僕もちゃんと読めてないんですけど、
もちろん言ってることが全部わかるとかではないんだけれども、
その根幹にある発想というか、世界観が見えてくるかなと思うんで、
ちょっとここを丁寧にやっていきたいと思ってるんですよ、という感じなんですよね。
はいはい。ごめん、この後出てくるかもしれないけれども、
そもそもその証券派が、少年時代を過ごし、
哲学学問を目指すにあたって、
このカントの後を引き継ぐというか、
そこに対してさらに自分なりに乗せていくっていうのは、
証券派がどう選んだのか、
例えばそれがソクラテスでもプラトンでもアリストテレスでもなくとかさ、
デカルトでもなくみたいな、
なぜカントだったのか、みたいなところってあったりするのかな?
そうだね。まずは先生からプラトンとカントをやりなさいって言われたっていうのが1個あって。
プラトンとカントなんだ。
そうそうそう。
それが多分あなたのテーマというか、考えたことにつながるよっていう風なアドバイスがあったみたいで、
そこからカントを勉強しますと。
とりあえず行くと、カントが残した、去年もやったモノ自体とかさ、
いわゆる世界の分断だよね。
それをどう乗り越えるかっていうことが哲学の主流なわけなんですよ。
はいはい。どこから始めてもね、それこそプラトンから始めても、
一旦カントにはバーッと来て修練1回してるって話だね。
だからね、それを引き継ぐっていうのが多分自然だというか、多分王道の哲学の流れでもあるんだよね、当時でいうと。
なるほどなるほど。一番ほっとかつ誰がどう見ても、哲学の今の主流の疑問というか、観点っていう感じだったんだ。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
へー、なるほど。カントすげーな。
やっぱカントはね、すごいね。時代的にも、ちょうど小平派の一世代上ぐらいかな。
カントが生まれたのが1724年か、で、亡くなられたのが1800年の初頭とかなので、
生まれたのはかぶってはいるけど、直接やりとりしたことがないので、多分そんな感じだと思います。
今回はカントの話からしていくんですけれども、
カントっていうのは何を言ったかっていうと、一言で言ったら僕らの理性とか認識っていうのは限界があるって、その限界を定めたって、やっぱカントがやったことなんですよね。
僕らがいわゆる何かを見たり認識したりするときに、どうしても空間とか時間とか、あとは因果率、因果関係。
例えば、時間っていうものもそうなんだけれども、
例えば最初に視野の左にあった車が、その後右になったとしたら、
僕らはどう頑張っても左から右に車が移動したっていう風にすると撮れないんだよね。
それが瞬間移動なのかゆっくりなのかわかんないけれども、やっぱりその左にあったのが過去、右にあったのが未来みたいな、そういう風にしか僕ら物事を受け止められません。
だったときに、僕に言うと、その空間とか時間とかを超えた存在そのもの、物自体だよね。
っていうものには、どの頑張っても認識が及びませんよっていうことをカントは言ったわけですよね。
ここは何か覚えてるってことはOKかな。
今思い出そうとしながら聞いてる感じかな。
よくリンゴを話しだしますけど、目の前のリンゴを見るって時にも、赤とか丸いとかこれはリンゴであるとかっていうのも、
全部あるし、僕らが後付けでというか、すぐ認識したからそう見えているだけで、
リンゴそのものを捉えてくださいとか捉えましょうって言っても、それやっぱりもうわからんというか、なんだそれってなっちゃうわけよね。
ただ面白いのが、そんなものはないとは言わずに、やっぱりプラトンのイデアもそうなんだけれども、
真実の存在っていうのはあるっていうのは、やっぱりカントの大事な発想なんですよ。
あるんだけど、人間は手が届きません。そこに限界があります。
プラトンは、そこにもイデアを頑張ったら見れるとか、
産総的な生活をしていけば直接そこにたどり着けると言ったのがプラトンなんだけど、
見ることができませんって言ったのはカントだったっていうふうな繋がりなんだよね。
っていうふうなのもあるんで、やっぱりプラトンとカントっていうのは繋がっていくんだけれども、
面白いのは、ショーペン派は実はカントっていうものを否定したわけじゃないんですよ。
むしろ肯定して、確かに確かに人間の理性とか知見って限界あるよねと。
あるんだけど、物自体っておかしくないっていうことを言い出すんですよ。
やっぱそこが宿題なんだね、カントの。
どう頑張ってもそこなんだよね。
どうやっておかしいっていうかっていうと面白くって、
つまりカントは物自体があると言いますと。
そこにたどり着けないっていうふうに言うんだけれども、
でもさ、そもそもその認識が及ばないのが物自体だっていうふうな話をしてるわけじゃない?
そういうときによくよく考えると、認識が及ばないものがあるっていうのっておかしいじゃないですか。
だって認識できないんだから。
そうだね、証明不可だよね。
そうだし、あるとしたらそこに対して、いつからとかさ、どうやってとかっていうことを問いたくなるんだけど、
そしたら問えないわけだよね。
そうだね。
その枠を超えてしまっているから。
なのにあるって言ってしまうと、結局それって何らかの時間なのか空間なのか因果率なのか、
そういうもので捉えようとしてませんかねっていうことを考えていくんだよね。
仏教哲学みたいな話になってきたね。
ないのかあるのかみたいなね。
あるとは何かみたいな。
そっか、でもそこ引っかかったんだね。
そうなんです。
あるって言っちゃうことが矛盾してるよねというか、言葉として成立してないよねみたいな話になっちゃうんだよね。
私に本当は適用できないものを物自体に適用してるんじゃないですかっていうことを考えるんだよね。
でも、隣の小編派は何かがあるとは言いたいんだよ。
なるほど、そうなんだ。
やっぱりそれは当時の1800年代というところのまだ常識的な部分とか、
神ではないにしても、何がしかそういった根源的なものから世界というのはあるんじゃないかということには同意をするわけなんだよね。
確かに直感的にはそうとしか思えない問題だったね。
遊んだんだよね。
そこでいきなり無ですとか空ですって言われても、もっと迷うよね確かにね。混乱するよね。
たぶん後々仏教とかに触れてまさに無とかっていうことにもすごい目を向けてるんだけど、
もっと言うと、無っていうものをちゃんと世田谷哲学に取り込んだのの初めての人ぐらいな感じで言われることがあるんですよ、小編派は。
なのでそういったものに目が向くし、あとは前回小編派は医学から入ったとかも言ったじゃないですか。
なのでやっぱりその認識というのを考えたときに、当然無っていうような物理的なものとか、
そういうふうなものが何か介在しているということは当然見えてるわけだよね。
解剖学的な観点として。
言ったときに、いわゆる客観的なというか真実の存在、物自体っていうものがあるのは何かあるんでしょうと。
それを見ている私っていう存在とか認識する主体もあるでしょう。
それ自体は全然構造としてはいいんだけれども、やっぱりカントが作った構造そのものを引き継ぐわけにはいかないっていうふうな、そこから始まってくるんですよね。
これは面白いんだけれども、じゃあ僕らって何か対象を観察しようとか認識しようとするときに、どうしてもたどり着かないもの自体があるっていう話じゃないですか、今。
だったときに、それって対象が外にあるからたどり着かないんだよね。
当然リンゴが自分の外にある、認識の外にあるからそのリンゴの奥にある本質にたどり着けませんねっていうときに、
自分自身っていう内側に目を向けたときに、自分の体って外だけじゃなくて内側からも眺めることできませんかねっていうふうに考えるんだよね。
ほうほうほうほう。
どういうことかっていうと、例えば体ってさ、今皆さんよかったら運転中とかは別にいいんですけれども、自分の例えば手を見てほしいんですけど、
手ってさ、自分のある種外部というか目で見えるものとして認識して、なんか確かにありそうだなとかさ、こういう色だなとかさ、そういうのって見えたりするじゃない。
はいはいはい。
そういう意味で外部から自分の手を観察することもできます。
で、一方で例えば自分がその手を動かそうとか、こういうふうに目の前に掲げようとか、そういうことは観察をする前というか観察をすることとは別で起こってるじゃないですか。
どういうことだ、ちょっともうわかんなくなってきたぞ。
ちょっとわかんなくなってきた?
どういうことなの?
僕らは物自体ではないけど、そういう存在の奥にある本質的なものを知りたいわけだよね。
っていうときに世の中のいろんなものを見ても結局はたどり着けませんと。
ここでショーペンハーワーは自分の体っていうものに目を向けるんですよ。ここまではOK?
OKOK。
うんうんうん。
だったときに、要は体を外から観察しましょうと。
それだと他のものと一緒だよね。リンゴとも一緒だし、別に他のいろんな存在と一緒じゃないですか。
っていうときに体を外から観察しなくて、内と呼んでいいのか、別の角度から見てみましょうということを考えるんだよね。
ここまでもOK?
だと思う。
だったときに、体っていうものを二通りの方法で見ることができますと。
これはさっき言った外から観察するっていう話と、自分自身が何かよくわかんないけど、その手を動かすことができるとか、
あるいは手をつねったら痛みというものが発するとか、そういうことを感じるじゃないですか。
あー、そうね。はいはいはい。
っていう風に、自分の体っていうものだけは、その外からの観察っていうものも内側からのなんだろうな、
要は他の人が痛がってるかどうかって正直わかんないじゃないですか、実際は。
でも自分の体だけは痛みというものが何か体の内側を走る感覚があるとか、
手というものから伝わって体の中心に至るような感覚があるという風に、
観察的な理解ができるよねっていう風に考えるよね。
あー、なるほど。はいはいはい。
そういった意味ではもちろんね、難しいな、でももちろん違うと思っちゃうよね。
違うと今思わされてるかもしれないね。
そうそうそう。確かにリンゴの痛みはわかんないけど、自分はそうだねみたいな。
そこは文字通りは一応理解してるつもりかな。
うん。だったときに、つまり自分の体というものだけは、
この宇宙の中で唯一2つの方法で捉えられるものですねっていう風に考えるんですよ。
はいはいはいはい。
これしたら何かわかる気がするじゃん。
うんうん、そうね。
で、そういったときに諸ペハが面白いのが、
この自分が手を動かすとか、何かをつねって痛みが走るとかっていうときに、
この動きっていうものは何か自分が手を動かしてやろうとか、
何かそうやって自分が動機を持ったから起こったその結果っていうことじゃなくて、
実はその手を見るっていう観察の働きと、
その奥に実は自分が手を動かしたんだっていう風な意欲とか、
これがまさに意思に近づくんだけど、
意思を持っているとかっていうことは、
同じ現象を別の言葉で言ってるだけなんだっていう風に考えるんだよね。
これちょっと難しいんだけど、ちょっとちゃんと言うね。
つまり僕らは普通の世界観からすると、
手を動かそうと脳が例えばそういうシナプスが動きましたとか電気が発生しましたと、
それが神経の伝わって手の筋肉を動かして手が動いたっていう風に、
一連のものとして出てくるじゃないですか。
これはある種機械論的というか、
体っていうものはある種道具と変わらんみたいなそういう発想なんだよね。
こっちのほうがイメージ枠と思うんですよ。
で、そこからはそうじゃなくて、手が動いたという現象、現れだよね。
これがある種表彰なんだけれども、
この表彰の実は裏側というかそこと全く同時に、
手を動かそうとした自分の意思とか、
手を動かさざるを得なかったような情報が出てくる。
手を動かさざるを得なかったような状況とか。
そういうものがありましたよねっていう風に言うんだよね。
見えてきた?
そうね。その違いだったりとかその関係性みたいなものは見えてきたかな。
つまり、世の中のリンゴとか他のものを見ると表彰、現れしか見えない。
リンゴが落ちたと。
とか、車が走ったってもうしか見えないんだけれども、
自分の体を観察すると、手を動かしたっていう表彰の奥に、
動かそうとした意思とか、動かさざるを得なかった理由とかっていうのが見えてきます。
つまり、その表彰の奥に見えない本質があるっていうことじゃんって考えるんだよね。
なるほど、なるほど。
そっか、その着眼点分かった。
分かった?見えてきた?
そう。
で、それって実はカントが言ったもの自体なんじゃないっていうところに飛躍するっていうのが繋がっていくのがショーペン派なんですよ。
どういうことかっていうと、
リンゴを見たときにその本質は見えませんでしたっていう風にカントは言ってるじゃない?
つまり、見える赤くて丸いリンゴという表れの奥に本質がありますっていうことと、
自分が手を動かしたっていうときに、
動いた手とその奥にある動かそうとする意思とか、
動かさざるを得なかった要因っていうものは、
現象としては現れないけど、
その奥にある手の動きを表した本質じゃないですか。
本質というか、もう一個の側面じゃないですか。
っていう風に僕らのこの世界っていうものは、
見える表れ表象と同時に起きてるんだけど見えない意思っていうものの両面でできてるんじゃないかっていう風に考えたんですよ。
おー、なるほどなるほど。
そう考えると、リンゴにどういう意思があるかわからないが、
何がしか落ちるということに対する意思もあったんじゃないかろうか。
リンゴそのもの、これはちょっとまた次回以降ちゃんとやるんだけど、
そういった何か意思が働いてると言ってもいいよねとか。
車が走るっていう時に何かわかんないけど、
その走ってる現れの奥に何らかの意思が働いているんじゃないかとか。
なぜなら自分の体はそうだからっていう風に想像できるわけよね。
なるほどなるほど。今、早藤のリンゴは落ちるって表現してくれたけれども、
多分今回の今の話、感覚でいうと、
リンゴがリンゴであることにも意思があるって話でしょ。
そう、物自体からするとそうだね。
今の早藤の話だと、何かリンゴが落ちるとか、車が走るとか、
動きがあった時にそれで意思があると言われちゃうと、
早藤が今回言いたいこととずれちゃう理解になっちゃう気がして、
車が車であること、リンゴがリンゴとしての木になっていること、
あることっていうものが、そもそも何らかの意思の発露として、
表現として表彰として現れてるから、
うちらはそう見えてるだけで、本来はうちらが、
例えば早藤が手を動かした時には、自分から見ると、
手を動かしてるに見えるんだけど、実は痒いから痒いとか、
別の意思があるわけで、ただその意思を、外部のものの意思は、
こちらからは見えようがないので、わかんないんだけど、
その表彰として早藤は手を動かしている。
同じように、何らかの意思の表彰として、リンゴがリンゴとして、
ただそこにあるみたいなことが起こり得るよね。
ただその意思はわかんないけどねっていう。
そのまずは、あることだったりとか、
漫画地下の運動でも何でもいいよ、
っていう自然界そのものに対して、
2つの見方を提示しましたって話ね、初手漫画は。
おー、完璧な理解です。
分けたね。
うちらから分けてるわ、ちゃんと。
そうそうそう。そうなんだよね。
だから何か言った通りで、動きの方が分かりやすいと思って言ったんだけれども、
まさに存在とか実在もそうですと。
おっしゃる通り何らかの意思。
意思って言うと人間の意欲とかさ、
そういうものっぽくなるんだけど、
エネルギーとかでもいいんだけど、
何かそういった、
世界の意思って言っちゃうとね、より大げさになっちゃうけれども、
そういったものは仮にあったとしたときに、
その働きによってまさにリンゴがあると。
あるいは車がある。
何らかの世界にあるようなものがあるっていう風に見出すことができるんじゃなかろうかっていう風に考えてたんですよね。
これは非常に面白くて、
さっきさ、僕が言った脳がシナプスがあって神経を通って体が動くみたいな話って、
要は精神と肉体っていう二元論的なデカル的な発想なんですよ。
意思があって動くとか、精神があって動くとか、
精神があって体が動くみたいな話って分かれてるじゃないですか。
なので、これが当時の哲学の主流なわけなんだけれども、
ショーペン派はこれをめちゃめちゃやっぱり否定するんですよ。
なんかちょっと似てる気もするけどやっぱり違うんだね、そこは明確に。
そう、つまりあくまでも世の中にあるものは意思と表彰って分かれてるように見えるけど、これは表裏一体で。
兄貴が言ってた通り、リンゴがあるという表彰の奥には常に何らかの意思があるって話だから。
さっき言った、例えば痒いからとか、
例えば手を挙げたいからっていう時にも、それがリンゴとか前後であるんじゃなくて、
手を挙げたというその表彰とか事実に対して、表彰と意思が両方働いてるよねっていう風な。
そういう風にショーペン派はやっぱり世界を捉えようとするんだよね。
あー、はいはいはい。
単純なリンゴみたいな前後とかそういうわけじゃないんだよって話なんだね。
そう、そういうこと。
まずなら、これフィセとかシュリーグとか言ったんだけど、やっぱりカントが分けたもの自体とやっぱりその表れっていうものを、
いかにやっぱりもう一回統合するかとか、フィセでちゃんと全部捉えるようにするかっていうことが宿題なわけよ。
そういう時に、ショーペン派は人間に認識できないものとか捉えられないものがあるっていうことが良しとしたんだけど、
それは別れがどっか遠くにあるんじゃなくて、ただ表彰っていうものにちゃんとついてあるんだと。
だから、見えないとか認識ができないだけで、ちゃんとそこがお互い働き合ってるんだっていうふうな、そういうことを捉えようとするんだよね。
はいはいはい。なるほどなるほど。
もの自体っていうふうなものの存在にちゃんと輪郭を与えてくれたというか、感じがするね。
もっと言うとその存在じゃなくて、意思というもうちょっと働きみたいなものとか、固定化されなさそうなものが実はこの宇宙の世界の根本にあって、
それが僕らが見ている世界の表彰とか表れとかっていうものを作っているんだけど、
それは表裏一体で常にそこにあるんだよっていうふうな、そういうふうな発想を持っていくわけなんですよね。
なるほど。なんとなくイメージは湧いてきた気がする。
湧いてきた?
うん。
やっぱり結構、当時受け入れられないのはそれはそうだよねって話で、
次回以降ちゃんと言うんだけども、ここで意思って何って話をちゃんと伝えていく必要があると思っているんですけど、
いわゆるさっき言った手を挙げようという意思とかさ、明日から頑張るぞみたいなそういうふうなことじゃなくて、
何て言うのかな、無目的なというか、ただあるとか、ただ存在って言葉も難しいんだけれども、ただ存続するとか、
結構そういう、何て言うのかな、チョースなんだよね。
うん。
やっぱり当時の平気で的な感覚からすると、
仮に意思があったとしてもそれはより良くしようとかさ、もっと良い方向に行こうみたいな、
そういうふうな発展的な意思ってなっちゃうんだよね。
そうだね。
そう。そういうものじゃなくて、ただただ、何て言うのかな、
もうこの世としてあり続けるとか、
あんまりその、ひっくり返したらなんだけれども、
たぶんロースオフィスのタオとかに近い、世の中の根源的なエネルギーがあって、
それがたまたま今はリンゴになっているとか、リンゴとして意思が表彰されているとか、
あるいはファンの流れとして意思が表彰されているとか、
そういうふうな発想に近いんだよね。
いやー、そうだね。特定のベクトルみたいなものを感じないもんね。
ただただ、説明してくれてる感じみたいな。
そうそうそう。そうなんですよ。
これが面白いのが、さっき言った通り、これって要は自分の体とか、
自分の内側を通して発見したものじゃないですか。意思というものが。
それがもしかしたらリンゴにもあるし、クリアマンにもあるしって広げたときに、
むしろそもそもそれが世界の根源であって、
イコールカントが見出したもの自体だっていうふうなところにつながっていくんだよね。
どうなるかっていうと、おやおやと。
世界の根源であるもの自体みたいな、そういう真理みたいなものと、
自分の中にある意思というか、そういう働きっていうものが一緒じゃないかと。
つながってるじゃないかと。
そういうふうな発想やっていくんだよね。
同じ原理で動いてるみたいな、そういうところまで発見してるんですよ。
すごいね、そっか。
だからこれは、ちょっとすごいちゃんと覚えてないけど、
フィッシュってシェリングが、なんだっけ、自我からいったのと、
なんか世界のエネルギーからいったみたいな、なんかあってもないの?
そうです。フィッシュは自我の方からいって、超自我とかって自我を突き詰め続けたっていう人だよね。
シェリングは逆に自然が発展する中に、理性とか自我とかそういう人間的なものも自然に発展してくるから、
もちろん自然っていうものの方に、人間の理性とかの根本があって、分ける必要がないみたいな。
そういうふうな発想をした人だよね。
なんか、そこを統合した感じがするよね。乗り越えた感じがするよね。
違うのかな、感覚がそもそも。
そもそも違う。やっぱり二元論と一元論だけで発想違いが多分あって、
やっぱりフィッシュシェリングはどこまでいっても自我と自然っていう対立構造の中で、
どっちが主かとか、どっちに吸収するかっていう話を考えてるんだよね。
で、ショッピングハウスももちろん自在的にそこまでいってるわけではないんだけれども、
あとね、東洋哲学とかそれこそウッパネシアトとか見ていくときに、
やっぱり世界は幻であるとかさ、その根底に唯一絶対の存在があるみたいな。
それこそ、ボンガイ一年はグラフマンとアートマンとかの発想に近いんだけれども、
自分が考えたことってむしろこっちに近いんじゃないというか、ほぼ同じことを言ってねみたいな。
そういう範囲になっていくわけなんだよね。
あー、そっかそっか。飲み越えたっていうのを、ハヤト的に言うと、
二元論的なことを考えてる人たちと、
ショペ派はそれを一元論的に、やろうとしてるよっていうふうな違いとして捉えられるって。
そうだね。やろうとしてるとかやらざるを、なんか気づいたらそっちに至っちゃってたって感じかな。
当時その、一元論で考えるとか、そこを統合するって発想したら多分そんなのなかったはずだから。
はいはいはいはい。
うん。ね。
そっか。ヘイゲルの伝承法家だったりとか、ヘイゲルの考え方も違うのか。別に。
そうだね。あくまでも精神っていうものの働きだけであって、別にそれが統合されていくとか、肉体とつながっていくとかっていう発想まではしなかったはずだから。
はいはいはいはい。
しかも当時で言うと、神と人間は違うとか、当然その子っていう存在が少しずつ出てきた中で、
人間としての子っていうものはまだ少ないけれども、やっぱり人間と世界が一つであるとか、もっと言うと神と人は等しいっていうふうになっちゃうから、
そういうことは当然言えないわけだよね。
はいはいはいはい。
でもこのショーペンハワーは、そういった意志っていうものを掴んだときに、意志っていうものが世界の根源で、そこと人間が直接つながっているっていう、
今の僕らからすると、それってわかるよねとか、東洋っぽいよねって言えるんだけど、
当時そんなファインシャットなんて当然誰も読んでないわけよ、ヨーロッパ社会の中で。
ほとんど読んでない中で、そこにある種たどり着いたっていうのは、本当に当時の世界観っていうものを一人で乗り越えちゃったみたいな。
はいはいはいはい。
そのぐらいの突き抜け感があるんだよね。
なるほどね。やっぱりその幼少期の諸国万有みたいな生活、そういうボーナスな感覚が効いてるのかね。面白いね。
そういう、やっぱり、いろんな言葉を話せる人はあるだろうと思うんだけど、自分の話でも喋ってる言葉によって言ってることが違うとかさ、
たぶん自分の発想が変わるとかってあったときに、
ショペハンはもちろんイギリス語とかフランス語とかもそうだし、ラテン語とかもできたから、そういった古代の本とかもちゃんと自分で読んでたらしいんだよね。
そういうふうな発想の中で、自分は同じように勉強してるのに、例えばラテン語で勉強してるときとフランス語のときが違うとかさ、
そういうふうな実感とかも、これはもちろん書いてないことだから別の想像なんだけど、なんかあったんじゃないかなって思うんだよね。
なるほど、なるほど。そこら辺の言語的なというか、やっぱ物事を捉える視点っていうものが、
研ぎ澄まされるじゃないけれども、より現実だったりとか、ピュアになっていくみたいな感じはあるんだよね、確かに。
そうかもしれないよね。勝手に訓練されてたみたいな感じがあって。
なので、僕としては石みたいなものを仮に発見したとしたときに、それが物自体と一緒じゃんみたいなふうに紐付けたのが本当にすごいなと思って。
へー、そうなんだ。
なぜかっていうと、物自体ってどうしても固定化されたさ、本当にこってりした、本当に揺るがない存在ってイメージは僕の中にはあるのよね。
はいはいはい、そうだね。
リンゴをたらしめている不動の存在。まさにイデアもそうと思うんだけど、人間の手では届かないイデア界にあって、
本質を守ってますみたいなさ。そういう感覚を僕は持ってたんだけど、石みたいなさ、よくわからないですよね。石ってなんだろうみたいな。
それが実は物自体であったっていうふうに取り替えられる柔軟性というか、突き詰め方。それが本当にすごいなって思ったんだよね。
なるほど、確かに確かにそうだね。まだ石がないなのかってちゃんとイメージできてないけれども、おかしいよね、確かに。
いわゆるイデアとは全然違うもんね。
そうそうそう。だからそのバランス感覚、要は関東を否定しきるのでもなく、そういった物自体とか認識できないものがあるっていう構図は引き継ぎながらも、でもそこの一番大事な物自体を石にすり替えちゃうみたいな。
どんだけのことやってんの?みたいな感じをすごい感じたんですよ。
なるほどなるほど。まだね、その一心をちゃんとわかってないから、そのすごさをまだちゃんとイメージできてないんだけれども。やっぱりそんだけすごいんだよね。物自体だとある程度固定化されたもの。
石だともうちょっと流動的というか。さっき言ってくれたローソーシストっていう木だっけ?
ローソーシストはタオだったりとか、ファインシャットで言うとブラッハマンとアートマンとかね。
なんかあったよね、種子?何だっけ?
テラクマル、力二元論みたいなね。
コップですくうと、例えばりんごで、バケツですくうと、水解になるみたいなさ。
はいはい、大葉明のあたりとかかな。
大葉明、はいはいはい。
種子学のあたりだと思う。
種子学か。
うん。
そういう感覚なのかなーみたいなね、石がね。
うんうんうん。
その辺はまた次回以降ちゃんと話していきたいし、石っていうのを突き詰めていくと、何て言うのかな。
まさに前回も最初に西みずむ悲観主義とかさ。
どう照明ハードがひき除けられやすいって言ったと思うんですけど、
この石っていうものをいろいろと突き詰めていくと、やっぱりなんかそういう苦しみとか、
ちょっと世の中、どうしようもないみたいな、結構そういうふうな感想につながっちゃうんですよね。
へー、はいはいはい。
どういうことかっていうのをちょっと先取りしていくと、
やっぱりさ、何度もさせてやれば、フィヒテとかっていうのは基本的に世の中には調和っていうものがあって、
みんなはそれは崩れてるかもしれないけれども、
基本的には時代が進めば進むほど、より完璧な、より調和に取れた世界になっていくんだっていうふうな、
そういうものがフィヒテもシェリングもヘーゲルも、みんなやっぱりそういうふうに思ってるんですよ。
ほうほうほうほう。
つまりその進歩主観ではね、世の中はどんどん良くなって、いずれ完璧な世界につながっていく。
ショーペンハンはやっぱりさっき言ったように全く違うんだよね。
つまり意思っていうものはカオスだから、もう別にそれが、いつ、なんだろうな、どっから来てどっから来るかももちろんわかんないし、
だからいつなくなるのかとか、そもそもなくなるものなのかどうかとか、そういうことも含めて一切わかりません。
そうなると、結局僕ら人間にとって、理解するべき神もいないし、世界っていうものは別に、本質的に何か意味があるというよりは無意味なものなんですと。
ほうほうほうほう。
それはあって、意思って僕らの理性とかインガリスとか空間じゃないと捉えられないから、
それがどう動いてるかとかどうなるかなんて、そもそも考えられないんだよね。
なるほど、なるほど。
考えられないんだけど、意思っていうものは表象として僕らの世界に飛び込んでくるから、
なんかよくわからない、暴れまわってる子犬でもなんでもいいんだけど、
そういう予測つかないものが、なぜか僕らの世界っていうものを決定づけているんだっていうふうな、そういう世界観になるんですよね。
わー、はい、すごいね、なるほど。
それって結構怖くない?
悲観主義とか虚無主義的な方につながるっていう感覚がわかるね、それは。
ね、そうそう。
もちろん現代でこそね、これってまあまあそうだよねとかさ、別に秩序ってないよねってなるかもしれないけれども、
当時やっぱまだまだね、神の秩序とかさ、そういった完全な世界っていうものがあった時代だから、
それを考えると、やっぱりショーペンハワーの世界って、もうある種、ちょっと到底受け入れられないというか、そんな世界で生きたくないよねみたいな感じだったのもわかるってところなんだよね。
そうだね、どうなんだろう。いわゆるこの意志っていう言葉が難しいというか、独特、普段と違う意味合いで使ってるなと思うんだけど、