パースの生い立ちと時代背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はプラグマティズムとは何かという話だったんですけれども、今回からその創始者と言われるパースの話に入っていくというところでした。
はい、今に切れてくれたように創始者と言うんですけど、これ何かというと、パースさんが初めてプラグマティズムという言葉を哲学の流れの中で使ったという話なんですよね。
結構明確にパースさんのこの論文でプラグマティズムという言葉が初めて使われたというのが残ってます。
なんでそんなことをしなきゃいけなかったのかというか、新しい言葉とか新しい哲学をやらなきゃいけなかったんですか、みたいな話なんですけど。
前回は南北戦争みたいな時代背景について触れたんですけど、今回はもうちょっとパースさんのより個人的な部分とかにフォーカスしながら、
彼の考えたことを大掴みで伝えていきたいなというふうに思っております。
最初はパースさんのおいたちみたいなところからお伝えしていきたいんですけれども、
彼が生まれたのが1839年のアメリカですと。
パースさんのお父さんが数学者で、この時代、1800年代中頃って数学の世界で結構革命的な発見がいろいろ起きてたらしいんですよ。
僕もちょっと詳しく説明できないんですけど、それこそカオス理論とか、あと非ユークリット気化学みたいな、
それまでの数学とは全然違う世界を数学的に考えるとか、技術するみたいなのがどんどん生まれたらしいんですよね。
ちょっと僕も詳しくないのでこんな話しかできないんですけど。
やっぱり世の中って数学とかってそこに付随する科学技術っていうのが発達すると、
やっぱり世の中の捉え方が変わるんで、結構そこから人々の価値観とか世界観とか、
さらにその上で哲学が変わっていくっていうのは結構起きてきてるんですよね、人間の歴史の中において。
そこそこインターネットができるとか、スマホができるとか、そういう話に近いってことだよね。
そうそう。それこそ天動説、地動説みたいな話もあるし。
パーソンってまさに時代の流れみたいなところと、また数学者のお父さんの教育っていうのを受けて、
やっぱり世の中をどう捉えるかとか、今の時代、変化の時代において、
世の中っていうのをより正しく捉えるにはどうしたらいいかっていうことをずっと考えてたんですよね。
そういったきっかけから、前回もお伝えしたとおり、デカルト由来の近代哲学のいろんな前提とか、
問題の設定とか解き方っていうのを根っこから批判することで、
17世紀の1600年後半くらいが続いていた西洋近代っていうのを全面的に考え直すっていうのをやろうとした人なんですよね。
そうなんだ。はいはい。
そういう流れの中で論文とかも書いてるんですけど、
ちょっと余談だけども、デカルトからパースがだいたい200年なんですね。その時代的な間でいうと。
前回もお伝えしたとおり、パースから現在が約100、2、30年くらいかなって考えると、
前回もちょっと触れましたけど、500年続いたストア派ってやっぱりすげえなみたいな。
うんうんうん。長いね。
逆にやっぱりこの世の中の流れの速さっていうのが最近どんどん速くなってるよねっていうのが感じるなって思ったんですけど、
それはさておき、デカルト批判するっていうのはどういうことなのとか、
これまでもデカルトを乗り越えてとか、カントンにしてもヘーギルにしても、
ニーチンにしてもプロトン、プラトンを乗り越えてとかって言ってきたと思うんですけど、
何をしたら批判したとか乗り越えたって言えるの?みたいな話だと思うんですよね。
そうね。どの部分に引っかかったのかって話だよね、パースが。
デカルトの思想と方法的会議
そうそう。パースさんが何をしたのかっていうこと、前ちょっとデカルトの復習なんですけど、
デカルトといえば、我を思うゆえに我ありみたいな言葉が有名だし、
まさにそれで思想を表してるっていうのもあるんですけど、
これが何だったかっていうと、哲学的には方法的会議って言うんですけど、
物事を正しく捉えるとか、デカルトっぽく言うと名責に捉えるみたいな言葉があったんですけど、
歌うことができない事故とか理性、我っていうものなんだけど、
そこから始めて世の中を捉えていくことで、正しい世の中の理解とか、もっと言うと真理とか、
そういうのに至ることができますよねっていうのが、ざっくりしたデカルトの主張なんですよね。
方法的会議っていうのは、要はあえて疑う。会議って疑うってことだし、
方法的っていわゆる手段っていう話なんで、正しい理解に至るために、
あえて手段として疑いっていうものを使ってみましょうみたいな、そういう考えから出発してます。
これは客説的な話だよね。疑えないものは真実であろうっていう。
そうそうそう、そういうこと。
そこに最後に残ったのが、疑っている自分っていうものを疑えないから、そこから始めましょうっていうところだよね。
実はこのパースっていうのは、この方法的会議っていう、デカルトが疑えないって言ったものとか、
デカルトがその思想の出発点にしているものっていうのを、いざ疑ってというか、
むしろもっと言うと、そういうのって無意味だし不可能なんだぜみたいなことを証明しようとするんだよね。
おー、証明なんだね、そこはね。
そうそうそう、証明。やっぱり数学的に悪い人だから。
だし結構やっぱりこの乗り越え系の人って、かなり土台部分を破壊しにくるよね、やっぱりね。
そうそうそうそう。やっぱりそこを突き崩せば、デカルトを崩せるっていうのが分かる。
分かりやすいっちゃ分かりやすいんだけどね、その出発点がどこかっていうと。
そうだよね、だしそこを崩さない会議は基本崩れないもんね、確かに。
そうそうそう、なんだよね。
それだけそれが難しいから、これだけ思想として続いてるし、みんなデカルトすげえってなってるわけなんだけど、
それは俺はやるぞと。
もっと言うと、やっぱりデカルトに限らずなんだけど、西洋哲学の基本の考え方って、
いかにこの人間の理性っていうものを正しく使って真理にたどり着くかっていうものなんだよね。
これはスター派でもそうだと思うんだけど、やっぱり人間に与えられた動物にはない理性っていうものが、
いわゆる神から与えられたもので、それを正しく使うっていうのが大事なんだみたいな、
やっぱり知観とか考え方っていうのがずっとあるわけだよね。
それをパースさんはやっぱり乗り越えようというか、それはもう作り変えちゃおうっていう感じなんだよね。
多分当時の数学だけじゃなくていろんなことを勉強してたと。
もちろんデカルトの時期から比べると、たぶんいろんなものが洗練されてたはずだよね。
その感覚でデカルトを見たときにたぶん引っかかる点があったってことなんだね。
そうそうそうそう。面白いようにやっぱりできるって思ったんだろうね。
やっぱり結構僕が、まずこれって僕が読んだ本の最初の冒頭50ページくらいなんですけど、
この部分でやっぱりめっちゃ面白いって思ったんだよね。
はいはいはいはい。
やっぱりまさに相手が言ってた通り、そこを崩せば確かにデカルトの論理って崩せるよねみたいなのって、
パースのデカルト批判と理性の無意味さ
自分だけではそんな風にはなかなか考えないし、そもそもそれをやろうとしないやっぱり。
そうだね。やろうとするかとできるかが結構どっちもハードル高いそうな感じ。
そういう意味でパースターは生まれたアメリカの時代でもそうだし、
親から受け継いだ数学的な素養とかもそうだしっていろんなものを合わせたときに、
やっぱりそれをやろうと思ったし、やっぱりできると思ったって感じなんだよね。
そもそもなんでデカルトっていう人が17世紀とかに方法的会議をやろうとしたのかって話なんだけど、
そういうのは、それまでも中世って言われる、このラジオでも取り上げましたけれども、
やっぱり当時からすると暗黒時代というか、昔の迷信とかがある時代だったときに、
もっと物事を正しく捉えましょうとか、もっと科学的とか、発展している論理的に物事を捉えましょうっていう時代があったわけだよね。
その中でやっぱり人間には理性とか良識みたいなものがあるから、
それを使わないと結局、迷信とか風習とか、そういうのを乗り越えられないんじゃないかっていうような切実さがあったわけだよね。
はいはい。その時代の転換で言うと宗教改革的なところでの価値観の変化みたいなところもあったのかな。
そうだね、そうだね。だからやっぱりそういう変化がある中で、やっぱり自分の中にある思い込みだったりとか、
山添彦がやってくれたように、疑えるものを全部疑い切って、そこから見えてくるものから始めましょうみたいな、
そういう切実とかが徹底さっていうのはやっぱりあったわけだよね、デカルトにも。
はいはい。パースには文句言われてるけれども、デカルトにはデカルトなりの当時の切実な課題感と、
それに対する解決方法っていうものを示してたって話だもんね。
そうそうそうそう。だからこそそれだけ有名というか、歴史にも名前が残ってるし、
まさに近代っていう時代にめちゃめちゃ影響を与えたっていうのは間違いないんですけど、
200年経ったパースさんからすると、やっぱり自分で自分の思い込みとか内側にあるものを疑い切って、
そこから始めるってやり方って、本当にそれで楽しかったんだっけとか、
本当にそういう風に進めていいんだっけっていうのを考え直す必要があるよねっていう風に言ったんだよね。
そもそも人間ってそんな風に自分の内側を見つめましょうとか言葉では言うんだけど、
本当にそういう内側にあるものを正しく見つめるとか疑うとか、
自分の中にある概念みたいなものをすごく理性的に分析できますっていうみたいなところなんだよね。
なるほど。理性ってそんな優秀なものなんでしたっけという話かな。
言われたら、まあ確かにそれはそうだよねって思うじゃない。
まあ自分が果たしてどこまで疑えてるかとか、どこまで理性的に脳党を捉えてるか、自分を捉えてるかって、
それこそ証明できない気もするもんね。
そうそうそう。だからやっぱりそのパースに言わせると、
デカルトが言ったような、やっぱり我考えるように我あり、これでエルゴスムの小人なんだけど、
それがまさにアニケーターが言った理性、その純粋な理性っていうのって、
そんなものないよねっていう風にパースは言うんだよね。
なんでかっていうと、この我っていうのがデカルトから言わせると、
この世界の外にあって、それが純粋に自分の内面とか体とか世界とかっていうものを
もう客観的に分析していくとか捉えていきますよみたいな話なんだけど、
それこそ構造主義でもやったようにさ、やっぱり人間の認識とかって、
言葉だったりとか社会的な構造とか、いろんなものにも影響を受けているし、
それこそ認識において脳とか感覚器官とか、そういう物理的要素も排除できないですよね。
なるほど、ここで医学的な知見とかに出てくるわけだ。
そうそうそうそう。
そもそもデカルトは真摯に逃げるっていう、心と体を分けるっていうのが考え方なんだけど、
そうやってもそもそも原理的に無理だし、
それっていうのを一つのモデルとして捉えるっていうのは役立つかもしれないんだけれども、
実際には実行不可能、もっと言うと無意味なんだというところまで行くんだよね。
そういうふうに言われると、確かにそれもそうだなって思うんだよね。
独立した我みたいなものが自分とは違うところにあって、
パースによるデカルトの疑いの批判
純粋な我が哲学的に物事を考えていくんだみたいなのって、
よくよく考えたら不自然。
そうだよね、信じるしかない世界っぽい感じがするよね。
そうねそうね。
その当時というか、パーソンにとってもその当時の、またデカルトから200年経った知見から言われると、
それもそうだってなっちゃうね。
そうそうそうそう。
だからやっぱりデカルト読んでるとデカルトすげえって思うんだけど、
パーソナルもとは確かにそういうふうに乗り越えて、そこに確かに矛盾というか問題ってありそうだよねってなります。
そうなると、要は新しい出発点を立たなきゃいけないんだよね。
そうだよね、我々の核は何なのかって話になるもんね。
我々いなくなっちゃったからね、デカルトの言うところ。
独立した純粋理性とかってないって言った瞬間に、じゃあ何があるの、僕らにはみたいな。
そこがすごく科学者っぽいんだけど、パーソナルはどこから始めるかっていうと、それは本物の会議、疑いだっていうふうに言うんだよね。
哲学だね。本物の会議。
本物の会議。デカルトは方法的会議を使ったんだけど、
パーソナルは本物の会議があるっていうふうに言いますと。
こっちの方が正しい会議だと。
新会議がありますと。
それが何かっていうと、
僕らっていろんな前提、さっき言ったみたいに言葉もそうだし、社会もそうだし、いろんな仕組みの中で生きてるんだよねと。
いろんな仕組みのある前提において、いくつかの疑いとか、疑念みたいなものが生じたときに、
やっぱりそれを放ったままだとなかなか生きづらいとか、うまく過ごせないみたいなことっていうのがある。
要は支障が出てくるっていうことがあったときに。
ちょっと待ってね。その疑念を放っておいたとき?
そうだね。疑念をそのままにしておいたとき。
そうすると生きづらい。はいはいはい。
例えば、例として適切かわからないんだけど、
例えば目の前に自動販売機がありますと。
お金を入れてボタンを押したときに、飲み物が出ませんでしたってなったときに、
そこで僕らは初めて、あれ?って思うわけだよね。
要は自販機っていうのは、お金を入れてボタンを押したら飲み物が出てくるものっていうふうに思ってるから、
出てこないってことは何かあったんだろうと。
うんうんうん。
例えば、これ保証してんのかな、自販機とかって思うときに、
それも一つ疑いなわけだよね。
うんうんうん。
それは他の人がトコトコやってきて、
同じようにお金を入れて同じように買えたとしたら、
自販機が壊れてなかったんだと。
うんうんうん。
例えば、じゃあ自分をもしかして入れておかないって偽物だったのかなとか、
そもそも入れたと思ったけど入れてなかったんだっけとか、
お金足りなかったのかなとか、いろんな疑いとか疑問が出てくるわけだよね。
うん、なるほどなるほど。
っていうふうな感じで、
僕らは普段、自動販売機ってのはお金を入れれば飲み物が出てくる機械だっていうふうに信じてるんだけど、
その信じてるものが、ある種うまくいかなかったときに、
ここに疑いっていうのが初めて出てきますと。
はいはいはいはい。
すると、僕らはその疑いっていうのを解消しないと次にいけないというか、
その疑いを解消するか、
そもそも自販機っていうのはお金を入れたら飲み物が出てくる機械ではないっていう、
その信じてる方を修正するか、どっちかっていうのを迫られるんだよね。
あー、確かに確かに。怖くてもう他の自販機で買えないもんね。
疑いからの新たな出発点
そうそうそうそう。
そうなっちゃうと、やっぱりこの自販機がおかしかったなとか、
自分の持ったお金がおかしかったんだってそっちをまずは疑いましょうとかってなるわけだよね。
そんな感じで、こういうふうに何か物事と向き合って、
普段は仕組みの中で生きてるんだけど、
それがうまくいかなくなったときに初めて疑いっていうのが出てきて、
それを乗り越えるっていう必然性が人間に生じてくる。
うんうんうんうん。
これをパースっていうのは現場、現実での疑いっていうふうに言うし、
その疑いこそが本当に疑うべき価値のある疑いなんだっていうふうに言うんだよね。
ほうほう、なるほど。本物の疑いって話か。
そうそうそう。
はいはいはい。
だからデカレットみたいに、
全てを疑って純粋な悪にたどり着くとかっていうのは現実に過ごしてないから、
それっていうのは偽物というか無意味な疑いなんだと。
なるほどね。はいはいはい。
そもそも疑い生じてないじゃんっていう話になっちゃうってことだね。
そうね。疑うほうが疑えるっていう、
まさに操作をしてるわけなんだけど、
そんなものに関わる人っていうのは僕らはなくて、
あくまでも生きてる中で、
何かをやり遂げたいって思ったときにうまくいかなかったとか、
何かが違うってなったときに初めて、
本物の疑い、本物の怪異というのに出会うんだっていう感じなんだよね。
だからそういう意味で言うと、すごく実践的に言葉の意味合いも感じるんじゃないかなと思うんだけど。
うん、そうだね。
主観性を排除した感じがするね、疑いっていう挙動に対して。
主観性でもあったほうがいいんだけど、最初は。
それは自分の中だけで完結させるんじゃなくて、
あくまでも自分っていうのはそれこそ行動主義的な感じだけど、
社会とか言葉とかって中にすでに存在しているものだから、
そこと問題とかって切っても切り離すなよって考え方があるんだよね。
こんな風に行動するとか実践みたいなことが、実はギリシャ語でプラグマって呼ばれていて、
ギリシャ語なんだ。
元々ギリシャ語でプラグマっていう言葉があるんだけど、
そういう風に構造を通じて自分の疑いに気づいてそれを変えていくみたいな考え方っていうのに対して、
ギリシャ語のプラグマって当ててプラグマティズムっていう言葉になったみたいな。
へー、そうなんだね。
そういう流れがあるんですよね。
なのでやっぱりプラグマティズムって大事なのは何かを信じているとか信念。
それは自分が信じようと思って信じているものもあれば、
もう本当に無意識のうちに信じさせられているというか、
そういう構造に生きちゃってるっていうものもあるんだけど、
そこに対して疑いが生じて、その疑いを晴らすか信じているものを変えるかっていうどっちかの行動が起きる。
この3つのセットを通じて、要はより正しいものとか、より真理みたいなものを見出していこうぜみたいな、
そういう風な考え方が結構各にあるんだよね。
うーん、なるほど。
イメージだけど、やっぱり科学者というか、卒系の人たちの実験とか、そういう風に通じる感じがするよね。
そうね。通じるというか、もしかしたら本当にこのパースの考え方が結構科学界のスターになってたんじゃないかぐらいの感じなんだと思うんだけど。
むしろ。
むしろ。
はいはいはい。
もちろん観察するとか、仮説を立ててそれを乗り越えていくみたいな話はあったと思うんだけど、
それをちゃんと哲学的にというか、科学哲学みたいな言葉もあるぐらいだから、
そういう風に、そもそも我々がやってることってなんだっけとか、学問的な行き止まりってなんだっけみたいな、
そういうところに基礎を与えてくれるような考え方だと思うんだよね。
あー、なるほどなるほど。
その方法論だったりとか実践としては、そういう研究方法とか実験方法、
その仮説、思考みたいなものがやってたかもしれないんだけれども、
それをきちんと言語化して体系化というか、ある程度示した、抽象化したみたいなところのスタートの人かもしれないって話なんだね。
そうそうそうそう。
プラグマティズムとは
かつそれをちゃんとデカルトみたいな、やっぱり西洋哲学の主流と呼ばれる人と比較して、
我々の考えてるのはこういう風に違うんだとか、こういう風により優れてるんだっていうのをちゃんと説明しようとした。
というところが、やっぱり哲学の流れとして大きな意味を持ってるんだよね。
うんうんうん。
でも結構こういうのってあるなと思ってさ、
例えばなんだろうな、意外と常識、お疑いとかも多分そうなんだよね。
要は常識って、僕らが普段無意識のうちに従っている信念とか信心のことなんだけど、
やっぱり常識が通用しない場面が出てくる。
それこそ海外に行くとかって分かりやすいと思うんだけど、
っていうときに、やっぱり自分の常識、
例えばなんだろうな、よくあるのはさ、
例えば挨拶っていうのはお辞儀をするもんだっていうときに、
いやいや握手でしょとかしゃぐでしょとかってなったときに、
やっぱりその挨拶はお辞儀をするものだっていう自分の常識とか信念に取られちゃったらやっぱり
それっていうのは真実ではないというか、
生きてくれればやっぱり良くないわけだよね。
うんうんうん、なるほどなるほど。
そこに何か持てたとしてね、挨拶の真偽みたいなものがあったときに。
そうそうそうそう。
そこじゃなくて、むしろ挨拶っていうのはお互いのやっぱり気持ちを伝えるものだとか、
あくまでもお辞儀とか握手とかハグっていうのは手段であって、
そこは真実ではないとかっていうようなことが新たな信念になって、
よりその人の挨拶感っていうのがブラッシュアップされるわけだよね。
そういうのがいろんな領域であるよねっていう感じかな。
なるほどなるほど。
いろんなレイヤーだったり領域であるという話か。
そうそうそうそう。
なんかそういうのある?兄貴の中でもさ、自分の中の常識がアップデートされましたみたいな。
これ雑談会で話した方がいいかもしれないけど、
これ前もどっかで雑談会で話したかもしれないけど、
ポジティブとネガティブっていう概念がずっと真逆で捉えていたみたいな。
そこが逆になった瞬間みたいなのがあったよね。
はいはいはいはい。
あれちゃんと聞いてないかも。またね、それもぜひ雑談会とかでも聞きたいけど。
でもそんな感じで自分が思ってたけど実は違ったかもみたいなことって日々日々起こるわけだよね。
いろんな人にとって。
でもまさにそうだよね。自分が思ってた言葉の定義がなんか通用しないぞみたいなことがあった時に、実はそれ違かったんだっていう話だよね。
そうそうそう。それは疑いを持って新たな信念が生まれてくるっていう感じなんだよね。
うんうんうん。
もともとパースさんってやっぱり科学者なので、さっき話したね、自動販売機とか挨拶みたいな事情的な例っていうよりは、
やっぱり研究活動とか学術的な活動の中で正しいことを見出したいみたいな欲求があるんですよね。
さっき兄が言ってくれた通り、このプラグマティズムっていうのもその大元としては、やっぱり学問とか研究みたいな分野が近くて。
うんうんうん。
やっぱりいろんなその信念というか、学問の世界で言ったら何だろうな、まさにその仮説というか、学術的な真実だよね。
パースのプラグマティズムとは
それこそ地球が中心で、太陽が回ってる、地球が回り回ってるっていうのは中世というか当時の学術的な真実なわけだったんだけど。
それをいろんな観測結果から疑うようになったみたいな時に、やっぱりそれをすごく真剣に吟味したり実験したりして明らかにしていきましょうと。
うんうんうん。
それによって、やっぱりこの否定された信念っていうのは、それをアップデートしなきゃいけないっていう考え方なんだよね。
うん、なるほどなるほど。
なんかそうだね、これは全然わかんないけれども、学問のとこ、いろんな学問やってたとか、親も多数学者みたいな話からすると、もしかすると今でもあるのかもしれないけどさ、
自分の学説だよね、論文が正しいってことを証明するとか証明できるとか、人に納得させるとかっていうところの方法論みたいなものが、もしかすると今よりもうちょっとパワーゲーム感があるというか、洗練されてなかったのかもしれないよね。
なんか声が大きいとか権威があるとかさ、そんなのでまかり通っちゃってくそうと思う部分がもしかしたらパースはあったのかもしれないよね、ちょっと思うか。
はいはい、確かにね。やっぱり結構若くしてみたいな感じで、このプログラマリズムっていうのを発想して広めようとしたみたいなのが結構あって。
はいはいはい。
まあそれって言うと多分30とか40なんだけど、やっぱり学校の世界でいうと若手みたいな。若手で自分たちがもっとどうしたら種類になれるのかとか、そういうのもあったかもしれないね。
だからやっぱりパースにとってやっぱり大事っていうのは、デカルタまで目指したような、その唯一の絶対の我みたいな基準から世の中を捉えていくんだみたいな。
それのことじゃなくて、やっぱりいろんな真理のネットワークとか常識っていうのもやっぱり、日本人の常識もあれば例えばアメリカ人の常識もあるみたいな。
いろんな常識みたいなものがある中で、これがどんだけ疑っても否定できるよねみたいな、そういう強固さを持つ知識なんだよね。
だからやっぱりそれっていうのは、さっきまさに兄貴が言った通り、時代が変われば変わるとか、技術が発展すれば否定されるとか、間違ってる可能性っていうのはもう既に含んでいると。
だからまさに現代の科学的な営みの重要な観点でもあって、やっぱりすべての仮説は間違ってる可能性があるとか、乗り越えられる可能性がある。
やっぱりその思想的な源流っていうのが、パースのプラグマティズムにあるんじゃないかなっていうのを思ったりしたんですよ。
なるほどね。本当にその本物の疑いっていう概念っていう話はね、真実も仮説かもしれないっていうのはそういうことだよね。
そういうこと、そういうこと。これはねちょっと難しいというか哲学的な言葉で言うと、ビュー的みたいな言葉で言うんですけど。
何的?
カビュー的。
カビュー?漢字?それカタカナ?
可能のカに、ごビューのビューに、敵っていう言葉があって。
カビュー。はいはいはい。
要は間違えることができるっていう。間違えるって普通は嫌なこととかネガティブなことじゃないですか、それこそ。
それが間違え得る可能性があるっていうのはポジティブに捉えてるんだよね。
はー、なるほどなるほど。はいはい。
なのでやっぱりあらゆるものっていうのは真実があってそれを受け取るんじゃなくて、
間違えるっていう可能性を含む中で、より正しい方、正しい方にやっぱり進んでいける。
そういう運動っていうのが大事だよっていうような話だし、
しかもそれあくまでも自分にとって有意義かどうかみたいな感じなんだよね。
だからその唯一絶対の真理があって、それこそ神みたいなものがあって、
そこに立り着くのが全人類の幸福だとかじゃなくて、
あくまでもそれぞれの人が生きているっていう現場において、
どんなことを信じるのが大事かとか、
でもどんなことを疑って、どういうふうに自分が信じることをアップデートしていくのかみたいな。
そういうことがやっぱりすごく大事なんだよと。
ただやっぱりそうなるとさ、ちょっと前回も最後触れたんですけど、
じゃあなんでもありだなみたいなことか、
そういう人が信じたいことを信じてたらいいの?みたいな感じになっちゃうと思うんですよね。
うん、にもなるね。そもそも疑えないとかもあるかもしれないし。
明らかに間違ったことを信じることも例えばできちゃう。
っていうふうなのは、もちろん発想としてはあるんだけど、
そんなふうにはうまくいかないよというか、そんなことではないよというふうにやっぱりパースは言っていて、
あくまでも彼の主張としては、科学的な探究っていうのが最も確実性が高いし、
それが疑いを解消していくような有効な方法だから、それをみんなでやろうよと。
みんなでっていうのは、一人でやっていくと自分のバイアスがかかってるかもしれないから、
みんなが同じことを研究して、観察して、否定して、疑ってってやると、
それでもやっぱり否定しきれないものっていうのが、ある種真実として一旦やっぱり信じようよみたいな。
そういう考え方なんだよね。
真理の探究と疑いの重要性
そこは面白いね。個人でやるとすごい自由な相対主義的な世界観になりそうだけれども、
そこは前提としてないよと。
人間って基本的には社会的な生き物でしょうというところが含まれてるってことなんだね。
それが人と人の間っていうのもそうだし、やっぱり人と社会っていうのも繋がってるから、
やっぱりそこを排除して人間というものを考えない。
なるほど。確かに自然科学であれば人と物とか自然現象とかいろんなものだから、
その関係っていうのは基本的には同じだし、
そこでさっきの相対主義的に陥るような構造にはなってないよって形だよね、このパーソナルな考え方が。
その逆の方向の、さっきの下流だよね。
より良い方向に疑いながら、より真実らしきものに近づいていく可能性が高いよねっていうベクトルが働く世界観ってことだね、このパーソナルの話というのは。
そこは面白いね。自分でその弱点みたいなものを分かってちゃんと盛り込んでるんだね、そこは。
そうだね、そうだね。
やっぱり好き勝手、悪用されないというかね、ちゃんと正しく扱われるようにみたいなことも考えていて、
だからね、前回の最後に兄貴に聞いてもらってね、ちょっと僕も話したように、
ある意味その、やっぱり真理っていうのは別にどこにあるかっていうのは分かんないし、何が真理かもやっぱり今は分かんないんだよね。
ただただそれを疑って、信じて疑って信じて、より良くしてっていうのを繰り返していった先に、もしかしたらあるかもしれないとか、
そこには別に真理がないとも言わない。ちゃんとあるんだけど、そこにたどり着けるかどうかっていうのは分かんない。
っていうような感じで、やっぱり真理なんてないんだとか、何でもいいのだっていうふうにもならないっていう、そこの絶妙なバランスっていうのは取ってるんだよね。
はいはいはいはい。確かにすごい社会観を構築してるね。
なんかその一人で完結してない感じもするし、そういうのもなんか実践とか行動とか、ただ役立つとかっていう感じではなさそうだっていうね。
そうそうそう。だからやっぱりね、ちゃんと思想的に何と罪もあってって感じはあるんだけれども、
ただね、じゃあこのパースのプラグマティズムがめちゃめちゃ受け入れられて、さすがパースとなったかっていうと、実はそんなこともなかったみたいで、
やっぱりそのパースのプラグマティズムが広がるためには、ジェームズっていう次の人が必要だったんだよね。
はいはいはい。
じゃあこの次にジェームズさんの話をするんだけど、ちょっと導入的にね、何でみたいな話をすると、
やっぱりさ、いわゆるさっき言ったような真理、要はみんなで否定して疑っていって、信じていってっていう真理みたいなものを考えたときに、
もしかしたら自然科学ではそうかもしれないけど、人間の感情とか道徳とか、
本当にそんなふうに探究できるんだっていうのが出てくるんだよね。
そうしないと結局全体主義みたいな要は、どっかに一つの理想の道徳があって、それに従うのが善だってなったら、
結局ね、文化的な差とかっていうのを全部排除したことになっちゃうじゃない。
感情や道徳の役割
そうだよね、形が本当にないものだよね。
そうそうそうそう。
自然現象、風とかさ、空気とかですらないというか。
そうだね。人間に属するものとか人文、科学的なものっていうのも、
同じようにできるんでしたっけみたいな言葉は疑問として残るんだよね。
なるほど、まあ確かにね。
たぶん現代の科学だとその辺って、正義ってものはたぶん、ちゃんとはたぶんね、観測されてないはずだしね。
いつかできるのかもしれないけどね。
そうそうそうそう。
やっぱ正義論みたいなのがすごく面白くて、これも現代哲学のすごい一個のテーマなんだけど、
やっぱり法の元の自由と法のに基づいた正義みたいな感じで、
要は国家が定めた法律っていうのが正義なんだみたいな話もあれば、
自然法みたいに国家を超えた正しさもあるよねみたいな感じで、
そもそも正しさの軸はどこに置くかとかっていうのもあるんだよね。
あとはね、それこそちょっとだいぶ前に夢だったけども、
これから正義の話をしようかみたいな感じで、
やっぱりそもそも正義っていうのも集団の中でディスカッションというか対話しながら定めていくものだみたいな流れっていうのは、
どっちかというとプラグマティズムっぽい感じ?
そこら辺に落ちてればわかりやすいんだけどって話だね。
そうそうそうそう。
検証としてとか物として。
検証としてね。
目に見えて分析できたらわかりやすいんだけど。
そうじゃない世界はと。
そこにアプローチしたのがジェームズだったってことなんだね。
そうそうそうそう。
やっぱりそれはすごく、まさにジェームズさんのバックグラウンドにも影響していて、
これまた次回ちゃんと言うんですけど、もともと彼で心理役者とかなんだよね。
これまたパースとは対照的な。
そうそうそうそう。
結構もともとパースさんとは仲良しというか友人同士だったらしいんだけど、
そういうある種友人のパースさんが作ったプラグマティズムっていうものを、
ちゃんと建設的に批判せず、
それを発展させて、やっぱり世の中に広がる土台を作ったみたいな感じの繋がりがあるので、
このパースさんの話と次にジェームズさんの話を通じて、
プラグマティズムってそんなふうな考え方をより一段深めてお伝えしていきたいなという感じですね。
はいはいはい。なるほど。
今回いろいろ例え話みたいなのをしたけれども、
やっぱりこのパースの話を理解するのの例えって、
やっぱりその正義とか感情みたいなもの、そっちが分かりやすいなって部分もあったから、
このジェームズ、さっきこの人が広めたみたいな話だったけど、
やっぱり人間の感覚としては理解しやすいのかもしれないね、感情的にかな。
そうだねそうだね。逆に、やっぱり物理的な、
例えば世界で一番堅いものは何かとかは、たぶん研究とか探究でいけるんだよね。
うんうんうん。
やっぱり世界で一番尊いものは何かって言われたら、それはたぶん無理なんだよね、探究とか研究では。
はいはい、まあそうだよね。確かに意識しなくても馴染みがあるのは、
パースとジェームズの創始者
そっち、尊いものとか、生き方とか、辛いとか、嬉しいとか、そういう話になってくるよね、みたいなところだもんね。
そうだね。そっちの方が価値観とか人間の生きるというものにつながってくるから、
逆に、やっぱりこのジェームズさんがいたとか、ジェームズさんがそういった発展させたことで、
プログラマティズムがすごく哲学っぽくなったというか。
ああ、はいはいはい。
そういう話もあるんだよね。
うんうんうん、なるほどなるほど。今、今回話してくれたような内容というのも、
このジェームズがいたからブラッシュアップされて、こういった形に残っている部分もあるだろう、みたいな感じじゃん。
そうそうそうそう。
すごいね、じゃあ創始者は本当はこの2人みたいな感じなのかな。
そうだね、うん。
海に生まれたら育てるのや、みたいな感じで、結構2人が創始者というか、やっぱり作った漫画家だよ、みたいな感じが強いかな。
はいはい、なるほどなるほど。
じゃあ次回はこのジェームズですね。
そうですね。
なんかパースでもすごい面白かったけれども、より短いになるみたいな感じなのかな、うちらからする素人。
そうだね、とかよりちょっと抽象度の高いことを考えるようになるみたいな感じかな。
はいはい、なるほどね、より哲学チックになっていくみたいな。
そうそうそうそう。
パースとジェームズの考え方の違い
逆に言うとデカルトを否定して、出発点を働き続けましたと。
その出発点から考えた時に、パースはまず科学とか学問的な知識とかというところの領域でいろんなことを考えたんだけど、
さらにジェームズは道徳とか人間の価値観とかというところまで広げて考えているから、
その時にやっぱり捉え方とかそこの考え方が全然違うんだよね、これまでの哲学の流れと。
そういうのをぜひ聞いていただけると多分面白いと思うし、
情報詰め詰めで聞いていただいている方も大変かもしれないんですけど、
今回と次回を合わせて聞いていただけると、結構そういうことになると思うので、
最近学び始めて今すごいハマりつつある感じなんで。
そうですね。じゃあ次回も引き続きこのパースが生んで、
次にどうジェームズが育てたかというところをより見ていきたいと思いますので、
引き続き楽しんでいきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回もありがとうございました。