1. テツセカ ~哲学の世界を知りたい!~
  2. #23 大論駁時代③ 理に適った..
2023-07-15 40:38

#23 大論駁時代③ 理に適ったもの

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大論駁時代の行きつく先は…?

サマリー

哲学を知りたい3人が、理に適ったものというものを知ろうとあがく番組です。ストア派とアカデメイヤ派による論争について具体的な中身を紹介し、ソクラテスの後継者の真の姿や現実世界の説明について考察しています。アカデミーハッサンとストア派の議論が続いており、理にかなったものを選択することや説得的表象についても考察されています。ストア派とアカデメイヤ派の論争から倫理学の重要性が浮かび上がる一方、エピクロス派は倫理学の分野で善と良き生き方についての争いを展開し、ストア派の主張に反対する人々も現れています。テツセカのエンディングでツッコんでいただけるように、あえてネタを言わない2人の面白さや、スポーティファイブのアレについての話題も織り交ぜられています。

ストア派とアカデメイヤ派の論争
理に適ったもの、テツセカ。
理に適ったものって、何なのか。
キーワードですね。
キーワードですか。
この番組は、哲学を知りたい3人が、理に適ったものというものを知ろうとあがく番組です。
はい、みそです。
ももです。
ともきです。
僕、合理主義者だと自分でめちゃくちゃ思ってる人間なんで、
そういう話大好き。
はいはいはい。
これが後々キーワードとして出てくるんですけど、
今回はストア派とアカデメイヤ派がどんな論争をしていくのかっていう具体的な中身をやっていきたいんですけど、
それこそね、本の中にも書いてあったんですけど、
これどちらがソクラテスの真の後継者であるのかというところを争ってるような側面もあるみたいなことも書いてあって、
まあ確かになみたいな。
お互いソクラテスの影響を受けつつ、判断・保留の方がエポケの方がソクラテスなのか、
神前美、そういうのに近づいていくみたいなところがソクラテスなのか、
魂に配慮せよっていったところに注目していくのか、みたいな側面があったりして、
一人で興奮してたんですけど。
ストア派的にはね、前回も若干やったんですけど、
アカデミア派の判断・保留っていうのは、
アカデミア派判断・保留、エポケばっかりに注目するけど、
ソクラテスはね、魂への配慮っていうのを明確に訴えていたじゃないかと。
判断・保留していて、あのような態度にはならないだろうと。
神前美をちゃんと判断して見極めろと言ってるんだよと、
いうふうにストア派としては言ってくる。
めっちゃおっしゃる通りやと思う。
判断・保留で終わるな的なことを多分ソクラテス言ってるよね。
現実世界の説明とトレンド
で、それにストア派はこの現実世界を、
前回ストア派の説明で若干触れたとおり、
パルメニデス的なあるがあるの世界とか、
プラトンのイデア論みたいな、
そういう抽象的なものからある意味救い出したくて、
ちゃんと把握可能な、現実的に生きていける世界にしたい、
みたいな気概もあったんじゃないかな、みたいなところもあって、
パルメニデスみたいに現実世界は思惑に過ぎないとかでもなく、
プラトンみたいにそのイデアの陰に過ぎないんだよこの世界は、
みたいなことでもなく、ちゃんと現実世界を説明したいという、
非常にモチベーションが多分あった。
これはもちろんアリステレスだって、ちゃんと説明しようとしてたとは思うんですけど、
だからそれがある意味トレンドみたいな部分もあったんだと思うんですよね。
プラトンがすごい世界観をある意味出してきて、
それに対していや、そうじゃないみたいなことを言いたいみたいなね、
ところはきっとあったのかなと思いつつ。
それにこのヘレニズム期っていうのはね、
それこそアレクサンドリアとかね、エジプトのアレクサンドリアとかでは、
いろんな諸科学、科学の研究とかも行われていた時期なんで、
だから現実世界をちゃんと説明していこうみたいなのは、
ある意味トレンドみたいな部分はあったんじゃないかなというところですね。
それに負けじと、俺たちストア派もちゃんと説明したいなというモチベーションがあった。
それが前回言ってたロゴスと質量っていう関係だっていうのは前回言ったんですけど、
それに対してアカデミア派は、
そうは言ってもさ、分からないものは分からないし、
その分からないままに判断・保留・エポケイして生きていった方が、
分からないことを頑張って分かろうとするのも大事かもしれないけど、
それって本当に幸せに繋がりますか?みたいなことを言ってくるわけですよ。
判断・保留・エポケイして生きていこうぜみたいなことを言ってくると。
だってどんなに確からしいことだというふうに自分自身で思ったところで、
それは自分の目が悪いだけとか、耳が悪かったりとか、
幻聴が聞こえているだけかもしれないっていうこともあるよねって言ってくるわけです。
まあそりゃそうだよねって感じなんですけど。
これに対して今度ストア派は、確かにそこは認めると。
だいぶ遠くに建物みたいなものがあるなってぼんやり見えてるときは、
自分の視力次第かもしれないし、
この時点では何の建物かも分からないし、
もしかしたらでかい岩なのかもしれないし、もうちょい近づかないと分からない。
そこは確かにまだ判断保留してていいよというふうに思うけど、
でもそこで判断できないなら近づけようと。
目が悪いなら近づいてもうちょい近くで見たら分かるんだろうと。
もうちょい近づいていったら、
すごい建物、ビルっぽいみたいなのがだんだん分かってきて、
ホテルっぽいなみたいな。
さらに近づいていったらラグホかみたいなね。
そこで分かるみたいな感じで、
少しずつ承認を与えていって、
把握することは可能でしょうよみたいなアプローチを取るわけですね。
ちょっと待って、その承認を与えていってっていうのはどういう意味?
これね、手のひらに例えていって、
目の前に一見何かしらあるように見えるっていうか、
遠くに見える建物みたいな状態で表彰みたいなね。
目の前に何か現れているものっていうのを表彰みたいな言い方するんですけど、
段階的にこの表彰の確からしさみたいなのを手のひらに例えて表現するんですけど、
パーの状態っていうのはだいぶ不確かな表彰だと。
これを段階的に指を曲げていって、
少しずつそれこそ近づいていくみたいな感覚で、
承認を与えていく。
これ岩ではなく建物だなみたいなのをちょっと指を曲げる。
これ建物の中でもホテルだなみたいな。
だいぶ曲がってきたでしょ。
それでこれ絶対ラブホみたいなところに行ったのはもうグーの状態っていう。
これを表彰の承認をしていって、
実際にこれ把握的表彰っていう風に、
ストア派の用語で把握っていう言い方をしてるんです。
まさに手を握るみたいな。
表彰の把握じゃなくて、あくまでも把握的表彰って言ったところが面白いなと思ったんですけど。
一応表彰なんだけど、
あるはあるの。あるとはイデアとかエイドスとかケイソーとは違うんだけど、
これは手に握ってる何かっていう風に我々がものとして覚えるものだよねみたいな。
そういう表彰としての目の前にあるもの。
把握的表彰という風に読むんですね。
承認するがこの曲げたこのとか言っています。
私たちズームだから見えるからいいんだけど、みんな聞いてる人分かんないけど。
関節を少しずつ曲げていくね。
指を少し曲げる。
だから動きが1回が1行の承認だっていう言葉を使ってるってこと?
そうそう。だから段階的にやっぱりね。
指を曲げていくっていうのが承認っていう言い方をしてますね。
承認していったから。
承認の段階ではまだ確かなこととは言えないし、把握とは言い切れないんだけど、
その時点では確かに判断保留しててもいいのかもしれないけど、
でもさ、分かる部分も。
把握に至ることだって人間はできるよねっていうことを言ってるんですよね。
判断保留して諦めてんじゃねえよみたいな。
いるよね、そういう人。
ごめんごめんちょっと待って。
そう、分かりにいかない人ってことだよね。
いるいるいる。
それもちょっとイライラするから、じゃあもうアカデミア派はダメだな。
いやいや早いんだよ。
そっかそっかごめんごめん。
そこは判断保留して。
そこは判断保留してほしい。
そっかそっか保留する。
まあその把握的表彰、偶の状態までくれば、
もうだいぶ確かなし、
まあまあイデアエイドスとは違うんだけど、
あるっていうことでいいんじゃないの?みたいな。
ここまではいけるよねっていう。
物質として、質量として、手に握ることができるよねみたいな意味合いだとは思うんですけど。
そう、そんな感じですね。
ただこの最終的な偶の状態、把握的表彰に至るには、
どうしても知識が必要だよね。
そもそもラブホテルっていうインプット知識がなければ判断できないし、
何をするところかとかもわからないわけで。
だから我々はちゃんと知を追い求めて、
現象とか目の前に現れている表彰とかを分析したりとか、
把握しようということを努めようぜみたいな。
把握的表彰に至ろうと頑張ってみようぜみたいなことを言ってるわけですね。
なるほどね。
すごい。理にかなってる。
あーそうそうそう。理にかなってる。
そうですね。
なんかね、今自分の仕事のところとかぶるような部分の話で、
ちょっと感動した時には。
なるほどなるほど。
データ分析みたいなことっていうのをやることが多いんですよ。
やることが多いんですけど、
僕そういうのの勉強とかちゃんとしたことがないから、
経験と、経験プラスノリと勢いでやってるわけなんですけど。
はいはいはい。
でも本当もうこういうのっていうのはやっぱ知識とか、
なんかそういうものがないと、
なんだろうね、なんか適当なものしか出来上がんねえよなみたいなこと最近結構思ったりしてて。
本当ちょっと始終にしてちゃんと勉強し始めなきゃいけねえかな、この部分みたいな感じのことを結構思ったりして。
あーそうか。
そんなところをちょっと自分と当てはめて思ってしまった。
なんか掴んだ、グーになったと思ったら、
全然違うもの掴んでたみたいなね、こともあり得るわけですけど。
そこはそれは知識必要だよねっていうね。
それ全然違う表彰ですけどまだみたいなね、あるかもしれない。
ストア派はさらにアカデミー派に対して、
やっぱりその判断を伴った把握的表彰っていうのをちゃんと認めてあげないと、
このグーの状態に至るっていうことを認めてあげないと、
我々は生きることもできないでしょっていうことをやっぱり言ってくるわけです。
これによってちゃんと生きることが判断することが可能になっていって、
だからそれこそ判断保留とか言ってたら生きていけないんだから、
アカデミーハッサンの批判
ちゃんと把握的表彰を目指すところ頑張ろうよということを言うわけですけど、
アカデミー派はこれに対して反論します。
前回言ってたアルケシラウスの人ですね。
いやいやそんなことはないと。
判断をしなきゃ生きていけないと言うけどそんなことはないっていう。
判断しなくても表彰をただ受け止めて、
表彰を表彰としてそのまま受け止めて、
目の前で起きている現象みたいなものをただ感覚としてキャッチして、
判断を保留したままエポケしたまま、
表彰に従って生きていくことだって可能だよみたいなことを言っていて、
これ確かになぁと思うんですけど、
実際我々も基本的には表彰に従って生きてるんじゃないかなと思うわけです。
別に飯を食う時も目の前の食べ物が本物かどうかなんていちいち考えないし、
電車とか飛行機とか乗ってる時も電車なんて存在しないんじゃないかとかね、
飛行機が落ちるんじゃないかとかいちいち考えてらんないみたいなとこもあるし、
確実にそれがあるかどうかもいまいち考えないでねそこまで。
なんで飛行機飛ぶんだろうな、いちいち考えないで生きてるでしょ。
だし目の前の人とか目の前のミソさんとかが、
双子とか三子とかのもう一人の誰かかもしれないっていう可能性は全く否定できないわけなんですけど、
けど実際そこまで考えてないでしょ人々っていう。
だから別に生きることそのものに判断とかストア派のいう把握的な表彰っていうのが、
把握っていうのが必要不可欠なわけじゃないんだよというふうに反論したわけです。
そこは別に曖昧なままでも普通に生きていけますよみたいな。
それに対してストア派はさらに反駁していく。
アカデミアハッサンが言ってる表彰に従う。
鏡の中に映った自分に対して威嚇している犬と一緒だよみたいなことを言ってくるわけですよ。
目の前に映ったものだけで判断してるってことでしょ。
判断もしてないですけど、それに従っちゃってるっていうだけでしょみたいな。
電車が来たから電車乗る今。
なんなのそれみたいな。
判断保留ってもはや動物と一緒じゃんって言ってくるわけですよここで。
自然本性が人間に与えているというふうにストア派では考えられている。
絵を使わずにただ衝動に従ってるだけやんみたいな反論をして。
ストア派の理論では確かにそうなのかなみたいな部分も思いつつ。
前の人が行っちゃうからそのままついていっちゃうみたいな。
そういうのあるよね。
それに対してさらにアカデミー派、アルケシラウスは、
いやいやそうじゃない。その動物と同じなんじゃないんだよっていうことを言っていた。
ここが個人的に面白かったんですけど、判断を保留する人。
アカデミー派とかピュロン主義とかの人たちは判断保留するために
判断をしなくても自動的に動くことができるような物差しを持っているんだって言って。
僕がちょっと思ったのは確かにそうなのかな。
今のAIとかChatGPTとかそうですけど、別にAIとか判断してるかしてないかというとしてないですよ。
一定のアルゴリズムに従って出力してるだけで。
それと同じようにアルケシラウスは理にかなったものを選択するっていう物差し、
アルゴリズムをもうある意味あらかじめプログラミングして、
ただそのアルゴリズムに従って生きれば判断、何が善かとか悪かとか、
そういうことを判断するっていうことを伴うことなく、
一定の理にかなったものを自動的に選び続けることができて、
幸福になれるんだよみたいな反論をしていくわけです。
すごい面白いそれ。
それどっちが今言った話でしたっけ?
アカデミア派がそういうふうに反論してくるんですけど、
実はこの理にかなったものっていう概念自体も元々はストア派の概念。
ストア派がそういうふうに言ってたのを、
アルケシラウスがここである意味ちょっと取り込んじゃって、
それもはや判断保留なのか?みたいなふうにちょっとなってきてる感じもあるわけですよ。
判断させちゃってんじゃんみたいな物差しで。
物差しあるからみたいな。
判断の意味合い変わってません?みたいなところも若干あったり、
表彰の把握みたいなところと、理にかなったものを選択するみたいなのって、
結構違う気がしていて。
アルケシラウスの反論
生きる上で理にかなったものを選択して、
目の前に電車があれくればほぼほぼそれがあるってことで、
だってそれを疑ってもしょうがないから理にかなったものとして乗ってもしょうがないよねみたいな話と、
遠くにある建物が何かを判断保留するとか、
目の前に崖があっても避けないとか、
そういう判断保留とまた話が変わってきてる部分もあるのかなと思いつつ、
この辺で若干お互い影響し合ってるのは見えてるんですけど、
個人的に面白いなと思ったのは、
確かにそういう一定のアルゴリズムの理にかなったものっていうアルゴリズムをプログラミングしていくことによって、
そんなに判断をすることなく、ただ選んでいくということが可能なのかな、
ところが何かわかるなというところですね。
でも判断は保留にしてるけど、
何か私たちの中にプログラミングされてるものがあって、結局何かいいものとかを選んでるってことだから、
それはよく生きようとするために、ストア派が言ってたような、
ちゃんとしろよと同じじゃんみたいなじゃんっていうか。
ちょっとそっちに寄ってるよねっていう感じはあるわけですよね。
確かに善悪の判断とか、よしや氏の判断みたいなことはしてないのかもしれないけど、
最初の文脈だと判断保留って一切選ばないみたいな感じじゃなかったでしたっけみたいなところがあるんですけど、
そこはちゃんと選ぶことは選びますけど、
その選び方の問題ですよねみたいな話にすり替わってきてるみたいなところがある。
で、ストア派はさらにアカデミー、
理にかなったものをプログラミングしておけばみたいなことに対して反論していくわけです。
理にかなったものという物差しに対して、
そんなこと言っても理にかなったものが必ずしも真である、真実のものであるとは限らないでしょうと言ってくるわけですね。
これ実際偽りか何かであったんですけど、
例えばかなり親しくしている王様に呼ばれて、
目の前に果物を出してもらった。
当然理にかなった行動として仲もいい王様だし、何度も会ったことあるし、何度も果物をもらったことあるし、それを食べると。
だけどそれはその果物は偽りだと実際ローでできた偽物だったみたいな話なんですけど、
王様はたまにはストア派の学者を試してみたくなっているみたいなところで、
いやお前も騙されてるじゃんみたいな逸話があったりするんですけど、
偽物だったりとかね、それには毒が入っているかもしれないとかね。
理にかなったことというのは普通に間違い得るのであって、
そんな生き方をしていて、魂の平成に至ると幸福になれるというのはちょっと無理すぎなんじゃないですかみたいな反応をしてくるわけですね。
だからさっきの手のひらの例で言うと、理にかなったことというのはパーの状態からちょっと指を曲げたくらいの話ですよね。
多少の承認を与えたくらいの話のところで、
それでいいみたいなことを言ってますよねみたいな感じになって。
アカデミーハッサンによる再反論
さらにそれに対してアカデミー派が、いやいやそうじゃないんですよみたいな反応をしていくんですけど、
多少の承認を与えているというか、
この辺ね表現がむずいんですけど、
真なるものとして現れていると、
アカデミー派にとって真なるものとして現れていると思われる表象は、
我々の魂そのものが説得してきて、
電車目の前に来た!
いやこれ真なるものとして現れていると、
普通思われるよねっていう。
その電車は我々の心を説得してきて、
自然と動きを引き起こすんだよみたいなことを言ってくるわけ。
そりゃ電車乗るし、
ラブフォーあったら入るしみたいな、そういうとこなんですよ。
そりゃ仲のいい人に果物出されたら、
それは判断差し挟むことなく食うでしょと。
電車来たら乗るでしょと。
それでいいというか、
そういうもんでしょみたいな。
仕方ないっしょみたいなね。
これを説得的表象というふうに呼んでいて、
そのものが、その表象が、
我々を説得してくるんだという言い方をするわけです。
物差しって本当に、
それはトモキが考えたんじゃなくて、
物差しっていう感じで、
スケールみたいな感じで出てくるの?
物差しっていう、
理にかなったという物差しをモテ、
みたいな言い方をしてますね。
そしたら説得されちゃうんだったら、
物差しいつも変わっちゃうってこと?
だからね、ここからまた議論が若干ずれてきてる。
ストア犯の反論に対してさらに答えていくために、
ちょっとずらしながら議論していくみたいなところが、
あったりするのかなというふうに個人的には思ったんですけど。
ここは物差しの話をあんまり、
全面に出してこなくなって、
今度説得的表象っていう、
目の前のものがだって説得してくるんですもん、自分を。
だってめっちゃうまそうなビールあったら飲むじゃないですか。
そういう感じですよね。
だからなんか、
アカデミー派にとっては、アルケシラウスとかにとっては、
あくまでも主観的に、
主観的に真と思われるだけの表象で良くて、
本当に真であるかどうかはあんまり関係ないでしょと。
それはだから説得的だと思われた表象が間違っていることもあるとは思うし、
果物に毒が入っていることもあるとは思うよと。
だからといって、
説得的だと思われた表象が間違っていることもあるとは思うし、
果物に毒が入っていることもあるとは思うよと。
だからといって、
それで生きていけないことにはならないし、
何事も把握しようとする方が、
かえって本当にこの果物は食べていいのかとか、
アカデミア派とストア派の論争
本当にこの電車とか飛行機乗っていいのかとか、
迷うことになるでしょと。
魂の平成なんて程遠いでしょうよっていうことを言ってくるわけですよね。
魂の平成なんて程遠いでしょうよっていうことを言ってくるわけですよね。
それもわかるなぁみたいな。
そんな一々疑ってらんねーよなぁ、
という所もありさ。
これにはけっこう精通羽のpackNERBが
ぐぬぐぬってなったぽっくて。
そこからまた
ストア派もだんだん恩恵になっていくというか、
我々が言っている把握って言うのはね、
そもそもイディアみたいなことを言っているわけじゃないし、
その真であるという、
その真であると思われる改善性を少しでも高めていこうぜ的な意味合いで言ってるんであるから
だからその真なるものが本当にあるかどうかわからないけど諦めずに探していこうぜみたいなことを言っているわけですよね
改めて俺らの立場はそうなんだよっていう風にアカデミー派に対して言ってくると
アカデミー派も最終的にはそれはわかるみたいな感じになって
主観的な説得的な表彰、目の前のものが説得してくるっていう表彰を認めることによって
それを認めることによって少しずつ真実っぽいものに近づいていくこともできるんじゃないかなとか言い出してですね
もはやどっちもあんまり言ってること変わらなくなっていく流れがあるんですよ
これは誰かと誰か代表主の人が話し合ってるっていうことじゃなくて
どういう感じに話されているの?本とか
僕が参考にしたのは哲学の歴史っていうね
中央考論審査の本でこんなことが書かれてたんで
それを伝えてるっていう具体的にどうしてたかちょっと正直わかんないですけど
ある程度学派同士の争いみたいな感じだったと思いますけどね
その学派っていうのもそんなにカッチリした組織みたいな感じでは多分なかった
アカデミー派はある程度あったのかなと
テスト派はふわっとした信奉者みたいな人たちがいるぐらいの感じだったのかな
そんな書かれ方もしてましたよね
だからアルケシラオスとかね
後にカルネアデスとかっていう人とかも出てくるけど
その人たちがアカデミー派のこの会議主義とかエポケ判断保留っていうのをリードしつつやってたんだけど
だんだん諏訪派の論戦の中で似通った主張をしてくるというとこですよね
なんかね争ってるのを見ると仲良くしろよみたいな感じのことを思って
そういうことをついつい言いがちになりますけど
いざ最後にちょっと仲良くなったっぽくなると
慣れ合ってんじゃねえよ
なんだったんだよみたいな
思ってしまうような感じですしね
貫けよみたいな
手のひらで言えば最初めっちゃ仲悪いと思ってたのに
最終的にはめっちゃなんか
手のひらグーにしてみたら握手してる図が見えるよみたいなそんな感じですね
ほんとだね
ほんとそんな感じですよね
どう見るかはそれぞれって感じですけども
やっぱなんか人間の心持ちっていうのはよくわかんないもんですね
ほんとですよね
泡の弱だな俺って思いました
そうだね握らなくてもいいから握手をすればちょうど握らないけど
いいねこんな感じで
そういう風でね
話が終わってもうじゃあこれ以上は対決しないでください
多分ある程度
みんななんか似てきちゃったねみたいなところで
終わったのかなわかんないけど
アカデミア派が明らかに変説していって
会議主義的なことを言わずにやっぱ真なるものを目指していこうぜみたいな態度に変わりつつあったんで
この辺のタイミングで前回言った通りピュロン主義っていうのを言って
アカデミア派から逆に離れていく人たちが出てきて
やっぱり判断保留
その表彰っていうのはもう本当にわからないものなんだからっていうところに行く人たちが出てくる
とはいえピュロン主義はそんなに流行らずにすぐ終わっちゃうみたいなところもあったらしいんですけど
ただやっぱこの会議主義みたいな伝統というかね
その辺はねやっぱ近代以降とかも明らかに影響されている部分もあるとも言われていて
デカルトとかもそうだし疑って疑って疑ったら我しか残んなかったっていう考え方
方法的会議みたいな感じですよね
なんかやっぱピュロン主義とかもその辺に影響してるとも言われて
ヒュームとかカントとかにも影響与えてるみたいな言われ方を知ってたね
重要な思想ということですね
そうですね
そのストア派もストア派で
もともとは確かなことはあるんだと把握は可能なんだっていう風にすごいゴリ押ししてたのに
これもアカデミア派との論争の中で
いや確かに何かこう悪霊に騙されてとか
その目の前の人が双子とか三つ子とかだったら
そりゃ確かにあの判断はできないよねみたいなことを
アカデミア派との論争の中で認めつつ
そういう条件まで全て加味していったら
それは全て疑うしかなくなるし
一切何もできなくなるので
把握的表彰に至る条件として何も妨げるものがない場合に
把握が可能になるみたいなことを条件として加えちゃったりするんですよ途中で
それを言ったら確実な死になるものの把握と言えるの?
それみたいなところもあったりするなって思った部分もあるし
現代科学とかって割とある程度条件付けしながら
数学とかなんて特にそうだと思う
そういうふうに問題を立てていくっていうのはあると思うんで
それで確かなものに近づいていくっていうアプローチは
やっぱり後世にも生きてるのかなとかって思ったりもすかね
その後はどうなるんですか大体
エピクロス派の倫理学の分野での争い
その後はだからこれも前回かな言ったかな
わかんないけどそのストア派は
だんだん把握的表彰とか死になるものを目指すべきだとかっていうのを
だんだん主張しなくなってきて倫理学に重きを置くようになってくるんですよ
どう生きるべきか実存的に人間がどう生きるべきかっていうことを問うようになっていく
もともとそのストア派の中には自然学と論理学と倫理学って
3本立てがストア派のメインなんだよみたいなこと言って
もともとはこの論理学それこそさっきの認識論みたいな
把握的表彰みたいなのがメインでそっちが一番重要だって言ってたのが
これがだんだん逆転してきて倫理学の方が重要だみたいな
考え方にだんだん変わっていくんですよ
こうやってだんだん温等になっていって
多分その辺がローマ時代にも重要されて
ちゃんと目の前のものをものとして分析しようみたいなアプローチとか
ちゃんと考えようぜこの世界のことは何でこう起きてるのかっていうのを考えようぜ
イデア界とかに求めないみたいなね
そういう現実的な考え方もあるんで
ローマの人たちにもある程度フィットしたのかなみたいなところを感じつつ
それがキリスト教にも応用していくみたいな感じになっていく流れですよね
期限後になるのかもうすぐじゃあ
もうすぐ近づいてきちゃってますね
まだピクロス流行ってないからね
そうなんですよピクロスがまだある
あれ?
それはやらないかもって言ったんじゃないかな
やっぱねやるべきかもしれないですね
今回やってみて思ったけど
今回はストア派とアカデメイヤ派が認識論みたいな
論理学何があるのかみたいな世界の中で争ってたわけですよ
だけどエピクロスとは違うところで争うんですね
舞台が若干違くて
ストア派とエピクロス派の争いは倫理学の分野で
主に起こってくるっていうようなんですよね
何が善なのかとかも含めて
良き生き方とか何かっていうところです
やっぱそこもやっぱちょっとやりたいなっていうふうに思いました
そうなんだ
さっき言ってた真なるものを目指すっていう
その真っていうものは何?
何って言われると困るんですけど
疑いなく何の疑いを差し挟むことなく
これはあるって言える状態っていうことだとは思うんですけど
そうか
そんなことあり得ない
あり得ないあり得ないよねって
ストア派も後々には言い出しちゃうんですけど
次でまた善とか倫理的にどう生きるかとか
嫌だなあたしそういうの
これやっちゃダメあれやっちゃダメとか
あんまり個人的には好きじゃないけど
その話になるんですね
そんなに狂義的な部分っていうか
何でそう考えたかみたいなところかな
何でその考えに至るんだろうところが面白いなって
個人的には思うんですかね
なるほどね
思想の変遷と考え方の更新
そんな感じかな
面白いっすね
思想の変遷っていうところとかっていうのも
伝承というかいろんな伝わってきたものの話ではあるんですけれども
リアルを感じたなというような気もするし
それなりに台を経た中でね
研究とかっていうのが進めば
それをまたいろいろと更新していく考え方を
少しずつマイナーチェンジしていくみたいなのも出てくるから
そうっすよね
多分そういう過程なんだろうなみたいなところをちょっと思いましたし
体操
だから一番最初の人っていうのはやっぱり強い信念
意識
思想
学説っていうのも言ってますけど
やっぱだんだんとね
プラトンとかソクラテスが言うところの
ちょっとソフィストチック相対主義チックな感じにもなってきてる
そうっすね
本当に結局ソフィストとプラトンの論争の焼き直しみたいな部分もありますし
面白いなと思いました
面白かったですね
じゃあ終わり?今日終わりでいいですか
終わり
終わり
じゃあ今日も最後までテツセカを聞きいただきありがとうございました
テツセカはスポーティファイアップルポートキャスト
グーグルポートキャストで配信しています
お聞きのアプリで番組フォローいただくと更新時に通知が来ます
でも日本時間土曜日ぐらいに配信されます
テツセカお気に召しましたら高評価ボタンをポチッとしていただいたり
レビューを残していただけますと大変嬉しいです
ハッシュタグテツセカをつけて
ツイッターでつぶやいてください
必死に拾いに行きます
グーグルフォームでお便りもお待ちしています
よろしくお願いします
お願いします
面白かった本当に
面白かったしどうしても他のところの地域とかで当てはめてしまうみたいな思想になってしまうんですよ
こういうのって良くないみたいなことを古典ラジオとかでは言ってますけど
なんかすげーやっぱねこの時代戦国時代とかの諸子百家とちょうど似てるなみたいな感じのことかもしれない
そうかもしれないだから本当大論爆時代なんだろうなって
いろんな派閥の人たちとか各派の人たちっていうのがケンケンカクカクしあって
そこからさらに分派とかもしたりしてみたいな
そういう感じになるんだけど西洋は結局キリスト教っていうところが来てしまって
そういうところが強制的に一本化されたし東洋の方も真の主公帝が現れて
皇帝っていうものが出てきたら一本化されてしまったしみたいな
そうね確かに違う意味で一本化されてるのか
そうですねまぁでも結構キリスト教と同じくらい厳しめの感じですからね
その辺の一本化感はなんか面白いなって思いましたのと
エンディングとスポーティファイブの話
あとトムキさんが下ネタを言った時にあえてツッコまない2人みたいな感じ
前も馬のちんこがでかいみたいな話した時に2人ともあえてツッコまなかったんですよ
それをタカピさんがすげーTwitterで俺は見逃してなかったぜみたいなこと言ってるのが面白かったですね
なんか時間の無駄になっちゃうかなと思うからさ
余分なこと言わないでみんなのこう聞いてる方たちがいろいろ想像していただいて
ツッコんでいただけばいいんじゃない
何をエポケするか何をつかみに行くかはその人次第ということで
そうだちょっとエンディング長くなって申し訳ないですけど
スポーティファイブをポッドキャストで上げる時に公開ボタンを普通に今まで公開できてたんですけど
前回の上げる時に強制的にこれが健全ですかそれともクローズですかみたいな
チェックのところに強制的にスクロールされたんですよ
こんなものあるっけ
こんな仕様じゃなかったよなと思って
スポーティファイにちょっとアレされてるのかもしんない
アレされてるかもしんないですね
ちょっとね検閲されてチェックされてるのかもしんないみたいなこと
やばーい
悪いこと言ってるから
今回大丈夫っしょ今回は
僕が最後に馬の進行とか言ったのがちょっとやばい
でも慣れてきちゃう自分がいてちょっとねやばいですねほんとに
ほんとよくない
パトロールしていく必要性
なんかここまで容認している自分がいてそこもちょっとちゃんとパトロールしていかないといけないと思いました
それは取り締まる毛さんの姿勢が面白いみたいな意見とかもね初期の頃結構あったりもしたんでね
そうね
見逃しちゃってるよねよくないよね
上品な下ネタは許されるらしいですからね
それを目指して検閲されないように頑張っていきましょう
はい
真なるエロウソ
何言ってるんだ
すいません長らくでしたけどありがとうございました
ありがとうございました
40:38

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