほしいみたいな、
うんうん。
ところまでまあちゃんと説明してたってことなのかな、これ。
そうだね。
うん。
そうそう。
やっぱりその弁償法っていうものを前提としては、僕らがどうやって物事を見ているとか、とか理解するかとか、理性とか知性は何かみたいなやっぱ話があって、
うん。
そうね。
これが実はそのヘイゲルがまあ書いた本の中に精神現象学っていう本があるんだけれども、
その本は結構こういった形で、その自然な知、もっともっとその感覚的革新みたいな、すごい素朴な知性っていうのがいろんな経験とか挫折を通じて、
うん。
そういうことを知識革になったり、合成になったり、理性になったりっていういろんなものを唱えて最終的に絶対知っていう、その絶対の他的存在のうちに純粋に自己を認識することっていう働きになるよっていうふうに言うのね。
39:15
うーん。
これも結構哲学的っぽいというか、
なんか難しいな。
そうそう。
だから、もともと目の前のものと自分というのが分かれていたりとか対立していたものが結局取り込まれるというか、
そこに違いなんてなかったんだみたいなところまでたどり着くよみたいなことを言い出してるのね、ヘイゲルは。
はい。でもなんかうん、分かる気がする。さっきハヤトがあの、あれ、マガタマ、何ていう、恩明なんていうマークなの。
そう、あのマガタマみたいなやつは、あの、対因対極図と言われるようなんですけど、あの因と要を両方表すよみたいな図ですね。
はいはい、なるほど、そう。なんかそれの、さっきほら、知らなかったんだけど、お互いの方にさ、白の方には黒い穴、あのマガタマの穴部分。
で、黒の方には白い穴が確かに開いてるなーって思い出すんだけど、
うん。
なんかそこの穴の存在を知れみたいな話にこれ、ちょっと近いのかなってね、絶対的な入った存在のうちに、
うん。
純粋に自己を認識することってなんかね、そういうこう、こっちは絶対、こっちは黒だから黒だよじゃなくて、その中にちゃんとしろっていうものを認識しようねみたいなね。
そうだね、そうだね。
まあ勝手にちょっと寄せてる感はあるけど、なんか。
まあ近い発想なのかなとは思う。
うん。
まあやっぱりその、こういった知性がね、こうやって成長していくみたいなこと自体が伝承法的な働きでもあるし、
うーん。
まあその、知性の次元が上がっていくみたいな話をしているんだけれども、なかなかそう、その、今日説明してきたみたいに、要は、
語性っていう知性のレベルの中で、えっと、あちこち溜まってるうちはまあある種浅い伝承法みたいになっちゃって、
はいはいはい。
知性のレベルが上がるとか、理解のレベルが上がるみたいなことがまあ本来的な伝承法だし、
うーん。
まあ思っていると、それこそそのヘーゲル流のある種哲学的に知を深めるとか、
学問的により適切な知性とか知識にたどり着くための手段だよ、みたいな風に言っています。
だから伝承法はヘーゲルに言わせると、一個のはもちろん方法論でもあるんだけど、要は哲学的に物事をちゃんと解明するための方法論なんだよね。
うーん。いやー、なるほどね。すごい。なるほどね。解明するためか。
うん。
前回感じた、ヘーゲルが構造的に物事を捉える力がやばいんじゃない?みたいな話をしたけど、
うんうんうん。
なんかそこに今つながった感じする。
あーそうだね。そうそう。だからやっぱり物事をそもそも認識するとか理解するって何かみたいなのが、
延々と哲学がやってきたことだったと思うんだけど、そもそも知性とか理性の側も、なんかいろんな段階があるから、
42:06
その段階を上げていかないと正しい世界の認識ってできないよね、みたいなことを、
まぁちょっと構造化した人なのかなって、今僕も話しながら改めて感じているかな。
うん。はいはい。
うん。
すごいね。そっかそっか。
うん。だから弁償法の何がすごいかっていうのもそうだね。
改めて今日話し聞いたと思ったのは、確かにその積み上げる、その統合するのもすごいけど、
やっぱり統合する前提を解明する?どこって本当に矛盾してるんだっけ?とか、
その2つの矛盾って本当はなんだっけ?みたいな話をきちんと考え切るというかね、
ちゃんとその課題設定とか問題設定のレベルが相当すごいってことなんだね。
あーでも本当そう思うし、なんか一回それを、例えばね、それこそビジネスの経営の場でも、
例えばあるじゃん、トレードオフみたいな、利益上げなきゃっていうのと、
でも働きすぎを抑えなきゃみたいな。
はいはいはい。
これっていっぱい働けば働くことももちろん、例えば利益は上がるかもしれないけど、
でも健康損なうから結局利益も下がるみたいな、
例えばこれが矛盾だとした時に、それってやっぱりどっちかだけじゃ解決できなくて、
多分さらに時限を上げるための、なんか組織を強くするとか、
そこはいろんな発想があると思うんだけど、っていう解決策があった時に、
そもそもなんで利益上がってないんだっけとか、そもそもなんで働きすぎなんだっけみたいな、
こっちをちゃんと理解しないと、やっぱり良い弁償法というか乗り越えにならない、
みたいなことは言えるのかなと思う。
今俺言うとそうだよね、利益が上がらない原因だったりもあるし、利益が上がらないってどういうこととか、
働きすぎってそもそもどういうことだっけとか、
そこの定理がやっぱり同じことを目指しているのにずれていることもあるし、
やっぱり人が集まっているところだから、その思惑みたいなものがめっちゃ絡んできて、
それもやっぱり政治、会社もそうだしね、政治とかね、国とかコミュニティっていう風になってくると、
確かにそのすれ違いみたいなものはない上で、やったハンバーガー最高じゃんって言ってる場合もあれば、
ハンバーガーは違うって、いらないって、みたいな、
そこはやっぱり目的は同じなのに、問いも同じつもりなのに、
本当にその答えをみんな探しているのに、そこで変に賛成しちゃったり、無駄に反対しちゃったりとかね。
そうだね、あとは妥協しちゃったりとかね。
ハンバーガー誰も食べたくなかったんだけど、本当はおいしいパンとステーキ食べたい人がいただけだったのに、
45:05
別にハンバーガーがおいしくないってだけじゃないけど、ステーキじゃねえよな、みたいな。
そこの原因、そこでそんなことが、その席で、そもそもさ、っていうヘイゲルがいるだけで、
なんかね、一個みんなハッとする瞬間が訪れるんじゃないかみたいな。
やっぱり弁償法って面白いね。ここまで前回の話も聞いておきながら、弁償法っていう結果そのものを今回知ろうとしたけれども、
やっぱりそもそもの弁償法の出発点みたいなところこそが面白そうだっていうのは、
ちょっとわかんない、なんかいろいろラジオを聞いてきて、哲学にかぶれてきているというか、
悪い意味で侵食されている感もあって気持ち悪いから、ちょっと。
確かにね、ちょっと兄貴がなんか弁償法すげえみたいになっているのも今ちょっと怖いもんね。
気持ち悪いよね。自分、だめだな、哲学をアンラーニングしていかなくて。
やっぱり一般的な感覚で、いやそんな風に考えないでしょっていうことももちろん大事だとは思うし。
一般というか、なんか変な哲学に対する信仰みたいなものが植え付けられている気がして、
なんかやだな、だめだな、マインドコントロールされないようにしよう。
そうだね、気を付けないと。哲学にちょっと馴染みつつある兄とになっちゃうからね。
そうそう。かといってじゃあね、哲学から無理やり離れようとしている兄とになってもちょっと、
それでなんか意味わかんなくなってくるから。そこを多分統合していくのが弁償法だったことだね。
哲学から無理やり離れようとしている人と、洗脳されようとしているっていう。
自分のやっぱり存在っていうもので、次の次元に引き上げられるものかもしれないですけど。
でもね、そういう新しい考えがあるし、哲学系の考え方と自分が持っている考え方とっていうのは対立。
これもね、ちょっと無理やり弁償法的かもしれないけど、やっぱりさせた時に、じゃあ何を受け入れてとか。
哲学一遍となってもだめだし、でもそんなの使えないから自分の考えだけでやるっていうのももう足りないとした時に、
じゃあどんな自分の知性を活かしますかっていうのはね、問いとして立てやすいから。
そうだね、確かにその空っぽの知性でもこんな弁償法を使っても、結局出てきた問いだったり出てきた答えは空論でしかないみたいなところもあるだろうしね。
そうね、だから今やってみたら、やっぱり何でもかんでもこの構造で落とそうと思えば落とせちゃうから。
すごいね、本当。確かに。だってある意味さ、この前言った有意識のさ、
48:02
これは例えばこの知覚、物事を捉えるっていうところは例えばあらやしきっぽいねとか、知性の部分はまなしきっぽいねとか、
個性が、じゃあまあ五感に近く、まあわかんないけどね、なんか無理やりなんかあってはめられちゃいそうだもんね、本当に。
はめられると思う。あらやしきっていうのがあって、まなしきっていうのがあって、それぞれ独立してるんだけどこうやってて、
それが統合されて、なんかこう、ご意識が生まれますとかって、別に言おうと思ったら言えちゃう、そうしかないんだけどね、多分。
だからこそ、やっぱそれぞれ、確かに兄貴言ってくれた通り、それぞれの概念とは結構なんでとか、利益が上がらないっていうのは何を指していて、
働きすぎっていうのは全員なのか個人なのかとか、なんか朝のが上なのかとか、多分それはちゃんと理解しないと、
やっぱり同じようなことを考えてるようで全然違うものを見ちゃったりとか、答えもやっぱりすごい間違っちゃったりするとかは、
やっぱりそれはなぜかっていうと、ただ概念を持って遊んだだけになっちゃうから。
そうだよね、やっぱり。で、遊びになっちゃったりとかね、対立する人同士がね。
やっぱりヘーゲルが言っていた、アポーネット伝承法ってのは矛盾を解消するものであって、やっぱり本当にどんな矛盾が存在しているのかっていうことを理解するのが大事だし、
あとヘーゲルの有名な言葉に、矛盾は真理であることの基準であるっていう言葉があるのね。
結構言い切っててすごいなって思うんだけど、だって真理って矛盾してないことっぽいじゃん。
そうだよね、矛盾してたら死にじゃないよね。
みたいなことがもう矛盾してるじゃんみたいなことがあるんだけれども、
今日もあんまり気にせずこの矛盾っていう言葉を結構使ってたんだけれども、
実際ヘーゲルにおいて矛盾っていう言葉も結構いろんな文脈で使われたりとか、いろんな意味を持っていたりするらしくて、
それを次お話ししていく中で、よりこの伝承法とかヘーゲルが言っている矛盾とか対立で、
何なんだっけっていうことを理解深めていきたいなっていうふうに思ってました。
そうなんだ、キーワードなんだね。
そうだと思ってる。
この矛盾を解決するのが伝承法という話。今回さらに深まっていく感じがするね、スタート地点をさらに。
そうそう、伝承法をやった上で面白いとなって、まさに今、矛盾を正しく捉えている時の矛盾ってなんだっけっていうのをやると、
より考えが深まる気がしているので。
おー、なんか、はやとの手の平な上な感じをしている。
そうなんだけど、すごいね。
51:02
自分がそういう手順で理解していったというか、そうじゃないとわからなかったっていうのがあるから、それを皆さんにお届けしているというのはあります。
うんうん、了解。
確かに今回の伝承法というものはどこまで自分も理解できたかもだし、聞いていただいている方も「いや、言うてわからなかった」というところもあるかもしれないから、
ぜひ、そろそろやっぱり難しい感じがするから、ここは感じづらかったってところがあれば、ここもちょっと説明を補足してほしいとか、
ここ説明が足りなかったんじゃない?みたいなところは、ぜひぜひコメント欄から特命で送れるので聞いていただきたいね。
そうですね。先ほどメッセージをくださる方も増えていて、わからないところを何回も聞きますよとか言ってくださっているので、
本当はそれもやりたいですし、ただ何回聞いてもわからない可能性があるので、大学の講義とかじゃないから。
こっちのミスによりね、何回聞いてもわからないミスがある可能性があるので。
我々の努力不足により伝えられていないという可能性が多いので、そういったお問い合わせというかね、ご連絡もぜひぜひお待ちしておりますし、
多分ね、やっぱり昨日じゃないわ。前回はもう昨日撮ってないし、前回はもう最初通り。
ヘーギルはやっぱり正直やりきれたとは僕も思ってなくて、また多分ね戻ってきたりとか取り上げたりする手作者だなと思っているので、
もっとね、こんな話が起きたりとか、自分はヘーギルこんなこと知ってるけどこれってどうだろうとかね、そういうのもあればまた言ってもらえたら嬉しいなぁなんて思ったりします。
そうだね、本当ぜひぜひ色々お待ちしてますので、気軽にね、本当にお聞きいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
はい、じゃあまた次回は矛盾ということで、もっとヘーギルの伝承とか思考についてちょっと深掘っていきたいと思いますので、次回もよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
(♪ BGM)
53:21

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