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というわけで始まりました。昨日お話ししていたのは、たくさんの人相手に話す機会があったんだけど、
あまり一人一人に対してその人に響くように言わないとダメだなと思ったんですよね。
そんなことを話していたら、仏教でいうところの方便という考え方を思い出すなと思いまして、その話をしたいと思います。
西洋哲学系の本って、こういう理論でこうだからこうである以上みたいな感じで、理論を比例しているというか、みたいな感じなんですけど、
東洋哲学の方は、結構理論もあるんですけど、理論だけ知っていても仕方ないと思っているところがあるというか、
体験とか得得しないといけないと思っているんですよね。逆に理論だけ知っていても、お前まだ悟ってないじゃんとか言ったら、全然意味ないよみたいな感じなんですよね。
そこはちょっと面白いんですけど、特に仏教だと、悟りっていう体験をできるかっていうのがすごい大きいわけですよね。
一応、仏陀の言葉として、仏陀の弟子が書いてるんですけど、一応、いろいろ理論みたいなのがあるんですけど、
それで執着をしていなきゃいけないよみたいなのがあるんですけど、その結果ですね、悟りを開けるかどうかっていうところがですね、すごい大事なところでですね。
その執着を捨てて、思考の外に出るというか、世界と一体になるみたいな、世界とつながる体験をするっていうやつですね。
ガンジーで言うと心理とつながるって感じだと思うんですけど、それができれさえすればいいと。逆に理論を知っててもできなければ意味がないと。
もっと言うと、その体験さえ得られればアプローチはどうでもいいっていうのがですね、また面白いところなんですよね。
もともとその定座部仏教みたいな仏教だと修行ですよね。
結構苦行みたいな修行をしてですね、そこに至ろうとするわけですけど、
隣在宗とか相当宗とかだと禅門道とか座禅とかをするわけですよね。
で、その形は違える。みんな悟りを開こうとしてるわけですよね。
それがですね、例えばその禅門道の場合だとですね、
そんなのどうやって答えればいいねんみたいな答えようのない質問をされまくってですね、
もうわけわからずにですね、門道で答えてるうちにですね、わけわかんなくなって、
あれ、なんだろう、なんか今まで自分が考えたことって別になんかそんなどうでもいいな、執着もとらわれてたなみたいな感覚とかになっていったら、
まあ悟れたねみたいな感じなんだと思うんですよね。
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座禅とかも一緒のような感じだと思うんですけど、まあ方法はどれでもいいと。
まあ、というかまあ人によっては違うっていう感じだと思うんですよね。
これがですね、こう誰かに何かを教えるっていうとね、ちょっとおこがましいんですけど伝えようとするときにですね、
全員に対して、はい、これが正解ですみたいな風なですね、言い方をするのとですね、
一人一人とですね、向き合って相手の出方とかを見ながらこっちの出方も変えて話すというのをですね、
違いっていうのを感じるんですよね。
でですね、まあ例えばですね、もうすごいその企画の持ち込みって受けていてですね、
まああのたくさんの人見たんですけど、一つのパターンとしてあるのがですね、
こういう人ってたまにいるなぁみたいな感覚だとどうだろう、2割ぐらいの確率でいるんですけど、
えっと、まあそのいわば企画なんでクリエイティブなことですよね。
クリエイティブなことなんですけど、そのクリエイティブの正解っていうのがですね、存在してですね、
それが自分の外にあると思っている人がいるんですよね。
なんか、えっとこれをどうすれば正解になりますか、みたいな、
言葉そのものはそうではないんですけど、そういうスタンスを持っている人っていうのが一定数いるんですよね。
でですね、これはまあ僕は学校の勉強の影響なんじゃないかなと思うわけですよね。
どんなキャラクターであれですね、どんな考えを持っていてもですね、
学校の勉強では答えは一応一つに設定されているので、それはその自分の外部にあるわけじゃないですか。
それを探って当てに行くわけですよね。
だから学校の答案をですね、物理的に盗めばですね、その正解にたどり着けたりするわけですね。
自分の外に存在するものなんですよね、正解っていうのが。
でですね、ちょっとそういう感覚でですね、クリエイティブなことをやろうとしているっていう人は一定数いるんですよね。
これはちょっとですね、僕はその感覚をまず突き崩さないといけないと思うんですよね。
でもそれをそのものを言ってもですね、しょうがないというか。
なんかですね、いや正解というのはあなたの外にあるんじゃなくて、あなたの中にあるんですよみたいなこと言ってもしょうがなくてですね。
それをどういうふうにですね、感じてもらうかということをですね、話しながら探っていくんですよね。
クリエイターの人がね、何かを作るって言ってですね、そこに価値が生まれるのだとしたら、
まあその価値って何ぞやっていう話なんですけど、
価値ってですね、めちゃくちゃもう一言で言ってしまうと違いだと思うんですよね。
ある作品が価値があるんだとしたら、それ何であるかと言ったら、周りと違うからあるんですよね。
めちゃくちゃ当たり前のことなんですけど。
でですね、じゃあクリエイターAの作る作品とクリエイターBが作る作品の何が一番違うのかと言ったらですね、
一番違うポイントはですね、作ってる人間が違うということなんですよね。
だからですね、その人と違う自分という人間っていうのですね、自分という違いですよね、
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を自覚させることっていうのが大事になるんですよね。
で、じゃあどうすればですね、自分というものが違う、人と違うものがどこが違っているのかということをですね、
自覚させられるかというと、人それぞれなわけですよね。
自信がないタイプもいればですね、理屈っぽいタイプもいてですね、
意固児になっているタイプもいたりとかしてですね、
そういう話しながらですね、ふんふんふんとか言ってですね、
言いながら一番響く言い方っていうのを考えてですね、
何かいろいろ試したり、いろいろ言ってみるわけですよね。
で、こう言って、それでハッてなる時があるんですよ。
そのハッてなるっていうのはですね、もう会いたいしてたりですね、
画面越しでもわかるんですね。
あ、今わかったの、この人みたいな感じがあってですね。
それは結構ですね、良かったと思うわけですけど。
でですね、本当にそんな話してたら、昔ですね、ちょっと関わっていたある作品がありまして、
でですね、僕がですね、ずいぶん経ってですね、その作家さんがインタビューに答えているのを見たんですよね。
ほうほうと思ってですね、読んでたらですね、
その時のですね、担当に人気を落とすつもりで描けと言われて、すごく楽しかったって言われたんですよね。
その時の担当って僕なんですよね。
で、えっってなって、俺そんなこと言ったの?めちゃくちゃ言ってんなみたいなと思ってですね。
で、自分はそんなこと言った記憶もなかったんですよね。
で、思い返すとですね、ちょっとそこの場面はですね、どうしてもこうある種の容赦なさみたいなのが必要な場面でですね、
ちょっとその読んでる人とかのことを考えると、少しこう、その人としてですね、ちょっとこう遠慮が入りそうな場面だったんですよね。
だからですね、いや違うと、ここはもう人気を落とすつもりで描かなきゃいけない場面だ、みたいなことを言ったんですよね。
じゃあですね、僕がですね、人気を落とすつもりで描けということをですね、
全ての作品、全ての人、全ての状況に対して思ってる方はもちろんそういうわけではないんですよね。
だからですね、誰かに対して言っていることそのものを取り出すとですね、意味をなさないんですよね。
じゃあそれを全部取り出してですね、見比べて並べてみるとですね、一貫性がなかったりするわけですよね。
人気取ろうぜって言ってることもあればですね、人気を取るなって言ってることもあるみたいな感じですね。
なのでですね、こう言ったけどその人に対して一番響く形で一応その場その場で言ってるわけですよね。
で、その人もわざわざインタビューで言及するぐらいですから、なんかまあ多分響いたんだと思うんですよね。
で、なんでですね、こういう感じで全員にですね、すごく一般的で抽象的なものとしてですね、これが正解だよって教科書を渡してもですね、
やっぱりそんなに響かないだろうなあと思うのはそういう点なんですよね。
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でですね、こういう一般論みたいなものをですね、結構その昔のですね、その偉い思想の人たちはですね、残してないんですよね。
例えばソクラテスとかはですね、本書いてないですしね、なんかこう、自分の言葉はもうその場のものであって、なんか本とか書くと違うものになっちゃうとか言ってですね、本書いてないんですよね。
孔子も本書いてないですね。で、ブッダもですね、本とか書いてないんですよね。
で、キリストもですね、本とか書いてないんですよね。で、全部ですね、弟子がですね、あの人すげえ人だったって言ってですね、
後でその言ってたこととかをですね、まあ書き残してたりするわけですよね。
で、それなりの理論っぽくしたりとかしてですね、なんですよね。だからファーストマンはみんなこう、愛対してものを言う人だったんですよね。
これらのね、もうこのソクラテス西洋哲学の思想でですね、孔子儒教の思想、ブッダ仏教の思想、キリストの思想みたいなですね。
もう本当にこの人間の思想をほぼほぼ作ったでしょうぐらいのレベルの人たちはですね、全員やっぱ、愛対してものを言うっていうことでしかものを言ってなかったわけですよね。
だからまあ結構ですね、これはまあ、なんていうか、かなり妥当性がある考え方じゃないかなというふうに思うわけですけど。
ちょっと10分過ぎたんですけど、僕の大好きなですね、そのブッダの方弁の話があって、その話をするとですね、
ブッダが修行中にですね、なんか女の人が赤ちゃんのミイラを抱えてですね、
来てですね、この病気治してください、この子病気なんですって来るわけですよね。目がちょっといっちゃっててですね、
なんか弟子がですね、これはちょっと大変なことで人が来ちゃったぞってなってですね、
でブッダに、この子病気なんですよ、治してあげてくださいって言って、言ってるんですよね、いわゆる狂った母親が来ちゃったと、自分の子供が死んだことがショックで。
でですね、そしたらブッダはですね、その病気ですかって言って、じゃあそこの村に行ってですね、
家族が誰も亡くなっていない家のケシの実をもらってきてくださいとか、その家族が誰も亡くなっていない家の庭に生えているケシの実をもらってきてくださいと、
それを食べさせてあげれば治りますよと、って言ったんですよね。
でその女の人がですね、やったーっつってですね、ワーって走って行ったと。
弟子、そんなこと言っていいんですか?みたいなですね、感じだったわけですけど、
でその女の人がですね、その村に行って、村々をですね、訪ねて歩くんですよ。
この子に食べさせる薬いて探してるんですけど、ケシの実、お宅の家はどなたも家族が亡くなってないですか?って言って、ケシの実あれば欲しいんですけど、みたいな感じでですね、聞いて回るんですけどですね。
全員、基金があった集落だったのかな、確かそんなんでですね、
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全ての家の家族の家でですね、誰か家族が亡くなってるんですよね、近年、亡くなっててですね。
で、自分の子供が死んで、それを受け入れられないっていうですね、女の人がそういうことを言っているっていうことをですね、
まあちょっと哀れんでるわけですよね、自分も子供亡くなったなぁ、みたいな人がですね、相対してるわけなんで、哀れんでいると。
で、すごいですね、悲しそうな顔してですね、うちは娘が亡くなったんだよね、なんでお前に、だからほか当たって、みたいな感じですね。
ずっと言われ続けると、言われ続けているうちにですね、だんだん言っていってる、お母さんというかミイラを抱えた女の人の心が変わっていくんですよね。
自分はですね、受け入れられなくてですね、受け入れられない、どっかでやっぱ死んでるとわかってるんですけど、ちょっとこう、いわば狂った行動をすることで現実を受け止めないでおこうとしてたんですけど、
みんな、その集落の人たちはですね、家族が亡くなっても受け入れて生活してるわけですよね。
でいうのをですね、いろんな家をあって、めぐってですね、その話を聞いていくうちに、だんだん目が覚めてくるんですよね。
で、私はなんて馬鹿だったんだろうと思ってですね、その村を後にしてですね、ブッダのところにまた戻ってきてですね、
本当にちょっと自分はさて現実から逃げてました、本当にすいませんでした、みたいなことをですね、ブッダに謝ったらですね、そのブッダが
そうですか、ようやく病気が治りましたねって言ったってエピソードはですね、その弟子の書き残した原稿録みたいなのにあるんですよね。
もうめちゃくちゃそんなこと言われたら惚れてまうやろと思うわけですけど、そのですね、じゃあそのブッダの言ったその消し飲みとってこいっていうことをですね、
本としてですね、文脈なしにね、ブッダの言葉にした理論であるってですね、残してもですね、まあ意味をなさないわけですよね。
それはその人に向けて言ってですね、意味があった言葉なわけですよね。
なんかですね、そういうこう、あの部分、そういう方言ですよね、仏教でいうとこの方言っていうのが、まあすごくやっぱ人とですね、あの相対するときにやっぱ大事なんだなぁと思うんですよね。
そういう意味でですね、僕はその結構、誰かの書いた理論書ってまあそれなりに僕は好きで面白いんですけど、僕誰かの原稿録っていうのは好きでですね、
誰かの発言を書き残した原稿録っていうのが好きなんですよね。
なんでですね、またそういう原稿録のですね、僕の好きな原稿録の話とかしたいなぁなんて、今思い始めたところで、本日は以上となります。
ありがとうございました。
あとですね、あのメールをですね、解説しましたんで、ご意見ご感想、質問や話のお題などありましたら、
adrian-taro.gmail.comへお便りください。よろしくお願いします。失礼します。