1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #356 カント、フィヒテからの..
2025-09-28 48:50

#356 カント、フィヒテからの宿題への答え。シェリングの「自然哲学」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、シェリングの「自然哲学」がカントやフィヒテの哲学的課題にどのように答えようとしているかを探る。特に、自然と人間の自由というテーマが取り上げられ、それが哲学の中でどのように考慮され続けているかを分析する。また、シェリングの自然哲学がフィヒテの哲学とどのように異なるかも探求される。シェリングは、自然と人間精神の関係において自然にも意思が存在すると主張し、人間の自由と創造性を自然の法則に結びつける。エピソードでは、シェリングの「自然哲学」とフィヒテの思想の違いが探求され、特にシェリングが自然の法則と人間の自由をどのように統合し、芸術における創造性と人間精神の関係を明らかにするかについて論じられる。今回のエピソードはシェリングの「自然哲学」に焦点を当て、カントやフィヒテとの関連性について議論する。

シェリングと哲学の関係
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回シェリング第2回ということで、やっていきたいと思います。
はい、前回ですね、第1回ということで、シェリングってどんな人なの?とかですね、フィヒテとかヘーゲルっていうところとどんな関わり合いがあるの?
本当に思ったよりも同時代というか、本当に関わり合いながら暮らしてた、過ごしたということも感じていただけたんじゃないかと思うんですけれども、
そういったシェリング、本当に天才で、若い頃からラテン語もユーライ語もできてみたいな人が、
どんなふうに哲学に入り込んでいったのかとか、やっていたのかっていうところをお伝えしたいかなと思うんですけれども、
今回はですね、より哲学の中身というか、そこに入っていこうと思っておりますよ。
今回も最後にお伝えした通り、シェリング、5つありますって言ったうちの3つくらいの今回使おうと思ってるんですけど、
それが最初が自然哲学ね、次が同一哲学、最後が積極哲学って3つに分けてるんですけど、
今回からシェリングの中でも初期の20代のときに作り上げた自然哲学っていうものを扱っていくんですけれども、
やっぱり大きなテーマでいくと、カントとかフィッシュの宿題をどう説くかなんですよ。
自然と自由の問題
これが前回もお伝えしたんですけれども、カントって自然かい、いわゆる僕らが普段言うところの客観、
いわゆる世の中ですね、自然っていわゆる木とか山とかってことだけじゃなくて、自分が生きているこの世の中ですよね。
っていうものと、やっぱり自分という主観とか主体、フィキティで言うと自我なんだけど、
これってどうしても分かれてるっていうのがカントの哲学の弱点なんですよね。
つまり、自然かい、世の中っていうのは人間とはちょっと違う因果法則というか、
そういうことを当時で言うと、まだはニュートンの力学の時代なんですよね。
ニュートンはちょっと時代的には前で、この人1700年前後で活躍した人なので、
シェリングとかからすると50年前ぐらいで、やっぱり一世代、二世代上の人でした。
この自然感っていうのがやっぱり残っているとか強くて、理科とかでやったと思うんですけど、
遠足直線運動ってあるじゃないですか。
今は力を加えられない限り同じ速度というか、同じ距離を進んでいきますよとかってあると思うんだけれども、
あんな感じで、いわゆる自然って、何だろうな、
ライブの力を受けたらそれでそのまま動いていくみたいな。
そういう法則にのっとって進んでいきますよみたいな。
そういうふうな捉え方なんだよね。
なので、自然には必然性があるとか、因果があるっていうのは、
つまりそういうニュートン的な、一回ポチってスイッチをしたら後は自動で動いていきますみたいな。
そういうふうな必然性を持ったもの。
もっと言うと神だよね。神の必然の中で世界が動いているっていう世界観だったときに、
昔は人間もそこに含まれてたわけだよね。
人間にも自由っていうのは基本的にはない。
やっぱり神の作った世界の中で生きていくっていう感じだったんだけれども、
そこにある種神とは道徳を立てる自由っていうのは見出して、
それによって人間っていうのは自分のちゃんとやるべきことを自分で立てられる、
そういう自由を持った存在なんだっていうことを打ち立てたわけなんだよね。
それがある種神とのすごい強みではあったんだけれども、
じゃあなんで人間はできるのかわかったけど、
でも人間は自由だけど世の中はまだまだ自体的に動いてるみたいな、
このギャップってどうしても埋められなかったんだよね。
へー、そうなの。
っていうのが今ここで言う自然と自由の分離というか、分かれてたって話なんだけれども、
これを引き手は埋めようとして、
自然の必然性みたいなものも全部自我から出てるんだと。
根源的な自我っていうものがあって、
それが自我と非我を立てるっていう働きの中に、
自由とか自然っていうものを全部含まれてるから、
それでオールオッケーじゃんって言っちゃうんだよね。
これがある種、無心論じゃんみたいな感じになって、
引き手の時にお伝えした無心論論争になっちゃうんだけれども、
これはやっぱりファントの宿題としての、
やっぱりその自然、世の中っていうものと人間っていうものが、
どう考えて、やっぱり違うメカニズムで動いてるじゃんみたいな、
これをどう捉えて、人間の自由とか、
フランス革命の時代において、やっぱり人間が世の中を作っていくんだ、
それを成長化するんだっていうところをどう説明するんだっていうことが大きな問題だったんだよね。
うーん、なるほど。はいはいはい。
なんかそこの雰囲気感、なんとなくちょっと伝わったかな?
ニュートンの話はたぶん初めてでしたと思うんだけど。
いや、たぶんちゃんとはまだ伝わってないなと思ってて。
えーと、どうなんだろう。
いわゆる神の世界から抜け出そうとしてる、この哲学領域では。どうなの?
ちなみにっていうものはありながらも、
生産性と自然の営み
ものがやっぱり人間の自由とか、人間の自主性みたいなものっていうものを確保しようとしてるというのに近いかな。
そうなんだ。確保しようとしてるだったりとか、
そもそも自由だよね、だったよねっていうところスタートみたいな感じなのかな。
そうだね、そもそも自由の根源がどこにあるかみたいな。
それがなんで保証されるのかみたいな感じかな。
要は、俺は自由だって言ってもさ、それはただの一人の主張でしかないじゃない?
はいはいはいはい。
でも実は人間という存在、こういう理由で自由というものがあらかじめ持っている存在であって、
それは神の設備とかとも、そこがないというか、つながるんだみたいなものができると、
だからこそ我々は自由を求めていくという革命というか、
そういったところも正当化されたものとしてやっていくんだっていうふうに、ある種ロジックがつくじゃない?
そういうことをしようとしてる感じかな。
なるほど。やっぱこのフランス革命前後というか、哲学はその辺がテーマになってるんだね。
そうだね、そうだと思う。
なるほどなるほど。そうすると、どうしても一人一人の自由っていうものを打ち立てた瞬間、
この世の中だったりとか社会の圧力がもう即生まれてて、
個人の自由が一瞬で阻害されるというか、打ち立てられないじゃんみたいな、
それなんで?っていうところだよね。
それもあるし、社会とかも人間的なものとした時に混んでる自然だよね、世の中だよね。
はいはいはい。
世の中の水は流れてとかさ、木は枯れてっていう時に、そこってある種人間の自由とはおよびもつかない自然の法則というか、
そういったものが働いてるように見えるじゃないですか。
そうね。
そういう時に、世界は人間の法則と自然の法則、2つの法則があるのかっていう風になっちゃうんだよね。
そっかそっかそっか。
そうそう。
1つで説明できないもんね。
なるほど。
そうすると、神がやっぱり世界を作ったとか、神がやっぱり世界の秩序を作っているっていうところとやっぱりギャップがどうしても出ちゃうのよ。
面白いね。ちょっとわかってきた気がする。
人間は川が流れたりとか、サバナが育って枯れていくと同じような感覚で、人間には自由があるっていうものをちゃんと説明しきらないといけないんだね。
そうそうそう。
そこが普通に考えてると、そういった自然の摂理みたいなものと、人間が自由である、個々が自由であって道徳を打ち立てたりとか、自由に考えて自由に生きていくっていうものが全く繋がらないんだね、その自然の法則がと。
法則が見えないんだよね。
見えない。でも自然の法則にすると、要は人間は老いて死んでいくって本当にそういう存在だけになっちゃうから。
自由もきちんと言わないと、自然の摂理なんですぐらいまで言わないと、人間の自由が認められないから、担保されないからみたいな感覚がある。
ちゃんと主張できないみたいな。
そうできない。違反されちゃったりとか、それを根底に動くことができなくなっちゃう。
それってあなたの意見でしょって言われちゃう。
そうそう、どうしてもね。
言われちゃうっていうね、必ず。
フィヒテはそこに、むしろ自我っていうものが絶対値っていうのが先で、その絶対値というものからむしろ僕らが生きている世の中とかっていうものが出てるんだって感じ。
要は自然の法則もそこから出てるんだっていうことは解決策ではあるんだよね。
なるほど、今の流れに踏まえるとフィヒテのその絶対値とかの考えすごいスッと入ってくる。
前回のフィヒテの話は、貝の場体で今スッと入ってきたよ。
でもやっぱりそうだと思うんだよね。
シェリンが何を問題にしたか、フィヒテが何を問題にしたかってことがわかると、逆にフィヒテのことがわかるってやっぱあると思うから。
それも含めてね、後付けかもしれないけど、同一関連論全体が深まるといいなとは思ってはいるんですけど。
でもそういうこと。
なるほどね。自由をちゃんとみんながわかるように定義をしないといけないんだね、概念をね。
そうなんです。
それをすることが自分の課題だとか、今この同一っていうのが必要な営みなんだって思った人はフィヒテだったりシェリンだったりするんだよね。
前回もおっしゃったとおり、シェリンがフィヒテをめちゃめちゃ勉強する。
10代の頃から勉強して、理解をしつくすみたいなところまで行くんだけど、やっぱりそこに違和感を持つんですよ。
それはシェリンの親学的なお父さんが修道院の教授だったとかっていうのもあると思うんだけども、
本当にそんな神の営みとかって、人間のそういった自我とかに全部吸収できるんだっけとか、
なんかでも、それってやっぱり普段の生きてる実感と違くない?みたいなことを思っちゃうんだよね。
本当に自然で、世の中って人間の精神が生み出したものって、それを片付けれるんだっけみたいな。
っていうのがあって、それをむしろ手がかりに考えていきますと。
で、これ面白いのがね、何を考えていくかっていうのを、これからお伝えしていくんですけれども、
1個のキーワードがあって、彼は自然哲学っていう中で言うのが、生産性っていうことなんですけど、
今で言うと、いわゆる効率化するとか、生産性が高いって言うと効率がいいとか、少ない材料で多くのものを作るみたいな、そういう感覚じゃないですか。
そうじゃなくて、いわゆるものを作るとか生み出す、生産する、そういう性質っていうふうに捉えてほしいんですけど、
生産する性質っていうのがあるんだと。
なるほど、はいはいはい。
で、この、なんていうのかな、
要はさっきのニュートンの自然観からすると、自然、ようなかっていうものはポチって押したらそのまま因果でずっと動いていく機械みたいな、そういうような感じだったじゃないですか。
はいはいはい。
そうじゃなくて、実は自然っていうものは何かを生み出すとか、何かを想像する、まさに作り出す、クリエイティブの方の想像、そういうふうな力を持ってるんじゃないですかっていうことを、
これもある種直感的だとは思うんだけども、シェリンが言うんだよね。
で、例えば、これ説明としてシェリンが磁石を使ってるんだけど、磁石ってN極とS極ってあるじゃないですか。
それを対立する力というか、ものがあったときにそれぞれ影響を与え合って、ようなかに動きを生み出している。
こういうものが自然にはいっぱいあって、例えば火と水とかでもいいと思うんですけど、いろんな対立する力というか強みがあった中で、
例えばその磁石から電気が生み出されてとか、電気から何か化学的な反応が起きてとかっていうふうに、
そういうエネルギーを通じて新しいものを生み出し続けるみたいな、そういう営みが自然にはあるよね。
それって機械っぽくとか因果関係っぽくは見えるんだけれども、実はこれっていうのは自然が何かを生み出しているプロセスなんだというふうに捉えてみてはどうかねっていうふうに言うんだよね。
はいはいはいはい。
つまりそれまでは本当に機械とか何かをただただね、通常によって動かされていた自然に、ある種この地というか何かを生み出す、
できても自我っていうものが事故を生み出すそういう衝動とかさ、欲求みたいなものがあって行動があるって言ったじゃない。
自然観の変化と人間の誕生
それを今度は自然の場合に適応したときに、自然も実はそういう意思とか欲求みたいなものがあって、
いろんなものを生み出していて、最終的に人間っていうものが生み出されている。
そういうふうな自然観っていうのがあるんじゃないかっていうふうに言うんだよね。
わー、なんかすごいね。その磁石スタートで言われると、その何らかのエネルギーみたいなもの、
その例えばフィフテの衝動みたいなものも何らかのエネルギーだよねみたいな話されると、少し納得性高まっちゃう恐ろしさを感じてる今。
科学的な説明の納得感の高さの恐ろしさ。
なんとなく説得されてしまうというか、ではあるんだけど。
ちなみに、そういうふうに言うと、いわゆる進化論じゃんみたいな、人間が生まれていって、
何だろうな、昔は。
単細胞ってものがどんどんどんどん大きくなっていって、人間が生まれるじゃんみたいな話っぽく見えるんだけど。
見えるんだ、そっかそっか。
見えなかった、これは。
自分がそういう想像がないからかもしれないけれども、もうちょっと循環しているものを勝手にイメージしてた。
なるほどね。
これはちょっと説明を加えると、自然っていうものがあったときに、人間が生まれてくるっていうことが、
当時からすると、要は神が人間を産んだっていう世界観じゃないですか。
なので、僕らみたいに、今ね、進化論とか言ってあって、
確かに自然の営みによって、そういった生物がどんどん進化してて、人間が生まれたよねっていう発想とはちょっと違うんだよね、当時の感覚からすると。
ダーウィンの進化論、種の期限は1859年なので、
シェリングはこういうことを考えるよりも50年後なんですよ。
なるほど、なるほど。
なので、全然そういう、人間が他の動物が進化したとかっていうことは一切ない時代。
そういう時代にシェリングっていう人は、人間でも実はその自然の営みとか、その自然のエネルギーの変化の中で生まれてきた存在なんだっていうふうに言ってるんだよね。
フィヒテとシェリングの対比
そうかそうか、今勝手に今の知識で捉えちゃったけれども、シェリングはエネルギーにも段階みたいなものがあって、
今台本これちょっと読み直してるんだけど、磁石から電気へ、電気から化学へ、化学から生命へ、そして精神、イコール人間が生み出されるっていう、
どんどんある意味上位というか、そういう段階みたいなものを想定してるんだ。
ごめん、さっきその辺話してたとしたら聞いてなかったかも。
ごめん、ちょっとさすがにそこはあんまりエネルギーって書くっちゃったんだけれども、シェリングがそこまで書いてるかわかんないんだけれども、
決してもさ、自我が事故を生み出すときにいろんな段階を見て考えてたじゃないですか。
事故という人間が生まれるにあたってもすごく細かいプロセスがあって、それを明らかにすることで説得を出したってのがあったと思うんだけど、
たぶん近い浄土なのかな?
そうだね、ゼロコメとしての浄土があって、要は自分を生み出したいとか前に進みたいみたいなやつだよね。
そこに感情が乗ってきて。
感情だ。
感情ね。でもそれも感情も、いわゆる嬉しいとかじゃなくて、いわゆる感覚では痛いとかきついとか、そういうやつを自分が感じ取って、
それを反省して、要は熱いと自分が感じたとか、食べたいと自分が思ったみたいな、そこにやっと主観的なものが出てきて。
その主観が出てきた後で、食べたいと思ったものはケーキであるとか、そのケーキというものは甘いんだとかっていうものが積み上がってきて、
そのケーキは食べないほうがいい、ダイエットしてるんだったら食べないほうがいいとか、お腹空いてるから食べたほうがいいとかっていう目的っていう、5段階ぐらいで話したね。
そういう風なステップバイステップみたいなことは多分受け継いでると思ってて、シェリングも。
なるほど、なるほど。
そういうところから、今何か読んでくれたんだけど、その磁力みたいな、磁気っていうもののエネルギーから電気が生まれて、電気的なエネルギーから化学的なエネルギーになって、
そこから生命が生まれて、最終的には人間とか精神というものが出てくるみたいな、そういうエネルギーの変化とか、展開っていうものが人間精神と繋がるんだっていう風なステップを考えていくわけなんだよね。
なるほど、なるほど。
うん。つまり、フィヒテ、シェリング、最終的には人間は何で生み出されるのかとか、人間というものがどういう風な手順で存在するのかっていうことを語っていくんだけれども、
全然違うじゃない?自我っていうものから出発するのか、自然っていう、要はフィヒテという非我から出発するのか。
うん、そうね。
っていうぐらい、逆のことを言っちゃうんだよね。
うんうんうん、面白い。
うん、ね。さらにフィヒテさんからすると、いやいやみたいな、お前俺の哲学がすげえって言ってたじゃんみたいな。シェリングがそのことを言い出すもんだから。
はいはいはいはい。
それはちょっとね、いい気はしないわけだよね。
まあ、難しいとこはね、確かに確かに。お互いや、なんだろうな、完全に証明できないことを話してて。
まあね。
お互いのね、ある意味後出しじゃんけんじゃん、ずっとひたすら。
まあまあまあ、学問でするもんだからね。
そうそうそうそう。よく言えば肩に乗るっていうね。巨神の肩に乗るじゃないけどね。
そうね。
しょうがないんだろうっていうのもね。
だから、フィヒテが自我ってことに曲振りして、そこから絶対思想が絶対思想みたいなところに行ったのも、たぶん反対の曲だよね。
つまり、気がである自然の方に振り切ったときに、自然っていうものにも意思があって、自然っていうものがいろんなステップを経た結果に人間が生み出されると。
もっと言うと人間の精神だよね。生み出されるというふうに考えるチェリングなんだけど。
はいはいはい。
これ、何がすごいかっていうと、さっきさ、何がテーマかっていうと、カントが残した自然の必然性みたいなものと、人間の自由とか精神っていうものがどういうふうに同じ法則、違う、
違う法則と思われるものをどういうふうに一個にするかって話をしたじゃないですか。
これはつまり、チェリングは自然の法則の方に人間の法則を入れ込んじゃったんだよね。
うん。しかもその自然の法則っていうのは、あなたたちが思ったように必然的なとか機械的なものじゃなくって、むしろそういう意思とか意図とか、こういうものを生み出す想像的な力を持っているから、
人間が想像的なことをするとか、人間が何かその衝動によって、ある種こう、自由に何かをしたいとかって思うっていうことも、それは全部実は自然の法則にのっとってるんだっていうふうに言えちゃうんだよね。
うーん、あーそうなんだ。
うん。
えー、自然の方にも意思がある。
そう。
うーん、そこはちょっと意味わかんないな。
そうね、ちょっとね、この辺はもしかしたらもう少しあとの方がいいかもしれないけれども、まあ意思とは言わないまでも、何がしかその意思があるないはいったん置いといたとしても、
うん。
そういったその自然のエネルギーのステップによって人間が生み出されるっていうことが、まあそこまでOKだと思うんだよね。
そうだね、OK、OK。その結果家庭にね、人間がそういうふうに駆動している、機能しているっていうのだと全然ついつま合うなとは思うから。
うんうんうんうん。
で、そのときに、じゃあそれがいわゆるこう、回論になっちゃうと結局その、人間のやっぱ自由も説明できないわけよ。
あーなるほど、そうやって作られたものの、作られた人間の個体さみたいなものは、考えられなくなっちゃうからってことね。
それもあるし、要は、例えばその、磁力が電気みたいな、そういう物理的な変化と同じような感じで、何か科学から生命ってなったときに、
うん。
その、生み出された生命とか精神っていうものも、結局はなんていうのかな、あの、ただその変化の1、フェーズでしかなくって、
うんうんうん。
結局それが、なんだろうな、人間であることって、そういう変化の結果に人間になったっていうだけであって、
じゃあその人間の自由とか、人間が何かをするっていうことの土台はやっぱりなくなっちゃうんだよね。
あーなるほど、そっか。人間であることまではいいけれども、
うんうん。
人間が自由であることまではたどり着かないのか。
たどり着かないたどり着かない。
たどり着かないか。あー、そっか、はいはい。まあそっか、別、さらに、それだけだとたどり着かなそうね、確かに。
そうなんだよね、うん。
それがやっぱり。
また別の話になっちゃうもんね。
そうそうそう、だからそれがやっぱり自然の法則と人間の自由の法則のやっぱり難しさというか、やっぱり断絶があるって、そういうことなんだよね。
なるほどなるほど、そっかそっか、人間はどこから生まれたのか、みたいなところとか、あと人間の個体さまでは説明できるか。
あ、そうそうそうそう。
自然の法則と理解
例えば、イサバダも同じ種でも大地だったりとか、牛とか動物とかも全然個体でね、性格もなんか違うというのはわかってるだろうから、
うんうんうん。
そこまで説明できるけど、自由って何?ってなった瞬間、なんか別の議論になっちゃいそうだね。
そうそうそう、つまりやっぱりそれが精神なんだよね。やっぱり見た目とか、外から見えるものの違いっていうのはもちろん説明できるし、他の木も牛も豚も一緒でしょと。
でもやっぱり人間だけが仮に精神というか、そういった理性的なものを持ってるとしたときに、理性を使うって、やっぱりその完全なプロセスから出てこないんだよね、やっぱり。
うわー、確かに。
最後の最後、人間の精神、それをイコール働かせることが自由だとしたときに、どこから出るの?っていうところがやっぱりどうしても難しくて。
はいはいはいはい。
そこをフィヒテは自我っていう、そもそもそういう衝動のものから世界を説明することで、むしろ当たり前じゃん、人間が自由とか衝動を持つのって当たり前じゃんっていうふうに言うんだけど、
セリンがそうじゃなくて、実は自然にもそういう衝動的なものがあって、その衝動的なものを受け継いでるから人間もそういう衝動とか精神によって何かをしたいっていうような動きを持ってるんだと、もともと。
なるほどなるほど。
そういうふうに位置づけていくんだよね。
あー、逆ね。なるほど。人間だけにあるんじゃなくて、みんな持ってるよねって言っちゃう。
みんな持ってる。自然も持ってるよね。自然っていうかそういう世界も持ってるよねと。
なるほどなるほど。広げたんだね。
広げた。これはさ、すごく神様と相性良さそうじゃない?
いいのか?
そこはわかんない。
あんまりかな。本当?
自然に何かを生み出したいとかそういう意思があるとすると、例えばそういう意思を持ったものとして神が世界を作ったって言うじゃないですか。
その世界を神が作ったって言いやすいってこと?
言いやすい。もっと言うと、これはセリンが言ったわけじゃない。ちょっと説明として聞いていただきたいんだけども、
例えば神が天地創造で全部作ったとしたときに、今僕らは神から美反されてるのかみたいな話になってくるわけだよね。
最初の世界作ってくれたけど、世の中は苦しいなとか、神様の温庁とかってわかんないなとかってなったりするじゃない?
するとしましょうと。
言うときに、実は神様が全部今までも手を尽くしてるんじゃなくて、そもそも世界というものがより良い方向にとか、
こういった人間という存在を生み出してそれが反映するように世の中を作ってくれているんだと。
そういうふうに捉えたとすると、その中にこそ神様の計らいみたいなものを感することができるじゃない?
そうね、はいはいはい。
っていう意味で、要は自然がただの機械みたいな感じで動いてるんじゃなくて、
自然にも何か目的があるとか、意思があるとか、望ましい方向性に進んでいくという原理が埋め込まれていると考えてみましょうと。
つまりもうそういうプログラミングがされてるんだと、世界には。
すると、そういった神様が世界というものをより良くなる方向に作ってくれたんだねっていうふうに繋がりやすくなるんだよね。
なるほどだけどちょっと怖い考え方な気もするよね。
神と人間の関係
全部人間のためにあるんだって思っちゃいそうな。間違ってないよね、その感覚。
間違ってない。
神様は一応ね、政治的には人間のために他の動物を作ったみたいなことも言ってるわけだから。
あーそうなんだ。
そうそうそう。キリスト教はそういう世界観だね。
あーじゃあバッチリ合うんだ。
そうバッチリ合うの。
なるほどね。
そうそうそう。
生きては自我に行っちゃうと無神論っぽくなっちゃうんだけど、
死人は自然の方に一種をはめ込むと、すごく神の気的な神様的なことと相性が良くなってくるんだよね。
へー、はいはいはい。
はい。っていう感じで要は、この人間の自由とか精神っていうものも、
やっぱりある種神が作った世界っていうものがメカニズムからある種必然的に出てきて、
それを行使するっていうことは、全然神が世界を作ったっていうことと実際になるっていう風な、
そういう風なやっぱり発想になってくるんだよね。
おー、なるほど。それはなんかあれだよね、現実世界の動き方とリンクしてて、
すごい納得性高そうだよね、当時の感覚から。
そうそうそうそう。
だから、やっぱり当時フィヒテじゃなくてシェリングの方がその後有名になったみたい、有名というかね、
フィヒテをやっぱり乗り越えたみたいになってたのも、やっぱりそういった実感との繋がりとか、
あとやっぱりシェリングの方が信じやすいというか、フィヒテ信じると無神論者って呼べたりする可能性があるわけじゃない?
そうだよね。
でもシェリングはやっぱりそうなりにくい。
自然哲学の中でそんなに神を打ち出したりなかったと思うんだけれども、
晩年に行けば行くほど、そういった神みたいなものとか、宗教的なものとかの繋がりがすごく深くなってくるのがシェリングの特徴なんだよね。
芸術と自然の統合
あー、そうなんだ。
そういった部分の根っこというか、やっぱりその繋がりがここにもあったんだよなっていうふうにちょっと思ったりはするんだけれども、
そういった形で自我とかじゃなくて自然の方に、自然の法則に人間の法則を一体化させる。
それでも小妻が会うようにしていくっていうのが、ある種シェリングの自然的哲学ですよという話を今日はしたと思うんですよね。
これが面白いのが、前回ちょっとシェリングの影響を与えたものとして、芸術とか、芝居と芸術とかも含めて、
こういう人との関わりがあったって言ったじゃないですか。
それがですね、シェリングが言ってるのが、いわゆるこの自然と、自然の法則だよね。
人間の法則っていうものがある種統一されたっていう時に、ある種わかりやすいのが実は芸術なんだみたいな話をしてるんですよ。
そうなんだ。
そういうことかっていうと、例えば天才的なアーティストとか、いろんな歌手でも画家でもいいんだけれども、
人たちって要は自分を超えたものを表現してしまったとかさ、
自分では意識してなかったけどこういう作品が生まれたみたいなことって、普通にあったり現代でもあったりすると思うんだよね。
っていう時に、これって要はフィヒテの自我の話からすると、やっぱおかしな話なんですよ。
フィヒテ、だから前回のね、フィヒテの自我。
前回。
えーおかしいんだ。
要は自我っていう主体があって、そこから世界が出ていくわけだから、要は自分が意識できないものってないはずなんだよね。
あーそうか、非我も自分で作ってるからね。
そうそう、非我も作ってるから、要はもの自体もなくしたっていうと同じで、
自分の意識とか理性を超えて何かを成し遂げるっていうことって、フィヒテのロジックからするとやっぱどっかおかしいんだよね。
なるほど、起こり得ないね、確かに。
起こり得ない、そう。
多分フィヒテに言わせるとそれはただ自分が自覚してないだけで、本当は自分の中にあったんだ、なんだけれども、
そうは言われてもって感じじゃん、多分そのね、アーティストさんからすると。
あーそうだね、その感覚をうまく説明しきってくれないし、あるなら先に言っとけよっていう感じがするしね。
そうそうそうそう、そういうところがあるんだけれども、このチリングの発想からすると、
要はそれっていうのが、その自然の法則っていうものを自分、人間を通して、要は何だろうな、実現したものなんだというか、
当時無意識って言葉もそんなにないんだけれども、そういうこう、やっぱり人間を超えたものっていうのもあるんだが、
それをある種人間と自然っていうのは繋がってるから、そこから引っ張ってきたもので、
こう、より自分を超えたものが表現されるってことがあるんだよっていうふうに説明できるんだよね。
はいはいはいはい。
こっちの方がさ、ちょっとやっぱり繋がってくる気がしてね。
要は自然の何か生産性というか、何かを想像したいっていう気持ちが、あなたを通じて現れたんですって言えるんだよね。
なるほど。いやー、これは、そうだね。たぶんシェリンがそういうセンス、感覚を持っていたからこそって感じがするね。
そうだね、それもあると思う。
あの、いわゆる降りてくる感覚ではね。
そうそうそう。ね、噛みかかりとかさ言うと思うんだけど。
これは自分にもないからさ、感覚的にはわかんないんだけれども。
うんうん。
想像すると、なんかわかる気がするよね、こういう話は。
そうなんだよね。だから、僕はもちろんお話としかわからないけれども、やっぱりゾーンみたいなさ、いわゆる不老状態っていうのは、
やっぱり自分の何かを超えたものがあるとか、自分がやったことはやっぱり自分ごととは思えないみたいなことって、現実にはありますっていうときに。
それをこのシェリングの自然哲学だと、説明できるというか、なんとなく表現できるっていうことにつながってくるんだよね。
はいはいはい。
つまり、主人とか芸術家って自然からインスピレーションを受けるとか、
その中で美を見出していくっていうのもあると思うんだけども、そういったものがニュートン的に言うと単なるね、
深いで自然的に動いてるだけで、いわゆる死んだもの。
それはある種、ただ定められている通りに動いていくしかない、発展性のないものっていうふうなものだったところが、
いわゆる自然の創造性とか豊かさとか、そういうものを一気に取り戻してくれたわけだよね。
しかもそれは人間精神とも響き合って、人間を豊かにしてくれるとか、人間の自由っていうものの根底にもなるものだと言われると、
芸術家たちもシェリングすげえとか、その発想いいじゃんとかって言って、
やっぱりその発想から自分ももっと色を作ってみようとか、もっと自然の創造性を生かしてみようみたいな、
そういうことがどんどん言語化できるようになっていくわけなんだよね。
そうね、わかってんじゃんってなりそうだよね。
そうそうそうそう。自分が直感的にとか、その芸術家たちが直感的にとか、
今でいう無意識でやったことをちゃんと言語化してくれて、実践できるようにするみたいな。
そういうふうな役割もこの自然哲学というのは出せたらしいんだよね。
シェリングの影響
へー、なるほど。
いうふうな形があるので、このシェリングっていうものは関東の宿題であった自然の法則と自由、
人間の法則というものが分かれているっていうものをどう統合するかっていうときに、
やっぱ適正をちゃんと使うというかね、踏まえながらも自然という方にやっぱりいきましょうと。
それを突き詰めることで、自然の法則と人間法則、自由っていうものをつなげていくっていう、
そういう道を切り開いたんですっていうのが、この自然哲学っていう感じなんだよね。
なるほどなるほど。
多分これを完璧に、わかったっていうには、
ちゃんとキースト教を勉強しないとダメなんだろうねっていうこともわかった気がする。
それもあると思うな。
頭ではわかった。自然と人間のリンクした感じは説明ではわかったけど、
多分この世界観で生きてると、神様が作ったこの人間と世界というものの感じ、世界観と、
このシェリンが言った自然哲学の世界観の一致性がたぶん半端ないんだろうねっていうイメージがあったかな。
そうだねそうだね。
そこをまた次回ちゃんとお伝えしようかなとは思っていて、
でもやっぱりそういった芸術的なこともあるし、やっぱり自然と精神とか理性がつながってるって言っても、
そもそもなんで全体、自然の意志とか想像性ってどういうことみたいな話になっちゃうと思うんだよね。
まあそれはそれであるよね。
意志あるように。意志とか理性とかで考えるとあるようには見えないっていうのが普通だとは思うから。
なのでそのあたりが2つ目って言うと同一哲学。
ところへの橋渡しで待っていくので、そこをつなげる形の話を次回して、さらにその次の回で同一哲学とはなんぞやみたいな。
さらにその先の積極哲学とはなんぞやっていうところまでいって、シェリング界にしたいと思うんで。
第2回か、今回シェリングの自然哲学ってこういうものだよっていう土台をフィクシティと比較しながら作っていったんですけれども、
なんとなくしっくりくるようなことになって、兄貴の部分もあると思うんだけど、
次回もぜひこの自然哲学をもう一回お伝えしたいなと思っているので、
そこで話しながらもう一段シェリングっていうものを理解するというかね、味わっていければいいのかなと思いますっていう感じですね。
はいはい。わーでも面白いね。同時代にこんなことが生きてシェリングが起こってるんだっていうね。
でも言われてみれば分かるというか、フィクシティをやった時にどうしても自我に行き過ぎちゃって、
なんか窮屈だよねというか、それはそれでいいんだけど、やっぱりなんかバランスちょっと悪いかなみたいな話をしたと思うんですよ。
まあそうね、あとはやっぱその現実、自分の感覚となかなかリンクしないよねっていうとこもやっぱ確かにあったと思うから、
そこは一気にね、こっちのシェリングに行くと、あーなるほどーってリンクする感覚は、
キーストーキョーじゃない自分でもなんとなく分かる気がするし、なおさら世界観とあるんだろうなっていうの。そこは面白かったね。
そうそう。絶対あると思うし、やっぱりその自我の哲学と出演哲学って全然違う、その自我と非我っていうところで、
君に伝えるものは両方見ることで、そこのあるいはこんだけの触れ幅があるんだっていうのが伝わると思うし、
逆にヘーゲルはこれをまとめあげるっていうか、その上にさらに組み上げるんだよね、自分の哲学体系を。
これを統合したの?
統合とも言えない。両方を見ながら自分の哲学を作ったっていうのは、ちょっとごめん。
まだ僕もやっぱり分かんないから、ヘーゲルの哲学をちゃんとね。
また改めてね、見直して。
新たにシェリングやったらもう一回ちゃんと勉強するんですけど。
っていうか今やりながら勉強し直してるんですけど、やっぱりこうね、なんていうのかな。
それは単純に統合だとも言えないし、でもちゃんと両方に目配せをちゃんとしてるんだよね。
へー、そうなんだ。
っていうのがあるんで。
僕らは今ヘーゲルに向かってドイツ関連論っていう道を進んでるわけだけど、
やっぱりシェリングを知ることで、ヘーゲルってそういうことだったのかっていうのもあるし、
今日兄貴がやってくれたみたいに、シェリングやったらちょっとフィして分かったかもっていうのも含めて、
あ、ヘーゲルやったらシェリングってこういうことを考えたんだってのもやっぱり伝わるかってのもあると思うんで。
他に入れ子講座で難しい部分とか聞いてくださる方に少しこうなんだろうな、
マジかよみたいな、覚えてなきゃいけないのかよとかっていうのはあると思うんですけど。
でもちょっとこれをなんだろうな、何とか楽しく伝えたいと思ってるというか。
やっぱり時代的には100年もないのかな。
ファントが生まれたのが1724年なんですよ。
シェリング、一番若いシェリングが生まれたのが1775年なので、
ファントからフィして、ヘーゲル、シェリングって50年しかないんですよね、差が。
全然時代的には同じ時代に生きる人たちなので、
この50年でいかに実は広がっていったのかとか、
それぞれの人が打ち合わせたものが合わさってヘーゲルってのが出てきたか。
シェリングの自然哲学
ところのダイナミズムをお伝えしたいなっていう気持ちがあって、いろいろ喋っちゃったんですけど。
確かに確かに。
時代が生んだヘーゲル感もあるってことはね。
そうそうそうそう。やっぱりヘーゲルはヘーゲルだけじゃないんだよ。
ところがやっぱり、前回ヘーゲルを扱った時は僕の中に全然なかったから、この視点が。
ああ、そうなんだ。
ダントツさんと次はヘーゲルだよねってやっちゃったから、
全然穴だらけだったんだ。それはわかんないわ、ヘーゲルみたいな。
おお、なるほど。
これもあって、今やったらわかるのかっていうこともまだわかんないんだけど、
そういうことも含めて皆さんと味わうこととか楽しめるんじゃないかと思って、
すいません、いまいろいろやっちゃってるっていう感じですね。
なので、逆に聞けないよみたいなところもあるかもしれないんですけど、
一回一回はシェリングさんの面白さとかすごさってことを抑え切るように頑張ろうと思っているので、
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいなとか楽しんでいただきたいと願うしかないっていう感じでございます。
でも思いがあふれてるね。
思ったよりも、はみ合ってるっていうか、すごい影響を抑え合ってるなって、
改めてシェリングだってわかったんだよね。
これ面白いところだよね。今回はカントだけとか、シェリングだけ、フィッシャー系とかで見ると5回ぐらいずつだけども、
どうやって関連論シリーズみたいな感じで捉えちゃうと、そんなにの長さがあるから、
そこを全部聞いてくださいっていうのもちょっと申し訳ないみたいな、そういう話ですよね。
そうなんだよね。そうなんだよ。
やっぱ心苦しいね。5回ぐらいでスパッと楽しめる、セブンス21Aとかさ、
そういう人をやったほうがいいのかもなって思うんだけど、
ちょっとすいません、やり始めたら止まらなくなっちゃったんですっていう。
前回のエドぐらいからちょっとそういうモードに入っちゃったっていう。
いやーそうだね。良くないな。良くないのかな。
個人的には面白いと思うけどね、聞いてて。その流れがわかるから、自分に入ってくる感覚がまた違う感覚があって、感じがあって。
なるほどね。そう言ってもらったらすごく嬉しいし、今度は逆にそれをやるとね、
今度は実存主義で改めてサルトルとかのあたりを全部やりましょうかみたいな感じになってくるから、
それがいいのか、また別のとこに行くのかっていうのを色々それも考えてはいるんだけど。
行き行きは欲しいよね。
そうですね。ですよね。
ちょっとそこの緩急はつけながら進めていこうと思っているんですが、
とはいえ引き続きシェリング界というところでシェリングの自然哲学ですね、
次回もお届けしようと思っていますので、ぜひお楽しみというふうに思っております。
はい、分かりました。そんなシェリングの自然哲学ですね。
次回、もうちょっと深く見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:50

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