恥じる対象の識別
こんにちは、モロトメ ジョーです。
今日もチャレンジしてますか?
今朝も散歩をしながら収録しています。
時間は5時30分。
横浜の空は少し明るくなってきました。
晴れていると、この時間には少し明るくなってきますね。
だんだん日が長くなっているということでしょうか。
しかし今日は風がかなり強く吹いていまして、だいぶ寒いです。
なので、気合を入れてお話をしていかないといけないかなと思っています。
では、今日のテーマは、恥じる対象を間違えないというテーマでお話をしてみたいと思います。
恥じる対象、つまり自分が恥ずかしいと思う時に、誰を対象にしてそのような感情を持っているのかということなんですが、
結論から言うと、他人に対してではなく、自分に対して恥じる。
これが正しい恥じるということなのかなと思っているという話です。
ではということで、少し自分語りをしますが、
僕は今もですが、昔はもっと泳げませんでした。
全然泳げなくて、15メートルとかそんなものでしょうか。
クロールで言うと息継ぎができないということなんですよね。
なので全然泳げなくて、学校のプール、水泳の授業があったりするわけですが、
25メートルのプールの途中で立ち上がってしまう。
これはこれで恥ずかしいというような状況かと思います。
そんな状況が高校生まで続きまして、
僕の時代にはプールというか水泳の授業があってテストもあったんですけど、今はどうなんでしょうかねと。
それはさておき、テストでも途中で立ち上がってしまって、それ以上泳げないわけですから、点数も悪いということもありますし、
肌からぐすぐすと笑われたような経験もなきにしもあらずということなんですけれども、
僕は高校生になってやっと水泳ができるように一人で練習をしに行くようになりました。
土曜日とか日曜日とか、時間が空いているときを狙って近くの区民プールに行って一人で泳ぐ練習をしたんですね。
その結果、なんとか50m、これはクロールと平泳ぎで泳げるようになったんですよね。
この時思い出してみると、僕は確かに恥ずかしいという感情はあったんですけれども、
誰に対してかというと、他人に対してというよりは自分に対してだったんですよね。
そこは僕が自分で偉いなと思っているところなんですけれども、
他人に対して恥じるということがなかったというのは、今偉いと言ってはみたものの、
実は昨日も話をしましたが、僕は高校時代に友達がいませんでしたという寂しいエピソードを持っていますので、
そういう意味で、友達とかそういった周囲に対して恥ずかしいという気持ちはかなり薄かったということなんですよね。
それよりも自分、もう少し正確に言うと、過去の自分ですよね。
実はどういうこともないですが、小さい頃、スイミングスクールに通わせてもらっていたんですよね。
泳げないという、よくわからない状況だったわけですけれども、
そういった部分から、自分は過去の自分に対してどちらかというと恥ずかしいという思いがあったわけです。
なので繰り返しですけれども、恥じる対象を間違えないということもある意味では大事なのかなと。
なぜ大事なのかというと、他人に対して恥ずかしいという思いが強いと。
努力と成長
つまりそれがエネルギーになってしまうと、いつも他人の目がないと何もできなくなってしまいますよねということなんです。
これはこれで自発的な動機みたいなものが欠けてしまうので、どうかなという一面があるでしょう。
それから他人と比較みたいなことになると、上には上がいるわけなので、
例えば先ほどのプールの話であれば、50メートル泳げるようになったとしても、
もっともっと沢山泳げる人もいれば早く泳げる人もいるわけですから、
そうするとそこと比べて自分はダメだなというようなことにもなってしまう。
それもあまり健康的ではないですよねということになるかと思います。
そういったことも踏まえて、
昨日の自分よりもちょっとでもいいから良くなる努力をする、
昨日の自分に恥じるのであれば、他人ではなく自分に対して恥じようよというのが僕が今思っていることでもあります。
なのでもう一度言いますけれども、
昨日の自分よりもちょっとでもいいから良くなる努力をする、
これによって自分の人生の幸福度も上がるのかなと。
幸福度も上がるというのは、他人の目を気にしなくて済むし、
他人との比較に晒されなくて済むという意味でもありますよと。
ただ、ちょっとでもいいから良くなる努力をするというその努力の部分ですよね。
この間もちょっと話しましたけれども、
努力という言葉には、頑張らなければいけないとか、苦しくても続けるべきみたいな意味がありますよね。
だから、もっと努力しろという言葉がまるで相手の今を否定するかのようで、
今のままでは価値がないかのように伝わってしまうこともあるのかなということなんです。
今のままでは価値がないというようなことで伝わってしまうと、
これがプレッシャーになって、辛ければ休めばいいよねというようなアドバイスが出てくるのも、
それはそれで自然なことかなと思います。
ですがということなんです。
ここで大事なのは、努力そのものを苦しみみたいなものと結びつけるのではなくて、
人生そのものと結びつけてみるのはどうでしょうかということです。
人生というのはと、改まって話をしてみると、人生というのは生まれてから死ぬまでの旅みたいなものですよね。
この旅においてというか、旅の中で人は変化をし続けるわけです。
変化しない時間というのはありませんよね。
常に何かしら変化している身体としても心としても、あるいは環境としてもということです。
そういう意味で変化しない時間というのは一秒たりともないわけです。
ではその変化を自分の意思で、自分の力で少しでもいい方向へ向けていくという、
その行動こそが努力なんじゃないかと僕は思っていますよということですね。
言うなれば人生の舵取りみたいなことです。
つまり、努力というのは単なる苦行、苦しいことではなくて、
昨日の自分より半歩でもいいから前に進むこと。
これは人生という旅をどう歩いていくのかという選択の選び方の問題であって、
生きること、人生そのものと重なるんじゃないのかなと僕は思っています。
もちろん努力をしないということを選ぶのも自由、人それぞれですよね。
でも努力しない状態が続いたら、人生の旅路が流される方向に向かってしまうんじゃないかと思うんですがどうでしょうか。
自分の思ってもいない方向に流されてしまう。
人生の旅の舵取り
例えば何もしなくても時間は過ぎていくし、環境も変わっていきますよね。
でもその変化を自分でコントロールしない、自分の意志力でコントロールしなければ、
周りに振り回されたり、ただ受け身で生きてしまうことになるわけです。
そうすると本当に自分が望んでいる方向に進むことが難しくなるんじゃないでしょうか。
努力というのは人生の舵取りだと先ほど言いました。
自分という船の舵を他人任せにできないですよね。
だからどんなに疲れていても自分という船の船長は自分であるんだということ、
舵は誰にも握らせないぞという気持ちは大切にしたいなと僕は思っています。
多くの人が努力を頑張ることとか、限界まで追い込むみたいなことだと考えてしまいがちなんですけど、
そうではなくて、努力というのは歩くことをやめないことだと置き換えてみるとどうでしょうか。
どんなにゆっくりでもいいし、昨日より少しでも前に進めばいい。
それはそれで確実に一つの成長なのかなと思うわけです。
そういう意味では時には休んでもいいし、でもそれは立ち止まるということであって諦めることとは違いますよね。
旅の途中で休むのは休息を取るのは当然のことだし、だけどまた歩き出すということです。
そのまた歩き出すというその意識、思いこそが努力の本質じゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。
努力を走ることと捉えると疲れてしまいますが、歩き続けることだと考えれば、
人生という旅路も少しは楽になるし、努力もしやすくなるんじゃないかと思います。
そんなわけで、昨日の自分よりもちょっと良くなる努力をする、その前提として走る対象を間違えない。
そんなことで話をしてみました。
今日もまた新しい一日が始まりますが、そして努力の機会はチャンスは巡ってくるわけですが、
あなたの姿勢はどうでしょうかと、そんな問いかけをしつつ、今日のお話を終わりたいと思います。
それではこの後も良いチャレンジを。また明日。