1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #30「我あり」からの「神あり..
2022-08-07 39:28

#30「我あり」からの「神あり」!?神の存在証明に挑んだデカルト

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

【内容】前回の感想/名言あるある/神の存在証明/原因と結果の関係/ニュートン力学の世界とアインシュタイン相対性理論の世界/三つの証明方法/神とメタバース/ハイデガーと存在/哲学の使用上の注意/混ぜるな危険/哲学と自然科学/あなたもデカルトになれる?/次回はカント

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00:00
(BGM)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、デカルトの一番有名な言葉の「我思うゆえに我あり」というところが、なぜ出てきたのか、どのようにして導き出されたのか、というところを教えてもらいました。
どうでしたか?聞いてみて、理解深まったなとか、広がったなとかってありました?
そもそも言葉しか知らない状態から、教えてもらったんだけれども、面白かったのは、その言葉だけ知っていると、
「我思うゆえに我あり」で、自分しか存在しないみたいなものがあった時に、それってもう人間が二人いたら、それぞれを消し合って終わりじゃんみたいな、何の意味もないなみたいな。
確かに、ぷよぷよみたいになっちゃうね。
そうそう、消えて終わりじゃんみたいな。
言葉尻だけを捉えた意味がないみたいな、勉強する気も学習する気もないという、とてもダメな精神姿勢なんだけれども、という感覚だったんだけど、
やっぱり当時の時代だったりとか、いろんな必要性だったりとか、というところから導き出された、とても意気のある話。
それをもとに、多分、時代的なカトリック宗教とか、神の存在とかがちょっと揺らいでるとか、時代的にもいろんなものがちょっと前にというかね、
という時代の中で、多分、今ももちろん残っているわけだから、すごく重要な問いだったりとか、仮説みたいなものをやっぱり打ち込んだんだなっていうのをすごく感じたね。
おー、そこまで感じてもらえて、嬉しいですね。
偉そう。感じられたから。そういうふうに言われちゃった。
確かに。
偉そうかなって、偉そうなこと言っちゃったなって。
そこまでかな、みたいな。
でも、言葉だけを知っているのと、その前後の文脈とか、なぜその言葉が出てきたのかみたいな。
もっと言うと、方法図説、全然長くないから、もし今日持っていた方は読んでいただけたらと思うんですけど、別にその言葉をめちゃくちゃ取り上げて、
「我をもう故に我々だ」みたいな、言ってるわけじゃなくて、別に。
別に、いろんなことを考える中で、ということを発見したんだよ、だからまたここからいろいろ考えていくねっていうふうな感じだから、
やっぱり言葉だけを取り上げて、王業に出かけた子を言ったんだっていうのも、後からの評価だったりとか、
講師の人が言っていることであって。
そっかそっか、別にタイトルにもなってないし、見開き1ページにドーンって書いてあったわけでもないんだ。
そうそう。漫画みたいにね、パーンみたいな感じじゃないから。
後の人が「この言葉いいじゃん」って「キャッチーじゃん」って言って認知されたみたいな。
03:04
取り上げやすくするっていうね。
そうそう。だからなんか、あの人でね、僕もまた取り上げますけど、やっぱりニーチェの「神は死んだ」とかもまさにそれで、
ニーチェは別に神殺したいわけじゃないから。
そうなんだ。
うん。でも彼がいろんなことを考える中で、そういう時点にたどり着いて、神は死んだってところからまさにいろんな考え方をしていくっていう、
その一部だけが取り上げられちゃうと、変なイメージとかね、やっぱり正しく本当はその人が言ったことが伝わらないってことで、
実学ってあるあるだと思っているから。
なるほどね。ある意味マーケティング的には成功だけれども、必ずしも本人がそれを意図したわけではないみたいな。
そういうこと、そういうこと。
だからね、なんかそういうのもちょっと伝えながら、正しいという、ある程度正しいと言われているその人の言っていることとか書いてあることっていうのもね、
伝えられたらいいなっていうのは、実はこのラジオの僕のやりたいことの一つでもあるんだけど。
はいはい、まあ確かに哲学とか、特にね、とっつきにくいから、そういう誤解みたいなものがなかなか払拭されずにね、
まあそれ必要も本人たちからしたらないのかもしれないけれども。
確かにな。
でもそういうのは面白いね。そういう、ああこれ誤解だったんだとか、これってこういうことだったんだみたいなのは。
っていうのはね、ちょっとぜひ今後お目の届けしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
ありがとう、でも伝わったみたいで嬉しかったです。
面白かった。
うん、よかった。
はい、そしたら今回はですね、前回と続けて、神の存在証明の話をしたいんですけど、
まあそもそもね、神と存在を証明するみたいな言葉があんま結びつかないと思うんで、普通に僕らが生きている感覚からすると。
なんとなくね、宗教のイメージでいうと、神って前提あるものだみたいな話があると思うんですけど、
まあでも実はこれってデカラートが初めてやったことじゃなくって、
それ以前の、当然宗教家とか神学者の人たちも、神っていうのはどうして存在するのかとか、どういう存在かっていうのは、
実はそれぞれの時代でいろんなことを考えている人がいたんですよね。
ああ、そういう話、ごめん、にわかだけど、そうだよね、それこそ神の定義みたいなさ、
それこそキリスト教的な話でいうと、三位一体で誰が、みたいなさ、いろいろあるもんね、多分。
キリストが神なのか、それともみたいなね。
あれまで結局、公会議っていう会議で、この説を一旦採用しよう、みたいな、
あの、っていう話の中でね、決まっていくものだったりするから、そうじゃないものが一旦としてどんどん知り得られていくみたいなやっぱり時代だから。
そっかそっか、神の時代の存在を証明してきたかはともかくとして、神とは何か、みたいな話はずっとしてきているわけなんだね。
そうそうそうそう、で、そういうのをありながら、でもデカルトはそれを踏まえずに、
その、我っていう存在にたどり着いたから、そこから神の存在っていうのを証明しに行くっていうことをやりますと。
06:01
で、なんでじゃあそれをやり始めるかっていうところなんだけど、デカルトがこう考えるのね、
じゃあ我っていうのは存在するってのは分かった、というか、まあそこをたどり着いたと。
で、ただやっぱ直感的に考えると、我っていう存在は、なんか不完全な存在だって感じるよねと。
で、だからその中に神とか、デカルトがいう神っていうのは、結局その好めなく完全なもの、
とか完全無欠の存在のことを指して神って呼んでるから、別にキリストがとかアラーがとかって個別の神を指してるわけじゃないんだけど。
はいはいはい。
そういう、不完全だと思われる我が、完全な神っていうものを観念として持っている、信じることができる。
で、それはなんでなんだろうとか、その観念として我が思っている神っていうのは疑えるんだけど、果たして実在するのか、みたいなことを考えだすのね。
で、全部のものを疑えちゃうから、神の存在はもちろん疑えちゃうじゃない。
そうだね。だからこそ証明しようとしてるわけだしね。
そうそうそうそう。で、これから3つの方法の証明をちょっとご案内していくんだけど、その前提としてちょっとお伝えしておきたいこととして、
デカルトは細かく分割して、一応わかりやすいものから推論するっていうやり方をとっていくから、結構因果とか関係性とか順序っていうのをめちゃくちゃ大事にするのね。
うんうんうん。
で、だった時に彼が言うのは、その原因と結果っていうのがあった時に、結果っていうのはすでに原因に含まれている。
もっと言うと、原因っていうのは結果を超えないんです、みたいなことを言うのね。
どういうことかっていうと、例えばこれは僕の例だけど、花が咲きますっていう、花が咲くっていう結果に対しては、原因として植物の中にこれは花が咲く植物であるとか、
花っていうものが、その芽とかつぼみの中の可能性として、もう持ってなきゃいけないよねっていうことが言えるじゃないですか。
はいはいはい。あとはあれかな、別の例を今思いついたんだけど。
やってみて。
原因は結果を超えないんだよね、の例として、合ってるかわかんないけど、食べた量以上に太んないみたいな、体重増えないみたいな。
はいはいはい、そうねそうね。
植物も同じかもしれないけど、摂取した栄養素以上には成長しない、とか花は咲かないみたいなね。
そう、だからインプットとアウトプットみたいなのがあった時に、インプットを超えるアウトプットっていうのは基本ないよね、みたいなことを言いますと。
あーでも、ごめん、反省思いついちゃった。ごめん。話の流れがあれだな、崩しちゃうわ。ごめん。
ちょっとこれ、手子の原理とかは違うのかな。
あれはでも、ただのあれか、力の法則の話か。
09:02
そう、かかり具合だから、インプットした力を正しく伝えるってのは手子の話だから。
手子があるからその結果が出たっていう意味では、インプットとアウトプットに矛盾というか、そこはもちろん超えてないよね、ロスがなかったとしても100%だよね、手子の力使ったからと。
ごめん。
でもね、今の手子の話はめちゃくちゃ実はいい話で、なぜならこの世界ってニュートン力学の世界なのね、まだまだ。
いわゆる投足直線運動で、刺激をしない限りは止まりませんとか。
ニュートン力学的な、わりとちょっと分かりやすい世界から、アインシュタインの相対性理論的な環境とか場所とか状況によって、力とかも変わる、支え方が変わるっていう世界に生きてるんだけど、
当時1600年はまだまだニュートン力学の世界だから、原因と結果は一致するとか超えないとかっていうのが、まさに手子の原理的な力を入れればその力がちゃんと伝わって物体を動かすっていうような世界と結構近かったりはするんだよね。
なるほど、そういう意味での当時の科学レベルというか認識レベルの限界点の中でデカルトは考えた結果だよっていう前提はあるってことなんだね。
あるね、そういうこと。だから無から有は生じないみたいな話で、もちろん考えていくんだけれども。
で、だとしたらだよ、だとしたら我っていうその不完全な存在の中に完全な神の観念があるっていうのは、結果として存在している我、我は何らかの原因の結果から存在していると思えるじゃない。
いきなりシュッて現れたわけじゃないから。で、あった時にその不完全な結果に対して原因としての神みたいなものは完全なものがあるっていうのは超えちゃってるんだよね、原因が。
ああ、はい、分かる分かる。人間というものが自分、我だよね、唯一証明できた我というものが存在する原因について考えた時に、本来であればそのこの不完全な我と同じかそれ以下のものがないと生まれ得ないのに、そんなその完全無欠の神みたいなものから自分が生まれると原因の方が超えちゃってるからおかしいじゃんっていうふうに思いますが、そこ。
そこ理解できた。
よかったよかった。そうそうそう。で、そこが分かると次の証明が分かりやすいっていう感じなんだけど、なので、えーっとね、3つの証明を一個ずつやっていきますと。で、ちょっとすごいあっさりしゃべるから、ちょっとこの筋から、なんだろう、本来の証明とは違ったりもしちゃうんだけど、いろいろ感じてみてほしいですと。
まず1個目なんだけど、まず我は存在するよねっていうところはもうOKですと。で、じゃあ、我っていうのは神の観念、要は完全無欠なものの原因として適切だろうか、適切だろうかってことを言いますと。
12:03
要は兄貴が言ってくれた通り、じゃあまず原因として、私が原因で結果として神の観念が、とか、完全無欠なものが出てくるって考えるとすると、さっき言った通り不適切だよね、要は自分という不完全なものから完全な神の観念が生まれてこないと。
だとしたら、原因としては別の何かが必要だよねと。ただそうやって原因は何か、原因は何かって遡っていくと、それが何かは分かんないんだけど、その原因があるって言った瞬間に、その原因っていうのがそもそも神だよねと。
神がヒリストなのか何か分かんないけど、アマテラス、オミカニなのか分かんないけど、完全無欠なものっていうものが原因としてあるんだったら、それイコール神だから、つまり神っていうのは存在する。
なるほど、なるほど。はいはいはい。 っていうのが1個目の証明ですと。で、2個目の証明は同じだったから出発するよね。我は存在しますと。じゃあ、我の存在の原因っていうのは我の中にあるのかなって考えるよね。
自分の原因っていうのは別にあるのか、自分にあるのかって、1個目の証明は別にあるって話だよね。じゃあというか、自分から新しいものが生まれるんだったら、神は生まれるかって言うと生まれないから、自分の原因に神があるって考えなきゃいけない。
2個目の証明で。2個目は、じゃあ我っていうものは我から生まれるかって考えた時に、もし我の中にその原因があるんだったら、その存在を生み出すみたいな力っていうのは、普通に考えたら絶対最高の形、要はその能力があるんだったら最高に発揮するから、
完全無欠な我っていうのを作るよねって言いますと。つまり我はその完全無欠な神を我として作っただろうって言うんだけど、でもそうなってないよねと。
ってことは、我の存在の原因は我の中にはないです。その原因を考えると結局我の中にはないからそうに考えると、証明1と一緒でどこかに原因があるって考えていくと、そもそもその原因っていうのがイコール神、完全無欠な存在。
で、その存在を作り出すっていう働きは絶対に、何かを生み出すんだったら完全無欠なものとしてその存在を生み出すだろうから。ってことはその生み出されたものとかその原因っていうのが神だよねみたいなことを論争していきますと。
結局ここプラトンのデミウルゴスっていう存在は不完全だったから不完全な宇宙を作っちゃったみたいな話と結構近いというか似てるかなと思うんだけど。
はいはい、この証明2で言うとデミウルゴス、仮に自分がデミウルゴスだとしたらみたいな感覚なのかな。
そうだね、もっと言うと自分神だとしたら完全なものを作れるんだけど、自分は完全ではない、デミウルゴスよりの存在だから不完全なものとして自分とか宇宙を作るし、世界っていうのも不完全なままになっちゃうけど、だからこそ神っていう、要は完全無欠な存在を想像できるっていうことはそういう存在がいるよねっていう風に論争していくっていう感じかな。
15:27
はいはい、それは自分ではなかったからっていうことはやっぱり外にいるんだろうねみたいな話ね。
そうそうそうそう、っていうのが1個目と2個目の証明なんですけど、どうでしょうここまで聞いて。
うーん、なんか言葉遊び感もあるっちゃあるなーって思うんだけれども、いいの?この2個目までの話で感想言っていいのかわかんないんだけど。
うん、一旦2個目まででいい。3個目までちょっと違うというか、もっとシンプルになるから。
はいはいはい、多分このそもそもの前提が原因は欠陥を超えないっていうところにあると思うんだけれども、個人的にはそこがまずちょっと神が人間をいるのかどうかみたいな話で考えると、あとさっきも花みたいなのでもいいんだけど。
はいはいはい。
ちょっとこれが精神的な話と物質的な話で違うのかもしれないんだけれども、例えば神対自分を一対一で考えてるのが、そもそも間違いって言うとあれだけど、なんかしっくりこない感じがして。
なるほどね。
例えば花で言うと植物で言うと、もうそこに栄養を与えるっていうのは原因なんだけれども、その原因っていうのはやっぱり無人像にある土壌っていうものがあって、そこにさまざまな命が芽生えるわけで。
それは動物とか人間っていう話をしても、ある意味基本的には一つの個体から一つが生まれるっていうのは少なくて、二つの個体から一つが生まれるみたいな話で言うとその土壌にある意味近いものがある。
はいはい。
その原因と結果、原因の方が多いじゃん。2から1が生まれてるわけで。
うふふふ。
子供10人いたら2から10生んでるわけだけども、そういう意味で、あとこの前のこれは十二演技説の時だと思うんだけど、もうちょっとこう精神的な話で言うと、人間もあと動物も動物っていう大きな集合体のものからたまたま一つがポコンって出てきて、この世に発現したよみたいな話もあったと思うんだけど。
だからそういうものを想定すると、そもそものこの原因は結果を超えないっていうところの限界性みたいなものをちょっと感じてしまったなっていうのが正直な感想。
はいはい。でもいいねいいね。まさにそういうのがやっぱりこうある種ちゃんと批判するというか、そのロジックのどこに穴があるかみたいなところでこうやっぱり考えていくところだと思っていて。
18:08
一方でこの思考プロセスはすごく面白いと思うけどね。外に存在するのかどうか。自分がもしかしたら神じゃないのかみたいなことを考えて、いやでも違うなってことはやっぱ外にあるのかなみたいな。そういうプロセスってのはすごく面白いなとは思うしね。
そうそうそうそう。だからやっぱちょっとその奇弁みたいなことを前回の終わりにも言ったんだけど、他にその原因も結構超えないみたいな話が正しくて、自分にはその結果として神の観念を持っているから原因としてもっと完全向けた存在がいるっていうのが両方正しいっぽいんだけど、
でも本当にそれは両方正だから、だから神は存在するって言えるかっていうと、それはちょっと違くないってやっぱ思うじゃん。
うん、そうはね。
でもやっぱそのちょっと違くないをなぜなのかっていうのをちゃんとやっぱり説明しようとか論争しようと思うと、それはそれでやっぱりちゃんと積み上げなきゃいけないし、その議論を。こっちもロジック的に言わなきゃいけないから。
まあそうだね、だしさっきね、こういうさっきの感想もね、全部自分の感想みたいにして喋ったけど、全部今まで同じようなことを教えてもらった二次情報、三次情報を寄せ集めだからね、デカルトに怒られる。そんなんで反論するなって怒られる。
そうね、それはあるかもしれない。
あなたの本当の考えは?って言われちゃって、ああ、ああってなる。ナイス。
確かに、すいません、出直してきますみたいなね。
そうそう。
でもやっぱりそういう風に考えていくこと自体はすごく大事な営みだと思うんで、やっぱり実は面白いよねっていうのを毎回言っていきたいと思うんですけど、
言っておく通り、ちょっとしっくりこないところもあるよねっていう話の中で、証明3っていうのをちょっと話すんだけど、これは僕が一番しっくりこないんだけど、反証というか、それを批判しようと思ったらめっちゃ難しいなって思っている証明で、
これが一般的に存在論的証明みたいに言われているんですけど、何かっていうと、これまでは我が存在するから、初めて神っていうものにたどり着いたじゃないですか。
じゃなくて、次は神っていうものの本質から神の存在を証明するっていうことをやるのね。
どういうことかっていうと、我、その疑えない我の中には神、つまりあらゆる完全性の概念というのがありますと、完全向けた存在というのは想像することができるよね。
それが神だとした場合、存在するとか存在っていうのも一つの関連であって、完全性なんだよね。何かが存在するっていうことも関連ですと。
21:02
っていうことは、神の完全無欠の関連には存在とか存在するっていうことが既に含まれている。
だから神が完全無欠なものだったらそのまま存在しているって言いますと。
うん、はいはい、面白い。
そう、だから我があるって言うってことは、あるっていうことを既に考えているってことであって、
あるっていう考えっていうのはあらゆる概念の一つだから、あらゆる概念の本体である神っていうものは存在っていうものを既に含んでいるっていうふうに言うのね。
含んでいるっていう感じか、なるほど。
そう、だからそういえばもう存在しているってことと同義だよねみたいな話かな。
うん、うん、うん、ちょっとずれてたかも、なるほど。
でも今の話に似て思ったのは、デカルトがいろいろ考えたときに自分が考えている自分が存在することだけは否定できないみたいなところだと思うんだけど、
そういうふうに考えると神自体も疑えないものっていうものがもしかすると自分の存在だけじゃなくて、
よくよく考えてみると神っていうものもそういうふうな存在、疑えない我みたいなものと同じような存在として、
もしくはその疑えない我なのか、その疑えない我の集合体なのかわかんないんだけども、
っていうものが同じように生み出している。
多分自分っていう主体を自分が生み出しているっていうことだと思うんだけど、
デカルトその否定できないっていうのは自分の存在を、自分の頭を、考えている自分ってものはあるだろう、
それは否定できないよっていう意味で。
そういう意味で神っていうもの確かに実在、触れるものとしての実在はしないんだけれども、
自分だったりとか人々ってそういうふうに生み出して完全無欠なものの理想として、
そういう疑えない自分たち、自分もしくは自分たちが想像する完全無欠という概念として、
もう絶対それは存在してるじゃんっていう意味で否定できないよねみたいなふうに捉えると、
ああなるほど、そういう意味でああなるほどって思った。
確かに確かに確かに。
今2回やってくれたことを僕なりにちょっと言い換えてみると、
いろいろ疑う疑う疑うってなった時に、
疑うっていうことと疑ってる自分がいるっていうことはノータイムで繋がるんだよね。
その疑えない自分がいるっていうことと、
そのいる、だから存在するとか、その疑えない我が存在しているっていう根底に、
その完全性とかそもそも存在っていう概念があるっていうこともノータイムで繋がるんだよね。
わかる?
24:00
もう一回言い教えて。もう一回教えて。
疑うっていう行為と疑っている自分がいるっていうことは直接繋がるじゃないですか。
そこまではokです。
疑えない自分がいる、だからいる、存在しているっていうことは、
存在っていう概念が世の中にあるとか、
存在することを可能にしている、完全な存在がある、
それ完全な存在って言っていいかわからないけど、
存在を可能にしている何かがあるっていうことが直接繋がるよね。
うんうん、わかった。落ち着きました。
だからその存在を可能にしているものっていうのは、
結局神であるっていうのはちょっと飛躍があるんだけど、
いろんな、なんだろうな、そういう、
完全性とか存在性っていうのは可能にする存在って何かっていうのを考えた時に、
それが神だっていうことが、ちょっといろいろ考えていったらたどり着ける。
はー、はいはい、なるほど。
そうか、今回の最初に言った、我をもゆえに我ありっていうものは、
人間が二人存在した瞬間に矛盾するんじゃないかって思ってた、
みたいな話を最初したんだけれども、
その矛盾を矛盾とさせずに、
それぞれのそういった主体たちを存在させることができるフィールドを作っているのが神なのか、みたいなイメージかな。
おお、すごいこと言うね。
そのフィールドを神が準備しててくれて、
なんかね、メタバースじゃないけどね、
メタバースとかいうと空間っていうものを作ってくれてる神がいて、
そこにログインしてアクセスして、
そのアバター一個一個っていうものは存在している、みたいな。
その場を提供してくれてるのが神なのかなって、
デカルトが思ったのかな、みたいな理解をした。
近いし、今に言ったことは、
最近というか直近で一番有名なマルクス・ガブリエールっていう手作家がいるんだけど、
彼が言ってることに割と近い、
世界は存在しないっていう本で結構有名になったんだけど。
そうなんだ。
面白いよね。
だからデカルトはさっき言った、ほら、当時のまだニュートン力学的な世界とかって、
ハヤトは表現してたけれども、
そういう世界の中でいろいろ考えた末、
そのフィールド、自分たちが存在するフィールドっていうものを神として証明したのかもしれないんだけれども、
っていう感じの、なんかすごい、その限界じゃないけどね、
そこに神っていうものを当てはめた、
っていうふうにさっきの証明さんとハヤトの説明から、
すごく納得した感じはあるね。
そうそう。でもそういうふうに考えると、
神っていう言葉、要は僕らの存在の根底が神であるという話をすると、
実は結構哲学がすっと分かる部分があって、
27:00
さっきのマルクス・ガブリエールの話もそうだし、
日本でもイリフジさんっていう教授の方がいて、
その方が現実性こそ神であるみたいな本を出されて、
そのタイトルだったかな?っていうことを言ってたりするんだけど、
それも結局近いんだよね。
要はその存在の根底に何があるかとか、
それを神と呼ぶとしたら、それって何?みたいなことって、
今でも結構哲学的には考えられたりするし、
あとね、正確だからこれも面白いんで言っちゃうと、
実はハイデガーはそこに切り込んでいて、
『存在と時間』っていう本を書いてるんだけど、
彼は面白いのは、みんな存在する存在するって言ってるけど、
存在するって何か知ってる?みたいなことを問うのね。
面白そうはね、時間っていうのが出てきた時点で、
個人的にはこれまで教えてもらった無常とかとつながりそうでないか。
そうね、時間の捉え方とかがやっぱり違う、
面白いっていうのもあるから、
ハイデガーもいつかはやり、いつかというか、
僕たちにやるんですけど、
だからね、そういうのもデカルト的なとか、
存在するってノータイムで考えれるよねって言って、そこに対して、
いやいやノータイムじゃ無理でしょって言ってる人がいるってこと自体が、
やっぱりめちゃくちゃ面白いと思ってて。
なるほど、デカルト的な理解とは違った、
その存在というものを定義をしてみようみたいな話なんだ。
面白そう。
さっき無常って勝手につなげちゃったけど、
それが絶対的に固定なものなのか、
それともさっきニュートン・ギギガク的な世界から、
相対的な世界みたいな、
時間をそういう風にやっていくと無常だったりとか、
相対みたいなものが、概念がそういう感じに近いのかな。
まだ話聞いてないから勝手にワクワクしてるだけなんだけどさ。
それを平行して語ることももちろんできるし、
もちろん全然違う思考様式ではあるから、
あんまり結びつけすぎるのも危険なんだけど、
そこまで混ぜるのは危険っていうのもありながら、
一定楽しめるというか、
同じように考えていくと近い部分もあるよっていうのを楽しむことができると思うので、
その辺でバランスをうまく取りながらお伝えしていきたいなと思ってます。
はいはい、まあそうだね、全然ね。
確かに時代背景も違うし、目的も。
あるのよ、仏教は相対性理論を先取りしていたとか、
要知力学の最先端が仏教の中にあるとかってあるんだけど。
なるほど、そう言いたくなる。
その仏気持ちというか、分かると同じだよね。
デカールと我を思う上に我らにこそが正しいのだ、みたいなのと同じだよね。
それに引きつけちゃうと、それを言い始めた人たちもがっかりだよね。
うん。
だから、同じ近いところはあるよねって言って何かを話すことは全然いいと思うんだけど、
30:03
実は一緒だったって言っちゃうと、ちょっと言い過ぎじゃないってやっぱり僕は思ってしまうから。
自分たちの証明だったりとか、権威の補強だったりとか、教会に使ってしまうとそれは全然違うもんね。
そうそうそう、そうなんだよね。
だからこそやっぱりそれぞれが言ってることを正しく理解するとか、
僕もやっぱり哲学だけじゃなくて、できるだけ科学とか、自然科学的な物理学的なことも勉強したいと思っていたりはするんだけどね。
はいはい、なるほどね。
だってさっきいきなりニュートン理学的な世界って言われても、それらはやっぱりその部分ではつながっている部分ってあるんだね。
哲学やってても、それらって結構つながるの?普通に勉強してると。
うん、つながる、つながる。
実際に僕が今回読んだ参考図書にまたあげようと思うんですけど、本とかでもやっぱりその時代背景でニュートン理学的な思考とか、そういう自然科学の知見があるデカイことだから、やっぱりこういうところを考えているみたいな話っていうのは当然出てきたりはするし、
やっぱり哲学もその時代が進んだりとか、その科学、自然科学が発展したら、むしろ結構それを哲学が取り入れて話しているところもあったりするから。
はいはいはい、面白いね。そういう意味で、こういうデカルトみたいなくさびを打った人のものが発展していくとか、より深くなっていくっていうのは、
そういう時代の限界を超えた時に、またそこから見直すとそれが広がったりとか、逆に否定されちゃったりする部分とかもあるかもしれないけど、そうやってどんどん広がっていく部分はあるんだね。
そうだね、そうそうそう。やっぱり土台として、デカルトがどうして近代哲学を持ち主と呼ばれているのかみたいなところも、やっぱり今みたいな当時の時代の一番根底のところでちゃんと考え尽くした人みたいな方は言えるだろうし。
うんうん、そういう時代を経ても、ちゃんと尊敬とリスペクトを持って評価されているっていうことの証なんだね、それは。
そうだね、そうだね、そうだと思う。
本当に学者さん、本当に尊敬するなぁ。
すごいよね。そういう人を否定するような考え方をする哲学者もいるから、それはそれでも面白いんだけど。
やっぱり色々、近代に近づけば近づくほど問題意識が今の僕らにも近づいてくるから、そういった意味でも楽しめると思うので。
今回はね、神の存在証明っていう、普通に今現代の日本に行ける僕らからしたらあまり関係なさなところを話したんだけど、
でもやっぱりこうやって話を読むと面白かったりとか、こういう風に考えるんだねみたいに感じること。
あるいはデカルトの言葉であっても、やっぱり批判もできるし、うどみにはできないよねっていうことも感じてもらえたと思うんで。
本当に面白かったね。やっぱりその、この思考プロセスだったりとか前提を置くとかっていう仮説、
33:01
それを上に積み立てていくことのすごさとかその技術、その姿勢のすごさも感じたし、
やっぱりその時の色んな制約条件だったりとか、その特殊な条件だったりとか目的だったりとか原因っていうものがある中での限界っていうものがやっぱりあって、
そのアウトプットの限界ね。それはデカルトも多分言ってると思うし、自覚的だとは思うんだけれども、
そこに対する批判的な視点、それが絶対じゃないよとか、それをやっぱりさっきのね、自分の立っているところの境界に使うことの危うさだったりもあるし、
だからなんかそういったふうに言うのもフラットさじゃないけどね、だからどこにリスペクトを持つかみたいなところって、今回この神の存在証明ってすごい面白かったね。
うん、よかったよかった。僕もね、これを読んでやっぱデカルト面白いなとか、逆にデカルトがやってることを別に自分もできなくないなって思ったんだよね。
うんうんうんうん。 別にちゃんと前提とか筋に立てて考えるっていうのは、別に僕にもできること。
まあ当然、方法助詞で言ってた通り、万人に良識っていうのはあるよってデカルトが言ってくれたことだと思っているから、
変にデカルトすげえなんか天才だ、歴史上の人物で全然自分とは違うって思いすぎなくてもいいよね、とも思ってて。
なるほどね、そういう意味ではデカルトは罪深いかもしれないなーって。
まあそうだね、それはわかるかもしれないね。
で、方法助詞を最初でもハヤトが話してたけどね、逆にじゃあ全員が同じようにできると思っちゃったら、それはそれでちょっと罪づくりな感じはするしね、
全員が全員で大谷みたいになれるかみたいなさ、大谷がヤバットはこういう風に持って、こういう風に押し出して、東急フォームはこういう風に、
まあそれちょっと具体的すぎる話だけどね、こういう風な目標管理シートを使ってこういう風にやっていけばとか、いろいろあると思うんだけど、
じゃあそれをやれば全員がなれるか、ちょっと似てるような話だけども、
ただやっぱりじゃあそれを目指すことに、よしやしというか規制はあるのかみたいな話で、
そういう意味でそういうのをちゃんと体系化して、それを言語化して残してくれてるっていうのはやっぱりすごくありがたいことだよね、本当。
そうだね、そうそうそう。
確かにスポーツみたいに身体というか肉体的なことも含めるとやっぱり完全平等とは言えないし、思考ももちろん完全平等ではないから、
だからお前らもデクラウドみたいに考えろみたいに言うのは多分間違いなんだけど、
やっぱりこういうプロセスを経た時に分かり合える可能性はあるよねとか、分かり合えるっていうところを可能性を大事にしたいよねっていうことは僕としては大事にしたいなと思ってて。
いやでも本当、本当思ったし、さっきちょっと否定すぎる例というか極端な例を出しちゃったんだけども、
36:07
その大谷ですら逆にこれまでの何十年、まあ百年とかの野球という歴史の中から生まれてきた新たな天才っていうね、
とこもあると思うから、本当なんかベイブルーストと比較されるけれども、そういうことなのかなって、
百年前のベイブルーストがいて、ずっとその世界がこうやったらもっと良くなる、こういう理想があるはずだ、これはダメだった、
でも繰り返す中でそういう天才的な選手が現れてくるっていうのは哲学的なね、そういう思考とか、
むしろね、そういうのもっと何千年ってやってきたからね。
深みはあるんだろう。
2,300年、4,500年くらいの歴史があっての哲学なので、やっぱり天才って言ってもその人だけじゃないし、巨人の肩にちゃんと乗るっていうのは絶対大事。
さっきはちょっとデカイトが罪作りだみたいな話をしたっていうのは、どうしてもビジネスの方に寄せちゃうと、
こうすれば成功するとか、絶対お金稼がなきゃいけないとかで、ちょっと苦労する人も多いからさ。
あるね、確かにね。あまり責任に言っちゃうとね。
これをやれば成功するとか。
あなたもできます、詳細は人それぞれ平等に与えてますとか言っちゃうとちょっと怪しい感じが出ちゃうからね。
哲学はそこに対する機関的な思考を内在するというか、そういうものを身につける話だと思うけど、逆に哲学とかにはまりすぎてしまうと、デカイトがこういうふうな思考プロセス、テクニック的な話だよね。
そこできたってことは自分もできるはずだみたいなふうになっちゃうと、哲学をこじららせるみたいなね、ここにもなりかねない難しさというかね。
ちょっと頭でっかっちにね。
魅力が詰まってるから、すごい思ったし。
ごめん最後散らかっちゃったけど。
そんな感じで雑談会でもそういった話も踏まえながらね、またデカイトを振り返っていけたらいいのかなと思っておりますが、
ちょっとこいつの神の存在、存在じゃない、存在証明が混ざりました。以上でございました。
了解です。そしたら感想会でも教えてくれると思うけど、デカイトは一旦これでおしまいなのかな?
そうね、一旦はこちらで。またね、戻ってきたりとか、別のいろんな本とかもあるから戻ってきてもいいかなと思うんだけど、一旦はちょっとさらっといきたいなと思っております。
了解です。一応もし決まっていれば次は誰やるかなみたいな話を少し。
そうだよね。デカイトの感想会終わったら次は関東に行こうかなと思って、関東やったら次はですね、また東洋に戻っててか行って、
有意識派の話をちょっとしたいなと思います。なんで関東やって有意識派なのかっていう話は次の感想会とかでも話せたらなと思うので、そちらもお楽しみにしてください。
39:06
了解です。全然関東も何やった人かわかんないから、同じように行こうですね。ちょっと攻め重ねていけたらなと思うので。
そうだね。やっていきましょう。
はい、じゃあ次回もよろしくお願いします。
はい、お願いします。
はい、ありがとうございます。
はい、ありがとうございました。
チャンネル登録よろしくお願いします!
39:28

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