やっぱり自分なんですよ、結局は。
いらっしゃいませ、スナック愛と毒、オーナーのゆきママです。
今日はですね、マシュマロをいただいたのもテーマにしたいなと思いまして、
ありがとうございます、マシュマロちょこちょこ食ってくださる皆さん。
で、これ見て、私、36歳になりました。
誕生日を迎えまして、自分に花束を買いました。
かわいくない?
バラをメインに。
これはね、長瀬レンのファンクラブで、お花が届くんです、レンから。
でもそのプラに私は入ってないので、セルフで花束を買いに行きました。
でですね、今日のテーマに行きたいんですが、
あ、乾杯しよう。
えっと、今日はちょっとお腹が空いたので行って、
ゼリーを飲みます。
これ、私のおばあちゃんが愛媛出身なんですけれどもね、
愛媛の好きな寒冬のゼリーです。
おいしいの。
せーの、かんぱーい。
今日のテーマが、
セッサタクマと同調圧力の違いって何?っていうマシュマロをいただいて、
とてもいい質問。
素晴らしい。こういうのを語るの大好きやん。
で、まあなんか考えてたんやけど、
まずなんか辞書的な話っていうと調べたら、
同調圧力は、
集団の中で小人数の人にみんなに合わせなさいっていう暗黙のルール的な、
こう圧をかけること。
で、こうはっきり命令されるっていうわけでもないのに、
空気感で違うことしたらあかんっていうようなのを感じさせる系のやつらしくって、
で、セッサタクマはもともと中国の古い詩が出典らしくて、
骨や角を切って、
弾や石を磨いて形を整えることから来てる言葉。
で、そこから学問とか人格を磨くこと、
仲間同士励まし合って競い合って、
お互い高め合うっていう意味になったらしいのね。
でも確かに、なんか似てるやん。
で、捉え方の問題やと思っていて、
で、こう旗から見たらちょっと似てるテーマというか、
周りの存在とか他者から自分がどう見られてるかだったりとか、
自分がどうありたいかみたいなところを多分分かってないと、
しんどくなってしまう可能性がどっちにもあるし、と思って。
でも結局、私がずっと言ってる他人軸なのか自分軸なのかっていう話やと思うねんな。
で、私は割と仕事に関してだったりとかもずるいことはしないし、
自分の中に神様がいて、ちゃんとそれを見てるっていうのをやってんねんけど、
それは多分、私が切磋琢磨の環境に身を置くのが好きな性格っていうだけで、
それを自分でわかってるからこう言えるんやと思うねんけど、
それを多分、みんな切磋琢磨したいに決まってるよねって思ったら同調圧力になってしまうし、みたいなことやと思うねんな。
その違いは調べたらわかるし、そういうことですって感じやんか。
でも、同調圧力に感じてしまうときも多分あるやろうし、私みたいな性格でもね。
それを同調圧力だと感じてしまう自分の心の状態のときもあるし、
基本、切磋琢磨する環境が好きやから、何もかもを反面教師にして自分にプラスにしてみたいなこともできるときとできないときがある。
私は毎年9月の誕生日が近くなるタイミングと、年末年始で新年新たになるときって病みがちやねんやんか。
何も慣れてないとか、自分が何もこの1年でできなかったって思うタイミングが、誕生日と新年とかが多くて、
それも自分の癖でわかってるのよ。
そういう性格をしてるっていうことがわかってるから、たぶん選べるんやと思うのね、それを。
同調圧力を感じてしまうときも、結構学びたがりがち。
何を同調圧力と感じてるのかとか、どうしてこれが嫌なのかとか、何でここから逃げたいと思うのかっていうのを考えるし、
切磋琢磨してるなって感じたときも、
この相手、周りの人ありきの話やからこれどっちも、
それも何を尊敬していて、この人から学べると思ってるのか、
ってことは自分に今何が足りないと思っていて、何を欲してるのかっていうのとかも、たぶん気づけるのね。
結局は受け取り手の話やし、自分の中に軸みたいな根っこみたいなのがあったら判断できるんやと思うねんけど、
だからといって別に、すごい流されることが悪いわけでもないと思うし、
それがほんまに、苦じゃない人っているやん。私はそれがめちゃくちゃ苦やねんけど、
でもこれ仕事に関してだけやっていうことが最近発覚したんやけどさ、
仕事を通しての自分はめっちゃちゃんとしたいし、めっちゃその高みを目指したいみたいな、
それこそ切磋琢磨できる環境で尊敬できる人たちだけと仕事がしたいと思ってフリーランスになってるし、
なんかアホな人と関わりたくないと思ってんねんけど、
それはでも私の基準の話やし、
それをさ、なんか考えてた時に、なんて言おうと思ってたっけ、
そのちゃんとしたいっていうのが効率的に仕事をこなしたいとか、
ちゃんと人のためになること、お客さんのためになること、最終的にはね、とかをしたいとかって思うんやけど、
なんかそれがなんでかなとか、その自分の正義感がどこから来てんのかなみたいな、
美学とかポリシーみたいなところが何から発してるのかっていうのは絶対あるはずやと思っていて、誰にでも。
なんかやっぱりそのさ、違いをそういうことなのねって頭でわかったとしても、なんか心がついていかない時もあるやん。
で、たぶんその私は流されるのがすごい嫌いで、
でもこうした方が絶対いいと思うっていうこととかは口に出したくなってしまうんやけど、
それが子と恋愛になると全然できなくなったりとかするから、
で、それをさ、最近ちょっと今向き合いバージョンしてんねんけど、
ちょっとそれに関しては何でかわからなさすぎて、恋愛コンサルみたいな人に相談してみようかなと思うぐらい、
自分の中でわからへんことが多すぎるんやけど、
でもそれも多分圧倒的に一つ言えることは、経験がないんやと思うね。
自分の中に統計がなくて、わからないみたいになるのよ。
だから学校とかさ、会社とかさ、仕事関係だったりとかもそうやねんけど、
結局同調圧力を感じるときも切磋琢磨できる環境だって思えるときも、
周りにどういう人がいるかにすごいかかってくると思っていて、
で、私は学校もそんなに好きじゃなかったし、絶対戻りたくないのね、別に学生時代に。
すごい楽しかった記憶とかもそんなにないし、
お金を自分で稼げるようになった大人の方が圧倒的に楽しいし、自由やし、
その人間関係を選べる利点は大人になったらすっごいあると思ってて、
その自分で選んだ責任ももちろんついてはくんねんけど、
でもそれをさ、なんか選べるって素晴らしくない?
その多様性ってこういうことを言うてなる。
そのさ、自分が嫌だと思ったら別に嘘をついてでもいいし、
自分を守るためでもいいから逃げることだってできるし、
それをこう、誰かに責められたとってさ、
自分の心を守るための最善がそれなんだったとしたら、
その時のことを過去振り返ってそんなに後悔してることって私なかったりするから、
その自分の内なる声みたいなものを聞き続けると、
こう、わかってくるんじゃないかなって思うし、
で、自分はすごい切磋琢磨するのが好きって思ってても、
その環境が時間が経ったりとか歳とったりすると、
嫌になったりすることとかももちろんあるしさ、
人間って変わるからって考え方も変わるし、
それが当たり前やし、
それを認められると多分相手のことも認められるようになるんやと思うねん。
ほんまにそれが、子と恋愛やとうまくいかへんねんけど、
ほんまにそれを感じるから、
仕事に関してなんてめちゃくちゃ楽やと思うねんな。
職場を変えるだとか、仕事の職種を変えるだとか、
そんなんなんぼでもできるし、いくらでもどこにでも行けるからさ。
36でこんなふわふわしながら、ポッドキャスターでこんなこと喋ってるだけでも生きていけるし、
この国でそんなのたり前のことないと思うから、
いけんねん、別に。絶対大丈夫やねん、みんな。
これを聞いてるみんなも絶対大丈夫やし、私も大丈夫。
で、私、昨日か、昨日が誕生日やったんやけど、
昨日、寝るときに、なんか、私ほんまにスピー大好きやし、
で、昨日、スピーのずっと行きたかった、あのー、
オノーテルヒコ、ん?オノー、なんやったっけ?
オノーテルサキ神社っていうところに行ってきたのよ、東京にある。
で、そこがあの、トラさんってさ、あるやん、厚見教師さんの、男はつらいよの、
あのトラさん役を勝ち取ったその厚見教師さんが、全然売れてない名の時に、
僕はこのタバコをやめるから、大好きなタバコをやめるから、
役者として成功させてほしいって、お願いに行った神社なのね。
で、こういう決意を一つ置いていったら、
その、男はつらいよシリーズが決まって、役者として成功できたっていう話があって、ずっと行きたくて、
で、私はこの36の誕生日の時に、ちょっと行こうと思って行ってきたのね。
で、すごい気が良くてさ、あのー、いい神社だったのよ、こじんまりした神社やねんけど、
ちょっとねご主任ももらってきて、帰ってきたんやけど、
なんかその状態でさ、その、なに、そんぐらいスピ好きやねんけど、
瞑想ができないのね。
あの、頭の中がうるさすぎて、やかましすぎて、
全然その、なんやろ、グラウディングとかさ、ちゃんとこう繋がる感覚みたいなのの、
瞑想が全然できひんくて、
なんか洋派やってる時とかやったら、一応その、先生がいて聞くことに集中してってできんねんけど、
自分一人で瞑想ができなかったんよ。
でも、その瞑想の代わりにやってることがこのアウトプットなんやと思ってて、
だからこのポッドキャストは私にとって瞑想なのかもしれないんやけど、
なんかこれをやってると、考え方が整理できたりとか、
あ、そうそうって思い出すことがあったりするのね。
で、まぁこのまんまをAIに喋ったりとかすることもあんのよ。
自分がこう思ってることをまとめてほしいって思った時とかすんねんけど、
でもその、なんやろ、相手のことを理解するとか、相手が言ってることの本心を見抜くなんて、
絶対人間にはできひんし、
そんななんか言葉の裏に隠れた本質がこうかもしれないとか思い出したら、
キリはないのよ。
キリはないけど、それを考えなくていいとも思わないし、
その思いやりという部分では、相手がどうありたいと思ってるのかとか、
どう感じてるのかっていうのの気遣いとか思いやりをもって接するみたいなことはしないといけないとは思うけど、
でもそれより絶対、自分のほうが大事やから。
あなたはいないし、私は私しかいないのね。
っていうのを考えてたのよ、昨日。
瞑想全然できてないよ。夜寝る前にね、誕生日の夜に。
でもなんか、人生で初めて、
頭の中で考えてる言葉が脳内を閉めてるの。
ずっとね、私の頭の中では自分の頭で考えたことがずっとここにいて、ずっとここで喋ってるの。
で、こういう話をしてる時もなんかずっと考えてるんだろうな。
考えてることを続けながら寝る、入眠の間、寝る時にそんなことをいつも通り考えてたんやけど、
何にも意識してない、頭から出てきてないタイミングというか、
ほんまに寝る直前なんやと思うね。
落ちる直前に、なんかわからへんけど、
でも私幸せやもんなっていうフレーズが湧いてきたのね。
すごいスピーみたいなこと言ってるな。
でも私幸せやもんな。こんなに幸せやもんなって後から言い聞かせながら寝て。
なんかでもそれが、ほんまに今までのない、なんか出てきてた言葉の感覚の発信源が、
なんかこっちじゃなくて、どっから来たんやろ?心から来たんかな?
なんか、でも幸せやし大丈夫とか、何とかなるとか私あんまり好きじゃない言葉やってんけど、
それがなんかちょっと思えるようになったのかもと思って、36にしてようやく。
で、でも幸せやもんなって思えることが全てなんやなと思って。
だからその関係性ありきの話、同調圧力もね、切磋琢磨も戻すけど無理やり。
でもこれは周りの人がいての自分とか、周りの環境によって変わる自分である話やねんけど、
結局それが他人軸なのか、自分軸なのかの話になります。
私はね、矢印がどっちに向いてるのかとかが向きます。
でもその前に、自分がそれがなんで嫌だと思うのかっていうことを理解してあげるとか、
それを楽しめるかとか幸せだと思えるかとか言い出したら、またちょっと一歩難しくなっちゃうのかもしれないけど、
大丈夫なのよ、それで。
そう感じること時点で人間だもの。人間だからしょうがないし、しょうがないというかそれでいいし、
で、この間からなんか本の紹介みたいになってるけど、それはそのこの間読んでた本、その前かに読んでた本がこれなんやけど、
寂しい夜にはペンを持て、ちょっとなんか海の中の子たち、子たちっていうかタコの男の子が主人公で、
このお話が小説っぽい、自己啓発っぽい、なんていうの、話になってんねんけど、
ここでやっぱりその文字を書くとか、言葉を扱いながら日記を書くことをお勧めしてる本なのね。
そのなんやろ、読書感想文が苦手だった人とか、何を書けばいいのかわからないとか、自分の気持ちがわからない人は日記を書いたほうがいいらしいの、この本によると。
で、そのなんか主人公の男の子がどうやって自分と向き合っていくのかとか、そういう自分が感じたことを本当に単純な楽しい嬉しいムカついた悲しいみたいな話じゃなくて、
どこにフォーカスをしてその気持ちを分解していくのかみたいな手順が書かれている本なんやけど、それを私は昔からしてると思って、なぜなら頭の中がうるさいから。
これを多分外に出さないとしんどかったんやと思うのね。
で、あんまり同調圧力を感じたことはないんやけど、みんなと同じは確かにずっとできなかったし、それがコンプレックスでもあったけど、そこから逃げる術を私は元から持ってたのか、本能的に逃げたのか、どっちかやと思うねんな。
で、そのやってたことは、ほんまに言葉に出すやってん。
もうほんまに書き殴るノートがあって、私今もずっと書き殴ってるノートがあんねんけど、いろんな種類によってね。
なんかちょっとこう、新月の夜とか満月の夜とかにやるようなものとか、自分が調べたこととかを書くノートと、
これは手帳で、こっちは無印のこのノートすごい好きなのよ。
見開きがパッて全部開いて書けるノートにハンケドンを貼ってて、ここにも持ち歩くサイズね。
カバンに入るサイズと、こっちももうちょっとそのジャーナリングとか日記的なものを書くときに使ってるやつをやってんねんけど、
適当にそのとき書きたいと思ったノートに書いてるっていう感じなのね。
で、こういうことを確かに私小学生ぐらいの時からずっとしてて、で、お母さんと交換日記とかしてたの。
家の中で。で、家族で交換日記とかしてたのね。
なんかこういうことをやってると、で、言語化がすべてだとは思わない。
別にその全部を誰かに説明しなくてもいいけど、自分のことを自分の言葉で自分の感情を受け止めてあげる作業って、
たぶん言葉を知ってたりとか、いろんなバリエーションを持たせてあげる練習をしないと、たぶん自分の気持ちをわかるようにはならないんだと思うの。
それをたぶん自然とやってたから、今ポッドキャストやってんねんやろうなとか、
これで、こうなんやろ、ほんまにこの同調圧力を感じてしんどい子とか、なんか切磋琢磨の環境を探してる子だったりとかに言えるとしたら、
自分と向き合おう。自分の感情を自分で説明できるというか、わかってあげられるようになったら、もっとたぶん楽になると思うし、
その嫌な部分をたくさん見ることもあると思うの。人のそういうところに気づいたりとか、ずるいことをしてるところに気づいたりとか、
自分の恥ずかしい部分とか、弱い部分みたいなのに向き合うことになったりとかもするけど、
それはそれこそあれやん、先週話してた悲しみと痛みの話につながってくると思うし、
でもそういうのをしていかないと、結局、他人に全部わかってもらうは無理だし、100%共感してもらうとかするっていうのも無理なのよ。
そうなると、ほんまに押し勝つみたいなことになるの。アイデンティティを全部人に丸投げするみたいなことになっちゃうから、
それを私は望んでないのね。誰かに委ねるっていうことを望んでないし、
自分を幸せにしてあげられるのは自分しかいないという、恋愛がうまくいかない言い訳も含め、
それをちゃんと自分と付き合っていくっていうのをやらないといけないんだなっていうのを、
このマシュマロをポンって飛んできてくれてから考えたりしてました。
それで、責められることもない。ないよ。大丈夫。絶対大丈夫。
でも、責められたとしたら、もうブチ切れていい。その場で別にその人に言ってもいいし、
傷ついたって言って怒ってもいいし、その場から逃げてもいいし、自分が守るべきはまず自分やし、
そのために多少さ、あれよ、傷つくこととか傷つけることとかもあると思うけど、そうじゃないとダメなのよ、人間って。
何も気づかないし、失敗からしか学ぶことはできないから、人間関係も多分結局そういうことで、
その環境に身を置いてて嫌な時に、何言われたって響かへんやん。嫌いな人に言われたって響かへんやん。
好きな人に言われてようやくさ、そうかもしれないって思うやん。
だからそういう人がたくさんいるのはいいと思うのね。芸能人だろうと推しだろうと何でもいいんだと思うんだけど、
そこに自分のアイデンティティーを全部丸投げするのは良くないと思う。
何の話?
そんな感じのお話でした。
道長八六と瀬戸たくまの質問をくれた人はこれを聞いてくれてるかはわかりませんが、
お答えになったでしょうか。ちょっといろいろ考えてみました。
では、今日はこの辺で終わりたいと思います。
ほな、毎度おうきに。