一年のうちで最も頭を悩ます仕事の話。
今回はもう一つ、今まさに現在進行形で進んでいる、一年のうちで最も頭を悩ませ、心を消耗する仕事の話について続いてみたいと思います。
小さな組織の運営経営に携わる方には共感していただけるのではないかと思いますが、ズバリ採用の仕事です。
大事なのはわかるけど、最もってことはないんじゃないと思われるかもしれませんが、これが本当に命を削って取り組んでいると言っても過言ではありません。
というのも、PCs のように正職員が10人にもいたない組織では、当然1人が組織に与える影響が大きくなるため、そのプロセスは慎重にならざるを得ません。
また、組織のフェーズが少しずつ変化する中で、今この組織にどんなコンピテンシーやスキルを持った人が必要なのか、あるいはどんなカルチャーをもたらしてくれる人が必要なのかを定義すること自体がとてつもなく難しいという側面もあります。
さらに、これは私自身のソーシャルワーカーとしてのアイデンティティがもたらす職業病のようなものかもしれませんが、どうしても人を評価判断することへの抵抗感が染み付いているらしく、気を抜くと面談の場がどうしても共感的になってしまうのです。
そのため、先行モードのスイッチをオンにして続けることは多大なエネルギーを要してしまうという話もあります。
そこは単なる力量不足でしかないのですが、目の前の人を全人的な存在として尊重するところから始まるソーシャルワーカーが採用をうまく進めるための心得をご存知の方がいたらぜひ教えてください。
今回は採用説明会への参加者が80名、書類応募者が29名といずれも過去最も多くの反響がありました。
たくさんの応募があるということはこの上なく嬉しいことではあるのですが、応募枠が少ない分、お断りしなければいけない方の人数も多くなります。
皆さんそれぞれに尊いミッションを持っていたり、PCsへの深い愛を感じたり、そのスキルをなんとかPCsで活かせないかと思わずにいられなかったり、
それでもどうしたって一緒に働きたいと思った人全員にオファーを出すことはできず、なくなくごめんなさいの連絡を入れることになります。
それが本当になんとも言えない辛い時間で、ごめんなさいの連絡に対していただく返信メールとかはとてもすぐには開けません。
採用活動を通じてどんな人との出会いがあるのか、どんな人とご一緒に生きるかを想像したり考えたりすることの楽しさも当然ある一方で、
この心のすり減り具合はなかなかなれるものでもなく、早く終わってほしいというのが正直な願いです。
そんなわけで、私だけでなく採用に関わる他のスタッフも皆、連日ウンウンとおなりながらも頑張っていますので、
このプロセスの先に、うちに新しいメンバーの入職が決まった暁には温かく歓迎してもらえると嬉しいです。
じゃあ、西さん、今読み上げてくださった文章についてですね、当時どんなお気持ちでこれを書かれたんですか?
そうですね。前回の資金調達の話もそうですし、もう一つやっぱり採用って常に
私たちにとって、これは別に私だけに限らずですし、いろんな人たちが頭を悩ます部分だろうなというふうに思っています。
この時期がちょうどフィッシュズと、本当に多くても1年に1人とか2人とかそれぐらいの数の人を採用してというのが続いていたんですけれども、
この年は結果的には4人の方が入ってくれた年だったんですね。
フィッシュズをずっと創設期から支えていたメンバーが抜けるっていうこともある程度分かっていたタイミングでもあるので、
結構大きな採用のタイミングでもあった。
フィッシュズにとって初めてこれだけ多くの人たちが一気に入ってくださる。
それだけ新しいエネルギーをもたらしてくれたり、カルチャーをもたらしてくれたりするっていうこの期待もありつつ、
でも採用って、この採用も楽しいんですよ。
いろんな人たちと出会えるっていうことは楽しくもあり、一方で先行していかなきゃいけないというか、
どこかではこの人たちにみんなやっぱり素敵な部分があって、
どこかではこの人たちと一緒に仕事をしたいって思わせてくれるものがあってっていう中で、
選ぶみたいなことのやっぱり難しさというか、
決めなきゃいけないんですけども、決めた後にも、
これで本当に良かったのかみたいなことはやっぱり繰り返し反省せざるを得ないみたいな、
そんな日々を過ごしてた中でも出てきたコラムですかね。
じゃあ、その先行のプロセス自体がちょっとなんかしんどかったっていうところですか。
まあ、しんどいはしんどいですよね。
未来を考えれば、決して別に苦しさやしんどさだけではないんですけれども、
やっぱり評価を下すというか判断するっていう、
普段私たちの授業においてはとにかく評価や判断をしないっていうことを大事にしている。
やっぱりその人、その人の前にいる人たちのことをそのまま見つめる、
何かができるからすごいとかそういうことじゃなく、
その人がそこにいるっていうことをまずちゃんと、
その人の尊厳みたいなものを大事にみたいなことを思っているが故に選び取るというか、
みたいなどうしても先行するみたいな、
そのプロセスで働かせなきゃいけないスイッチみたいな、
ものはやっぱり、別にその人を全人的に尊重しているっていうことと、
先行することは別にトレードオフではないとは分かってはいながらも、
でもやっぱりどこかでそのもどかしさというか、
目の前にある人の願いや思い、
これをごめんなさいってしなきゃいけないっていうこの感じが、
イエーイみたいな、
いう感じはありますよね。
なるほど。
そうか、その気持ちに対して返せてないみたいなのもあるんですかね。
まあそうね、なんか思い上がりすぎなのかもしれないですけど、
なんかその願いや思いを差し出されたら答えたくなっちゃうというか、
受け取らなきゃいけないんじゃないかと思っちゃうみたいな、
応答したくなっちゃうみたいな。
応答できないもどかしさですね。
そうですね、まさに。
だからなんでしょうね、
まだまだ先行のことが分かってない、採用のことが分かってないのかもしれないんですけども、
そこらへんのこう、機能、持ちようみたいなものがやっぱり難しい。
どう処理していいか分かんないですね。
そうか、処理できかねる感情を抱えながら採用やられてるんですね。
岡さん聞いてみていかがですか。
そうですね、私もその病院に勤めてるときは、
最後のほうは結構採用を任されたりとかして、
うまくいくときはすごくいいんだけど、
関係性が悪くなっちゃったりすると、
なんであんな人採ったんですかって責められたりとか。
でもその、ファーストインプレッションって絶対じゃないし、
あとは、そう思ってなかったようなことってやっぱり、
人の中に入ったら分からないじゃないですか、その相性もあるし、
自分が持った印象と、
集団とかチームに入ったときの印象って違うので、
本当に見え方っていうのは360度違うから、
うまくいくってことはないんだろうなって、
やってもやってもやっぱり思ってましたね。
だから、なんて言うんでしょうね、もうその役割とか機能みたいなものが、
必要な役割、機能が明確でそこに人を当てはめるみたいなのが、
そういう感じだったらできるというか、割り切ってやればいいのかもしれないですけど、
そもそもだから、もちろん今の組織にとってこういうことをできる人が必要だもあるんですけど、
その前にやっぱり、この人と一緒に働きたいと思えるかどうかみたいなところがまず大事で、
役割とかスキルとか、それはあるに越したことはないけどみたいな、
っていう眼差しで基本的にやっぱり採用していると。
で、もちろん今足りてないポジションはここだから、これになってくれたら嬉しいけど、
やっぱり目の前になんかこう人間としてなんかこう、この人と一緒に働きたいとか、
結構その対応の中で大事に、最後は大事にしてるのはこの人と一緒に飲みに行って楽しいと思えるかどうかみたいな、
なんかそういうのも大事にしてるんですけど、
いやーこの人と飲みに行ったら楽しそうだなとかって思ったりすると、
なんかやっぱりその人のこう過去の実績だったりとか、
そのスキルだったりとか、なんかそういうことも大事だけど、
いやーこの人が輝く仕事をなんか作っていきたいなみたいなことはやっぱりこう、
思い始めるともうドツブにハマっていくというか、
そもそも何で採用をしようとしてたんだっけみたいなことがどっかに行ってしまって、
なんかこの人がどこかで輝けるところがないかみたいな風になっていくと、
もうだんだんなんかこう軸がわかんなくなっていくというか、
うん、ですよね。
だからやっぱりこう芯を持って、軸を持ってちゃんとこう採用ってしないと、
目の前に素敵な人が現れたら、
3人採用しようと思ってるのになんか5人、10人とかってなんかあっという間になってきそうだなと思って。
輝ける場所を作りたくなっちゃうんですね、目の前の人の。
場所を作りたくなっちゃう、そうですね。
やっぱり人ありきで仕事が作られていく方がなんか自然だなっていう気がしていて、
まあ業務があってそこに人を当てはめるというよりも、
なんかこの人がいて、この人と何ができるかなっていうのがなんかやっぱり難しい。
難しい。
どの人もやっぱり輝ける場所がありそうな気がしていて。
なるほど。
なんか人から成り立っていくものってことですね、組織とか仕事とか。
まあここはいろんな考え方があると思うんですけれども、
割とやっぱりこう大事にしてる価値観だったり、
なんかそういったものさえちゃんと持てていれば、
別にやることは何でもいいと基本的には思っている組織なので、
事業として活動として何をやっていくかっていう、
なんかそこが大事というよりは、
自分たちの届けたいなんかこう思いというか、
まあ価値みたいなもの、
それが届いていきさえすれば別に手段は何でもいいという気がしてるので、
まあその意味で、
それを一緒に届けてくれそうな何かを思っている人がいたら、
今ある事業にはちょっとはまらんかもしれんけど、
なんか作っていきたくなっちゃうというか、
その新しいフィールドを作っていきたくなってしまうみたいな衝動。
それもやりたいけどやれないみたいなのを葛藤の中ですね。
そうですね。
小川さん聞いてみていかがですか。
そうですね。
なんか採用する方と、
採用の可否を待っている側でね、
全然立ち位置は違うけど、
採用する側も結構苦しいんだよっていうことは、
あんまり言わないかもしれないなと思って。
めちゃめちゃ葛藤してるよっていうことを伝える吐き口がなかったから、
たぶんこのコラムに書いたんでしょうね。
ソーシャルハイブ、ウェイティングカフェ、天秤の子。
新しい当たり前をデザインする実践者たちの日常。
それでは西さん。
小野田さんからオーダーをいただいた、
素敵な事務局長からのお便りをぜひ聞かせていただきたいんですが、
これは2023年の3月31日のボリューム6のお便りというところなんですけども、
お聞かせいただいてもいいですか。
ちょうど2年前に書いたコラムですね。
NPOの果たす役割、そしてPCsの立ち位置。
先日PCsで長くプロボノとして関わるMさんが、
ミーティングのチェックインでこんな話をしてくれました。
Mさんがいつものように混み合った通勤電車に乗っていたときのこと。
その日は少し離れたところに白状を持った人が一人乗っていました。
ある駅でその方が校舎のためにホームに降り立とうとした瞬間、
同じように降りようとした人の群れが、
その方を押し抜けながら進んだことで、
ホーム上で転倒してしまうということがあったそうです。
幸いスッと立ち上がったせいもあってか、
周囲にいた人も特に気にするような素振りもなく通り過ぎていくのですが、
当のその方は展示ブロックを見失っているようでした。
思わずMさんが駆け寄って誘導したことで事なきを得たようですが、
Mさんはその光景にショックを受けたと話してくれました。
人によっては些細なことのように感じるかもしれませんが、
その話を聞いたときに、私もMさんと同様に心が痛む思いがしました。
同時にここ最近を振り返っただけでも、
自分自身の身の回りで似たような場面に出くわしたことは一度や二度だけではありません。
身近なところで生活する人同士ですら、
互いに関心を持って支え合うこと、
助け合うことが難しくなっている状況が皆さんの周りにもあるのではないでしょうか。
そしてこのことを私自身の活動フィールドに引き寄せて考えたときに、
ある種の危機感を抱いています。
それはNPOなどの民間非営利セクターによる取り組みが、
そのような状況に拍車をかけてすらいる側面があるのではないかということです。
振り返ると、子ども、若者を取り巻く生態系を俯瞰したときに、
特にNPOなどの非営利セクターが、
社会課題解決組織に寄り過ぎてしまっていることの弊害として、
それらの状況を生み出してしまっているかもしれないということです。
当然のことながら、様々な息づらさを抱えた人たちの困り事を解消したり、
傷や痛みを癒したりすること、
それ自体が尊い活動であることは疑いようもありません。
そのような社会的なサービスを提供することで、
課題解決に取り組む組織が成長する過程では、
もちろん全てがそうではありませんが、
そのフィールドにおける専門性が向上し、
自治体からの委託を受けたり、
人、物、金が集まっていきます。
結果としてその団体の支援する力がさらに高まり、
より多くの対象者に支援サービスを届けられるようになっていきます。
その部分を見れば、個別の課題解決は着々と進んでいるということもできます。
その一方で、NPOに限らず、行政機関であれ、専門機関であれ、
当然のことながら人々の暮らしや困り事、
すべてをカバーできるかといったらそれは不可能です。
どこかでは地域社会に生きる人々が相互の関わり合いの中で連帯しながら
助け合っていく必要があります。
しかし、NPOなどが支援する力を高め、支援のスペシャリストとなっていくことで、
市民目線で見ると、人助けはNPOがやってくれる、
人事の困り事も誰かがなんとかしてくれる、
というマインドセットを作ってしまっている感覚を抱いてしまいます。
これは、街の困り事を行政なんだからなんとかしろ、
と行政のクレームとして寄せられる構造とも似ています。
結果として、冒頭に示したような光景が街の中に生まれてしまうということです。
このような危惧は、実は少なくとも2000年代後半にはなされているのですが、
その頃から本質的には変化していないでしょうし、
あるいはSDGsの広がりなどとともに白車がかかっているようにすら感じてしまいます。
加納・ピーター・トラッカーは、非営利組織の役割のコアには、
市民性の創造があると主張しています。
まさに一人一人の市民が自分と他者とを尊重しながら、
自分の意思で他者や社会に関わっていくこと。
これは本来誰もが持っているものだと思うのですが、
その市民性が発揮されにくい状態を作ってしまっている、ということができます。
社会的なサービスの提供と市民性の創造は、
同時並行で行っていく必要がありますが、
どうしても後者が置き去りになってしまいがちです。
当然どちらかの方が大事ということではなく、
どちらも大事ではあるのですが、
頭で考えやすく、ストーリーとしても分かりやすいがために、
前者に人の意識が集まっていってしまうのかもしれません。
後者で求められるのは、子の価値観やマインドセットの変容という
分かりにくいものであり、
たとえ必要性を感じていても、エネルギーが集まりにくいのだと思います。
PCSが市民性の情勢を掲げて、
子どもの周りに生きる人たちの価値観やマインドセットといった
在り方、ビーングにアプローチすることにこだわっているのは、それがゆえんです。
市民、一人一人が自分自身の在り方を問い直していくこと、
PCSに今できることは、子ども若者の周りにいる人たちに、
そのためのフィールドやコミュニティを用意していくことです。
これによって、そこに参加した人、触れた人の他社への
関わり方や自分への察し方が変化していけば嬉しいですが、
それはもはやコントロールすることはできません。
時間がかかることであり、どこかで仕様が変わるのを
待ち続けるような境地でいることには、圧倒や不安があるのも正直なところです。
それでもそのスピードが少しでも早められるように、
様々なステークホルダーと手を携えながら、
これからも少しずつみんなで活動を続けていきたいと思います。
ヤッサイさん、改めて今読んでいただいた内容ですね。
当時どんなお気持ちでこれ書かれたんですか?
そうですね、今でもこの問題意識っていうのは
割と当時と、わずか2年前の話なのでそうかもしれませんが、
あまり変わってないかなとは思っているんですけど、
本当に日常の些細な出来事だったんですね。
このMさんという方が、あるミーティングで本当に最近こんなことがあって
っていうのを話してくれて、
なんか辛あと思って。
でもこういうことって本当によくあるよなというか、
きっとみんな目には飛び込んできている光景なはずなんだけれども、
なんかこう、我関せずみたいな、
なんかそんなことですよね、起きてたこととしては。
明らかに杖をついている人がいて、
いう状況にもかかわらずやっぱりその人がその場に、
なんて言うんでしょうね、孤立しているというか、
なんか置き去りになっているというか、
もちろん中には手を差し伸べたいと思ったけど、
自分がやっていいのかなとか、変えて迷惑かけちゃわないかなとか
いろんな思いを持った人もいたと思うんですけど、
でも結果的にやっぱりその人に手を差し伸べられることはなくて、
Mさんがそのことに気づいてということだったんですけど、
結構遠くから駆け寄っていったみたいなことを言ったんですけどね。
これ本当に難しいんですけども、
やっぱりNPOとかやっている、
これは本当に自戒を込めているんですけども、
自分たちが頑張るのは頑張ればいいと思うんですけど、
でもそれによって街の頑張る力というか支える力、
頼り頼られという力を奪ってはいけないということはすごく思っていて、
むしろNPOの本質というのはそこをエンパワーメントしていく、
そこというような市民の人たちが互いに自分たちのことを支え合っていく、
頼り合っていくというところの力を育んでいくことが大きな使命だと思うんですよね。
でもどこかでサービス提供者になりすぎてしまうと、
団体なり組織なりがサービスを届けている相手は確かに豊かになっていっているかもしれない。
その豊かさに触れてやっている人たちもやりがいを感じるかもしれない。
でもそれ以外の多くの同じ街にいる人たちっていうのが、
自分もやらなくてもいいかというか、誰かがやってくれるみたいなことになっちゃっていたりとか、
そういうことも起きているんじゃないかなっていうことでやっぱり危機感みたいな危惧みたいなものはどっかにある。
なのでこのMさんの話を聞いたときにパッとやっぱりそこを改めてそのことを思い出したというか、
自分たちも気をつけなきゃいけないなというふうに思うし、
そうですね、ソーシャルビジネスみたいな言葉がやっぱり出てくる中で、
どうしても抜け落ちてしまうのは結構そこの社会の連帯感を作っていくとか、
一人一人が互いに、共にっていうその感覚、
共にある感覚、共在感覚みたいなことで言われたりしますけれども、
そういうことを後ろ奪っていないかみたいな、
そういうことは常に意識をしておくことは必要なんだろうなということは思っています。
その場の力というのを信じてエンパワーメントしていくっていうのも一つ大事な活動なんですね。
そうですね。
どうしても何か活動するっていうときに直接自分たちが手を差し伸べて、
やっぱりそれにありがとうって言われたら嬉しいし気持ちいいし。
そういう思いも乗っかってるそのお便りなんですね。
そうですね。
エンパワーメントといえば和賀さんですけど。
今のお話聞いてみていかがですか?
そうですね。
私も同じソーシャルワーカーっていう仕事をしていて、
でも自分の日常のそういう公共交通機関の時とか、
あとはショッピングセンターみたいな、いっぱい不特定多数の人が集まる場所であった2つの事例を今自分の中で思い出して、
1個は乗降客がたくさんいる沖縄駅で、やっぱりその白状の人が場所を見失ってる感じが見えたので、
ちょっと遠くからしばらく様子を見て、
本当にこの人サポートした方が良さそうだなってある程度時間をかけて見てて、
行って、よかったらお手伝いしますかって声をかけて、
お願いしますって言われて、たまたま同じ電車で同じ方向でその後ずっとおしゃべりしていったんです。
だから別にそれは助けてあげたとかではなかった。
でもその時に私は比較的この仕事をしてる割に冷たいって自分で思ってるんですけど、
すごく観察してから行くようにしてて、反射で行かないようにはやっぱりしてて、
さっきの西さんも言ってたけど、やりすぎてしまうんではないかっていう恐れっていうのもあって、
それがどっかするとちょっと依存的っていうか、感謝されたいみたいな思いが強すぎてしまう時もあったりするなって自分でも思うので、
1、それこそ市民として生活してる場面においては、やっぱりそれ気をつけなきゃなって思う。
でもその道中、普通に電車の中で初めてとは思えないテンションでしゃべって30分ぐらい。
電車の中で。
それは面白かったんですけど。
もう1個が、これはどうしたらよかったのかって、それこそ今映画ですごい話題のタイトルが思い浮かぶのは、
あるスーパーの片隅にイートインコーナーみたいなところがあって、
昼間、私は1人でご飯を食べた時に、あるお母さんが3歳ぐらいの女の子と一緒にいて、
で、メニューの注文の時に抱っこをせがんだんです。
3歳ぐらいの女の子が。
だけど、お母さんはガンとして抱っこをしなかったんです。
っていうシーンがずっとあって、で、ものすごい泣いてたんです、女の子が。
これはどうするのか、でもお母さんの思いもあるんだろうなって思って、
うーんと思いながら、食べながら、見ながら、じっと見るのもと思ったんで、
うーんと思ったら、やっぱりその時、比較的昼間で人も多くて、9割型すんっていう感じなんですよ。
全くそんなことはありませんという世界観で時間を過ごしてる。
でも1割ぐらいの人は、どうしよう、どうする、みたいな空気が流れてて、
そしたらある女性が、ずっとその人も様子を見ていて、様子を見てるのは私は見ていて、
すってその人の横に行って、お母さんに声をかけたんですよね。
そう、すごいなと思って。
で、ちょっと抱っこすれば泣き止むと思いますよって。
だからその荷物を私が持ってあげるから、お母さん抱っこしたらって言ったんですよ。
うーん。
感動と思って。
私それやろうとは思えなかったんですよね。
それこそ介入的になっちゃうような気もしたし、どういう思いでいるのかなとか、
うーん。
なんかね、いろんなことを考えすぎちゃった。
考えちゃうね。
考えちゃった。
で、どうすればよかったのかっていうのはわかんないんですけど、正解はないと思うんだけど、
自分のそのテンションとか置かれてる、例えばこれからその後に時間が、
例えば約束があるとか、自分のね、とかいろんな条件もあるんだろうし、
全部自分がやる必要はないんだけど、見えたからって、
でもなんかその2つのことが思い起こされて、
そう、動けるときと動けないときってあるなーって、
良い悪いじゃないですけどね。
だからできない人を見て何もやらないっていうのもまた違うのかなって思ったり。
落ちがないです。
いやいやいや、そんなことはない。
うん、すごいね、それは思ってるんですよね。
どうすればよかったのかなって。
でもなんか今見のお話こう聞いてて、
なんかやっぱりちゃんとその、なんて言うんでしょうね、
和賀さんはきっとそこでいろんなものを受け取っていて、
なんかこう困りごとをどこかその1割2割の人かもしれないけど、
なんかその誰かの困りごとをちゃんとなんか共有していたのかなというふうに思っていて、
いやそのことってすっごい大事だと思うんです。
長野の上田市というところで、
宿借りハウスっていう、
本当にいろんな人たちが集まってくる工場を運営している人たちがいて、
その中に尊敬するソーシャルワーカーの小野寺大学の先輩が、
それで関わってるりするんですけど、
その人が言ってたことの中で、
なんかすごい印象的だったのは、
街の中にちゃんと困りごとを顕在化させるっていうことを大事にしてるっていう話をしてたんですね。
いやそれってすごい大事だなと思っていて、
きっと誰かがどこかで、
さっきの話もそうですけど、
NPOだったり行政だったりの人たちが、
全部問題解決していたら、
困りごとってなかなか見えてこない。
でも全部が全部そんな、
いわゆる支援者の人たちによって、
困りごとを解決なんてできるわけなくて、
困りごとが街の中を歩いてて見えないって、
どこかでひっそりと困ってる人たちがいる状態なのかもしれない。
であれば、街の中にしっかりと困りごと、困ってる人の存在が、
ちゃんと出てくるというか、日常の中にそういう人たちの存在だったり、
そういう困りごとってのがちゃんと顕在化されているっていう状態の方が、
自然じゃないかっていう話をしてたんです。
そういう意味で社会を見渡してみると、
困りごとを抱えていたりとか、困ってるなっていう人って実はいたりして、
じゃあそれをすぐに周りの人たちがいい感じに対応できるかっていうと、
そんなことばっかりじゃない。
さっきの岡田さんの例みたいに難しい局面もあるんですけど、
でも困ってるな、困ってるね。
どうしようかっていう、ここをちゃんと共有できるかどうかっていうのが、
それこそその街の力を高めていくんだろうなと思う。
全てが全て何かできるわけじゃないし、何かしたほうがいいわけでもないと思う。
それこそ自分たちの力を、その人たちの力を信じて待つっていうことも一つ必要なアプローチだと思う。
でも少なくともちゃんと困ってる人がいて、困ってるなとか、
何かしたほうがいいかなとかっていうこの葛藤だったり、迷いだったり、
ここはすごく大事なとこだと思っていて、
だから支援者たちがやりすぎない、頑張りすぎないというか、
ちゃんと市民の人たちが葛藤する隙間だったり、
自分たちの力で何かしなきゃな、でもどうしたらいいかわかんないなとか、
これは自分たちが関わったほうがいいのか、いいのか関わらなくてとか、
この辺りの淡いというか、しっかりと残すというか、
作り続けてないと、それは自分の仕事じゃないっていう、
もうパキッと線が引かれていってしまう社会になっちゃうんだろうなと思って。
だからこそ、こういう仕事として取り組む人たちは、
そこをちゃんと意識的に市民の人たちの関わりしろだったりとか、
困りごとがちゃんと地域の中にあるっていう状態を作りつつも、
みんながそこにどうしようかどうしようかって、できる力をまたそこも作っていくというか、
そういうことも大事な役割なんだろうなという気はしてます。
いやだからなんかね、山岡、苦しいこといっぱいあるんだよ。
先ほど急病人の救護を行った影響で、ただいま電車が6分遅れております。
大急ぎのところ。到着は遅れまして、大変申し訳ございません。
確かに言うわ。
言うんですよ。
毎回言うわ。
言うんですよ。で、もう12回ぐらい行って、最後行ったんですけど、
いや、なんかこれさ、いや、まあわかるよ。
急いでる人もいる。で、さらにその電車の次の電車とかもまた遅れていって、
事情を知らない人からしたら、なんだよっていう気持ちもあると。
で、まあだから車掌さんは誰かの代わりに誰かに対してお詫びをしてるんですけど、
でもさ、そこにはさ、悪い人誰もいないんだよね。
暑い電車の中でバタッと人が倒れました。
で、必死に周りの人たちは何しようと思って手を差し伸べて頑張りました。
で、別にほっとくこともできるわけです。
でも手を差し伸べたわけですよ。
それによって電車が5分遅れたわけです。
いや、もし自分がそこで手を差し伸べてる人だったり関与してる人だったら、
なんかそんだけお詫びをされ続けたら、
なんか周りのお客さんに悪いことしたんじゃないかみたいなことを気持ちにもなりかねないわけで、
余計なことしたかなみたいな。
自分だったらなんかそう思うかもしれない、なんか余計なことしちゃったかなみたいな。
そんだけ5分も電車を遅らせてみたいな。
罪みたいな。
罪みたいな。
いや、つらっと思って。
で、別にさ、そういう表現じゃなくてもいいというか、先ほど救病人が出ましたと。
救護してくれた人がいて、そのおかげで一人の人の命が助かったかもしれないと。
ありがとう。
そういうわけで5分遅れてます。
で、いいじゃん。
なんなのそのお詫びと思って。
もう電車が遅れたら全部お詫びをするっていうマニュアルがあるんでしょうけど。
ですね、行き過ぎてる感じがある、確かに。
なんかさ、人々の支え合うっていう、そこの尊さをもうちょっとみんなわかってみたいな、
っていうこととかね、全部つながってくるんですけど。
タイさんは結構わかってほしいことがあふれてますね。
わかってほしいって言うとちょっとあれだけど、なんかそういう眼差しもあってもよくないみたいな。
でもなんか具合が悪い方は、できるだけ電車に乗らないでくださいにはアナウンスもしますよね、だから。
最近あの電車の中で救病人の方が増えておりますみたいな。
聞いたことがあって、何それと思って。
いや、そうだけどって。
もちろんね、すごく急いでる人がいて。
5分の遅れが致命的な人もいるかもしれない、でもかもじゃん。
不可抗力やんと思ってね。
確かにその目の前の一人の人の命を確かに、そこに手を差し伸べるってすごいことじゃん。
って思うけどね、なんかそういう引っかかりみたいなのがあんまりないかな。
もやもやしますよね、なんかね。
なんかね。
もちろん全部自分が見えたことに関与する必要はないなって思うんだけど。
でもちょっとした想像力みたいなものはなんか、もうちょっと欲しいよね。
今回カフェに立ち寄ってくれたのは、NPO法人PCS代表の西さんでした。
事業内容について興味のある方は、ぜひ概要欄からご確認ください。