1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #366 ヘーゲル『精神現象学』..
2025-11-02 54:35

#366 ヘーゲル『精神現象学』その5。最終到達点「絶対知」からの景色とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、ヘーゲルの『精神現象学』における宗教の重要性が探求され、自然宗教から歴史宗教への進化が描かれます。宗教がどのように神と人間を結びつけ、神の理解が歴史的にどのように変化してきたのかについて詳しく説明されます。ヘーゲルの『精神現象学』の最終段階である「絶対知」に至るプロセスが探究され、この知によって個人と集団の関係がどのように統一されるのかが考察されます。また、神と自己の関係に焦点を当てつつ、認識における主観と客観の統一性についても議論されます。さらに、このエピソードでは、「絶対知」の概念が探求され、その最終到達点が個々の生き方や社会との関わり方にどのように影響するのかについて考察されます。自己意識と他者との関係性、そして絶対値の理解がいかに重要であるかについても語られています。ヘーゲルの『精神現象学』を通じて、絶対知に至る旅路とその理解が考察されています。

00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
宗教の原始的な形態
はい、ヘーゲル第6回ということで、精神現象学の中で、今回から宗教のところに入っていくという話でした。
はい、宗教に入って絶対知まで行くので、一応精神現象学の話は今日で終わりですね。
この話自体は。毎回振り返りから入るんですけども、そもそもというところでいくと、我々今回関東から入ってるじゃないですかと。
これはドイツ関連のシリーズみたいな感じでいいのかな、イメージ。
そうです。ドイツ関連のシリーズというと、関東の前回やって、そのあと江戸というか日本の朱子学やって、今フィギティまで来た、フィギティとかのシリーズになったと思うんですよね。
関東というものがある種類、よくも悪くも理性で何が捉えられるのかというのを限界というものを定めて、物自体というものを生み出したよねと。
そこに対してフィギティが、いやいやそんな理性が捉えられないものなんて残したらダメだよって言って、自我というところから始まって、自我がすべてを生み出していくようにやって。
シェリングが、いやいや自我っていうよりも自然の方に自我と客観、主観と客観とかを統一するような仕組みっていうのがあるから、そっちを使えばいいんだって言ってっていう話をこれまでしてきたと思うんですよね。
その中でヘーギルは、ちょっと一旦物は置いておいてとしても精神現象学でやっぱりやってきたことっていうのは、意識っていうすごく根源的なもの、感覚的意識みたいな、目の前のリンゴがあるみたいなところから出発して、
そもそもどうやって世界っていうものを正しく認識するんだみたいな、そういう挫折としてはレベルアップして、あるいはジョブチェンジしてっていうものをこれまでやってきたと思うんですよね。
前から精神っていうものをやって、ポーズ開けじゃなくて我々っていうものをやったときに、やっぱりどっちから始まってもなんかうまくいかないなというときに、自分でも我々でもない宗教というか神みたいな力っていうのがあって、
それを考察してみたらどうかっていうのがところまできたよっていうのがこれまでの話だったんですよね。
はいはい。これまでの話が全部ヘイデルが作ったものじゃなくて、常にこの世の中にあるものをヘイデルが分析した話っていう話。
そうですそうです。
だからこれから話、今回の宗教に関しても、ヘイデルがこの意識さんにこういう宗教を作らせたとか、宗教とは何か語らせたというよりは、
もう常にこの世の中にある、そういえば宗教があったじゃん、そういえばっていう。
そうそうそう。
精神からレベルが、例えば前60だったのが70になったときに見えてきた世界の話を今してますよっていう。
そうですそうです。
だからこれまでの精神までの世界には宗教とかって見えなかったなかったんだけど、レベルが上がったときに見えるようになってきたんで、それをちゃんと理解していきましょうねっていうような話なんだよね。
はいはいはいはい。
それをどういうふうに捉えていくのかっていう話なんですけれども、これもある種、宗教の原始的な形態から、より近代的な形態へみたいな、ちょっと歴史的な話をやっていくんだよね。
ここに行くと、そもそも宗教ってどう捉えてるか。
宗教って今僕らで言うと仏教とかキリスト教とか、神社は神道だけど、お寺に行って、葬儀があってとかってそれぐらいイメージになっちゃうと思うんで、
芸術と神の関わり
宗教ってどう捉えているかっていうと、すごいざっくり言うと、さっき言った通り意識とか精神とかっていうものは、この世界を正しく捉えたいですと。
その世界には自分も含まれていて、どうしても自分と世界では別れちゃうから、それをなんとかしたいって思ってるわけなんですよね。
その世界と自分がちゃんと統一されているとか、正しい姿があるっていうものが、神というものにある種表現されているんじゃないか。
そういうイメージっていうものを神が持っているんじゃないかっていうのに捉えますと。
どういうことだ。
どういうことだって言うと、これまでは自分から出発してとか、我々っていう方から出発して、世界とかの正しさを言われようとしてたじゃないですか。
世界だったり自分だったり。
そうそうそう。それを神っていうところからやってみましょうっていうふうに思うぐらいに思ってもらえれば大丈夫。
なるほど。わかりました。
じゃあどうなるかっていうと、いわゆる原始宗教、自然宗教だって言うんだけども、要は雷とか太陽とか、そういうものを我々古来神としてきたわけじゃないですか。
っていうときに、要はそこに神的なものとか、もっと言うと神聖なものを感じるわけだよね。
これが宗教の始まりですと。
なるほど。
これは自分でも世界の一部ではあるんだけど、世界そのものではない。
いうときにそれ以外の出発点を立ててるっていうのがそういうことなんだよね。
そうなったときに、要は、例えば太陽神であれ雷神とおるみたいなものだったとして、そういうふうなものを作っていくんだけれども、
結局そうなると、これ理性のときにもやったと思うんですけど、
要は、何か自分の中の正しさを世の中に投影している、要は圧倒的な力があるものは素敵だみたいな感覚があったときに、
それを実際に太陽とか雷とかに投影しているっていう意味では、
さっき言った神から出発したいって言ったんだけど、結局自分の方から出発してるじゃないですか、これって。
そういうすごいものに聖なる力を感じるって言ってるのが既に自分の感覚だったこと。
そうそうそう。つまり、神そのものから出発したいって思ってるんだけど、実はそれも簡単じゃないんだよね。
なぜなら、我々の中に太陽というものがすごいものだとか、雷というのは人知を超えたものだっていうそういう出発点があって、
そこから神らしさとか神聖さ、いわゆる通行さっていうものを付与してるから、
神から出発するように見えて、実は人間、もっと言うと意識自身から出発してるんだよね。
そうだね。
意味で、まだまだ不完全なんですと。
ああ、この自然宗教がね。
そう、自然宗教がね。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
っていうふうなところで、それも挫折するとか、神から出発できなかったみたいになってくるよね。
なるほど。歴史的に見ていくとね。
そうそうそうそう。
意味で、高橋平家からすると、それは宗教ではあるけど、まだ未完成ですとか、ある種挫折っていうものは含んでますっていう話なんだよね。
まあそうはね。前回の挫折したときに閃いた宗教観というか、形とは違うってことだもんね。
そうそうそうそう。
あくまで自分出発じゃんっていうね。
そうなんです。
で、なるんだけど、そしたらどうなるかっていうと、次はですね、要はその、いわゆる自然のものじゃなくて、なんていうのかな、
ある種人間が作ったものなんだけれども、その中に神が宿ると。
これって要はギリシア芸術みたいな感じなんだけど、要は神様の彫刻とか、あと神殿とか、音楽とかもそうなんだけど、
要はそういう芸術的な行為を通じて、神っていうものがその姿を表してくださるみたいな。
ほうほうほうほう。
っていうふうになっていくと、それを確かに作ったのは人間だけれども、そこに宿るっていうのは神の働きだから、
太陽に神を重ねるのと、人間が作った彫像に神が降りてくるっていう話って、ちょっと違うなっていうのがなんとなくわかるかな。
そうだね。ただ、それで言うと、その降りてきた神は、そもそもどういった流れでというか、神と認識しましたか?っていう問題でできそうだなって。
なるほどね。そこはやっぱり意識のほうが働いてるっていうふうに話も言えるし。
もう一個これ、実はすごい大問題があって、例えば神が降りてくるじゃん。
何でもいいよ。アマテラス、オミカミでもいいし、ライジン、トールでもいいんだけれども、降りてきたとしたときに、それっていわゆる一人の神でしかないんだよね。
へー、なるほど。一人の神っていうか、神のうち一人ってこと?
そうそう。神の一部でしかないんだよね。
あ、一部。ほうほうほう。
意識さんは、もともと世界全体を理解したいですと。自分もそう言われたね。
っていうときに、神殿とか彫像を作って、神様に降りてきてもらおうと。
それによって、神と人間を繋いで、神というものをもっと感じようとするんだけれども、
その神様っていうのは、いわゆる世界全体を象徴できてないんだよね。
うーん、そうなんだ。
やっぱり一神教的な話か多神教的な話かっていうのもあって、
その時の歴史的な流れでいくと、自然宗教から古代ギリシアの宗教にっていう流れなんだけれども、
その時って基本的には神がたくさんいて、それぞれに対して彫刻だったり音楽だったりとか、そういうものが作られていくっていうのは世界なんだよね。
っていうときに、一つ一つの音楽とか彫刻に神が宿るっていうところまでは言えるけれども、
それによって、世界全体を知るっていうことはやっぱり不利がある。
もっと言うと神の捉え方自体に、まだ物足りないものがあるんじゃないかっていうところに至っちゃうんだよね。
はいはいはい。
やっぱりヘイギルはもちろんキリスト教の中での人だから、
多神教的な宗教のあり方とか、神との関わり方だと、やっぱりそれは世界全体を理解するには至らないよねっていうふうに思ってるんですよ。
あー、オッケーオッケー。第2段階のこの話だと、そもそも一神教というのは想定してなくて、多神教を想定してるのでこういう話になってるっていう。
そうそう。そうですそうです。
オッケーオッケー。だから、そもそも一神教の像だったらみたいな話は、この段階ではそもそも想定はしてませんよっていう。
そうだね。
いわゆる挫折と経験の度的に言うと、そこまでいってないんですよと。
逆に言うとそういう挫折があるからこそ一神教でも生まれてくるんだよと。
あー、はいはい、なるほどね。
と思っていると、いろんな神じゃなくて、ただ一つの神っていうふうなものが、時代とか歴史の必然として出てくるんだよっていうふうにヘイギルは考えるんだよね。
もちろんこれは問題があるよね。世の中的にいろんな多神教の差別にね、宗教も今でもあるから、別に一神教が多神教よりも優れているとかっていうことは本来ないはずなんだけれども、
それともヘイギルの精神現象的な中でいくと、やっぱり次の段階として出てくるのが、ある種キリスト教であると。
キリスト教の意義
へー、なるほどね。
いうふうな考え方なんだよね。
なるほどなるほど。
次面白いのは、ここまでで神様っていうのは太陽とか夏の緑みたいな自然のものだし、さっきで言うと音楽とか彫刻みたいな、それもものだったじゃないですか。
じゃなくて、次の段階に行くと今度は経時宗教っていうふうになってきて、要は神は言葉であるみたいな世界になっていくんだよね。
へー。
キリスト教ってもちろんね、十字架的なモチーフとかさ、また当然絵画とかでも、イエスキリストはどうだとかさ、そういうのは描かれるんだけれども、
でもいわゆる神が神の姿を表すっていうことは、おそらく基本ないはずなんだよね。
どっちかっていうと、聖書の中の言葉こそが神であるとか、もっと言うと教会が伝える姿こそが神であるっていう感じで、神そのものじゃなくて神の言葉が現れてくるんだよね。
あー、なるほど。はいはいはい。
そうなると言葉っていうのは要は神と人間をつなぐっていうふうな媒介にもなってきて、
逆に言うと、言葉を理解できるから、その言葉を通して人間の中に神が現れてくるっていうふうな、
さっきまで彫刻とか、それを持たせるものあったじゃん。
じゃなくて、今度は言葉を通じて神が我々人間の中に姿を表すっていうふうな、
そういうふうな話がこのキリスト教的な宗教だっていうふうにペイギルは考えるんですよね。
おー、なるほど。あ、だから啓示。
そう、啓示神が姿を表す、開くっていう感じだね。
そうなるとどうなるかっていうと、少なくとも神の言葉というか、
ラテン語なのか偽証なのかあると思うんだけども、そういうものを理解できる人の中には共通の神っていうのが現れてくるじゃないですか。
そうね。
つまり、さっきまで言ってた彫刻とか音楽とかよりも、より広いというか何だろうな、
より適切にその一つである神、普遍的な神っていうものが我々個人っていうものの中に姿を表してくるっていう、
そういう段階に発展してきますねっていうふうに言うんだよね。
そうね。
そうなると、その同じ言葉、もっと言うと聖書の言葉を使って、
例えば人間同士で会話をすると、同じ神っていうものは基本的には認識できるはず。
そうなるとつまり、さっき言ってた前回聖詩のときに、我々と個人の正しさっていうものは定義するって言ったじゃないですか。
どっちから始めてもうまくいかないんだけれども、
今この宗教にきて、神の言葉っていうものを始まりにして、
我々と個人っていうものが語り合うと、そこに共通の禅が生まれてくるんですよ。
なるほど。確かに。
キリスト的な禅がね。
そうだね。神が出るね、確かに。
っていう風にして、ここにきて初めて神っていうものから始まって、
宗教と哲学の関係
我々と私っていうものが繋がるっていう、
そういう世界観がやっとできたわねっていう風に捉えられるんだよね。
確かに安心だね。繋がったね。
前回の最後で山にこもってだいぶきつかったと思うんだけど、
そのお兄さんもどうなりました、今。
いや、だいぶ解決するよね。これで個人と我々の争いっていうか、
衝突みたいなものはなくなるよね。
それに従えばいいっていうものがあるじゃんっていう。
ね。そうそうそう。見出たし見出たしなんですよ。
良かったねなんだけれども。間違いなんだけど。
宗教的にはやっぱりキリスト教がある種、やっぱり一番優れたものなんだよね。
ヘイゲル的に言うと。
なんだけどっていう話で、
これって実はまだ、なんていうのかな。
キリスト教は今世の中、今とかヘイゲルの時代にもあるわけじゃないですか。
なので、キリスト教があるよねって言えるんだけれども、
これも結局はまだ、今ある現象を説明しているだけで、
いわゆる物語なんだよね、その伝わり方として。
要は、まず神、キリストがあって、
それが言葉を通じて我々の中に現れてくださったと。
それによって、我々っていうものは、個人と我々っていうものを超えた繋がりが生まれてるんですっていうのは、
確かに真実かもしれないけれども、
それってただ現象を説明しているだけで、
要は理論になってないですよねと。
つまり、宗教の言葉で言うとそれでゴールなんだけど、
ヘイゲルは宗教じゃなくて哲学をしたいわけなんですよ。
なのでその哲学的に、
じゃあこの神と我々と人っていう関係ってなんだっけっていうことを語り直す必要がある。
もっと言うと、それを語る時点まで進まねばならぬっていう風に、
この宗教としての意識さんっていうのは考えるんだよね。
わー、なるほどね。
すごくいい答え見つかったけれども、まだ完全じゃないよねっていう。
その答えはいったん答えなんだけれども、
それってのはあくまでもイメージであって、
やっぱりある種、信用もって言葉にできないとか、
もっと具体的に言うと、
じゃあキリスト教徒以外にどう説明しますかみたいな話が、
ヘイゲルはそう言ってないけれども、
現実問題としてはそういう問題にぶつかるわけだよね。
まあそうだし、特にヘイゲルはイスラム教とか、他の宗教には触れてないのかな。
そうだね、精神現象科の中では触れてないとは思うな。
あくまでも別に他の宗教に対してどうにかしたいっていうのは、
わかりやすくするための問題で、
あくまでもヘイゲルの問題意識は、
より哲学的な言葉で、やっぱりより理性、
これまで純粋、科学的意識から始まって、
やってきた旅が、やっぱりここではまだ終われません。
だから別にキリスト教以外のものを例えとして、
出す必要はないってことはね。
そうそうそうそう。
絶対知への道
次に向かうにあたってね。
そうですそうです。
あくまでも意識の挫折として、宗教的な観点では一応ゴールにたどり着いたんだけど、
さらにその先の世界があるよねっていう風に突き破っていくっていうのはそんなイメージだったよね。
はいはいはいはい。
それが最終地点である絶対値ですと。
おー次もう絶対値なんだ。
はい。次が最後です。
前回言った精神ってあったじゃないですか。
精神、要は自分と我々っていうその両方を持ったものにおいて、
自分自身を知る精神なんだと。
どういうことかっていうと、
前回我々と自分っていう、どっちから出発してもダメだって話をしたじゃないですか。
で、宗教に行って神っていうところから出発しようっていう風にして、
今その問題を解いたんだけど、
やっぱその神っていうものに行ったとしても、
結局さっきまで言った物語だからダメだよねって言って、
次のシリーズもまた進むって話をしましたよね。
物語がダメっていうよりは不完全だよねぐらいの感覚でいいのかな。
そうそうそう説明しきれなかったよねっていう感じかな。
っていう時に何が間違っていたのかっていうと、
要は我々か自分かっていうどっちから出発しますかっていう、
ここを分けてたのがそもそも間違いだよねっていう風にこの絶対値は気付くんですよ。
つまりこれは非常に難しいというか、
言ってしまえばなんでって感じなんだけど、
カントから始まって、これまで同一関連の何をしてきたかっていうと、
要は主観と客観が分かれていると。
カントは理性でどこまで理解できるかっていう話をやった結果、
物自体みたいなどうしても理解できない客観とか、
自分の外部っていうのを作っちゃったっていう、これが大問題だったわけですよね。
これにフィクションもシェリングも挑んでいて、
兵器やっぱその課題っていうのは一緒に持ってるんですよ。
ここに行って宗教っていうところで神っていうものを使うことで、
我々と自分っていうものがある種統合できましたねと。
ここまで来たんだけれども、
そうなるとまだ神と自分みたいなものがちょっと分かれてるわけなんだよね。
そうね。
これを乗り越えようとするとどうなるかっていうと、
宗教の言葉で言うと、神こそが自分であり、自分こそが神であるなんだよね。
はいはいはいはい。
それはそれですごい問題があるわけですよ。
神と自分って本当にイコールなのかっていうね。
まあまあまあ、そうね。
でも一旦それを乗り越えて、より抽象的なところに行くと、
意識ってさ、要は世界を知ろうとする意識じゃないですか。
でもその世界を知ろうとする意識そのものが、要は自分であり、
知られようとする世界がそのまま自分であるっていうふうな、
そういうところに至るんじゃないかっていうふうに、
この絶対値っていうところまでは考えてるんですよね。
それは世界と自分を分けちゃうと、なんでってなっちゃうんだけど、
そもそもここまで挫折をしたとにかく何か知ろうと思って頑張って、
この旅を続けてきたわけじゃないですか。
この旅自体が事故であり世界であり、
その旅の中でそういった事故と世界というものが生まれていく。
つまり、RPGの例で言うと、旅を続ければ続けるほど、
どこかで新しい世界が見えてくるんだけど、
新しい世界が見えたことでさらに自分も、
より新しい旅ができるようになって、
どんどん新しい世界にたどり着くようになっていく。
この挫折と気づきとか学びの運動自体が、
要は事故と世界というものが一致した場面なんだよ、みたいな。
そういうふうなことをこの絶対値というふうな領域で考えようとするんだよね。
なんでちょっとごめんね、今話しながらうまく伝わってないだろうなと思ってはいるんだけど。
そうだね、イメージがちょっとしづらいというか。
つまり、絶対値ってここで言っているのは、
何かその絶対的な知識があるとか、
ここにたどり着けば完璧だっていうことではなくて、
その知ろうとする運動とか挫折とか、
主観と客観の統一
そういった行為自体が、
自体に主観と客観というものは両方混ぜ込まれている。
うん。
そこでこの運動の中に主観と客観が一致するんだっていうふうな、
そういうふうな話ではあるんだけれども、
なんか今の話って兄貴はどんなふうに聞こえるかしら。
なんか青い、幸せの青い鳥みたいな感じ。
どういうこと?
行けども行けども本当は見つからなくて、
でも最終的には近くにいるんだよね、幸せの青い鳥は。
そうそう。東大元暮らし的な話で。
だから石木さんがいろいろ旅をしてたけれども、
結局一周回ってスタートして戻ってきたなっていう。
でまた、ただ今の説明だと戻ってきたけど、
で、みたいな感じになっちゃう感じかな。
そうだよね。
ちょっと煙に巻かれてる感じ。
はいはいはい。
それがちょっと前回も言った、
多分分かりきれないと思うっていう話なんだけれども、
そのスタート地点は、
世界をどうすれば正しく認識できますか、どうしたと。
そこに自己意識っていう自己っていうのが生まれて、
その世界の中に自分も含まれていたじゃないかと。
その事故と世界、思ってると主観と客観だよね。
これってどうやったら正しく認識できるんだろうっていうところがずっと続いていて、
そこに神っていうものが現れていって、神が統合してくれたんだけど、
でもそれだとやっぱり説明しかいないって言って、
絶対値まで突き進みますっていう話がこれまであったんですよね。
実は絶対値ってこれ何っていうと、
結局何かにたどり着きましたではなく、
アニケーって書いてある通り、たどり着こうとするその運動とか旅自体が、
実はもう主観と客観っていうものを、
その中に包んでるんですよっていう、
そういうふうなことなんだよね。
だから旅を続ける限りは、主観と客観っていうものが一致し続けるんです。
そうだ、一致し続けるんだ。生まれちゃうとかじゃなくて。
生まれちゃうじゃなくて。
旅をやめて、どっちが主観でどっちが自己愛とかってなった瞬間にそれは分かれちゃうから、
常に主観と客観っていうものを維持し続けるというか、
まさに自分は世界をどういうふうに捉えようとしていて、
世界がどう現れているのか自分にとってっていう、
この往復運動こそに主観と客観のエッチがあるよねっていうふうな、
そういうふうな話なんだよね。
わー、難しいね。
そうなんだ。
動いてる限りは一致してるんだ。
そう。
でも、これどうなんだろうね。物理とか宇宙とかやってる人だとイメージ湧いたりするのかな。
あー、なるほどね。
なんとか言わんと、そういうことはわかった気がする。
それからあれだよね。
なんだっけ、素粒子だっけ?
素粒子であってると思うよ。
でも、それそのものをさ、認識とかさ、
あれか、だからシュレディンガーの猫か。
それそのものをさ、認識とか捉えることって実はできなくて、
常に動いてる、運動していて、
聞いとったとしても一瞬のところでしかなかったりとか、確率的にしか存在しないとか、
そういう感覚に近いのかなと思った。
そうね。
さあ、難しいのはやっぱりそこまでは実はヘーギルが言い切れてないというか、
今は僕は運動し続けるって話をしたんだけれども、
でもやっぱりそれ自体はもう確定したものというか、なんていうのかな、
いわゆるヘーギルの中でもこの絶対値って終局地点だみたいな感覚にはなってるんだよね。
その感覚の話だよね。
意識さんの旅が始まって、
宗教だよね、宗教っていう概念まで来て、
そこまでレベルアップしてこの世界が見えましたよって話だよね。
そう、まだ来ましたよと。
さらにそこからレベルアップしてレベル100に行くと、
この絶対値っていう世界観でその世の中が捉えられるようになりましたよっていう話をしてくれてるんだもんね。
もっとレベルMAXみたいな感じだからこれ以上はないんだよね。
はいはいはい。
それはすごく難しいというか、なかなかやっぱり想像ができなくて、
さっき言った通り主観と客観っていうものは、
意識、理解しようとすると途端に離れてしまうじゃないですか。
そういうことだよね。
さっきのシュレヒンガオネコ的な感じで理解はできる、イメージはできるかなみたいな。
そうじゃなくて、やっぱり自分が世界に派手にかけているし、世界も自分に派手にかけているっていう、
やっぱりその運動、相互作用はどうしてもある。
で、あるんだけれども、それが永遠に続いて発展し続けるかっていうとそんなことはなくって、
むしろその主観と客観っていうものはそういう意味において一つであるっていうこと自体は、
確立な地というか、確立な点としてやっぱり残る。
っていうふうにヘーゲルは考えるんだよね。
つまりその運動をし続けるっていう話と、でもそこに真理があるっていう、
この両方がこの絶対値っていう中には含まれてるんですよ。
真理があるか。はいはいはい。
要はミシキさんの立場からすると、世界を正しく認識したいって言ったじゃないですか。
それは認識しようとある種あり続ける、世界と理工学があり続けるってその瞬間にこそ、
主観と客観の統一がある、正しく認識できる点があるっていうふうに捉えると、
この正しさ自体は明確な知識というか、確信なんだよね。
だからここがすごく難しくって、運動をし続けるっていうふうなあり方と、
絶対知の探求
それこそがでも正しい、唯一絶対のレベルマックスであるっていう点の両方がここに含まれるんですよね。
だから難しいというか、要は固定的にここにさえ神がいますとか、
結論こうですってできればわかりやすいんだけど、そうとも言えないし。
そうだね。面白いね。だから絶対値はこれですっていう感覚を、
運動として捉えられる、運動じゃないよな。
運動の根源みたいな、僕のことを指してるんですみたいな。
そこをイメージ持てるかどうかみたいな感じがする。
これはすごく難しいイメージがしにくい部分だろうなと思う。
でもそれを絶対に表現することで、本当の第ゼロ地点というかさ、
この世界を説明する本当の核みたいな、根源みたいな感覚っていうのはわかる気もした。
例えば、今回イシキさんの旅をね。
っていうのを結局こうやって旅をしすぎてる以上、絶対値的な主観客観が統合された、
世の中そのものであるみたいな表現をするとすると、
同様に例えばハヤトが生きている、この世の中で生きているとか、
あと自分が生きているみたいなところも、
このイシキさんの旅と同じような話になるよね。
主観客観みたいなものを持ちながら、
その存在し続けていることっていうのを、
ヘイゲル的に存在すると、それも絶対値的なあり方なんです。
形で表現されるとすると、
全部、ハヤトの営み、自分の営み、イシキさんの営み、あと自然の営み、
全てそこに集約できるような感覚はあるかな、確かに。
なるほどね。
どうなんだろう、いわゆる個人の生き方もそこに集約していいのかっていうのは、
ちょっと僕は分からなくて、今。
えー、そうなんだ。
言うとおり、イシキさんは別に人間のものではないから、
そこと自分というのをどこまで結びつけるんだろうっていうのはあるんだけれども、
そのとおり、兄貴は今感じてくれている、なんていうのかな、
固定的な場所?要はもう今この場にしかいなくて、
他の場所に行けないみたいな身動きの取れなさというか、
スタンスが固まってると言えば言い方はいいんだけれども、
逆に言うとそれって他のスタンスを排除していることになっちゃうから。
どういうことだ?何の話だ?
ごめん。
生き方みたいな話を言ったときにさ、
もうちょっと僕らの観点で言うと、
例えばこういう生き方っていいよねとか、
自分のスタンス、一貫性が乗っていいよねとかって話があったりするわけだよね。
はいはいはい、まあね。
そうそう。
でも当然、自分が取ったスタンスの外にはそうじゃないスタンスの人がいるわけじゃん。
あるね。
そういうときに、それでも自分のスタンスであるし、
取り憑かれて、俺はこの生き方だみたいになっちゃうと、
やっぱりどこかで挫折したりとか、挫折しないまま死んでいく。
そうだね。全然あると思うよ。
そうそうそう。
だからそれに対して、
石木さんの度で言うと、ちゃんと挫折をして、
ちゃんと別のスタンスを身につけていくって意味だから、
そういうふうに考えれば確かに、人間の一人一人の生き方と、
この石木の度っていうところはリンクするかもなと思って。
そうだよね。だからそれが全うできないというか、
その動いてること自体が絶対値だと言えるなら、
その度の途中で、その人の一生が終わってしまおうがどうしようが、
ちゃんと絶対値っていう説明には修練させられることができるから、
ちゃんと説明はできるなっていう意味で、
今回の話を一応理解はしたけど、
自己意識と他者
その絶対値が何かってことに関すると、もやもやは残るよね。
ちょっと煙まかえた感じはするかなっていう、面白さはあるね。
ね。
それが結構、あらためて今回僕は初めてちゃんと、
SDK社区に入って、本文を読みながらやってたんだけども、
やっぱりこれがヘーゲルの主張ではあるけど、
やっぱりベスト本ではない?
その辺りにもいろんな本を出して、
ちゃんとヘーゲル体系って続いていくから、
別にこれがヘーゲルの終着点でしょってわけではないんだけれども、
ただ彼が意識っていうものの旅を考えたときに、
精神っていうものは宗教になって、
でも宗教に留まらずにさらに哲学的に進んでいく。
そこまでこの絶対値っていうものに一定レベルマックスをつけましたみたいな。
ところが、何だろうな。
彼がその後に期待でかかったことに至る、
やっぱり一個の交雑線だなっていうふうには思うんだよね。
で、実際に運動とかどういうふうに言ってるかっていうのも、
もう一個ご紹介したいんですけど、
ヘーゲル自身がね。
これは絶対値に対して、
意識の対象、つまり世界だよね。
それを自己意識の対象、
だからその自己っていうものを含む意識の対象にしていくんだけど、
自己意識のときに他を否定して事故にするって話をしたじゃない。
それをここでは廃棄って言ってるんだけども、
その廃棄された対象、
つまりその世界で否定されたものに、
それを概念に変える。
要は、その否定されたものを含めて世界であるっていうことをちゃんと認識しようと。
この運動っていうのは、始まりっていうものはあるんだけど、
終わりに至って初めてたっすら得る。
終わったときに初めてわかるような、
そういう自己に変える延間であるっていうふうに言ってるんだよね。
つまり、これまでは自己意識とかだと廃棄して、否定して終わり。
で、自己が増えされましたんだけど、
否定することによってちゃんと自己が生まれているっていう、
そういうところまで理解した上で、
世界と関わりましょうっていうふうな、
かなりメタ的な目線を含んだ意識なんだよね。
はいはい、この絶対値の段階がね。
うん、そうそうそう。
やっぱり自分は自分だけで成立してるわけでもないし、
当然他者も通じるんだけど、
他者と関わる中で自分も生み出されていくんだっていう、
どっちが出発点って言えないよねっていうこの感覚自体は、
やっぱり結構正しいというか大事なところかなと思う。
そうだね、だいぶ。
前回は宗教から、それをもうちょっとちゃんと説明してくれるのかなって勝手に期待してたんだけど、
だいぶ飛んでるよね、この絶対値。
まあね、そうね。
飛んでるって言うとはおかしいか。
いわゆるロジック化して、
じゃあなぜそれが宗教っていうところの挫折から出てくるのかっていうところは、
ちょっとやっぱりわかんない。
あるいは僕が捉えられてないのかなっていうふうには思う。
ここもちょっとヘイゲル詳しく、ちゃんとヘイゲルに説明してほしいね。
本人が書いてるのかもしれないけれども。
確かにこの絶対値みたいな運動みたいな、そこまで抽象化されちゃうと、
確かに宗教みたいな、さっきの刑事宗教、言葉だよね。物語みたいなものの不完全さ?
みたいなものが確かに出てくるかもしれないよね。
まだそこには解釈の余地だったりとか、いろいろまだ揺らりみたいなものがあるから、
もっと抽象化しないと世界が一つにならない?みたいな。
僕は確かにわかるかもみたいなね。
かもみたいなね。
こういうふうに提示してもらってね。
当然、現実世界を見れば宗教も混乱していた当時はいただろうし、今もやっぱりしている。
言葉っていうのはいろんな解釈もあるし、いろんな話もあるし。
やっぱり宗教を超えて絶対値っていう、自分が世界を生み出して、世界が自分に跳ね上げてそれを理解するっていう、
この往復運動とはめちゃめちゃ大事なんだけど。
やっぱりそれ自体が絶対値であってレベルマックスであるっていうふうに言ったことの限界というか。
じゃあ結局それってなんやねんってところになかなか結びつかない?
ヘーゲルの哲学の重要性
そうだね。
そうなんだよね。ヘイゲルがどう考えてたかわかんないけれども、
割と今のうちらみたいなのがこれを見るとさ、
意識の旅でレベルが上がれば上がるほど良さそうじゃん。
そうだね、感想としては。
もしかするとヘイゲルも、この人はこの段階だなとか、自己意識レベルだなとか、偽レベルだなみたいなのがあったかもしれないけれども、
なんだろうね。やっぱそのカントの話だよね。あれは精神化の途中であったけれども、確率とか低減名法、あのあたりが多分現代術の限界な気がして。
その先に普通の人がみんな行った世界があったとすると、それはそれでディストピアな感じもするしね。
そうなんだよね。
だからやっぱりそこの、我々のやっぱり今の精神とか意識の段階がどのレベルかっていう話もあるし、
もっと言うと、さっき終わりに至って初めてわかるみたいな話をしたじゃないですか、絶対値の説明としてね。
これは実は精神原子力っていう話もそういう風な構造で、要は最初から読んだから意識ってレベルアップをして絶対値に至りますって話をしたじゃない。
本当に発展してるっていう風に言ったんだけど、実は平気に言わせると世界は絶対値でしかないんだよね。
つまり絶対値しかないんだけど、認識力が低いから僕らは意識っていうところから始めざるを得ませんでしたっていうわけであって。
だから別にヘーゲルは何か意識さんっていうものがまさにレベルアップしていくってあくまでも登ったときの例えであって。
ある種、ウィトゲン社員的に言うともう登った後には捨てるべきはしごなんだよね。
なるほど。
本来絶対値しかないけど、みんな分かんないから意識っていうところから始めるよっていう風に言ってるだけであって。
ヘーゲルはもう絶対値ですと。レベルマックスの世界を見えてるからね、ヘーゲルは。
はしごを外した後で言うと、例えば1個前の宗教も絶対値だし、精神も絶対値だし、犠牲も絶対値だしみたいなさ、それでしかないみたいなね。
現れる方が違うだけで、見えるレベルが違うだけで、全部絶対値なんですと。
なるほど、そうすると確かにその遠間構造的な、一周回ってわかるというか。
うんうんうんうん。
っていう話でいいんだよね、その遠間の。
そうですそうです。
感覚ってそのまさにはしご、一回話したからはしご外すね、みたいな話に近いっていう概念だよね。
そうです、はしごはもう捨てたってよくて、だから本当は全部絶対値なんだけど、今の歴史的な認識レベルでは、
例えば精神としてしか認識できませんでしたよね、とか、自己意識としてしか認識できませんでしたよね、とか。
そういうふうな話が本来なんだよね。
やば、ヘーゲル神かもね。
あれ?ヘーゲルこそ神だった?
いや、面白いね。例えばほら、なんでもいいけどさ、水族館でもいいけど、大きい水槽があった時にさ、どうやっぱり捉えるかっていう話で。
うんうんうんうん。
これ面白いのが、何も知らない、生まれたとの意識さんから見ても、このヘーゲルの絶対値から見ても、
その2人がさ、一緒に水槽を眺めてた時に、たぶん同じ感想を持つ可能性があるよね。
これは全部生き物だ、もしくは魚だ、でもなんでもいいんだけど、魚でしょうか、水族館だから。
これは全部魚だね、2人が言ったとして、見えてる世界全然違うんだろうなっていう。
そういう意味での一周した感ってない?
それはね、あるかもしれない。
意識さん側だよ。何も知らない側からすると、よし、じゃあこの水槽を見ながら、あ、これはイワシか、こっちはサバか、こっちは熱帯魚の何か、みたいなさ。
うん。
ってことはやっぱどんどん知りたいわけじゃん。
そうだねそうだね。
でも隣に絶対値はそれをめちゃくちゃ温かい目で見ながら、そうだねっていう。
はいはいはい。
だから例えばイワシを見ながら、確かにあれは自己意識か、みたいなさ。
サバを見ながら、うん、犠牲ね、みたいな話をしながら、すごい温かい目で、でもまあ全部絶対値なんだけどね、みたいな。
その感じがした、なんか。
はいはいはい。面白いと思う。
面白いと思う。今の例えでやっぱすごい大事なのは、実は水槽も絶対値の一部であり、隣にいる意識も絶対値の一部である、要は自己であるっていう。
そうそうそうそう。
だから今ね客観側の話しかしなかったけど、主観ではね。
そうそうそうそう。
本当はそこも含めてっていう。
それがすごくイメージしにくいけど、兄貴はそこまでイメージをして語ってくれたなったら、今の話はすごくその通りだなと思う。
ああ本当?うんうんうん。
だから神ね、ヘイデルは。
そう、確かにね。
全部見えてるからね。全部見えてて全部語ってるからね。
そうそうそう。だからあえて神様視点で、もう一回だよね。もう一周するとか、もう一回次の回でやってくれるっていう話だったけれども、
絶対知への旅
これやっぱ2周目だよね。このRPG2周目やることで、やっぱ全部見えてるよねっていう。
だから一緒なんだけれども、確かにこの状態、確かにレベル10でおじさんの話聞いた、ノックついてた時は確かにまだ自己意識だったよねみたいな。
そうそうそうそう。
そういうラベリングをしてもいいんだけれども、実はそのラベリング自体には意味がないってこともわかってないといけないっていう神様視点の面白さ。
ああそうね。
確かに。いやでもそれはだから、これもRPGなじみない方だと言われたんですけれども、
それに借りに乗せようとすると、やっぱり一周目魔王を倒して初めて魔王の意図がわかって、その意図を知ったままもう一回やった時に果たしてどう見えるかとかみたいなね。
深いゲームだな、それは。
たぶんそんな感じなんだよね。だから今絶対位置まで一旦行き着きましたと。絶対位置っていう、また言うかわかんないけど、事故と世界というもので運動をし続けている中でそこで一致し続けるっていうか、一致した点っていうのがあるらしいと。
いうところからもう一回振り返すときに、あれじゃあ我々が辿ってきた旅ってなんだったんだっけとか、結局その地点から見たときに、結局世の中ってどう捉えることができるんだっけみたいな。
うん。そこがわかると、なんとなくヘイゲルが言わんとしたこととか、フィフテとかシェリングとかカントとかっていうところの繋がりも見えてくるんじゃないかなと思うので、ちょっと次回ね、それはまあ一回で収まるか、ちょっともしかしたらヘイゲル二回分、まあでももういいかな、一回で。
できればね、頑張って。
そうですね、ちょっとお腹いっぱいだと思うので。
というところをやって、今回のヘイゲル回最後にしたいかなとは思ってます。今回のっていったのは、あくまでも精神現象学って一個の話しかないから、これはヘイゲルの実学全体ですとも到底言えないわけなんだよね。
そういう意味でやっぱすごい人だなって思うんだけど。
だって今回もこのポッドキャストのタイトルどうしようかなって思ったんだけど、結局精神現象学第一回、第二回みたいなさ、そうなるもんね、今回は。
あくまでもそうなので、もしかしたらまたね、1年後とか2年後にしゅれっと、やっぱりまたヘイゲルだって思ってきてる可能性は全然ある。
っていうぐらい、やっぱりいろんなところに結びついてる人なんだっていうのもちょっと分かった。僕自身も改めて感謝かなと思うので。
今回は同一観念論の中でのヘイゲル、特に精神現象学っていうものを導きに添えてみたいな、フランス料理っぽくなるんだけど、そういう感じまでお届けをした次回最終回をお届けしたいと思ってますって感じですね。
はいはい、わかりました。ちょっとね、今回すごい抽象的な世界まで連れてこられたから、本当にこの要因というかね、またこう繰り返し聞きながらちょっと考えてみたいな回だったかな。
次回の展望
そうですね。
わかりました。次回ですね、ヘイゲルの精神現象学を振り返っていくというところで楽しんでいきたいと思います。では、木津由紀よろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
54:35

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