1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #297 その出会いは運命か必然..
2025-03-05 1:01:13

#297 その出会いは運命か必然か?「偶然」の哲学の終着点

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、偶然性と必然性についての哲学的議論が展開され、特にプラトンのイディアやビッグバンの概念を通じて、現実世界における選択の意味が探求されています。また、偶然性の多様性とその認識の難しさが焦点となっています。このエピソードでは、偶然と必然の哲学について探求し、さまざまな選択肢から選ばれることに関する考え方が交わされます。さらに、西洋の一神教に関連する理性的必然と、偶然が人間の生き方に与える影響についても掘り下げられています。このエピソードでは、偶然と必然の関係性について議論し、人生における重要な出会いや出来事の意味を探ります。特に、個人の感覚における偶然と必然の交錯や、集団の中での役割について考察されます。また、運命や必然性、偶然の哲学について深く掘り下げ、個人と共同体の関係性が考察されています。形状的絶対者という観点から、偶然と必然の統合的な存在がどのように世界を形成するかが語られています。さらに、このエピソードでは、日本の哲学者として重要な人物である和筋さんについての考察が行われ、彼の影響力や業績に焦点が当てられています。

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
偶然性の探求
今回もクキさんの偶然性ということで、前回は偶然性には3つあるよねっていう話から、偶然性ってなんだろうというところを捉えてきたというところでした。
そうですね。今回、クキさん回は最後になるかなと思っているんですけれども、前回偶然で、偶然性は1つではあるんだけど、
1つでいうか、いろんな偶然になるのが織り混ざっているのはそうなんだけど、3つに分けるとすると、
低限的で、ロジカルな偶然と、仮説的という因果関係の偶然と、理説的という、これは捉え方が難しかったと思うんですけど、
兄貴はアミダクジって言ってくれて、すごいそれはあるなと思ったんだけど、
どこを選んだらここにたどり着くっていうのがあった時に、横の棒がすでに動き回っていて、
どこにたどり着くかわからんみたいな、そういう話をしたかなと思うんですよね。
そういう風に3つに分けることで、逆にさらにそれが1個になった偶然というのも捉えられるよねっていう話をしていくんだけど、
前回、例えば四つ葉のクラウドの話をしたじゃないですか。
基本的にはラッキーというか、ある種例外的で本来三つ葉なんだけど、四つ葉になるという風なものがあった時に、
当然因果関係においては、人とか動物に踏まれて傷つくと四つ葉になるみたいな、そういうものがあるよね。
まずはある人に踏んだっていうのも、たまたまなのか、当然道路とかに生えてないと踏まれないから、
そういう意味では踏まれる必然があったよねとも言えるっていう意味で、
偶然と必然って、むしろパタパタパタって両方入れ違いながらそこに遡れるっていう話もしたと思うんですけど、
逆にこういうのが僕らが生きてる日常の世界であって、
前回兄貴も言ってくれたけど、同じ結果しか受け入れてない、ある種研究室とか、
そういう特殊な出来事とか場所の話だから、やっぱり福木さんは現実の世界の中で哲学っていうのをどう生かすかとか、
現実の世界で考えた時に偶然性っていうものがどのような役割を果たすかってことをずっと考えてるんだよね。
哲学者の視点
なるほど、そうだね。確かに研究室といろんな前提条件を揃えた上でやるっていうところも出てくるからねっていうね。
そうなんですよ。この思考の先に何を考えるかっていうと、これやっぱり哲学者すごいなって思うのは、
福木さんはですね、この現実を考えるんだけど、その中に存在する絶対者っていうものを考えるんだよね。
どういうことかっていうと、例えばプラトンのイディアってさ、この世界とは別のところに理想の存在とか、
善のイディアみたいなものがあるっていう話をするじゃないですか。
そうね、全部うちらが捉えてるものは全部影ですよ、的な話だったもんね。
そう、という意味で別の世界なんだけど、福木さんはあくまでもこの現実世界とか、僕らが生きてる世界と同じところにいる存在者っていうのも考えられるんじゃないかっていうことを言ってくるんだよね。
この違いってわかるかな?
うん、わかると思う。どうだ?わかってるのかな?
さっきの話で言うと、その研究室とかいろんな前提条件を揃えると、絶対こうなるって言えるじゃない?
現実はそうじゃないって話をしたと思うんだけど、
現実において、でもそういう神みたいなものとか、この世界の始まりというか、まさに根源的なもので想定できるんじゃないっていうことを考えてくるんだよね。
自分が知ってる範囲の知識で言うと、いわゆる神とかそういうイデアはあくまで経時上のものだから、いるかいないかはわかんないよね。
そうだね、それは頑張らないと見つからないって感じかな。
例えばその現実の中にある絶対者みたいな、その根源みたいなもので言うと、わかんないけれども、例えばビッグバン的な話。
それはまだ研究の成果と、科学的と言えば言えるとして、それも見えないから何が違うのっていう話だけど、
こっち寄りな、この口さん寄りな気がする、ビッグバンの方が。
ある種、ロジカルにとか、ちゃんと考えを進めていたときに、こういうことが起きたんじゃないかって想定するって意味で、ビッグバンとこの口さん考える絶対者は確かに近いかもしれない。
まあね、難しいけどね。想定した上でちゃんと神様に届きついてるだろうから、それはそれでイデアとかね。そこはちょっと難しい領域になってくるかなとは思うけれども。
そこはすごく微妙なところではあるんだけど、口さんのスタンスとしては、ちょっと神っぽいって言っちゃったんだけど、西洋における神とか絶対者っていうものはやっぱり否定する立場なんだよね、口さんは常に。
現実の世界観
やっぱり神がいるとそれが必然で、神が作った世界っていうものからやっぱり抜けられなくなっちゃうから、偶然性という世界観においてはそれは否定します。
だから理説的必然の象徴みたいになっちゃうんだね、そっちの西洋の感じで。
そうそう、まさにそういうこと。そうなんです。
ただ哲学としては、これはちょっとなんでかっていうのは難しいけれども、絶対者的なものとか本源的なものをなんとか描きたい。その世界観のコアのコアの部分までたどり着きたいってものはやっぱりあったんだと思うんだよね。
前回だってそれはないっていう話だったもんね。必然には必ず偶然性があるっていう意味で無限になっちゃうじゃんみたいな話してたもんね。
そうなんです。それをなんとかして表現できないかっていうことを言ってたんだけど。
そうなんだ。そこ分かった上で挑戦してるんだ。
そう、そこ分かった上でさらに一歩進むっていう感じなんだよね。
なんだそれ。
ちょっとそれをお話ししていきたいんですけど、ただ話としては別に前回の応用みたいな感じとか繋がってるんだけれども、
すでに今言ってくれたものは立説的偶然とかの復習なんだけど、これって例えばアミダクジのイメージしていただいたときに、上の方にABCDEってこれにロー文字がついた選択肢がいっぱいありますよと。
っていうときに立説的偶然っていうのはたまたまBを選ぶとかたまたまCを選ぶというのが偶然ですよって感じだったよね。
それ以上遡ることができない。
例えばAからBしかなくて、自分Z選びたいですとかっていうのはもう無理ですみたいな感じも含めて、その選択肢がそこに出尽くしてるわけなんだよね。
っていう意味で、それはもうそれ以上遡ることができない偶然だから原始偶然ではね、みたいな話をしたと思います。
あー、そっか。それには複数あってもいいんだね。
そうそうそう。その中から1個を選ぶっていう意味で複数あっていいんだよね。
それが原始偶然たちってことなの?
えっとね、実はここがちょっと難しくって。
ペヤン・エキが神様って立説的必然の象徴なんだよって言ってくれたんだけど、実はいっぱいある状態っていうのを立説的必然というふうに言うんだよね。
へー、そうなんだね。
なんでかっていうと、今ちょっと便宜的にABCDがあったときって言ったんだけど、もうBを選んだ瞬間にAとかCとかDがあるってことは僕らから見えてないんだよね。
なるほど、そうだね。
世界の話で言うとそうだけど、今じゃあ世界がBの状態だってなったときに、僕らはそれが分かんないんじゃない?
それがBであることとかB以外にあったことっていうのは想像はできるけど本当のことはやっぱ分かんないんだよね。
確かに。
なので、神のイメージと若干違うっていうのは、イメージの中ではABCDってあるんだけど、Bを選んだ瞬間に他の選択肢はもう見えなくなってるというか、消えちゃってるみたいな、そういうぐらいな感じなんだよね。
あー面白いね、なるほどね。神様みたいに一人の人からどんどん、これ人の話とか生き物の話でもいいんだけど、
その一つから枝分かれして、100ぐらいに今の一番現在がありますっていうときに、そうするとどっから遡っても一つになるよねっていうのが、多分技術的必然だというイメージ、我々のイメージだと思うけど。
ごめんね、ちょっとネタでちょっと違っていて。
違うの?
そう、違うの。もっと言うと、技術的必然っていうのは、AとかBとかCとかっていう可能性全部を含めた全体像のことを技術的必然って言うんだよね。
例えばサイコロって分かりやすいと思うんだけど、1から6のどれが出るかは偶然じゃない。
でも絶対に7は出ませんよね。
1から6のどれかが出るっていうことは必ず起きるじゃない。っていう意味で、これは必然なんだよね。
へー、なるほどなるほど。その状態は必然ってことね。
そう、その状態は必然。なので、選択肢全部があるとか、それをもし見れる人がいたとして、
A、B、C、Dがあるよねっていうことが見えると、それは技術的必然です。
その中からBになるとか、サイコロ振って3が出るとかっていうのは偶然だよね。
さっき兄が言った、遡ると一個に収束するねっていうのは、技術的偶然の世界を生きている、
僕らが見たときに頑張って取り付けた原始偶然が一個に収束するって話ですっていう感じなんだよね。
あー、なるほど。それがクキさんの世界観での話で。
そう、クキさんの世界観だと。
これを西洋の必然の哲学的な世界観から同じものを見たときには、
もうこれは運命で全て決まっていて、
たどり着いた一向の先が神様だよねっていうので合ってる?それはそれで。
運命っていう言葉はこの後使うから少し気を付けていいんだけど、
ある種、遡ってたどり着いたものは神様です。
その神様以外には他の本源はありません。
要は一神教だから、AとかBとかっていうんじゃなくて君しかいませんっていうのが西洋の世界だよね。
だから理説的偶然でいうところの他の選択肢だよね。
本来そのスタート地点、神がいる一番上のところには同じレイヤーに他にも選択肢があったはず、あるはず。
福木さんの世界観ではね。
福木さんの世界観で偶然だよね、理説的偶然。
必然の方は、それが見えてない状態とも言えるんだね、福木さん側から言うと。
そもそも西洋においては理説的っていう考え方がないんだよね。
理説的って選択肢のことってちょっと前回おっしゃったと思うんですけど、そもそも一神教の世界観で選択肢はないんですよ。
なるほど。
キリストしかいない。キリストはイエス様しかいないわけだから。
キリスト教の場合はね。
キリスト教の場合はね。
なので、そのサイコロを振って1から6が出るとかっていうのとは全然違っても、一神しかいないんだよね。
だから、あみだくじっていうのは絶対成り立たない。もう神からしか始まらないから。
っていう風な感じの違いなんだけど、ここイメージ良くかな。
ごめん、ちょっと俺がかけ混ぜちゃったかもしれない。
同じ世界を必然側と偶然側から見ることでちょっと分かりやすくなるかなと思って聞いたら、ちょっとこがらがっちゃったね、後ろに。
この話自体が。
どうしようか。1回ここから行こうか。
ここ全部飛ばしてもいいか。たぶんここまで聞いた人はわかってるかな。
そうだね。
こういう感じのイメージで。
だとしたら、リセス的必然の説明から行こうかな。もう一回。
そうね。そこであんまりほじくらないようにするわ。
うん、オッケー。
じゃあちょっと1回、2個目のポチの2行目から。前回あんまり触れなかったんだけどみたいなところから行くね。
前回のあんまり触れられなかったんですけど、そのリセス的偶然っていうところの反対には、当然リセス的必然っていうものがあるんですよ。
これってどういうことかっていうと、アミダクジのイメージがあったときに、上の方に例えば線があって、ABCDEどれ選びますかとかになったりするじゃない?
っていうときに、このAからEの全部の可能性があるっていうことを指して、リセス的必然って言いますと、どういうことかっていうと、
少なくともこの5つから選ぶとしたら、Zを選びますかっていうのはありえないわけじゃない?
そもそもないからかな?
そうそうそうないからそうそうそう。なので、そのABCDEのどれかを選ぶっていうのは必然なんだよね。
ああ、なるほど。はいはいはいはい。
偶然と必然の関係
絶対に選んだらどれかになります。ただ、それがBかもしれないし、Cかもしれないしっていうのは偶然で決まります。
なのでイメージとして、前回もちょっと言ったんだけど、平行世界とかパラレルワールドみたいなのがあったときに、
僕らが今自分たちが住んでる世界がAかBかCかだったら分かんないじゃないですか。
そもそもパラレルワールドが5個あるのか5000個あるのかも分かんないんだけど、
少なくともそういうあらゆる可能性というものを想定するとしたときに、その全体を理性的必然というふうに呼ぶんですよね。
わー、なるほど。理性的必然と理性的偶然って単なる対義語とはちょっと違う感じがするね。
そうそう、本当にそうなんだよ。これがめちゃめちゃ大事で、
やっぱり前々回からのお察し通り、偶然は必然の否定っていうふうになるから、必然があってこその偶然っていうのは変わんないんだよね。
わー、そうか。対義語じゃないのか。
今日は表裏一体なんですよ。
なので、イメージとしては、この世の世界、今僕らが生きてる世界っていうのは、
おそらくそのあらゆる世界の中の一つであるっていう意味では、全体の中の一部なんだよね。
その一部なんだけど、ただ僕らはこの世界だけしかないと思って生きると、この世界に生きてるのは必然だというふうになります。
なので、その発想というか、世界の捉え方が全然違うんだよね。
さっきごめん、僕一回流しちゃったんだけど、兄貴が、例えば西洋の神様って理性的必然の象徴だよねって言ってくれたんだけど、
言っちゃったね。
実はちょっと違っていて、これすごく難しいこと言うんだけど、なんでかっていうと、
一神教の神様がいたときに、一しかないのよ。だから、
阿弥陀寺でABCDEっていう選択肢があるっていう世界観とは相違れないんだよね。
なぜならその神様しかいないから。
そっかそっか。
だからこの理性的っていう概念で、絶対的な神様みたいなものは、
表現できないというよりは、表現するとしたら、さっきの選択肢が一つしかない状態だよね。
一番最初の選択肢がAしかない、で、ゴールもそれしかないみたいな、
理性的必然状態があったとしたら、それは絶対的な状態だよね、みたいな話になってる感じだね。
そうだね。また言葉的には、絶対的必然っていうのは正しいかもね。
理性っていう言葉自体が選択肢っていう意味を含んじゃうから、
選択できる時点で、やっぱり一神教の世界とは相違れないんだよね。
それがもう選択肢のA、Bでも2つでもあった時点でも違うのね。
無理だから、絶対的必然神っていうのはそこからしか始まりません。
それ以外のものはありませんっていうぐらい、違う世界観のことを考えてます。
なるほど。混ぜるのは危険だね、これはね。
そうだね。でもごめん、確かにアミナクジの例すごくいいなって思ったけど、
それを正義にそのまま高めちゃうと違ったなっていうのが今僕もちょっとイメージ湧いてきて、
すいません、聞いてる方もちょっと混乱したら申し訳ないんですけれども、
まとめるとちょっと復習になっちゃうんですけど、
理説的偶然とか必然の世界観、クキさんが言ってる世界観っていうのは、
最初とりあえずのA、B、C、D、Eっていういくつかの選択肢があって、
それがたまたまBだった、Cだったとかって選ばれる世界ですと。
ただ僕ら、いわゆる世界に生きている人からすると、
自分の生きている世界がBなのかCなのかとか、
そのAからEまでなんか選ばれたのか、
AからZから選ばれたのかっていうのは分かんないんですよね。
しかもその後のアミナクジみたいなものがあったときに、
しかもそれがめっちゃ線が動いてるとか、
どこを通ってきたかっていうのは分かるのか、うちらは。
それ自体が分かるとか振り返ることはできる。
それが動いてたかどうかはちょっと分からんねっていう話で、
どこを通ってきたかは分かるのか。
そうそう、歩んだ道は分かるけどっていう。
そんな感じでいろいろ言ってしまったんですけれども、
こういう選択肢の全体を含み、
かつその中からたまたま1個が選ばれるっていうふうな考え方。
つまりこの理性的必然と偶然って両方あって初めて成り立つんだよね。
理性と選択肢の概念
なので、この両方を含んで表す言葉を福木さんは、
ちょっとこれイメージつかみにくいんだけど、
刑事上的絶対者って言いますと。
ここで刑事上的って言葉を使うんだよね。
へー、なんでだろう。
これなんで挑戦したかってちょっと分からないんだけど、
やっぱりその本当の意味では分からないとか、
さっきの通りAからEまでしかないのか、
AからZまであるのかってやっぱりどうにも及ばない。
あー、はいはいはい。
及ばないんだけど、少なくとも偶然っていうところから考えると、
やっぱり一個だけではない、その絶対的必然ではないっていうふうな発想なんだと思うんだよね。
なので、絶対者とは言ってるんだけれども、
これしかありませんとかではなく、
いろんな選択肢がある中で一つが選ばれるっていう働きのことを指してますっていう感じなんだよね。
わー、はいはいはい。なるほど。
たぶん、現実を生きてるうちらには絶対に分からないっていう意味でも形状的っていう感じだもんね。
そうだねそうだね。
じゃあこれがお伝えしてきて、なんでクキさんはそんなこと考えたのかね、
偶然っていうのを大事にしてるって話でいくと、
なんだかお伝えしてるんですけども、
近代西洋の必然だけを大事にしてきたとか、
偶然をないものとしてきたっていう話で、
近代どころか、実はアインシュタインさんいるじゃないですか、物理学者のね。
その人も量子力学ってのがあったときに、要は神やサイコロを振らないとか言って、
偶然とか確率がこの世を支配してるって違うんじゃないかとかって言ってるんだよね。
へー、そうなんだ。
神やサイコロ振らないってアインシュタインさんの言葉なんだけど、
そういうぐらい、もうやっぱり1個の原理原則があるよねとか、
そういうふうな考え方がやっぱり強いんです。
そうじゃなくて、やっぱりクキさんは、
世界の成り立ちとかそのものに偶然って要素を取り込もうとしている。
それはやっぱり世の中を見たときに、どう考えても偶然としか思えないものってあるよねとか、
あとは前回の仮説的偶然とかの話でいくと、
違うものが出会うっていう、その出会いの中に、
そもそも偶然って要素って入り込んでくるから、
それをある種、世界の根源とか成り立ちの方に持っていくと、
必然と偶然ってやっぱり両方必要だよねっていうふうなことを考えていくんだよね。
なるほど。
実際にちょっと表現変えるんだけど、こんなふうに書いてあって、
例えばAでもBでもCでもある理説的肯定、さっき言った必然だよね。
っていうのは、その裏にAでもなくBでもなくCでもないっていう理説的な否定っていうのを持っています。
なので、絶対者ってさっき言った必然と偶然が一つになったもの。
なので、それっていうのが絶対有、あるだよね。
あるとともに絶対無、無いっていうものも含んでるんだっていう風に語ってるんですよ。
それが前回も言ってたような、無が有をつつみたいな感じで、
あるもの、この世界はあるんだけど、
世界の奥というか横には、無い世界があるんだというか、
無い世界のことも含めてこの世界はあるんだっていう、
そういう世界観を提示したんですって話なんだよね。
運命の考察
ここまで聞いてようやくイメージができた言葉だね、これは。
そうだよねそうだよね。絶対有であり絶対無であるとかさ、
必然偶然が一体化した存在とかってないって言うんだって感じなんだけど、
なんとなくこれまでの話からイメージ湧くかな。
いやー、これは湧くね。
むずいなー、でも確かに。
まあでも無理に、そうだね、広げなくてもというか、
アミダクジの感じで理解はできそうかな、なんとなくね。
そうだねそうだね。
自分たちが通ってきた世界と選ばれなかった、
たまたまうちらがいなかった世界って、
理説的必然化っていう状態は、
アミダクジが俯瞰して、
うちらが外からこういうアミダクジなんだと、
線がAからEまでのABCDE5本あって、
めちゃくちゃこの線動いてるわー、消えたり出たりしてるわー、みたいなところを俯瞰して全部見えてる状態。
はいはいはい。
っていうのがあったときに、そこの状態が想定できてると、
その状態を知らない、
例えばなんか、
あ、あれあるよね。
そこにさ、
そういうアミダクジ迷路みたいなのがあったときにさ、
アリを入れるでもいいしさ、
ダンゴムシ入れるでもいいけどさ、
あるよね、うんうん。
アリをじゃあBに入れようっていって、
そうするとアリは、
全体像は知る余地もないよね。
あ、ここに入ったから下に進もうっていって、
あ、ここなんか道が行けるから右に回ろうみたいな話をしてる状態。
わー、それすごい確かイメージ。
さすがだねお兄さん、イメージ湧きやすいね。
僕らはアリなんですよ、たぶんその感覚で言うと。
で、たまたまアリをどの穴から入れるかっていうのは本当に偶然、気まぐれじゃない?人間の。
そうだよね、その上から見てるよね。
たぶんそれと同じで、もし仮にそれを第三者から見れる、まさに神みたいなものがいたとしたら、
いないんだけどね。
人間をこの世界でうーもーって言ったのは偶然だよねみたいな。
そんな感覚?
今ね、アリにしようかダンゴムシにしようかみたいな話したけど、
本当それぐらいどうでもいいというか、それぐらいの偶然だった話だよね。
そこも吹かれそうもん。
そうそうそう。
だからアリが進んだ道に関してはもうそこの網では動かない確定みたいな話ってことだもんね。
そうです。
ただね、さっき今神とかって言っちゃったからなんだけど、これ前回も少し話したんですけど、
そうなっちゃうと結局僕らの人生ってなんだみたいなさ、ちょっと虚無感に襲われるとかってやっぱあるじゃない?
偽善はアリなんだみたいな。
襲われに共感しすぎるとね。
そうそうそうそう。
ってなっちゃうんだけど、ここまで最後今日ぜひお伝えしたいなと思っているところで、
彼氏こういった形状的絶対者ってすごく概念的な話やっぱ聞ける、聞こえるじゃない?
そうね、まあね。
私やっぱ柔情高いんだけど、それもその概念だけじゃなくて、
僕らの生活とか生きてることと結びつけて考えるっていうのがやっぱクキさんのやり方なんだよね。
目的がそこにあるんだね。こんなにすごいこと考えてるのに。
そうそう。こんなに世界は一個じゃなくて、ない世界があるとかって言ってるのに、やっぱりそこに戻ってきますと。
これも形状的絶対者やクキさんが取り付いた偶然と必然を両方含むっていうすごいやつが、
僕らの生き方と変わるんだっていう、その場面が実は運命について考える時だっていう風に言ってるんですよ。
ここで運命が。
ここで運命がそうそう出てくるんだよね。
1年前に偶然について扱いましょうとか運命について扱いましょうっていう時にもお伝えしたと思うんですけど、
当時の意味付けとか、そこにどんな意味を見出すかが大事だよねっていうのを話してたんですよね。
クキさんも近いことを実は言っていて、運命って定義するというか、運命って何っていうときに、
僕はそれは人間の実存性、だから生き方とか在り方だよね。
偶然と運命の交差
そこに対して、革新的全人学的意味を持った場合だっていう風に書いてますと。
ちょっと言葉がわかりにくいんだけど、
要は、すごい自分の腹にぶどんと落ちるとか、これってどう考えても自分の人生に影響があるとしか思えないみたいな、
そういう意味を持ったときに、偶然が運命になるんです、風に言ってますと。
なるほど。革新的全人格的な意味、だからだいぶその人にとって重大な事件ってことだね。
そうそう。人生全体に影響を与えるって感じかな。
例えば、これは僕の考えた例だけど、10年ぶりに出会った、たまたまで会った同級生と結婚したとか、
あるいは災害にあたり死にそうな思いをしたとかっていう場合、それも言ってしまえば偶然、たまたまなんだけど、
やっぱりそこに必然を見出しちゃうとか、もっと言うとそこに偶然と必然がまさに一体化してるわけだよね。
一体化。
要はたまたま同級生と街で会ったのは偶然なんだけど、
それはもう、この出会いっていうのは自分、その人と結婚するっていう必然があったみたいな、なんていうのかな。
そのぐらいこの出会いっていうのが偶然という言葉では片付けられないとか、
自分の人生に決定的な意味を持つ出来事だったってなると、必然としか思えないよねっていうふうな出来事になりますと。
偶然の中の必然性
そういう意味ね、はいはい。
その人にとって。
そう、その人にとってだね。
なるとそれは偶然と必然が一体化するっていうふうにも言えるよね。
そうね、だから基本スタンスは偶然ですよと。
だけれども、どうしてもこれ必然としか思えないっていう時の状態ってことね。
が一体化ね。
それが全人格的な意味を持つっていう場合ね。
これさっきもお伝えした通り、そもそも形状的絶対者って偶然と必然の両方を含むものじゃないですか。
つまりこの偶然と必然が一体化するってことにおいては、その形状的絶対者もたまたまであった同級生と結婚した同じ構造があるよねっていうふうに言うんだよね。
どういうことだ。
もう一回言おうか。
偶然と必然ってさっき表裏一体だって話をしたじゃないですか。
ただ普通に生きてる時とかは、これはたまたまだよね、偶然だよねとか。
これは例えばグローバー三つ葉っていうのは必然だよねとかっていうふうに分かれて考えます。
なんだけど、さっき言った形状的絶対者みたいな理説的っていうすごい抽象度が高いところが、
大きな世界の話をすると偶然も必然もある種一体だよねっていうふうな話をしたと思うんだよね。
逆に今度は運命とかで考える時に、日常的にたまたまであった同級生と結婚したんです。
これは運命的に必然な出会いだったんですっていう時に、そこでも偶然と必然が一体化してるじゃないですか。
あんまり分かんないかな。
ちょっとよく分かんないな。
さっきの通り、その人にとっては、これは偶然じゃなくて必然なんだとめっちゃ思っちゃう。
思うみたいなとこは理解できるけど、その理解で合ってるのかな。そのぐらいの理解で。
でも全然それで大丈夫。その人の実存性とか生き方にとってって話だから。
周りから見たら別にそれってそんな同じ街に住んでは出会うことあるじゃないとかって言ったときに、
それは必然だとも言えるよね。外から見たら。
でも本人からすると、それは本当に自分の人生に影響を与える大きな必然的な出会いだったんだっていうふうに確信できるじゃない。
その個人の感覚で全然OK。
出会えれば大丈夫です。
なので、そこの偶然と必然が一体化するっていう構造自体は同じですよね。
そこがちょっと難しい。すんなり落ちないな。
ちょっと分かりづらいんだけれども、それでいうと、偶然出会ったのが必然にしか思えないっていうところと、
いわゆる絶対者側からの同じみたいな出会うみたいな話。
ちょっと分かりづらいというか、あれなんだけど、
さっきアリ、アミダクジというか、迷路にアリを放つみたいな話をしたから、
ちょっとその状態を想像してみると、なんか視点の違いみたいな感じがして、
今、例えば街で出会った、10年ぶりに出会うって話を言うと、
なんとなくアリを2匹放ちますと。
違う穴からね。
違う穴から放つなり、同級生だからさ。
1回同じとこにいたアリが、違うアミダクジの方を選んでだいぶ遠くに行っちゃいましたと。
そうすると、いっぱい選択肢がある中で、またそのアリが出会う確率って、
少ないことをお互い知ってますと。お互いのアリはね。自分の道を進んでますと。
それぞれのアリが、いろんな人数を減って迷路を進んでいく中で、
わしっと10年ぶりに出会ったっていうのは、すごいお互いびっくりすると思うんだよね、アリ。
この確率で出会う、お互いのどこに行ったかも知らなかったし、好き勝手別に進んできたのに、
ここで出会っちゃうみたいな驚きっていうのが、アリ同士にはあると思うんだよね。
そうすると、お互いのアリは偶然を進んでただけなのに、
え、この確率で出会っちゃう?
まあ確率っていうか、宿泊的な感覚だけど、この確率で出会っちゃう?みたいなのは、
これちょっと必然でしょ?運命でしょ?このまま一緒に一緒の道進みましょう?みたいな。
ぐらい思っちゃってもおかしくないっていう意味で、必然性を感じると思う。
偶然の中に生きてる中での必然性を感じると思ったんだけど、
一方で、さっきハヤトが出会うみたいな話してたから、
これを、その俯瞰から見てる我々だよね、人間がいたとして、
アリがこう、あ、一回出会ったねーって言って、離れちゃうじゃん。
違う道を進んでると、離れてったなーっていう話。
じゃあそれぞれこの兄たちはどこにゴールするのかなーって見てたときに、
バーって見てたら、その兄が、あり得ない確率で、なんか、あれまた出会ってる?みたいな。
そういう意味で、その全体像、アミナクジの全体像も分かってるし、
もう兄たちが今どう動いてるかも全く分かってるのに、
出会った偶然はこんな偶然ある?その必然性を作った自分が驚いてるみたいなさ。
こんな偶然あるか?みたいな。
意味で、必然と偶然が一体の中で生きているその絶対者が、
え、マジこの偶然ある?っていうその偶然に驚くっていう。
必然で生きてる中から偶然に驚くっていうところと、
偶然で生きてる兄がその必然性に驚くみたいなところの交差。
同じことだけど、出発点と視点が違うみたいな。
ちょっとごめん、長くなっちゃった。
そういう感覚なのかなー?みたいな感じで、じわじわって思ってる。
面白いね。
なんかさ、やっぱり兄貴の感覚がすごいユニークだと思うのはさ、
平常的絶対者っていうものを聞いたときに、
それが驚くっていう発想はやっぱり僕にはないのね。
ほいほいほい。
今ね、いわゆるそこに人間っていうもの、観測してる人間っていうものを置いて、
僕らが生きてるっていうのはありっていうものに例えたからっていうふうな発想だと思うんだけど、
まあでもその通りで、外からシーキッドを見てる人間はさ、
別に、そうはいえ有限の世界だからさ、どこまでは会うよねって思ってるわけではね。
それは必然的に、出会うこと自体はあるでしょう。
でも、そんなに例えば早くとか、こんな頻度でとか、
それこそ確率的な話として驚くってことはあり得るよね。
っていうときに、まさに偶然と必然が出会うとか、
必然なんだけど偶然としか思えないっていうことが世の中いろいろありますよね。
それはあまりにも主観的なことなんだけど。
っていうときに、まさにその、
個人と集団の視点
壮大な、平常的絶対者みたいな概念としての、
偶然と必然の出会いの驚きと、
一人一人の人間、さっきじゃありの、
偶然と必然の出会いっていうものの驚きっていうものが、
やっぱり両方あって、それは構造的には一緒だよねとか、
その驚きっていうのは構造としては一緒よ。
偶然と必然が一つになるっていうことだよねっていうふうに言うんだよね。
ここに、主観は、
絶対的なものと一人一人の人間っていうところの接続というか、
共通、交通を見出しましたよっていうふうな話なんだよね。
はいはいはい、なるほどなるほど。
これは面白いね、こうしての違いが面白いね。
そうそうそうそう。
あくまでも抽象的な方に行き過ぎないで、
ちゃんと現実を考えてるのもそこにあるんだけど、
しかもここからすごいのが、
まさき兄貴もさっきありを2人、2匹に増やしてくれたと思うんだけど、
これって個人の話では留まらないんですよ。
これどういうことかっていうと、
これまでずっと理性的偶然っていう話をしてきたじゃないですか、
理性的って言うのは選択肢だよ、悪数あるよっていう話なんだけど、
なんて言うのかな、
網雑事のイメージで言うと、
一本一本の縦線があるじゃないですか、
これが一本一本が一人人間なんだよみたいな感じなんだよね。
へー、そうなんだ。
なんだよっていうか、そういうふうにイメージもできるわけじゃん。
どういうことかっていうと、
例えば、
学校のクラスがあったとして、
学級員とか雑音編の役割があったりしたときには、
それをくじ引きで選んだりしますと。
というときに、
Aさん、Bさん、Cさんというくじがあって、
引いたらAさんになりますよと。
これって理性的偶然じゃないですか。
というときに、Aさんが大変だなって言ってるときに、
Bさん、Cさんからすると、
選ばれなくてラッキーっていう感じかもしれないんだけど、
でも、そうじゃなくて本当は、
自分がなるかもしれなかったし、
BさんとかCさんからすると、
自分がなる可能性もあったよねと。
でもそれなのに、Aさんがある種、
似合ってくれたというか、
そういう役割をたまたまAさんが引き受けてくれたんだ、
というふうな発想にもなるよね。
はいはい、そうね。
そういうときに、
これってある種日本のありがたいみたいな、
ありがたいってあることが少ないとか、
難しいっていう言葉じゃないですか、もともと。
なので、いろんな可能性がある中で、
自分にとってプラスのこととか、
誰かが、何だろうな、
くじ引きで言うと普通は、
Aさん選ばれたので残念とか、
選ばれなかったやった、なんだけど、
その深い経時上的絶頂者とか、
偶然と自然は一体なんだっていうところを、
一回潜ると、
あ、Aさんが今回はその偶然とは、
引き受けてくれたんだ、みたいな、
そういうふうな発想にもなり得るよね。
はい、なるほどね。
若干その、
不感というかね、
その経時上的絶対者視点をちょっと持つと、
そういうふうな感覚になるよね、
っていう感じだね。
そうです、そうです。
これをもうちょっと広げると、
実は一人一人の人間っていうのは、
まさにアミダクツのABCDとかと一緒で、
どれを選んでも、
ぶっちゃけ良いというか、
その偶然性、
理性的偶然という観点からすると、
ある種交換可能な存在になっちゃうんだよね。
へー、なるほどね、はいはいはい。
だってAさんが学級委員でも別に、
Bさんが学級委員でも、
クラス全体からすると別に、
どっちでも良いわけじゃない?
まあそうだね、その例だとそうだね。
なので、そういう意味では交換可能ですと。
そういうふうに考えると、
実はこの人間というものは、
アミダクジ全体という図からすると、
偶然と必然の関係
そういう意味では繋がっているとも考えられるんだよね。
要は一個のアミダクジを形成し、
理性的必然という中に、
全ての人間が含まれています。
そうね、うんうん。
っていうふうな形で、
何だろうな、要は、
個人とか人っていうのは、
独立した存在だよねとか、
それぞれ人間性がある、
要は自分と相手は違うよね、
っていう話なんだけど、
この理性的必然偶然とか、
形状的絶対者という観点から見ると、
実は繋がっているよね。
まあ一つだよね、
というところまでと言えちゃうよねと。
っていうふうに、
僕ら人間、個人、個人っていうのは、
さっきのアリの視点、
アミダクジというかね、
迷路の中のアリの視点でいうと、
ここバラバラなんだけど、
外から見た人間の視点からすると、
一つのまさに世界とか、
共同体を作り上げていくと。
うんうんうん。
そういうものを、
例えば全員がこの形状的絶対者みたいなものを、
ちゃんと理解できたとすると、
まさに運命共同体じゃないけど、
僕らたまたま集まってるんだけど、
そうじゃなくって、
そこにも必然性があるんだとか、
僕らがいる、生きてるっていうことは、
別に必然性はないように感じるんだけど、
でもそこにも意味付けができるんだみたいな、
そういうふうな繋がりというのを考えられますよね、
というふうなことまで言うんだよね。
世界と共同体の視点
わー、なるほどね。
だからこれが言葉遊びじゃなくて、
これは本当に偶然でもあり、
必然だねってみんなが思ってる状態だね。
うんうん、そうそうそうそう。
さっき絶対個人の繋がりが運命だって話をしたんだけど、
それを共同体とか複数人に広げても、
そこって実は応用ができるから、
さらに人間の住んでる世界とか社会っていうもの、
それは人間同士だけじゃない、
人間と動物ももちろんそうだし、
人間と環境にはもちろんそういう関係性って成り立つからさ。
うん、すごいね。
っていう意味で言うと世界全体が、
まさにこの形状的絶対者、
もっと言うと偶然と必然っていうものの存在、
というかあり方で、
説明できるんじゃないみたいな、
そういうふうなことを言ってますって感じなんだよね。
いや、めちゃくちゃすごくないですか。
そこまでね、結構すごいでしょ。
偶然っていうかそこまで言えます?みたいな。
そこまで考えます?みたいな。
なんか初めてかな、
西田さんの時にもなかった感覚なんだけど、
西洋も東洋も、
どっちも一つの概念でちゃんと飲み込むというか、
それを元に説明できそうだっていう意味で、
今までになくない?
このラジオで。
確かにないかもね。ないかも。
すごいな。
どっちかというと自分の世界っていうのは、
これが大元ですとか、
これが始まりますっていうのがやっぱり多かったと思うんだけど、
遠崎さんのこの話は、
理性的必然じゃなくて絶対的必然で、
一個からしか始まりませんっていうと西洋になりますよとか、
複数あるっていうと多神教とか、
ちょっと東洋だけになりますよとかっていう風に、
確かに応用範囲は広いよね。
だしそれが個人でも言えるし、
今入ったような社会とか集団、
なんなら自然とかさ、
それとも全部、
基本この概念で語れるみたいな意味で、
ちょっとやばいね。
7回目にしてやばいとこまでだなっていう感じなんですけど、
それを偶然とかっていう、
ともするとちょっと身近なというかさ、
知ってる知ってるって思えそうな概念から語っていくみたいな、
そういう風な進め方がすごいよね。
すごいね。
だしさ、どっちかというとさっきのクラスでさ、
例えば年賀金長よろしくみたいなさ、
やべー当たっちゃったーとかさ、
ラッキーみたいな話も、
やっぱ人によってね、
そういう感覚をさっきハイトが言った、
本当なら自分が選ばれたかもしれないのを、
ありがとねーみたいな感覚を持ってる人も持ってない人もいる、
みたいなことは事実あると思うんだけど、
そういう感覚ってどっちかというと道徳とか倫理とかさ、
そういう思いやりみたいなさ、
哲学的結論と応用
そういうとこで語られそうな気もするんだけれども、
そういった分野もちゃんとこれ哲学からこれ、
語れてるなーみたいな部分も含めてなんか、
面白そうだなーっていうね、
ヤバみを感じるよね。
ヤバみ。
そうね、だから、
何度も言うとやっぱ、
ラッキーさんは普段生きてる世界とか人間のことを語りたいから、
やっぱり偶然性とか必然っていうものが、
じゃあなんで僕らが人を思いやんなきゃいけないのかとか、
他の人に対してありがたいという気持ちを持つ必要があるのかっていうと、
結局は交換可能だからだよっていう風に言えちゃうんだよね。
いやー、うんうんうんうん。
そういう意味でも応用範囲の広さって感じるよね。
感じるねー。
なるほどー。
だからその交換可能っていう部分については、
その一定ね、
この理説的必然偶然みたいな世界観を捉えた時に、
ある程度こう、人間の、
例えばそのいろんなさ、生まれとかスキルとかさ、
いろんな能力の差があるとは、
ある時に交換不可能じゃんって思う一面もあるんだけど、
とはいえ、それすらも必然、
すでに理説的必然とかっていう視点から捉えると、
その上でいろんな偶然が作用してるみたいな話で、
そこはちょっと聞き分けてというか、
そこも含めて語れそうな気がして、
深みも感じてていいなーって思う。
そうだね。
例えば僕と兄貴の関係でさ、
別に僕が長男で、兄貴が次男として生まれてもよかったわけではね、別に。
ただ、僕と兄貴の本質がどこにあるかわからないけど、
たまたま僕が弟として生まれて、
その弟として生まれたっていうのを、
自然として生きていく中で、やっぱこういう関係性があったよねとか、
こういう人格が形成されたよねっていうところがある時に、
その人格自体はもちろん交換できないんだけど、
別に僕が兄でもよかったっていうこと自体は交換できるみたいな、
そういう風な発想なんだよね。
そうだよね。
赤ちゃん時、この世に生まれた時のスペックが仮にこのまま交換されたとしても、
その時の外部環境とか偶然性みたいな、
理性的必然上の中でどう偶然を歩んでいくかっていうのが違うだろうから、
やっぱパーレルワードにはなるよねっていうね。
素材は一緒でもっていう感覚。
そうだね。
なので、結構このテーマまで来た時にいろんな語りたくなることとか、
じゃあこれどうなのってね、多分言いたくなることがいっぱいあるんだなと思って、
その辺はまた雑談とかでもお話ししたいなと思ってるんですけど、
今回まとめの方にも入っていきたいと思うんですけど、
息の構造もだいぶ前の感じがするね。
息の話をして、
偶然の話をして、今回の形状的絶対者っていうふうな、
必然という同一性の言語みたいなものと、
偶然という二元性の言語みたいな、
偶然の偶って偶数の偶とかって話もしたと思うんですけど、
っていうものが統合された。
統合って言えば表裏一体であるとか、混ぜ合わさっているって感じなんだよね。
そうだね。
前回西原さんの時にも言った通りにさ、
やっぱり簡単に統合できるようなものって本当は矛盾しないみたいなさ、
そういう話もしたと思うんですけど、
その本当に必然と偶然が両方あって初めて成り立つものっていうふうな感じだよね。
だから今回かな、驚いたけれども、
必然と偶然って対義語じゃないんだねっていうこの感覚。
必然があるから偶然があるとしか言えない。
形状的絶対者っていうものから、
あらゆる必然と偶然がパタパタって展開していって、
それが僕ら人間の、
まず生まれるんだ、どうやって生まれるとか、
誰と出会うとか、どこで生きるとか、
そういうものを一個一個繋がっていくんだよって話なんだよね。
だからある種それがやっぱり、
富木さんのまさに生きている哲学とか、
人間でも捉えた哲学だよって言われたら、
すごい説得力があるというか、
そこまでは生きてたんだなっていうような感覚が持っていただけたんじゃないかなって思うんだよね。
そうだね。
ゆめですね、今回お付き合いありがとうございましたという感じなんですけど、
でも本当にね、やっぱり行きとか偶然っていう、
そもそも哲学的っぽくない話が、
ここまで考えられるのか、ここまで世界観が作れるのかっていうのは、
結構驚いてくれたらいいなと思うんですよね。
そうだよね。そういえばだけど、
もうこの内容自体に驚いてるから忘れてたけれども、
スタートが偶然っていうテーマから、
ある意味でこの世の本質みたいなところにたどり着いてるじゃん、いつの間にか。
そう、たどり着いてる。
それはやらないよって言ってたのに、
割とこの世界の根本的なさ、
刑事上絶対者みたいなさ、だっけか。
うんうん、刑事上的絶対者ね。
刑事上的絶対者か。
的なところになんかたどり着いちゃって、
それでなんとなくこういろんなものが説明できるみたいなところに。
なんかいつの間にか連れてかれてる。
ああ、まあそうね、確かに確かに。
危ないね、ちょっとね。
こういう人と話したらすぐ騙されそうな。
はい、はい。
そうね、なんか分かりますよ、お金払いますみたいな狙いしとるやつだけど。
なっちゃいそう。福木さん怖いやん。
そうそうそう。
それはやっぱ哲学者みたいなものっていうかね、
やっぱりその凄みだよね、本当に。
ちょっとね、もしかしたらごめんなさい、
結構イメージの話と福木さんの話が混ざってお伝えしてしまった部分があるので、
ちょっと聞きにくいな、分かりにくいところがあったかもしれないんですけれども、
もしそういうところがあれば、本当にぜひまたお便りとか、
最近全然言ってなかったんですけど、こっちから。
ちょっと最近実はね、いくつかいただいていたものもあって、
ちょっと紹介とかもできればと思っているんですけれども、
久々にね。
はい、久々に。
それね、お便りとか、
あとそれです、公園っていうコミュニティじゃないですか、
そういうのもあったりするんで、
そういうところね、掲示板とかではね、
そういうの感想を教えてくださいとか、
これが分からなかったりするとかって書いていただいたりするので、
そういうところにもぜひね、
ご一緒しながらお話ししていけるといいなと思っておりますという感じですね。
はいはいはい。
はい。
で、ちょっとじゃあ次回どうしましょうと思ったときに、
ちょっとね、西洋行ってもいいかなと思ったんだけど、
久々に西洋恋しいなと思ってきてるんですけど、
もう一人ね、ちょっと日本人に挟みたくて、
これはですね、和筋哲郎さんという人なんですよ。
聞いたことある?和筋さん。
いや、なんか前から早いと言ってたよね。
その辺の方にしようかなーみたいな。
和筋さんの影響と業績
確かに確かに言ってた。
今回は福地さんにしようってなったんだけど、
時代的にはほんと同じぐらい西原さんと和筋さんと
同じ時代に活躍した教祖が勝っている一人なんだよね。
この人もね、そこが倫理学とかでもいくんだけど、
日本の哲学みたいなことで言うと、ある種外せないというか、
結構ね、特徴的なことをやった人なので、
ある種、日本の哲学者編のラストを飾るという感じで、
和筋さんを取り上げていきたいなと思ってますっていう感じですね。
せっかく日本に来たんだからこの3人にやっとこうやって、
頑張ってやっとこうやって。
もちろんね、他の人もいっぱいいるんだよ。
いっぱいいて、なんであの人いないんだとかってあると思うんですけど。
ちょっと自分の興味をかわして回すときにこの3人という感じですね。
分かりました。
雑談とかはさみつきですね。また次回。
では次回、松井哲郎さん楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いいたします。今回もありがとうございました。
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