1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #359 「神とは何か?」ではな..
2025-10-08 1:03:52

#359 「神とは何か?」ではなく「なぜ神が在るのか?」を説いたシェリングの積極哲学

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、シェリングの哲学に基づき、消極哲学から積極哲学への移行が語られています。特に、神の存在理由や絶対者の問題に焦点を当て、理性を超えた存在への理解を探ります。シェリングの積極哲学では、「なぜ神が存在するのか?」という根源的な問いが探求され、絶対者とその哲学的意義が考察されています。存在の根拠や観念論的アプローチについての議論が展開され、シェリングが抽象的な考えを具体的な存在とどのように関連付けているかが焦点となります。神の存在とその根拠についての探求が進む中、神が存在することをどのように説明するのか、またその存在が理性を超えたものであることが重要なテーマとされています。さらに、シェリングの積極哲学を通じて、神の存在とその根拠が世界をどのように形成するかが議論されます。キリスト教の他に様々な神の現れ方についても触れ、消極哲学との対比を通じて哲学的理解を深める試みがあります。シェリングの哲学において、神が存在する理由に焦点を当て、積極的な視点から神の本質が探求されています。

シェリングの哲学の変遷
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でシェリング界最後ということで、前回の同一哲学に続いて積極哲学というところに入っていくという話でした。
はい。言葉で言うとね、そのなんか続きものっぽくって、そのシェリングがなんかその次に同一哲学ってやりました。
最初は自然哲学だったよね。そしては自我というところから始めたけれども、シェリングはそこじゃなくて、自然というか外部の方から作りましょうってところがあって、
その次、同一哲学っていうその絶対者っていうものを立てて、次が積極哲学ですよみたいな、言葉で言うとなんかさらっと言っちゃうんだけれども、
実はここにはめちゃめちゃシェリングさんの苦悩と、時間といろんなものが入っていたりとか、
この同一哲学と積極哲学って、前もちょっと言ったかもしれないんですけれども、全然なんか続きものっていうよりは、なんか全く違うある種断絶があるよねみたいな話もされていくんですよね。
じゃあ自然哲学と同一哲学は延長線上というか、ブラッシュアップしましたみたいな感じがあったよね、確かね。
そうだね。自然と理性みたいなのがあったときに、それってそもそも別れでないよね、それって根本的にひとつだよねっていうところを、
同一哲学、絶対者みたいな風にしたっていうのがあったから、一応そこは続きものっていう感じだね。
じゃあ次の哲学は時間的にも空いてるし、内容的にも全然違うみたいな、そういう感覚なの?
絶対者と神の探求
そうなんです。前回もヘイゲルが人気になるというか、世の中で名声を得ていく一方で、やっぱりシェリングが過去の人というか、
昔はすごかったけどね、みたいな感じにちょっとなってしまうんだよね。
もちろんシェリング自身も自分の哲学をどんどん深めていくし、大学で授業とかもしてはいるんだけれども、
やっぱりいわゆる若いときに自然哲学とかを打ち出して、この人すごい不否定を乗り越えてるみたいな、
一躍解けた日になったっていうところからすると、結構、没落って言うとちょっと言い過ぎかもしれないけれども、
あいだその哲学界の中ではそういう位置づけになっちゃってたんですよ。
へー、そうなんだ。
彼自身はそれで、サラズインというか何くそって言って、ヘイゲルよりも長く生きたって話をしたと思うんですけれども、
それをどう乗り越えるか。それはヘイゲルの哲学もそうだし、自分自身の前回お伝えしたような絶対者っていうものを作ったときに、
やっぱりそこから現実的なもの、山でも川でも人間でもっていうものがどう分かれて出てくるかっていうところが、
説明できないっていうのは自分も分かっていたから、それをどうして乗り越えられるかっていうところをずっと考え続けてたみたいなんですよね。
おー、はいはい。だからある意味ヘイゲルの批判みたいなものも、そんなこと分かってんだよみたいな話ではあったのかな、もしかしたら。
そうだね、うん。分かってたんだけど、やっぱりそれをヘイゲルに言われちゃうと、うーんみたいな感じだったっていうところだったんだけども。
言われた相手も悪かったって話だね。
そうだね。
エイトよりかわいい人に批判されちゃったから、みんなにそうだそうだって思われちゃうみたいなね。
そう、槍玉に揚げられちゃって、みんなヘイゲルさんはすごいってことは批判されてるシェリングさんは違うんだみたいな感じになっちゃったってことなんだよね。
あー、こわこわ。はいはいはい。
で、それもまっすぐに同一実悪っていうところから積極的実悪に行きましたっていうことじゃないよって話をしたんですけれども、
そもそもシェリングが何を考えたかっていうと、やっぱりまず一番解決しなきゃいけないのは、さっきお伝えした絶対者問題。
同一実悪ってのがあったときに、自然と理性みたいなものとか、自我と非我みたいな、そういったものがそもそも根本一つだよっていう話をしたわけなんですよね。
根本一つはいいけれども、それがどうやったらそれぞれの存在に分かれるのかっていうことはやっぱりわからなかったんです。
ところがあったので、なんとかしようとしたときに、どうしてもシェリングは神っていうものに行くんですよね。
あー、そうなんだ。
これはシェリングにとってはすごく意義があるというか、必然性があって。
まず一つは、もともとお伝えしたとおり、シェリングってイリスト教のお父さんが学者さんというか、修道院とかでも教えた人ですよって言ったと思うんだけれども、
やっぱりそういう宗教的なものへの距離感ってすごく近かったっていうのがあるんだよね。
もう一個が、これが哲学的な話なんだけれども、どこまで頭で考えても、もっと理性で突き詰めていっても、
やっぱり、いわゆる絶対者から個別のものが分かれるとか、そもそもなんで世の中そういった絶対者みたいなものがあるのか。
前回の花瓶の例でも、カントは純粋理性と実践理性というのを分けて、それが分かれてるっていうことが宿題になって、割れた花瓶をどうくっつけるかみたいな話をみんな考えてました。
そうじゃなくて、そもそも花瓶っていうものがある、割れるか割れないかって置いといて、花瓶っていうものがあるっていう時に、
その花瓶ってどうしてあるんだとか、その存在自体に目を向けましたって話を前回したと思うんですよね。
うん、あったね、はいはいはい。
っていう時に、でもどれだけ貴様を使って考えても、その花瓶がある理由というか、今ここに存在している花瓶がなぜあるのかっていうことは、分からないよねっていうことにシェリングは気づくんだよね。
難しい話だね。それって誰かが花を生けたいから、そういうレベルじゃなくてってことね。
そうそうそう。これ、花瓶があればもちろん誰かが作ったからとかさ、誰かが持ってきたからとかって言えるんだけれども、
それは絶対者とかそういったものを考えた時に、要はそれって人間の理性を超えている、要は理性っていうものも絶対者から分かれて出てきたものじゃないですか。
はいはいはいはい。
理性と自然というふうに分かれた時に、その分かれる前のものだから、つまり人間の理性を超えているんだよね。
あー、なるほどね。花瓶とかだと理性の下というか、処理できるけれども、絶対者みたいなものを考えちゃうと同列には語れないんだ、花瓶みたいなものとね。
そうそうそうそう。あくまでも例えとしてね、分かりやすい花瓶というかものを言ってるし、実際絶対者もものというか存在するものではあるんだよね。
存在でもあるんだけど、でもそれは理性を超えた存在だって言った瞬間に、どんだけ頭で考えてるの?
ドイツ観念論っていう観念って、いわゆる頭で考えようとか理性で振り組むものなんですよね。
それはデカルト的な、我を思うように我ありっていう、我っていう精神のほうとか理性のほうで世界を解き明かしていくんだっていう流れを組んでいるんだけれども。
あったね。生まれながらに制徳観念だっていうか、生まれながらにしてるみたいな。あったもんね、デカルトの。
そうそうそうそう。理性っていう、ある種人間を超えたものがあって、それを使えば全てを説明できるっていうところが結構ドイツ観念論の根本にあるんだけど、
シェリンがここでドイツ観念論の一派ではありながら、そもそもそんな理性で全部を理解することってできるんだっけってことになっちゃうんだよね。
だいぶ潜ったというか、遡った感じがするね。
そうなんだよね。これは結構若干苦しめるところもあって、要はどうしたら絶対者から自然と精神と合って若い人が出てくるんですかっていうときに、そもそもそれ理性の問題を超えてるからっていう、ある種このゲームの土台をひっくり返しちゃうんだよね。
要は他の人がどうやったら絶対者から個別のものが出るんですかっていう質問をしてるのに、そもそもそれは理性では答えられる問題ではありませんっていうふうに、問題をガラッと変えちゃうんだよね。
なるほど。確かに苦しまりでいくのもね。答えてないもんね。
これは逆に言うとすごいことというか、以前もおっしゃる通り哲学者って自分の作った説とか思想っていうものを何とかして証明しようとか、より良くしようというふうにしていくじゃないですか。
まあそうだね。万人にも納得できるようにみたいところがね、説得できるように。
っていうふうに説明を深めていくんだけれども、シェリンがそれを捨てて、自分の考えを間違ってましたと。
要は、理性とかそういった精神で全部を解き尽くすってことはそもそも無理系だったんですと。
ただこれは実は、過去の自分の自然哲学とか同一哲学だけじゃなくって、これはヘーゲでもフィヒテもカントもこれまで行われてきた哲学全部その問題に囚われてるんで、
過去の哲学全部無理系はやってたんですっていうふうに言い切っちゃうんだよね。
道連れにしたんだね。
道連れにしちゃう。
自分の反省というか、これまでのやってきたことを全部捨てるのと道連れに、自分以前の哲学者っていうのも全部お前ら間違ってるよっていうふうに切り捨てるというか、ラベリングしちゃうんだよね。
積極哲学の誕生
だいぶ生贄に捧げたね、だいぶね。
ものすごいものを召喚できそうでしょ。カードゲーム的な発想ですね。これを生贄とか骨董にして、これを召喚みたいな感じなんだけど。
手札全部捨ててみたいな話しちゃうね。
そうそうそうそう。
デッキ半分からデッキ元全部捨ててみたいな感じするね。
1か8かみたいな、この1枚に限るみたいになって生まれたのが実は積極哲学なんだよね。
そうだな、それは。生まれたんだ、そして誰もいなくなったではなくて生まれたんだ、ちゃんとね。
じゃないです、ちゃんと生み出すんですよ。
これが今日の冒頭に言った、道一哲学の次に積極哲学ですよっていうふうに、きれいく言えない。
すべてのものを全部まさに犠牲して、いけにえにし召喚したものが積極哲学で。
すごい驚々しいのが出てきたね。
そうなんです。
彼がラベリングした自分の過去の哲学を含めたものっていうのは消極哲学っていうふうに言って、
積極と消極、日本語で言うとあんだけれども、そういうふうに分けて、
ある種哲学のそもそもの考え方が違うんだっていうことを打ち出しちゃうんだよね。
すごい、思ったよりすごいことしてるですね。
そうでしょ。
これまでの流れみたいにさ、道一哲学がダメだったからそれを乗り越えたんだぐらいの感じだと思ったけれども、
一体やけの原にしたんだね。恐ろしい。
そうなんですよ。やけの原にしたっていうか、なんていうのかな、これは。
やっぱり本当に世界の見方を変えたぐらい本当に出来事なんだけど、
少し繰り返しになっちゃうんだけど、もう一回説明すると、
ある種シェリング、消極哲学、それまでの哲学って、
概念とか論理とか、それによって世の中の在り方とかを説明しますっていう哲学なんだよね。
これはもう本当に、さっき言った通りデカール・トモダシ、カントン・フィヒテム・ヘイゲルも、
全部理性っていうものを使って世の中を説明してるって意味では、消極哲学なんですよ。
これ何がダメかっていうと、要は、カントン・フィヒテム・ヘイゲルもいろいろやってるんだけれども、
彼らがやってることって結局、この世界がどんなふうに存在しているかとか、
我々がこの世界ってどういうふうに捉えるかとか認識するかっていう説明っていうことをしているんだけれども、
それってあくまでも説明というか、まさに出来事にラベルをつけてるだけだよねっていうふうにシェリングは考えるんだよね。
なるほど。確かに受け身な感じがするね。
そうそうそうそう。もちろんこれまで言った通り、それをやることでより世の中を正しく説明できるよねとか、
より人間の自由とかそういったものを根拠付けできるよねっていうふうに言うんだけれども、
でもシェリングは実はそもそも営み自体がやっぱり間違っていて、
自分の積極実学っていうのは、この世界がどんなふうにあるかって説明するんじゃなくて、
そもそもあるとは何か、この世界があるってどういうことなのっていう、その存在の方に目を向けてるんですっていうふうに言うんだよね。
ピンとこないな。
これはさっきの絶対者で言うとちょっと分かりやすいんだけれども、
絶対者って何なんですか?どうやって物に分かれていくんですか?って話をみんな聞いてくるわけじゃん。
そこが分かんないってあなたの同一実学全然分かんないですよって言われるんだけれども、
違うんだと。そもそも絶対者っていうものがどういう存在かじゃなくて、
神が存在する理由の探求
なぜ絶対者が存在するのかとか、その絶対者が存在するとはどういうことなのかみたいなことを考えないと、
もっと言うと、絶対者が何で2つに分かれてくるのかとかっていうのは、その先の話であって、
より根本的な問いっていうのは、なぜ絶対者が存在するのかっていう、そっちにあるんだよっていうふうに、
その問いのレイヤーを1個あげるんだよね。
ほうほうほうほう。
そうすることによってある種、批判者というか、それこそはヘーゲルとかも含めた自分の哲学を批判する人の問いをいっぱい交わすんだよね。
うん、なるほどね。そっかそっか。やってるゲームのルールというか、違う種目やってるんだもんねっていう話に一旦できるって話だね。
そう。っていうことをまず聞き分けた上で、だから私はあなたたちの問いに直接答えるんじゃなくて、
このそもそも何であるのか、何かが存在しているということはどういうことなのかっていう問いに答えていくんですよと。
あー、なるほどね。オッケーオッケー。はいはいはいはい。だいぶ苦し紛れ感はあるけれども。
まあね。
そういうことか。はいはいはい。テニスやってた人たちに、自分もテニスやってたんだけど、
いや、俺スカッシュやるんでみたいな。全然違う競技の方に行っちゃったみたいな。
でもそうだね、そんな感じが近いかな。
土台、土俵ずらしみたいな感じするね。
あ、そうそうそうそう。
どうなんだ、これは哲学的に意義があるのかね。これからの話だと思うけど。
そうだね。大きな意義としては、やっぱり哲学っていうもの自体が何かを追う学問ですよね。
より世の中の根源的なものとか、根っこを追求していきたいというぐらいの学問じゃないですか。
哲学とシェリンが呼んだ人たちは、存在ってものを前提にして、その本質、要は何であるかっていうのをとっていますよね。
あー、ちょっと分かってきたかも。はいはいはいはい。
つまり、例えばその自我があって、それによって、ピューヒテルだよね。自我っていう大きなものがあって、そこから非我に分かれていくよねとか。
そうやって思ったときに、そもそもなんで自我があるのかとか、非我という世界があるのかっていうことを考えないと、
それが分かれるとか分からないとか言っても、結局それって後の話だよねっていうふうにシェリンが捉え直すんだよね。
存在の根拠と観念論の批判
そうだね。なるほど。だからその、みんながぶつかっている何らかの壁だよね、哲学者は。その絶対者的な。
自我とか非我とかって、例えば定義したとして、存在するって勝手に言ったとして、
じゃあそれって何なんですかって言われたら、えいとうってなるしかないというか、その先は分かんないよみたいな話になっちゃうんですよね。
確かに、そこに対する攻撃としてはすごい鋭い気がするね、確かに。
そう。やっぱり自分の方が一歩進んでいるし、よりこの世界の存在用は、なんていうかな、その観念論みたいなものってすごく抽象的な概念になっていくんだよね。
例えば、不意してて言うと、自我っていうものがあって、そこから非我が生まれるよっていうときに、
非我っていうものが生まれるのは分かるけれども、それがいわゆる自分の目の前にある山ですとか川ですとか、このパソコンですとかっていうときに、
そのパソコンが存在するっていうことって、果たして自我からどうやって導けるのかっていうと、やっぱり結構遠いんだよね。
なので、ある種観念論、観念的とかって言うと、ある種ちょっと空虚とか現実性がないみたいな、僕らの普段の言葉のイメージもあると思うんだけど、
まさにそういった意味合いで、いわゆるこの本当に現実にある世界っていうものに対して、あなたたちの哲学って遠くないですか、みたいなことをやっぱりシェリンが考えていくんだよね。
いやー、面白いね。そっかそっか。こじつけとか結構無理矢理になるかもしれないけれども、さっきその自我、非我だったりとか、
あとシェリン自身が同一哲学で定義した絶対者だっていうか、それも多分同じ話だよね。小極哲学の話で。
そうです。
そうすると今日例で出てたような花瓶だったりとか、あとは何でもいいパソコンだったりとかでもね、その辺の石でも何でもいいんだけど、確かにそれが存在するっていうのは、
なんだろうな、ここでシェリンが積極哲学で多分想定するところのあるみたいなもの、存在みたいなものから考えると、今ハヤトが言ったようにだいぶ遠いというか、ある意味、
勝手に人間が存在してると思ってるもの、勝手に存在してると思い込んでるものを勝手に存在していると定義した上で、それについて哲学してるよね。
それってめちゃくちゃ空虚じゃないっていう言い方もできるよなって思った、確かに。普通の視点から言うと逆なんだけど、この世の中にある現象について哲学しないと意味ないって思っちゃうかもしれないけど、シェリンはそこを完全に逆転させたんだなみたいな雰囲気がちょっと感じてきた。
そうなんだよね。そもそも花瓶の例で言うと、そもそも割れた花瓶がありますと、自然と精神とか純粋理性と実践理性みたいに割れてる花瓶があって、どうやったらくっつけるんだろうっていう接着剤とかテープとか色々考えたわけだよね。
神の存在の根拠
ここにきてシェリンは、ちょっと待って、一生懸命くっつけようとしてるけど、そもそもこの花瓶ってなんでここに存在してるんだっけっていう、それを考えないと本当にくっつけていいのかとか、そもそも割れてるものなのかもわかんないよねみたいな。
もしかしたらそれで、僕ら割れてる花瓶と思ってるだけで、もしかしたら今のこの在り方がベストかもしれないじゃんとか、そういうことも考えられるわけなんだよね。
そうだね。だし、そもそもそれをくっつけて花瓶に戻すことだったりとか、誰がいいってそもそも決めたんだったりとか、あとその花瓶って存在自体、誰がそもそも決めたんだよっていう、ちょっとシェリングの視点になってきた。
そこに対する怒りみたいなものが。
誰だよ、勝手に花瓶なんか作ったの?みたいな感じのシェリング。
そうねそうね。なのでまさに存在の狭間に立つと、お前らが言ってることにすごくわっつらの、まさにそれこそ抽象的なことを持ち遊んでるだけじゃないかみたいな、いらがちになっていくわけなんだよね。
立場が変わるというかさ、面白いね。世の中を具体的に生きてる人に対して、何そんな抽象的な世の中で勝手に耳づけして生きてるんだよみたいな。それこそ愚かじゃないかみたいな感じになってくるね。
いやそうなんだよね、面白いよね。だから前回までとかに多分、今聞いてる方もそう思うんだけども、やっぱりその同一哲学で絶対者立てましたと。
でもやっぱりそこが真っ黒な夜だよね、闇だよねって言われて、全ての牛も黒くなるって言われて、確かに黒くなっちゃうってシェリングも思ってたんだと思うんだよね。
だから本当真逆だよね。ヘイデル側からすると、シェリングに対して絶対者だとか、どんどん沼にはまるような抽象的な話をして、意味わかんないじゃんみたいな、現実の説明になんもならないじゃんみたいなさ、お互いが同じ言葉を使って批判できるってさ、すごいね。
これがやっぱり世界を見る立場が変わるとか、見方が変わるってことだと思うんだけど、その意味ではシェリングの方はまさにその存在っていう側に立っていると考えようとしますと。
で、この存在っていうのも、さっき言った通り、ある種一個一個の存在じゃなくて、やっぱり絶対者というか、もっと言ったら神っていうものにどんどん変わっていくんだよね。
そこはちょっとまだわからないね。
そうね。正直ここはちょっと僕もわからなくて、結構3冊ぐらい解説書読んだりとかいろいろ見ててみたんだけど、解説書では多分わかんないんだろうなと思って。
ごめんなさい、僕はシェリングの原点というか、シェリングに書いてあるものを読んで理解するとかはちょっとおつかしいので。
それはそれで難しいんだよね。解説書読むのも難しいし、原点読むのも結局むずいみたいなね。
ここは宿題にさせてほしいんですけれども、何らかのいろんな理由があって、シェリングはその絶対者っていうものを神っていうものに置き換えて考えていきますと。
はいはいはい。
これだけちょっと了承していただきたいんですけど、出会った時に、では彼の今シェリングの考え方からすると、神っていうものがいて、この世界がありますと。
神っていうのは存在するものじゃないですか。
うん。
っていう時に。
そうなんだね。
うん。
神っていうのは存在するものだとしてくださいと。
はいはいはいはい。
っていう時に、次の話を当てはめると、じゃあ、なんで神が存在しているんですか。
要は、神がどうやって世界を作ったんですかっていう、howとか、なんだろうな、その手段の方じゃなくて、ホワイテをね、そもそもなぜ神が存在しているのかとか、神が存在するとはどういうことかっていうことを考えていくんだよね。
うんうんうんうん。
そこまではイメージ分かる? たぶんこれまでの話で。
そうね、はいはい。その、絶対者を残してるとか、そこから神に行ったっていうとかは確かに分かんないけれども、さっきの神、そもそもなんで神って言ってんだよみたいな、なんでだよみたいな話を絶対者とか神みたいなものにすると、そうなるよねっていう感覚はうん、大丈夫、分かってると思う。
あ、よかったよかった。
で、ちょっとそこを土台にして話していくんだけど、これすごく難しいのが、かまとおりクビンとかであればさ、誰かが持ってきたからとかさ、花を生きるためにとかって、理由とか体型とかっていうものが考えられるじゃないですか。
うん、そうね。
でもここでいう神みたいなもので言うと、神ってなんだろうな、ある種完全な存在なんですよね。完全なって言う言葉も難しいんだけど、もっと言うと、神の外には他の存在がないんですよ。
うーん。
ある種シェリンガのキリスト教的なというか、神の感覚からすると、神っていうのは本当にいわゆる世界そのものみたいな感覚があるので、神が存在するって言ったときに、なんでって言うと、それを外に求められるんですよね。
うーん、そうね、はいはい。
もっと言うとね、その神は誰かが作りましたと言うと、また別の神が生まれちゃうじゃないですか。
うーん。
なるんで、神っていうのはそのいわゆる外からその存在とは説明できませんと。
おー、はいはいはい。
じゃあどうするかって言うと、やっぱり内側に求めようってなるんだよね。
内側、ほうほうほう。
そこに神の内側っていう発想が出てきて、それをシェリングは根拠っていうふうに言いますと。
うーん、根拠ね、はいはいはい。
根拠。これはいわゆる日常的な根拠、いわゆるそれが存在する理由だったりとか、その根っこにある説明づけとかって思ってもらったら大丈夫なんだけども。
うーん。
つまり、神が存在する、これを実存とかって言うんだけど、神が実際に存在するためには、何かそれを存在するための根拠っていうものが必要ですと。
うーん。
うん。でも根拠があるっていうことはさ、これよくある哲学あるだろうと思うんだけど、じゃあその根拠って何とかさ、その根拠はどこから出てきたのっていうふうにどんどん無限に後ろにいってしまうじゃない?
まあそうね、うーん。
で、ここがシェリンが多分めちゃめちゃ苦労したところだし、逆に僕らからすると若干わかりにくいところなんだけど、その神の存在には根拠がありますと。
うん。
でもただ、その根拠が存在する、根拠があるというためには、神がそもそも存在している必要がありますと。
はいはいはいはい。
つまりこれって入れ子構造だよねっていうふうにシェリンが言うんだよね。
うんうんうんうんうん。
ここオッケー?
わ、わかんない。大丈夫かどうかわかんない。えっと、なんだろう。
うん。
鶏卵みたいな話だよね。
そうですそうです。
近いよね多分。
そう、根拠が先か存在が先かみたいな。
で、確かあれだよね、おもろげなんだけど、アリストテレスだとか。
はいはい。
鶏が先か卵が先か答えを出しているって話、昔したよね。
めちゃめちゃ初期の方になったね。
最初。うん。
それは話と同じなのかなって思った。
はいはいはい。
ちゃんと答えを、そこ本当の答えはもちろんわかんない。
卵が先だったか鶏が先だったかはわかんないんだけれども、ただ、確か今思い出しながら喋ってるけど、
神の存在の前提
その時アリストテレスの話で言うと、鶏と卵で言うと必ず鶏が先であるみたいな話だったはずなんだよね。
はいはいはい。
なぜなら、これを鶏の卵っていう風に認識するためには、そもそも鶏っていうものが存在しないと、
鶏の卵と認識できないから、鶏は必ず先であるみたいな。
うん。
確かそういう論拠というか、話しちゃった気がするんだけど、あってるかな。
でもアリストテレスの話はあってますと。
いわゆるカテゴリーっていう、鶏っていうカテゴリーっていうものが存在している時点で、
その卵、それの卵っていう風に後から説明付けられるから、
そういった形で鶏の方が先で卵っていうのは実は後なんだっていうのがアリストテレスの話。
でさ、神と根拠どっちが先なのって時にさ、神と神の根拠があった時に、
神の根拠は神がないと神の根拠とはならないから、そりゃ神が先でしょみたいな、
さっきの卵と同じ話にならないかなって。
はいはいはい。えっとね、非常に近いんだけれども、
シェリングの言いたいことはちょっと違う。
へー、はいはいはい。
なぜなら、これもさっきのカビ問題と同じなんだけど、
鶏と卵だといわゆる物なので概念で扱えるじゃないですか。
もっと言うと理性で扱えるじゃないですか。
でも神もさっきの絶対質と同じで理性を超えてるんだよね。
あ、なるほど。そっち側の存在なんですね。
そっち側の理性で捉えられないほうの存在なんですよ、残念ながら。
なるほど、はい、わかりました。
なので、今の兄貴の話は実はめちゃめちゃ大事なところで、
要は、神が存在するっていうことは、
僕らは後付けでしか説明というか捉えることはできないので、
つまり、その時点においては、
要は神様だけっていうものを考える時点においては、
そもそもそれが神であるとも言えないような状態なんだよね。
僕らは今神が存在するとかって言ってるんだけれども、
本当に神様だけが存在する世界においては、
神がとか、存在するとかも言えないんですよ。
なるほど。
言葉も超えてるからね。
ただ、その神というものは仮に存在するとした時に、
ここには何らかの根拠があるんだけど、
その根拠があるというためには、
実際に神が存在しないといけない。
つまり、これって要は、
神様が存在しているということがあって初めて、
その根拠があるということも言えるっていうふうな、
そういう構造になってるんですよ。
なので、さっき僕が存在するとに根拠があるって話をしたんだけれども、
根拠っていうものは実は存在があって初めて、
あるというふうに言えるよねっていうことが。
そういった意味で入れ子構造があるし、
かつ神様は外に理由を持たないんだけど、
神様が存在するということは、その内側に根拠があるということを、
後から説明できるよねっていうふうにシェリングは言うんだよね。
すごいね。ちゃんとわかる。
それによって、神の外とか、
神以外のものから神の存在を説明するって、
神の根拠と実存
大人のシャットダウンしますと。
確かにその説明だと、
じゃあ神様は誰が作ったんですか?みたいな。
神様の前には何があったんですか?みたいな話を全部、
それこそシャットダウンというかね。
そうそう。
ちゃんと反論できるね。
そうなんです。しかもそういう問いは全部消極哲学の問いだからっていうふうに打ち加えてて、
要は神が存在するとはどういうことかとか、
その根拠とは何であるかって、
全部説明の方の問いじゃないですか。
説明の方?
要はその消極哲学って言ったような、
どうやって人間は世の中を認識してるんですか?とか、
そういう存在を前提した問いだよね。
要は根拠が存在するとか神が存在するっていうのが前提とされていて、
それに対して根拠ってどういうものなんですか?とか、
いう説明が成り立つから、
それは消極哲学の問いなんだよね。
そうじゃなくて今シェリングは、
そもそもの、神が存在するとはどういうことかってそっちの話をしてます。
そこを全部話していくときに、
今言ったような神の存在っていうものと根拠っていうものが、
両方出てきますっていうことまでは言えるよねっていうふうに、
まずこうやっちゃうんだよね。
なるほど。そっかそっかそっか。
確かに神とは何ですか?じゃなくて、
神ってどんなふうにあるんですか?みたいなところを、
確かに神って何ですか?っていうと、
分かんないみたいな感じだったりとか、泥沼とか神様の前はみたいな話もどんどんなっちゃうところを、
このシェリングの考え方と、
ちゃんと行き止まりできるというか、
終着点を作れるんだね。始まりを作れるんだね。
ちゃんと議論のゼロの地点を作れるんだよね。
すごいすごい。
ここまでやっと神っていうのがいます。
それは存在、これ実存って言ってるんだけど、
実存と根拠に分かれますっていうことまでは説明できますと。
分かれるんだ、それ。実存と根拠。
これを、シェリングは神の中の神じゃない部分、神の中の自然とかって言ってるらしいんだけれども、
神様だけがいて関係する世界じゃなくて、
神様の中に根拠っていう何か別のものというか、
そういうものが生まれるよねっていうところまでを、まず説明するんだよね。
そうすると実はこれが、同一施策であった、
なんで絶対者が分かれるの?っていうことに対する一個の答えになってて、
はいはいはいはい。
要は、神とか絶対者っていう解き合ったドロドロのものだと分かれるのが分かんないんだけど、
神だと、神の存在と神の存在の根拠が分かれますよねと。
で、この根拠の方に実は我々の存在の根っこがあるんだっていう風に、
その分かれる理由をここで説明しちゃうんだよね。
そうなんだ。なんか世界観はおぼろげに見えてきたけど、
その根拠が実は分かれるんだみたいなのはちょっとまだイメージできてないな。
うんうんうん。これはね、すごく難しいっていうか、
たぶんやっぱりこれそのものが、やっぱりすごいシェリングさん、
成功の実学を残してくれたねってなってないのがたぶんその理由で、
これ結構無茶なのよ、たぶんやっぱりこの説明自体が。
あーそうかな。まだ無茶までは感じてないよ。まだ可能性感じてるような。
あ、ほんとに?OK。
じゃあその可能性をちょっとずつもう少し掘り下げていくんだけれども、
まずシェリングがやっぱりやりたいことって、
これ全ては一つというか分かられてないですって、
この根本的な発想はまだ残ってるんだよね。
そうだよね。ちゃんと神と根拠、神の実存と根拠っていうところで、
その世界観は大丈夫、ちゃんとまだ強い気がするよ。
あ、ほんとに。そうそうそう。
ただその実存と根拠っていうものは、とはいえ分かれている。
神の内部にありながらも、神様とはちょっと外のものとしてこの根拠っていうのが出てくるんだよね。
まあそうだね、その内側だけどね。
そうそうそう。この神の内にある根拠っていうものが、
実は世界が生まれる根っこになっていきますと。
これどういうことかっていうと、神様が神様の存在だけで満足してたら、
別に世界とかを生み出す必要ってなかったよねっていうふうにシェリングは考えるんだよね。
まあそうね、はいはいはい。
つまり、世界があるより前のことというか、
世界が生まれる前のことをシェリングは考えてると語ってるんだけど。
神がまだ神って呼ばれる前の話だよね。
そうそうそうだし、世界というのは生まれる前の話。
っていうときに、神の実存と根拠って分かれたときに、
神の存在するっていうものを誰かがやっぱり認識しないといけないというか、
ある種認識してほしいっていうふうに神が思うんだよね。
認識してほしいっていうか、もっと言うと存在したいって話なんだけれども、
こういうふうな、なんていうのかな、
いわゆるこれを啓示、神の啓示とか、いわゆるお告げみたいな話って言うと思うんですけど、
神が自分の存在を世の中に表すっていうことが、宗教的には結構大事で、
それこそ神の基礎教的に言うところの光あれといったとか、
そういう世界を作られたみたいな話をしたときに、
そういうふうに神っていうのは、何でか分かんないけど、
存在を表すんですと。
その存在を表すときに、さっきのとおりで、
根拠っていうものも同時に存在として現れてきて。
その根拠ね。
その根拠っていうところの中に、人間だったりとか、世界だったりとか、
神の啓示と世界の創造
そういうものが存在する場っていうものは出てくるよねっていうふうな、
そういうふうな説明をしていくんだよね。
そうなんだ。根拠も出てくる。
どういうことなんだろうな。そこが分かんないな。
イメージしている世界観と説明のズレがあるな。
今どんなふうに兄貴はイメージしているシェリングの神みたいなもので言ったときに。
まず、さっき神が先なの?根拠が先なの?みたいなのあったけど。
神の実存と根拠だったときにどっちが先かみたいな話だね。
まだ神って呼ばれる前の、ふわーっとした将来神になるもの、
ものというか存在があったとして、ふわーっとあったとして、
その外には何もないわけじゃん。
その後はその内側で、うちらが言うところの自然だったりとか、
あと人だったり動物だったりとか、いろんなものが多分できてくるわけじゃん。
その状態はいいんだよね。
それは勝手に神と呼ばれる前のものがバーって勝手に作っちゃってるっていう感覚って合ってる?
合ってる。
その中で、ある意味そういう人間が出てくると、
神になるであろう、それが作ったこの世界だよね。
その内側で生きてる人間はそれを見て、神だって思うわけじゃん。
それが根拠だと思うんだよね。理解してる。
そうすることで、神は神たる、神として存在実存というか、認識されるというか。
それで言うと、後はそれの繰り返しというか、
そうやって勝手に作られたものに勝手に意味付けをしていくみたいなイメージ。
だからその順番だから、先とか存在をどうこうするみたいな話じゃなくて、
さっきの神じゃなかったものは神として根拠を持つように、いろんなものはただ根拠を持っていくみたいな。
だから根拠が何かになるというよりは、何かができてそれに根拠っていう意味付けをされていくみたいな順番だったから、
根拠が何かになるっていう順番ってどういうこと?って思った。
なるほどね。はいはいはい。
それで言うと、僕も正直ここ、ちゃんと理解できてるかって怪しいんで申し訳ないんだけれども、
1個1個の存在に根拠があるみたいなことよりは、神が存在するときにその根拠っていうものが現れますよね。
で、その神の根拠からあらゆるものが出てきますっていうふうな、そういうふうな発想のほうが近いんだよね。
なるほど。
さっき1個1個の根拠みたいな話をしたけれども、神の根拠っていうのができた瞬間にパーってもう全部、
いっぺんにバーって広がっていくようなイメージか。さっき1個1個が云々じゃなくて、
その瞬間に全部バーンって、人間にとっての意味みたいなものも含めてバーンって全部、
読まれちゃったーみたいな感じね。
実はこれは難しくって、要は世界を捉えるとそういうふうに一気に広がっていくし、
セリンは歴史みたいなものもやっぱりすごく大事にしてるんですよ。
要は神話みたいなものっていろんなところにあるわけじゃないですか。キリスト教もあればヒンドゥー教とかもあってとかっていうときに、
セリング自体はもちろんキリスト教が一番良いとは言うんだけれども、
他の多神教とかも含めて、それもある種、神の自分の存在の現れのやり方だよねとか、
神の存在と哲学的視点
それをどういうふうに捉えたかっていう違いだけであって、神が自分の存在を広めたっていうその根本は変わんないよねっていうふうに言ったりするんだよね。
へー、そんなこと言ってるんだ。
だからちゃんとキリスト教には根差してるけれども、哲学っていう営みをしてる以上は、そこの人類共通みたいな部分の視点は持ってるんだね、ちゃんとね。
そうそうそうそう。だからキリスト教だけが絶対で他はダメだっていうんじゃなくて、
その他神教とかも、ある種神の現れの仕方とか受け取り方の違いによって、複数いるっていうふうに言われるのもわかるみたいなことを言ってるらしくて。
おーすごい、なるほど。
そうそうそう。
そっかそっか、なんかキリスト教とか神とかってなった瞬間に、ちょっと視野狭くなったのかなって思ったんだけど、違うよね、あくまで世界観の話なんだよね。
そう、世界観の話。ただその他神教とかも、結局は根っこに帰っていくと、神っていうのはもちろん唯一絶対だし、別れてないんだけど。
その現れ方で誤解しちゃってるんだよねぐらいの感じだよね。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
キリスト教的なポジションで言うと。
そういうことそういうこと。
そういうふうな形なので、神の実存と根拠がわかるときに、その根拠から世界がバーって立ち現れていくんだけど、その現れ方っていうことには色んな多様性があったりとか、受け取り方も当然いろんな見方がある。
逆に言うと、神がそういう存在だから、我々はこの世界を色んな見方で捉えるし、色んな説明をつけていって、逆に混乱もしてしまうんだけど、むしろそれって神の在り方からして自然なことではね、みたいなふうに言うんだよね。
いやー面白いね。そう社会観だとこうやってね、人類がずっと哲学的なことをしたりとか、これって何なんだろう、あれって何なんだろう、我々は何なんだろう、みたいな。
そこまでちゃんと説明できる気がするよね。
そういう意味で自分の方が積極哲学っていうふうにより土台の方を扱っていて、その存在に対してああだこうだ言うっていうのは消極哲学だから、
消極哲学と積極哲学の対比
そういうふうに自分の方がより根本的根源的なことを扱ってるよっていうふうにやっぱり言ったっていうところから、シェリングのある種その晩年の生きついた境地というか、
自分のそばで哲学を投げ打ってでもやっぱりやりきったところではあるんだよね。
面白い。だから消極哲学と積極哲学が対立するものっていうよりは、本当にどっちも大事ぐらいの、それぞれのルールの違いぐらいのね。
どっちも大事だとルール違うんだよみたいな。そういう感じもするもんね。
そうだね。やっぱり批判をするものは両方まさに大事だったりとか、両方があって初めて哲学の本当の営みができるよねみたいなことも考えさっぽいんだよね。
そうなんだ。はいはいはい。だから消極哲学はもうなしとかっていう感じではなかったんだね、シェリングは。
うんうんうん。そんな感じでね、今日ちょっとね、じゃあこのシェリングの積極哲学が何かっていうところを深い理解はしていかなかったかもしれないですけど、
ある種何を乗り越えようとしたのかとか、その積極哲学っていうものをどういう世界観で世の中を見て、それがどんな意味を持つのかっていうことはちょっとお伝えできたんじゃないかなと思ってますと。
いやーすごかったよ。ほんとに?よかったよかった。
今まではドロ沼じゃん。みんなハマってたさ、ドロ沼の無限ループ。そこをちゃんといって、今回の話で言うと一応決着ついてる感じがして。
そうだね。
そういう凄みを感じるね。
あ、よかったよかった。これはね、やっぱりマニキがすごく自然に受け入れてくれたからだと思うんだけども、やっぱり難しいのは、後はやっぱり理性で説明できないものがあって、それをくしゃみとするみたいなこと自体が本当にいいのかみたいな話もあるし。
まあ、神って表現しなきゃいいんじゃないのって。
まあね、そうするとね、それと何?って話もあったりとか。後はね、これ面白いんだけど、シェリング以降の哲学にどういう影響を与えたかっていう話なんだけれども、
それでソラジャンも過去やってきた、いわゆる実存哲学ですよね。それこそキルケゴールとかさ。
あとさ、これ実存とはちょっと違うけどハイデッカーとかやったじゃないですか。
うん、やったけど忘れてるけど。
名前は何だか覚えてると思うんだけど、そういう人たちにもこのシェリングの思想ってめちゃめちゃ影響を与えてるって言われてるんですよ。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
で、これ僕も知らなかったんだけど、キルケゴールは実際にシェリングの授業を受けてたらしくって。
へー、ほうほうほうほう。
そうそう。で、そこで学ぶんだけど、影響を受けつつ、これじゃダメだって言って自分の哲学に行くみたいな。
すごいね、これじゃダメなんだね。
そう、やっぱりシェリングのことではやっぱりやりきれないものがあるっていうふうにやっぱり気づくんだよね、キルケゴールは。
で、それは何かっていうと、もちろんこれは全然難しい話とか新しい話があるんで、またこれもよかったらやれたらなと思っているんだけれども、
やっぱりシェリングの積極的さがどこまで行っても、どうやったら神が世界を作り出すかというか、神の存在と世界があるっていうことをどう結びつけるかって話なんだよね。
あー、まあ確かにそこに疑問はそうだね、確かに確かに。何それって言われたらそこまでだもんね。
僕はやっぱりそれを問題意識として共有できるならいいんだけれども、実は自分が得た自作ってそうじゃない。もっと言うと、やっぱり自分がどう生きるべきかとか、
どうしてんのやっぱり、自己という存在とは何かっていうことを語ろうとしたときに、やっぱりどこまで行ってもこの自分っていう具体性になかなかシェリングの趣味っていうものからはやっぱり生きにくいんだよね。
あー、なるほど。これはあれだね、今回のどっかで話した、やっぱりそのときの社会環境というか、人類が自由を欲してる段階と、自由を獲得した人類がその中で個人個人がどういう自由を生きていくかみたいなところの時代だったりとか背景の差みたいなのがありそうだよね。
そうそうそうそう。それもやっぱりあるので、あるいはその時代が変わったとき、変わろうとしてるときの問題意識に対してはちょっと遠いというか、そのまま受け入れるようなやっぱり難しい問題だったみたいなんだよね。
確かに。まあそうだよね。その中でじゃあ自分はってだいぶ遠いもんね。
そうそうそうそう。あくまでもシェリングは、臣がどうやったらこの現実世界っていうものとつながるのか、生まれるのかっていうことをやろうとしたからそうなっちゃうんですよ。
ただ、やっぱりこの存在と根拠を分けるとか、これが本質とかっていうことにつながっていくんだけれども、何であるかこれを説明するってことじゃなくて、そもそも存在するっていうことを問うっていうことのテーマ自体はやっぱり受け継がれていって、
やっぱりね、よく言うじゃん、自分とは何かとかさ、俺ってなんだろうみたいなっていう話と、そもそもなぜ俺はここにいているのだとか、なぜ自分は馬人ではなく自分なのかみたいな問いって、結構落ちることってあると思うんですよ。
いや、結構ない。どうなんだろうかわからないですよ。そこはもうどうなんだろうね。そういう統計があればいいけどなさそうだなと。
聞いてアンケート取ってみたいですけどね。
それまでの哲学だと、いわゆるなぜ自分は自分であって他人ではないのかみたいな問いって、ぶっちゃけどうでもいいというか、あんまり問題化されないんだよね。
でもまさにIQっていうのは自由とか、やっぱりそういった世の中を進める中で、やっぱり自分はどう生きるべきかとか、そもそも自分という存在はなぜ自分なのかみたいな問いが出てきたときに、
まさにこのシェリンがやろうとした存在と根拠を分けるとか、本質の方ではなくてその存在そのものを問うみたいな問い方っていうところが、すごく応用されていくっていう流れがあるみたいなんだよね。
そこは本当に応用できそうだもんね。入れ子構造になってるから。細かくしていっても使えそうな感じはするよね。
この人たちはやっぱり神がない世界でどう生きるかって、そもそもニーチェっぽくなってくるんだけど。
だって人間の根拠は神だったわけじゃないですか。キリスト教世界において。なぜ人間が生まれてるんですか。神が作っていたものだからですって。
今回の話もね、その流れの中ですごいすんなり理解しやすいみたいな話だろうしね。
でもそれがやっぱりニーチェが言ってる神が死んだ、神っていうものを根拠として使えない世界において、なぜ自分という存在があるのかっていうことって、やっぱりすごく問題になってくるわけなんだよね。
大問題だったね、確か。
そうそう。サルトルとかもあったと思うんだけど。
シェリングの影響と未来の哲学
っていうときに、シェリングで神っていうものを使ったんだけど、それを神の存在を消したときに、果たしてここの存在とはとか、この世界という存在ってどういうふうに説明できるのかっていうふうなものに捉え直されて続いていきますっていうふうな流れがあるんだよね。
みたいな感じでね、結構最後、熱くというかね、僕自身の問題集からいろいろ語っちゃったんだけれども。
今回の同一関連論という流れでいくと、カントが残した宿題だよね。
純粋理性と実践理性とか自然と精神って分かれちゃってるけどどうするのっていうのがあったときに、シェリング自体はそれを一旦答えるんだけど、同一説学とかで。答えるんだけど、それを乗り越えて、そもそもそんな問題じゃないんだぜっていうところまでいくっていう。
そうね。
そう。そう。っていうので、同一関連論を超えちゃいましたみたいな。
超えたね。ルール変えたね。
そう、ルール変わっちゃったんですよっていうところがあるので、やっぱりすごいよねっていうか、もともとはね、いわゆるヘーギルへの接続点というかね、その間っていうふうに捉えられたんだけど、実はそんなんじゃないんじゃないっていうふうに捉え直されてるっていうふうな。
はいはいはいはい。
これがこのまさにシェリングっていう人が哲学者ですっていう感じなんだよね。
いやー面白いね、確かに。ドイツ関連論の土俵の上で、ちゃんと戦った上で飛び出しちゃった感じするね。
そうそうそうそう。ところがあの人からの行きざまというか、哲学者としての在り方だったんですよっていうふうな感じでした。
おー面白いね、そっか。
お前とは今回言ってたように、たぶんね、内容はすごい難しいんだろうけれども、なんとなくね、この感覚でもね、そこは今回わかった気がするからね。
あー嬉しいな。
面白いんだったらその中身も見てみたいなっていうね、そういう感じがするね。ただただ難しいのは嫌だけど。
それも間違いない。あとそのシェリングそのものに行くよりも、やっぱりさっき言ったキルケゴールとか、そっちにもう一回行くっていう流れもあると思うから、
いわゆる実論哲学って、じゃあこのね、ドイツ関連論とかシェリングの考え方からどうやって生まれてきたのかって、またそっちのテーマを使ってもいいかなと思いつつ、
そうやってまたちょっと重たくなっちゃうんで、ちょっとまた別のものも挟みたいなと今思ってはいるんだけど、
ともいえね、実はまだこれドイツ関連の終わりじゃなくって、まだヘイゲルがいます。
むしろそれがね、ボスというかそのメインディッシュだったんで。
もう一回このシェリングの好奇心相よりもちょっと手前の、やっぱりその理性と精神とか、そういったものっていうものがどういうふうにある種捉えていくのとか、
それによって世界というものをどういうふうに見出していくのっていうところがやっぱりヘイゲルのやったことでもあるんで。
そうだそうだそうだよね。ヘイゲルがボスなのに時代はちょっと戻るっていうね。
そうなんです。そう。ところがやっぱりちょっとこの、ある種面白さでもあるしややこしい部分でもあるんだけど、
シェリングで一旦乗り越えた積極的なまで来たんだけど、ちょっと戻って、やっぱりもう一回その精神と自然とか、
そういった分かれているように感じたものがどういうふうに扱われていくのか、ある種シェリングを乗り越えてヘイゲルが何を言ったのか。
ところがヘイゲルリベンジ第2回ということで、次回以降の雑談を挟んでやっていきたいと思ってますっていう感じですね。
はいはい。わーわかりました。だいぶね。じゃあ次のヘイゲルで一旦このこいつ関連のシリーズ最後みたいな感じだね。
そうですね。はい。
わかりました。ではですね、次回雑談を挟んでヘイゲルの方も楽しんでいきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
01:03:52

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