1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #531 じゃんけんと構造主義 fr..
2023-03-21 10:24

#531 じゃんけんと構造主義 from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/350494
https://radiotalk.jp/talk/353005
https://radiotalk.jp/talk/757171

主要参考文献
『構造主義と記号論』 (テレンス・ホークス、紀伊國屋書店)
『寝ながら学べる構造主義』 (内田樹、文春新書)
『はじめての構造主義』 (橋爪大三郎、講談社現代新書)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:07
始まりました、志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。サミン総裁です。
今回は構造主義っていうのをテーマにお話ししていこうと思います。
聞いたことあるぞっていう方もね、多いと思います。
この構造主義についての入門書みたいなのも、新書とかでね、結構簡単に読むことができると思います。
構造主義、Wikipediaによると、
構義には、広い意味では、
現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、
その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。
いまいちピンとこないんじゃないかなと思うんですが、
なんでこの構造主義の話をするかというと、
ある意味で構造主義っていうのは言語学から始まったんですね。
フェルディナンドソシュールっていう言語学者から始まって、
その後、レビストロースとか、ロランバルトとか、いろんな学者が出てくるんですけど、
一応、ソとしては言語学者であるソシュールから始まっています。
この構造主義的な考え方がかなり言語にマッチしていたっていうか、
その言語に使われていた構造主義的な考え方を、
例えばレビストロースなんかは人類学の方面で、
その親族関係とかね、あるいは神話なんかも言語学の手法で解き明かそうとしたんですよね。
で、言語学っていうのはソシュール以前ソシュール以後っていう風に大きく分けることができて、
それ故にっていうか、構造主義っていうのは言語学を学ぶ上では避けては通れないものです。
多分。
で、過去のこの番組のエピソードでもソシュールの話っていうのはまあまあやってると思うので、
そちらもね、関連エピソードとして概要欄にリンク貼っつけておこうと思うので、
あわせて聞いていただけたらと思います。
というわけで今回は現代思想において重要なものである、
03:02
さらに言うと言語学においてもかなり重要な構造主義というものについてお話ししていきます。
まあさっき wikipedia の概要みたいなとこ読みましたけど、
あれじゃ何を言ってるかよくわからないと思います。
まあいろんな現象の背後に構造っていうのがあって、
で、それはよく無意識で潜在的なものなので捉えづらいとかね、
その見た目だけじゃわからない裏のっていうかな、
そういったものを探ろうとするのが構造主義なんですけど、
特にね言語学において構造主義的な考え方っていうのはどういうことかっていうと、
関係的で相対的な見方をするっていうことじゃないかなと思います。
まあこれでもよくわかんないと思うので、
僕はねこの構造主義的な考え方を考えるときは、
じゃんけんを思い浮かべるのがすごくわかりやすいと思うんですよね。
じゃんけん、グー、チョキ、パー。
このグーとチョキとパーというそれぞれの要素っていうのは、
じゃんけんという一つの体系の中で意味があるものです。
じゃんけんというその閉じた世界を飛び出したところで、
グーやチョキやパーっていうのは意味を持たないんですよね。
将棋とかチェスとかそういうまた別の競技にグーとかチョキとかパーとか出しても、
何の意味もないですよね。
当たり前といえば当たり前ですが、
これが一つ構造主義的な考え方で、
まずその全体に対して個々の要素があるっていう考え方をします。
で、その全体っていうのは個々の要素の集まりっていうわけではないんですね。
逆で、全体ありきの個々の要素っていうのが構造主義的な考え方です。
これはどういうことかというと、じゃんけんという体系の中では、
あれはグーとチョキとパーの集まりって考えるんじゃなくて、
それぞれの要素っていうのは否定的にしか、ネガティブにしか定義できないんですね。
グーっていうのはチョキとパーではないもの、チョキっていうのはグーとパーではないもの、
パーっていうのはグーとチョキではないものっていうふうに否定的に定義されるものです。
で、このグーがグーであるためには、チョキやパーと異なるっていうことが一番大事なことなんですね。
つまりこれが関係的とか相対的っていうことなんですけど、
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積極的にグー、チョキ、パーが何かしら意味を持ってるんじゃなくて、
それぞれの要素は隣り合った要素との差異、違いによって認められるものです。
で、これが関係的だっていうことなんですが、
もう一つここで言えることは、グーやチョキやパーのその実体性っていうか実質性っていうか素材性とか、
その現実世界での実現の仕方っていうのはどうでもいいんですね。
どういうことかっていうと、グーチョキパーって普通片手で出すものですけど、
これは足の指でやったって別にいいんですよね。
実際足指じゃんけんとかあるし、
あるいは足のじゃんけんでグーが閉じててチョキが前後でパーが開くみたいなじゃんけんの仕方もあります。
こういうふうにその顕在的な見た目の世界での実現の仕方っていうのは、
じゃんけんの本質ではないんですよね。
グーチョキパーっていうのがそれぞれ異なっていれば、
手を使おうが足を使おうが何でも構わないということになっています。
あるいはサザエさんのプラカードっていうんですか、あれとか、
あるいはカイジっていう漫画で、そこにじゃんけんのカードゲームっていうのが出てくるんですよね。
そういうふうに身体を使わなくても構わないんですね。素材は何でもいい。
大事なのはじゃんけんという体系があって、それぞれの要素が異なっているっていうのが大事です。
これは言語学においては音韻論という分野に通じるところがあって、
ぜひこちらは関連エピソードを聞いていただけたらと思います。
じゃんけんを構造主義的に見ると、
そういうふうにいかに関係的であるか相対的であるかっていうのがわかるんですが、
じゃんけんでもう一つ大事なのは、
グーが石でチョキがハサミでパーが紙だっていうことは、
そのじゃんけんのルールの中では何にも意味を持たないということですね。
一応裏付けっていうか理由としては、
なんだ、紙は石を包めるからパーの方が強いよとかね言ったりするんですけど、
それはじゃんけんの世界では本当は関係のないことです。
でこれも言語学において重要な考え方で、
まあソシュールのやった重要な仕事の一つである、
強字体と通字体っていうのを区別しなきゃいけないんですね。
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通字体っていうのは簡単に言えば歴史です。
つまりグーが石でチョキがハサミでパーが紙みたいな、
そういった由来っていうのはじゃんけんという体系には関わってきません。
で強字体っていうのはそういう、
何というかな、今話されている、使われている言語の体系のことで、
そういう現実世界の言語を相手にするときは、
歴史っていうのは考慮しないっていうのが言語学の原則となっています。
つまり言語の強字体っていうのとその歴史通字体っていうのは、
しっきり区別するべきだっていうのがソシュールの主張の一つなんですね。
今回のエピソードは題材はわかりやすいんですけど、
抽象的なのでぜひ関連エピソードを聞いていただいたりとか、
構造主義の入門書なんかを読んでいただけたらと思います。
まあ相当深い話ですね今回はね。
というわけで最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回のエピソードでお会いいたしましょう。
お相手は志賀十五でした。
10:24

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