フィフテとシェリングの哲学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回フィフテ第3回ということで、今回も自然哲学の話をしていくというような話でした。
はい、前回ですね、なぜシェリングが自然哲学ってものだったのか、自然哲学って何?って話をしたと思うんですけれども、
もともとフィフテを前回やったと思うんですけれども、フィフテは関東を引き継いで、
自然っていうある種機械的に動くものと、自我っていう自由があるもので分かれちゃってるけど、
それってどうやったら分離って一つにできるんだろうみたいな、そういうところを考えたわけですよね。
フィフテがやったのは、自我っていうものを全部の基礎に置いて、
ある種、自分の外にあると思っているものも全て自我から出てくる、自我と非我っていう話をしたと思うんですけど、
そういう自我っていう働きが全てを作ってるんだみたいな、そういう話をしたと思います。
はいはい。ごめん、一個挟んでいい?
どうぞ。
全然さ、時代の流れとか分かってないからさ、あれなんだけど、前サルトルとかやったじゃん。
はいはい。
あと、幻象学はフッサールダとか。
フッサールダね。
その辺っていうのはこの人たちの後の話なの?
後です、後です。
ああ、はっはっは、そうなの。
その後には19世紀、20世紀くらいで、実はシリングの航空思想とかが、その後にも影響を与えたっていう繋がりもあったりするんだよね。
哲学者たちの時代背景
ああ、そういう順番なのか。オッケーオッケー。
そうなんです。
そうそう。なんかね、実存主義的な感じ?
はいはいはい。
今さっきのフィッシュっての話か、その自我が産むみたいな。
全部自分が世界を作ってるじゃないけれども、
はいはい。
なんかちらっと似てるのかなと思ったんだけど、
ああ、なるほどね。
時代のこの前後の感覚が全然分かんなくてさ、どうなんだみたいな。
確かに確かに。
うん。
これ確かにちょっと面白いなと思うのが、どっちもさ、全部自分からスタートするとかさ、
自分っていうものを軸に考えていくっていうふうな感じで似てるっぽいじゃないですか。
なんかそう、もう覚えてないけどざっくりそういうイメージで似てるなと思って。
うんうんうんうん。
で、実はこの18世紀、この1700年代後半から1800年というふうな時代がこのフィッシュとかシェリングなんだけど、
そういうところと、サルトルが生まれたのが1905年とかなので、100年くらい実は時代に差があるんですよ。
ああ、そっか。そんな最近の人なんだ、サルトル。
実は全然最近、サルトルが亡くなったのが1980年だから、兄貴が生まれる5年前とかぐらいまで全然生きてる人なんですよね。
なるほどなるほど。
だからいわゆる現代哲学とかって言われたりするんだけれども、この100年の間にはいろんな差があって、
これ多分大事だと思うんでお伝えしたいんですけど、
ピクテとかシェリングとかっていう話って、要は自分から出発するか自然から出発するかとかっていうのは違うんですけど、
結局どっちも世の中がどうあるのかとか、どういうふうに世の中っていうのを捉えられるのかっていう、
いわゆる、別に自分がどうとかじゃなくって、人間とそれを認識する世界の関係性ってどうなってるんですかっていう仕組みの方をやっぱり気にしてるんだよね。
へー、そうなんだ。
逆にサルトルとかっていうのは、まず実存主義、現実に生きる自分というものが何かとか、
この生きている私って思ってどういうふうに動いてるのっていうふうなことを話していくので、
世界の仕組みについて考えているのか、自分の在り方について考えてるのかってやっぱり全然違うんですよね。
あー、なるほど。それはもうあれだね、ほぼ時代背景というか、フランス革命的なところを挟んでるわけじゃん、こういう人たちって。
そうだね。
だから多分その問題の設定する解像度というか流度というかが違うんだろうね。
そもそも人は自由になれるのかとか、
そういうのを構造的に見ているのがこの時代、シェリングとかビッヒが見てた時代で、
サルトルとかはもう多分それがある程度実現した後だよね。
人々がその中で動く中で生きていく中で、あれ?俺たちの自由ってこんなんだっけ?みたいな。
そうなんだね。
だから同じ自由でも見てる広さみたいなものが多分違うんだね。
本当にそう。やっぱりこのビッヒとかシェリングだと、そもそもこの自由ってのはどういう風になり立つのかとか、
人間の、人間って一般的な存在としての自由とは何かみたいな話なんだけど、
やっぱりサルトルとかまでいくと、その自由というものの中で私という存在はどう生きていくのがいいのかとか、
どうあるべきなのかとかっていうところにやっぱり視点が変わっていくんだよね。
逆に言うと、世の中をいかに分析しても自分がどう生きるのかとかどうあるのかって出てこないっていうことが見えてくるんですよ。
そうなんだ。
同じように自我から出発したとか主観とか主体から出発したみたいに見えても、実は全然問題意識とかやろうとしてることは違うんですっていう感じなんだろうね。
シェリングの自然哲学
なるほどなるほど。あー面白いね。時代背景というか環境が全然違うんだね。
そうそうそう。でもなんかそこがすごく大事なポイントかも。
哲学を知ってるぞっていう人がなんとなく時系列が頭に入ってるから、シェリング、フィヒテ、サルトルとかいっても全然ある程度違う時代だよねっていうイメージがあるけど、
その哲学をこれからやるぞっていう人からすると、じゃあ誰がどこの時代の人で何考えてるのかってやっぱりわからないじゃない?
そうね。全然。1回聞いてるのにわかんないみたいなの忘れてる。
確かに確かに。でも全然そういうのはむしろ大事かなって今思ったんで。
なるほどなるほど。
逆に言うと、フィヒテ、シェリングって違う思想だよとか、発展させようって話はしているものは問題意識は同じで、
カントが作った、いわゆる純粋理性によって捉えられる自然みたいなものと、実践理性による人間の道徳とか自由っていうものがあったときに、
それをどうしたらもっとより良い形に転換できるのかというか、発展させられるのっていうところはやっぱり共通なんだよね。
はいはい。同じテーマに従って、カントにも穴があったよね、フィヒテにも穴があったよねみたいな形で、
だからドイツ関連論っていう形でまとまってるって話なんだね。カテゴリーが分けされちゃってるというか。
そう、問題は猫が一緒だからね。みたいな感じでございます。
なるほど、ありがとうございます。
というところなんだけれども、なので今回のシェリングっていう話でいくと、まさにカントがありフィヒテがありで、
フィヒテを踏まえて自分の自然哲学っていうものを馬鹿くして、天才だって話もしたと思うんですけれども、
本当に20代とかそういう時代の時に作っちゃいましたっていう感じなんだよね。
前回もちょっと自然哲学とは何ぞやみたいな話もしたんですけれども、
じゃあなんで自然哲学がそんなに時代に受け入れられたのかとか、
そのぐらいいいねいいねってなって、フィヒテがクソあいつめってなったぐらいシェリングが表現されたのかって話を今回する中で、
また自然哲学とは何ぞやっていう話をしていこうと思っているんですけれども。
前回もちょっとお伝えしたんですけれども、自然哲学とは何ぞやっていうのは一言で簡単に言うと、
自然っていうさ、僕らが見ててもいわゆる人間とやっぱり違うものとか、
いわゆる僕ら生きている、自然が生きているかどうかみたいな話っていろいろ話は出てくるけれども、
基本的にどっちとも言えるよねみたいな結構曖昧なものが認識だと思うんですよね。
当時の認識でいうと、むしろ自然は機械みたいなので、
法則に従って、前回もボタンポチって押したら出てくるみたいな話をしたと思うんですけれども、
そういうふうに決まりきったものとか、機械的なものとか、
人間の理性とか意識とか全然違う、言い方だけどレベルの低いものっていうか、
そういうふうな感じの捉え方だったんですよね。
はいはい。だからこれあれなんだね、人間も自然の一部であるみたいな感覚とは違うんだね。
そう、全然違う。やっぱり切り分けられて人間の方がより高次のものだとか、そういうふうな発想なんだよね。
はいはいはい。
で、そこにシェリングは自然っていうものが実は、これ前回も言ったけど生産性とか生産力、
つまり、いわゆる自然というものが何かを生み出そうとか、より良いものになっていこうとか、
そういうふうな力とか働きっていうものを実は自然自体持ってるんだよって話をするんだよね。
ああ、そうか。さっきの話が当時の一般的な感覚で。
そうそう、一般的な話。
それに対してシェリングはどう考えたかっていう話ね。
そうですそうです。で、前回その磁力があってみたいな話をしたと思うんですけれども、
磁力があってそこから電気ができて、化学的な反応があって生命が生まれてみたいな。
それっていうのをその進化論とかがね、全然起こる前にシェリングが言ってたっていう話をしたんですけれども、
これ何かっていうと当時の科学の発展っていうところとすごく結びついてるんですよ。
物理とか化学の方ってちょっとそんな深く立ち入れないんですけれども、
例えば当時この1780年代、90年代どういうことが行われていたかっていうと、
アルバーニさんという物理学者がいたらしいんですけれども、
この人が1780年代に発見したのが、サエルの足。
あれを解剖したときに電気を流すとピクって動くんですよね。
そういうのって生物の教科書に載ってたかなと思うんですけど、
あれを発見したのがこのアルバーニさんなんですよ。
えー、そうなんだ。
つまりそれまではそんなことする人もいなかったし、
別に人が、人間、動物が動くって何かっていうと、
生きる気って書いてある生気みたいな、
生きている人だったら持っている、人とか存在なら持っているような何かのエネルギーみたいなものがあって、
死ぬとそれが抜けるから死ぬみたいな、そういうふわふわした認識だったんですよね。
まあそうだね、魂的な。
魂的なもの、エネルギー的なもの。
そこに対してアルバーニさんは、電気を流すと足が動くってことを発見しましたと。死んでてもね。
つまり、これもしかして電気っていうものが、人とか動物の体を動かしているんじゃないかと。
要は、生き物の体から電気を起こす仕組みっていうのがあって、
それによって筋肉だったりとかそういう生き物っていうのが動く。
こういったものがつまり、電気っていうものが生命力なんじゃないかみたいな、
こういうことを唱えるんだよね。
わー面白いね、そっかそっか、そこに生命力と電気が結びつくんだ。
そうそうそう、だから当時の人からすると、
なんで生き物が生きているのかってわかんないんだけど、
もしかしてそれって電気じゃねっていうふうな発見につながるんだよね。
もちろんこれは間違いというか、電気だけではないわけよね、僕らが動いているのは。
ただ今でいうと電気信号みたいなものがあって、
いろんなホルモンとかが動くっていうことに、やっぱりゆくゆくはつながっていくんだけど、
その知りみたいなのはこの200年くらい前の時代なんだよね。
へーそうなんだ。
250年目あるか。
そういうところがあるので、当時の科学的な知見からすると、
その電気っていうものがいろいろ働きを変えていくと、
生命力になるというか、そういった生き物っていうものにつながっていくっていうのは、
ある意味その最先端の物理学なわけよ。
おーはいはいはい。
うん、だった時にそういったシェリングの、要は自然がそういった生産力っていうものを持っていって、
磁力とか電気とか化学とかって発展していくと、
最終的には生命になり、ある種理性とか精神っていうようなものまで至るっていうところが、
シェリングの自然哲学
当時の科学知見からするとすごくフィットするというか、
まさに自分たちの発見と同じだ、みたいな感じで科学者からも捉えられるんだよね。
はいはいはい、なるほど。
なので、もちろん現代からするとそれって古いじゃんとかありえないじゃんとかってなっちゃうんだけれども、
当時最先端の知見を持っていたシェリングがそういうことを哲学的に言った。
しかもそれはフィヒテっていう当時の大哲学者、
一応哲学者の説も踏まえているっていうところで、
まさに最先端の知見である、みたいな感じになったんだよね。
ほー、そうなんだね。はいはい。
うんうん。
時代背景もありますと。
なんでね、いきなりさ、電気がとかって話し始めたのかなと思ったんだけど。
うんうんうんうん。
そう考えたと納得だね。
そうそうそう。なので、ある種フィヒテは全てを自我に追いやったんだけれども、
そうするとやっぱり面白くないというか、
いやいや自然の画にもこんな働きがあるよとか、
そんな全部が自我で本当に、哲学的には面白いかもしれないけど、
本当に世の中そうなってんのっていう人っていうのはやっぱりいるわけなんだよね。
まあそうだよね。
うんうん。それが一つの科学者っていうものであり、
もう一個それを感じているのが、今度は芸術家っていう人たちがいますと。
芸術ね。
面白いのは、芸術が何かみたいな話はそれぞれ難しい話なんだけれども、
これも当時、1800年前後みたいなところでいくと、
当然宗教的な芸術というか、そういったものはあるんだけれども、
その一方で、ある種一人の天才と呼ばれるいろんな芸術家とか、
作詞家みたいな作詞というか、いわゆるこう、
ポエムというか詩を作る人がいて、
そういう人たちの活動って、どんどん世の中に出てるような時代なんだよね。
うんうんうん。
っていう時に、世人がそういった人たちともすごく交流があったんだけれども、
いわゆるそういったエイドリーの中で、
芸術家たちが、やっぱり自分たちを超えたものが作品として出てくるとか、
やっぱり自分が作ろうとしたものよりもより良いものが生まれるみたいな、
そういうふうな感覚っていうものがあるよねっていうことが伝わっていくというか、
実感として出てる時代なんですよ。
はいはいはいはい。
これって現代でもあると思っていて、
それこそ芸術家が、前回もちょっと言ったけど、神がかり的な感じで自分は作品を作るとかさ、
芸術の神様が降りてきて、自分を通して作品を作らせたんだみたいな、
そういうふうな話ってあると思うんだけれども、
そういうふうに、要は全てが自我なのであれば、
自分が作った作品も全部自分のコントロール家なはずじゃないですか。
そうじゃなくて、自分が生み出したものなはずなのに、
なんか自分を超えているとか、
決して自分から生まれたようには思えないみたいなものがあるよねっていうふうな、
そういうふうに感じる人たちもいたわけなんだよね。
はいはいはいはい。
これも実はシェリングっていうのを取り込んでいて、
要は人間の自我とか理性っていうものは、全部説明できないものが、
自然というだけじゃなくて、人間の行いにもあると。
それが芸術ってものなんだけれども、
そういうものを捉えるときにも、やっぱり自我っていうところから出発するんじゃなくて、
自然っていうところから出発するといいんじゃないかと。
要はどういうことかっていうと、
科学の方の話でいくと、そういった磁力とか電気みたいな、
ある種、全く意識とか理性とは思えないようなものから、
理性とか自我みたいなものが出てくるって話をしたじゃないですか。
はいはいはいはい。
今度は逆で、芸術家でいうと、
ある種何かを生み出そうとか、絵を描こうっていうのは、
意識とか衝動的な裸だけだと思うんだよね。
そこから進んでいくんだけれども、
何か物を作って没頭していくうちに、
その天才性が出てきて、意識を超えたもの。
ある種、無意識というか、言葉としてはないけど、超意識みたいなものかもしれないけれども、
意識を超えたものに至るみたいな、そういうふうな活動があります。
つまり、科学者たちは無意識が意識になるっていうことを研究していて、
芸術家は意識が無意識に変えていくっていうふうなことを体験してるっていう風にシェリンが捉えるんだよね。
なるほど。はいはいはいはい。
どういうことかっていうと、
要は、無意識と意識って分けていく。
それはカントもそうなんだけど、自然と人間を分けるとか、
自我と非我を分けるっていうのがそれまでの当たり前の考え方なんだけど、
シェリンはそれを、いやいや実は意識の根底には無意識があって、
かつ無意識の根底には意識があるよねっていう風に繋げていっちゃうんだよね。
はいはいはいはい。
うん。そこを流れって今ちょっとイメージ湧くかな。
そうね。流れ自体は分かるね。言ってることは意味分かんないけど、流れは分かるね。
なるほどね。どの辺が分かんない?
無意識と意識は一緒だって言われてもさ、はぁーってなるだけだから。
そこはね、よくあれその、一言論的にしてたなーって感じだけど。
はいはいはい。
流れ自体は分かる。
そうそうそう。なので、せめてこれは無意識と意識って話をしたけれども、
要は結局そうやって自然と人間、もっと言うと自然と精神、
っていうものを一つにまとめていくっていう風な、そういう風な働きなんだよね。
へー、あーなるほど。
だから、まさにフィヒテが2つに分けていた自我と非我だよね。
これ一緒じゃんというか、まとめるみたいな働きだってことね。
もっと言うと、それカントだね。カントが分けた自然と理性っていうものを、
フィヒテは自我っていうものを使って統一したんだよね。
はいはいはいはい。あーなるほど。
そうそう。自我から非我が生まれるから、非我もあくまでも自我だとすると、
一応フィヒテも統一はしたんだよ。
そっかそっか、はいはいはい。
統一したんだけれども、でもやっぱりそれだと自我では組み尽くせないものがあるね。
さっき言ったような芸術家の、そういった作品であったりとか。
いやいや、自然の方にも理性に至る道というか、そういったものがあって、
決して自然というものも人間が勝手に作り出したものじゃないんだよっていうふうな、
まさに科学的な発見があるわけなんだよね。
なるほどなるほど、そっかそっか。
カントが分けて、フィヒテが自我、スタートでまとめたんだけど、
シェリングが違うよねっていうふうに別の形でまとめ直してるって話ね、今。
そうそうそう、そうです。
それが自然スタートの方がいいんじゃないっていうことを言っているって感じだね。
へー、そうなの。今の話で自然スタートになるんだね、はいはいはい。
そうそうそう。
なんでかっていうと、これはその、なんていうのかな、
やっぱりシェリングはそういったね、幼少期にそういうキリスト教的な教育を受けていたとかってあると思うんだけれども、
人間がその、芸術家が何かを生み出すとかっていう時にも、
要は人間を超えたものが自分を通して表現されたとかっていう話を今したじゃない?
つまりそういった神的な働きだったりとか、人間を超えたものっていうのはやっぱりどこかに想定してるんだよね。
だからそれがどっちかっていうとその自然であったりとか、
そういったその、なんていうのかな、
ある種人間を超えて存在するちょっと雄大なものみたいなものをより根源的なものにしていて、
その自然、人間を超えた雄大なものみたいなものの中にも、
そういった人間を生み出す働き、その生産力っていうものがあって、
それがある種人間の意識に結びついていくんだよ。
だからさっき言った、カントが分けちゃった自然と精神っていうものが、
自然がちゃんと発展していくと精神になるんだよっていう風な、
そういう風なロジックっていうものを組み合わせていくんだよね。
なるほど。だから人間は自然の一部ではないっていう感覚があったっていう話を、
今日の前半でしたと思うんだけれども、
シェリング的に言うと、人間は肉体的にも、いわゆる精神的にもというか理性的なところ、
そこも自然の方から生まれたよみたいな感覚、言い方で合ってるのかな、シェリング的に。
合ってる。
あー、そうなんだ。
合っていて、この自然から精神が生まれるっていうところが、
彼のすごくオリジナリティで。
だって、デカールド的な感覚で言うと、精神と物体っていうのはパツッと分けられていて、
全然違うんだと。
精神の方が自我とか、我を思う上に我ありの、我っていう方が大事で、
体、心身、逃げ論っていう話をデカールドの時も結構したと思うんですけど、
体っていうのは心とか精神に付随する道具みたいなもんだみたいな。
結構そういう風な発想がやっぱり支配的だったんだよね。
なので精神が先、体は後みたいな感じだったところから、
実は自然っていう方が先で、そこから精神が生まれてくる、しかも地続きなんだよみたいな話っていうのは、
結構それまでの哲学ってもうひっくり返すというか、大きな転換点っていう感じなんだよね。
芸術と科学の関係
なるほどだし、そうだよね。デカールドにせよ、カントリーにせよ、フィフティにせよだけども、
じゃあその地がどっから来たの?って言えば、ドルドバイはコースじゃん。
そうだね、そうそうそう。
だからある意味そのもう一歩前みたいなところだったりとか、その別の構造というか、
そこをシーリングが提示したよねっていう話なんだね。
そうですそうです。そうすることによって、ずっと続いていたその精神と自然とか物体の二元論っていうものを解消しようとする。
はいはい、そっかそっか。地がどっから来たのかっていうところだけじゃないんだ、解決したのは。
どっから来たのかもそうだし、それによって精神と肉体だったりとか精神と物体っていうところは同じように語れるよね。
カントが分けたものをちゃんと統合できるよね。しかもそれはフィフティよりも上手くやってるよねっていう風にこうなっていくんだよね。
はいはいはいはい、そうだね。
そういうところがあって、自然哲学すごいね、シーリングすごいっていう風になっていくんですけれども、
まあいえ、やっぱり兄貴の方は感じてると思うし、僕もちょっとそういう論調やってるんだけれども、
自然哲学の限界
やっぱり自然哲学、いろんな限界はあるんですよね。
そうなんだ、ほうほう。
どういうことかっていうと、当時の科学が最先端でそういった発展していく中に、自然が発展していて精神が生まれるんだよっていう話はまあまあ良しとしてもですね。
じゃあなんでそういう発展が起きるの?それってまあ、いわゆる説明はしてるかもしれないけれども、いわゆる解明というか、やっぱりその謎を解き明かしてはいないんだよね。
まあそうだよね、確かにね。
そうそうそう。そういう風に言われたら、確かに事実そうなってるかもね、確かに科学的な発見もそれに近いもんねとは言えるんだけど、
なんでこの世の中ってそうなってるの?なんで自然の中に精神っていうものが生まれるような原因というか、そういった働きっていうのがあるの?っていうことはやっぱり説明できないんですよ。
まあそうだよね、その働きがあるんだったらね、人間は人間から生まれる必要ないだろうし、みたいなね。
まあそうそうそう、ね。っていう風にもなっちゃうので、やっぱりその哲学的にちょっと弱いというか、
確かにそれはシェリング自身が完成事でもあるんだけれども、これを深めたい、深めなきゃっていう風になっていくんですよね。
まあそうなんだ。だからそのアイデアはやっぱりすごいなっていうところで、あとはそのどう深めるかっていう方向に今シェリングは考えてるわけね、この段階で。
そうですそうですそうです。なんかそれがやっぱりすごいし、やっぱり若くしてそこまでたどり着いたからこそ、
まだ残りの人生でこんだけ深めれるみたいな、そういうのもあったんだと思うんだよね。
いやーそうだね。
っていう風な話があるので、ちょっと前回も含めてまとめると、哲学っていうのはあくまでもフィフティを土台にしてはいるんですよ。
フィフティがやっぱりその自我っていうものを突き詰めたからこそ、そこに対する限界だったりとか、
哲学って領域ではいいかもしんないけれども、科学とか芸術とか、そういうもうちょっと世の中の当たり前のというか、そういった別の活動に目を向けたときに、
やっぱりどうかも自我だけで世界を説明するとか、世の中を統合したすべては自我から生まれたんだっていうのはやっぱりどうしたら無理がある。
っていうときに、その前に何とかで統一をしたいって思ったシェリングが、やっぱり目を向けたのが自然。要はカウントが分けた自然と理性っていうもののもう一方の方だったんですよね。
そこに今お伝えしたように、自然の中にも実は理性とか意識とか自我みたいなものっていうところを生み出す働きっていうものがあって、それがちゃんと展開されていく。
自力、電力、化学力とかっていうふうにどんどん展開されていくっていうことに、その自我と理性とか、そういったものの統合の繋がりがあるんだよっていうところが、
すごいキミクズに言ったときの、シェリングは自然哲学ですよっていうふうな話なんだよね。
自然哲学の限界と洞察
はいはいはいはい。
そこまで結構その辺りはイメージできつつあるかしら。
あーそうね。このシェリングが持った問題意識と、それに対してシェリングが自然哲学っていうところの概念で打ち立てたみたいな流れはわかったんだけれども、
ここからの先の話かもしれないけど、今深めるっていう話はしたんだけれども、どうなんだろう。
例えば、これはもうしょうがないのかもしれないけど、この自然哲学においても、ある意味、哲学者みんながハマってる泥沼?
そのスタート地点はどこなの?根源はどこなの?っていうところに、全然ハマるだろうなーみたいなものは感じるんだけど、
シェリング、まだこの段階だとそこにハマるより先に深める余地があったから?みたいな、そういう感じだろうかな。
それで一方、まずは行けるところまで行ってみようっていう話がこの自然哲学かなと思いますと。
はいはいはいはい。
実はその泥沼にハマり込んで踏み抜いて身動き取れなくなったのが、次にお伝えしていく同一哲学なんですよ。
あー、だから当たり前というか、こんだけの天才だと当たり前のように、ちゃんと自分のそのきらめきを形にした上で、ちゃんと壁にぶつかるんだね。
ちゃんと壁にぶつかる。
はいはいはいはい。
っていうところまでやっぱりやり切って、さらにその先に行くんだよね、シェリングは。
自分でね、もっかいね。
そう、自分でちゃんとね。
はいはいはい。
もちろんそれはね、大教授たちのヘーゲルに批判されたとか、そういういろんなこともあって、そうってやっていくんですけれども、
それだけにハマっているって言われてるんですよね、その問題に。
へー、そうなんだ。
はい。なので、ちょっとね、今回さらっとなってしまったんですけれども、その自然哲学っていうところを踏まえた上で、今兄貴が言ってくれた、ほんとその通りで、
やっぱりその、なんでそういう働きが自然の場にあるのか、その根底に何があるの?っていうときに、それを実はやろうとしたのが、その同一哲学。
もっと言うと、その絶対者みたいなものを考えていって、そこに根拠と根源を見出そうっていうような働きなんだよね。
へー。
同一哲学への移行
はい。だからそれはもう先取りしてるんだけど、結構うまくいかないんですと。
うんうんうん。
うん。っていうところが、何かっていうところはちょっと時間をさせようと思ってますって感じだね。
おっけーです。そしたらたぶん自然哲学は今回で終わり?みたいな感じになるとは思うんだけれども、
どうなんだろう。この自然哲学っていうのが、わざわざ次のその同一哲学に行く理由というか、同じじゃないんだっていう。
だから自然哲学がどこで完結してどこでダメになって、同一哲学院に脱皮したのかみたいな、そういった話は次回になるのかな?
まあそうだね。ちょっとお伝えしてもいいかなとは思っているんだけれども、
ひらたく言うと、さっき言った通りで、要はヘリンがこの説明は一定していると、その自然が生死に至るというのに対して、
いろんな力があって、磁力があって、それが電気になるみたいな発展があってっていうところを、
要は突き詰めていくと、人間になるんじゃないかみたいな、生き物になるんじゃないかみたいな、そういうことを言ってはいるんだよね。
そこまでが自然哲学の話だね。
そこでカント・フィヒテ辺りは、十分その乗り越えた感じになってるよっていう話だね。
カントが残した自然と精神が分かれちゃってるよねっていう話を、ある種一つにする、統合する。
要は自然というものが発展していくと精神になっていくから、
そういった意味で自然と精神っていうのは、地続きのものだって決して分かれているものではないっていうことは一応言うんだよね。
これでよりこの世の仕組みが明らかになったでしょ、みたいな話にすっきりしたでしょっていうね。
そう、すっきりしたでしょと。ただやっぱりすっきりしたのは、じゃあなんで自然が発展すると精神になるのかとか、
そういう働きっていうのはなんでそれが保証されているのかっていうことが自然哲学からちょっと抜け落ちちゃってるんだよね。
っていうところがあるので、それを乗り越えたのが同一哲学と呼ばれるのですって感じだね。
なんで名前つけるんだよ。自然哲学でいいじゃん、別に。
実はこれいろいろあって、同一哲学は、そうそう、自然哲学の発展でもあるんだけれども、
フィヒテはその自我の哲学、もっと言うと残念なわけなんだけど、
そういう自我とか自分という理性から出発して自然に至るっていう発想じゃない、フィヒテはさ。
シェリングは自然の方から発想して精神とかに至るっていう流れじゃない。
どっちもやりたいのは自然と精神の統合なんだけど、出発点が違うんだよね。
同一哲学はその違いっていうことも一つに収めようとするのよ。
なるほどなるほど。このシェリングは自分で作った自然哲学と、また別の考え方になるから、
同一哲学っていうふうに別の名前をつけざるを得なかったっていう話なんだね。
そうですそうです。
なるほど。だからどのくらいの階段の高さかはわかんないけれども、
シェリングの中では自然哲学を一個乗り越えてるのが同一哲学ってまた別の考え方なんだよね。
そうそう、また別の発想、発展してるものなんだよね。
なんか自然哲学を深めたならさ、そのまま自然哲学でいいじゃんと思ったんだけど、
そもそもルールというか、考え方がちょっとまた違うんだね。
そうだね、ちょっとステップ一個上がってるんだよね。
OKそうです。
ある意味では自然哲学はちゃんと乗り越えた思想ではあるし、
それが次の積極哲学というよりも高層に繋がっていくっていう、
そういう段階としてはちょっと分けてるっていう感じではあるんだよね。
なるほど、どうもどうも。
じゃあ最後に自然哲学の感想じゃないんだけれども、
結構さ、さらっとしたイメージがあるんだよね。
カントとかと比べると、ここはこうでこうで、こうなってるからなのだ、みたいなさ。
確かに、みたいな。
うちらはそうなってるわ、みたいな感じが、今回自然哲学からはあまり感じなかったんだけど、
この自然哲学の本とか読むと、なんかめっちゃいろいろ書いてるの、本当は。
めっちゃいろいろ書いてる、めっちゃいろいろ書いてる。
もちろんもちろん。
それはあえてちょっと収録したことがあって、
フィフテをやっているのでとはいえ、その前回ね。
フィフテの裏返しってのは一番分かりやすくはあると思うんだよね。
フィフテが自我から始まったその限界を、自然というところに出発点を変えることによって、
全然違う見通しを立てましたよっていうところがシェリングだっていう、
シェリングの自然哲学がっていうところが、
一番分かりやすい理解かなっていうふうに思って伝えてはいますと。
だからシェリングの本とかに従って一個一個入れていくと、
なんかやばいことになりそうだよね、この話は。
それはやっぱりシェリング自身がどう考えたのかとか、
なぜ自然哲学っていうものが大事だと思うのかっていうところが別にあるんだけれども、
それやると自然哲学っていうところが厚くなりすぎちゃうかなと思って、
ちょっと今回あくまでもデイギルに至るドイツ関連語みたいな流れで言ったときには、
ちょっと何だろうな、省略すればよかったって話と、
あともう一個あるのは、僕らがやっぱり人間がすごい自然の一部であるとか、
いわゆる進化論的なものを含めて、
自然の中でやっぱり人間っていうものが生まれてきたっていうことに、
やっぱり馴染んでると思うんだよね、言って。
なんでじゃあ、いわゆる体とか物理的なものから精神とか意識が生まれるのかっていうことが、
道学の分野でも意識のハードプロブレムって言われていて、今でも解明はされてないんですよ。
解明されてないんだけれども、普段僕らってそこにそんなに疑問を持たないじゃないですか。
まあ、そうだね。
なんか僕ら考えれるし、ちょっと動物とは違うものを持ってるよねぐらいの感覚だと思うんだけど、
ずっと当時の参画、さっき言った通り、
当時は自然っていうもの、あくまでも機械的なものとか、人間とは全く別のもの、
絶対に交わらないものって思われていたんだけれども、
それを繋げたっていうことは、実は当時からするとめちゃめちゃ科学的なんだよね。
ああ、そっか。全然当時の感覚と違うことをやってたんだ。
そうです、そうです。
今で言ったら絶対に交わらないもの。
例えば火と水を同じ形で統合して、火水ってものを作りましたみたいな、そんなレベル。
そんなに?
分かりにくい、うん。
ほんとそのぐらいのレベルだと思う。
全くイメージできないぐらいだなって。
そうそうそう。言われてもは?ってなるじゃん、最初。
だし、そもそもなんでそんなことするの?みたいなレベルの話。
そうそうそう。でもそれが自然と精神をくっつけるって話なんだよね。
だって全然違うものじゃん、分かれてるじゃん、できるわけないじゃんっていうものを、
いやいや自然っていうものが発展すると精神になるんですって言ったっていうのは、
そのぐらいのびっくりなんだけど、それをむずいねと思って。
あ、そうなんだ。
今回の、さっき言ったんだけど、ヘーゲルにまで至ることを考えると、
このシェリングだけで、それこそ10回分ぐらいになっちゃうぞみたいな話になってくるっていうね。
そうそうそうそう。
まあ将来の楽しみとして取っておくはずだからね。
そうだね、そう。さっき言ったみたいなさ、
ガルバーにみたいな人がいて、当時の技術、物理的な素材とはどんなものであったかとか、
当時の芸術はどういうものでどういうところが最先端の人間の天才性を表していくのかとか見えてくると、
なるほど、そういう事態になってシェリングはこんなことを言ったのかみたいな話で多分、
お腹いけんがあると思うんだけど。
それはそれで面白いってこと?
そうそうそう。一旦今回はいいかなっていうくらいに、ごめんなさい、僕がちょっとそこを切っちゃいましたね。
でも編集しちゃったんだね、そこね。
編集しちゃいました、はい。
シェリングの自然哲学
OKです。いいよ、楽しみにしておきましょう。
そうですね。なので、やっぱりその意味では、あとはやっぱり繰り返しになっちゃうんだけども、
今回は最初は自然哲学も、次回は最初は同一哲学も、やっぱりちょっと哲学的には限界があるというか、
やっぱりちょっと物足りなさは正直あるって言われがちなんですよね。
はいはいはい。
でもやっぱりそれがあれからこそ、やっぱり兵衛というものは繋がったし、
その乗り越えた貢献の積極哲学というものがあって、冒頭言ってくれたけれども、
それがまた現象学とか実論書記とかそっちに実は繋がっていたんじゃないかみたいな、
はいはいはい。
そういう研究というのがやっぱり後からどんどん出てくるんだよね。
面白いよね。だから哲学そのものっていうよりは、さっき言ってた秘密を作ったみたいなさ。
そうそうそうそう。
理性と自然を一緒にしちゃったみたいな、同じテーブルに乗せちゃったみたいなところが、
哲学そのものよりも実はやべえことだったみたいなね。
言葉があり得るって話だね。
そうそう。やっぱりその直感点とか、常識を超えた感じ。
ところがセリングの天才性ではねみたいな話はやっぱあるんだよね。
へー、なるほどね。それは魅力的だね、なんかね。
ね。なので今回、哲学としてはさらっとしてるっていうのは、
確かに兄貴の話が一通りだと思うし、逆に言うと、
この場合は結構、何だろうな、引いてから繋がる難しい話をしてるとは思っているから、
これをさらっとしてるねって言えるのは、たぶん兄貴の哲学力が上がってるからだろうなと思うんだけど。
そうなのかな。
これ3年前の兄貴が聞いたら何言ってんのかと思うんだけど。
そもそもね。
そもそもね。どういうこと?みたいな。
もっと面白い話し合いを。
なんでそんなこと考えなきゃいけないの?って。
そういう意味ではね、または次回の同一哲学の話とか、さらにその先の積極哲学って話まで行った時に、
シェリングってすごいねとか、一人の人間がこんなこと考えられるんだっていうところまでは行くんじゃないかなとは思ってるので、
毎度毎度一回ごとに面白くつけるよっていう話はあるかなとは思いつつもあるんですけども、
さてたらじの特性上、よければ全体を聞いていただいて、
そのシェリングさんがどうなっているのかっていうところを伝えていくっていう感じで、
よかったらお楽しみいただけると嬉しいなと思っておりますっていう感じですね。
分かりました。
次回の同一哲学
じゃあ次回ですね、その同一哲学がどんな内容なのかというところを見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。