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始まりました、志賀十五の壺。みなさん元気で過ごしていらっしゃいますでしょうか。志賀十五です。
さてさて、今日のトークテーマは、認知言語学っていうね、テーマでお話ししていこうと思います。
なんかいきなり聞き慣れない言葉って感じがするかもしれませんが、実はですね、
マキムーさん、ラジオトーカーのマキムーさんからリクエストをいただいたんですよね。
そのトークで話してほしいみたいなリクエストの中に、認知言語学っていうのがあって、何でもしてますね、マキムーさん。
で、それでこのトークを撮ってみようと思った次第なんですよね。
ただね、僕はね、認知言語学はちょっと苦手なんですよね。嫌いっていうわけではないんですけど、嫌いなのかな。
ちょっとね、勉強したことはあるし、書籍も持ってたりするんですけど、ちょっとね、ちょっと苦手なとこはあるんですよね。
だから逆にこういうふうにリクエストをいただいたのはすごいありがたいことですよね。
っていうのが、自分からは到底トークにしなかったと思うんですよ。
無理やりにでもそうやって外から行ってくださることで、こういうふうにね、新しいテーマで話すことができるということで、
マキムーさんリクエストありがとうございました。
ありがとうございましたって言うと終わっちゃうみたいですけど、そもそも認知言語学とは何かということを、
Wikipediaを読んでみましょう。
認知言語学はゲシュタルト的な知覚、視点の投影移動、カテゴリー化などの人間が持つ一般的な認知能力の反映として、
言語を捉えることを主とする言語学の分野、およびその処理論となっているんですね。
何を言うてるんだって感じですね、これね。
認知言語学って言うぐらいですから、その認知っていうことがすごい関わってくるわけですよね。
認知っていうのも何なのかっていうのもまためんどくさいところですけど、
要はですね、人間の物の見方とか感じ方とかもそういうのも含めて、当然認知する能力っていうのはありますよね。
そういう外界を捉える能力が元になって、我々は言語を使っているという理論なんですよね、認知言語学って。
これってね、パッと聞いたときに当たり前って感じがするかもしれませんけど、
ただね、人によってはそういった人間の外界を捉える能力と言語を話す能力っていうのをきっぱり分ける人もいるんですよね。
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ただ、認知言語学はそういった人間の認知能力に基づいて言語は使われているというか、作られているというかね、そういうことなんですよね。
ただね、僕の感覚としては、これは鶏と卵みたいなところがあるような気がするんですよね。
人間の認知能力は逆に言えば言語に基づいているとも言えると思うんですよ。
だからね、ちょっと分かんないんですよね。やっぱり自分自身が、自分自身で僕だけじゃないですけど、言語を話す身なので。
その認知する能力に基づいて言語が発展しているのか、それとも言語っていうのがあるからそういう人間特有の認知の仕方ができているのかちょっと分かんなくなっちゃって、
納得できていないところも結構あったりするんですよね。深く勉強していないっていうところもありますけど。
なので、分かりやすい面も結構あったりするんですよ、認知言語学って。
とっつきやすいとこもあって、割と人気な分野だったりするんですよね。
僕はね、その分かりやすい分、全部こじつけっぽく聞こえちゃうようなところがあるっていうのがあって、
そういった理由でちょっと苦手なとこはあるんですね。
こういうことを言ってても全然ピンとこないと思うので、具体的な話をしていくとですね、さっき言ったWikipediaのとこだとカテゴリー化っていうのがあるので、
それを考えてみましょう。カテゴリー化。
繁中化ですね、日本語で言うと。グループ分けぐらいでもいいかもしれませんね。
人間っていうのは、当然文明が起こる以前からだと思いますけど、いろんなものをカテゴリー化して生きてきてるわけですよね。
学術的なことで言えば分かりやすいのは、動植物の分類とかですよね。
哺乳類か爬虫類か両生類かみたいにグループ分けしてるわけですよね。カテゴリー化ということになります。
あるいは、そんな学術的なことでなくても仲のいい友達グループなのか、声をかけられたら飲みに行くぐらいの知り合いグループなのか、みたいなカテゴリー化も行ったりしてますよね。
そういった認知能力って言うんですかね。これが言語にも反映されているということなんですね。
認知言語学の知見に立つと。
言語学以前のアリストテレス的なとか言ったりするんですけど、論理学上のカテゴリー化っていうのは、いきなり硬い話になっちゃいましたけど、
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プラスかマイナスか、ゼロか100か、みたいな理論だったんですよね。
例えば、Aというグループに入るかどうかっていう、どっちかしかないっていうような考え方だったんですが、そういったものもだんだん否定され始めたんですよね。
つまり、そのカテゴリーに入るかどうか微妙なものもあるということですね。
よく、この認知言語学の導入とかで挙げられるのが鳥なんですね。
スズメとかツバメとか、ああいうのはワシでもタカでもいいですけど、鳥だって感じで鳥というカテゴリーに入ると。
一方で、ペンギンとかダチョウとかって、一応鳥だけど中心メンバーじゃないなって感じがするんですよね。
なぜなら飛べないからってことなんですよね。
さらに言うとキウイとか、ニュージーランドにいる飛べない鳥ですけど。
つまり、この鳥っていうカテゴリーの中にも、鳥か鳥じゃないかというよりは、そのカテゴリーの中で中心と周辺っていうのが認められて、中心メンバーはスズメ、ツバメ、タカ、ワシとかですよね。
その中心から離れていくと、どの色が薄くなるようなイメージですけど、さっき言ったペンギンとかダチョウとかキウイとかがいるんですよね。
こういうのをプロトタイプって言ったりするんですよね。こういうのっていうか、中心メンバーのことをプロトタイプと言います。
日本語だと原型っていうのかな。
言語学以外で多分プロトタイプっていうの使われてたりしてると思うんですけど、そっちはとりあえず置いといて、認知言語学でプロトタイプ。
最もそれらしいものみたいな感じですね。
今、鳥の例を出して、このカテゴリー化とプロトタイプっていうのを説明したんですけど、これを認知言語学って言語学ですからね。
言語の面で当てはめてみると、品詞の分類とかもそういうところがあったりするんですよ。
例えば、動詞っていうものは、その字が表すごとく動きを表すものですよね。
さらに物理的な変化があったりとかっていうのが、動きとかあったりっていうのがプロトタイプな動詞と言えます。
最も動詞らしい動詞は、言語学では物騒ですけど、殺すとかなんですよね。
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あれって、動きもあって、一時的に行って、しかも状態変化が起こるってことで、殺すってね、物騒ですけどプロトタイプな動詞ってよく言われるんですよ。
あるいは、今殺すっていうのは他動詞ですけど、走るとかっていうのも動詞らしい動詞とプロトタイプであると言えます。
ただね、これが周辺的になってくると、つまりプロトタイプから離れていくと、なんかよくわかんないことが起こったりすると、
例えば、違うっていうのは日本語で動詞ってことになってますけど、つまり活用も違わないとか違ってっていう言い方になってると。
ただ、動詞のカテゴリーなんですけど、プロトタイプから離れて周辺的にあるので、ちょっと形容詞っぽくもなってるんですよ。
例えば、違くないとか違くてっていう形容詞的な活用の仕方をすることがあるんですよね。
なので、プロトタイプから離れるとそういうことが起こるっていうことで、やっぱりカテゴリー化の問題は0か100ではないっていうのがこういうところで見られるんですよね。
あるいは、日本語で好きだとか嫌いだっていうのは一応これは形容動詞っていうことになってるんですよね。
犬が好きだ、犬が嫌いだ、こうなってるんですが、これ言語が変わって英語とかだとlikeとかdislikeっていうのは動詞ですよね。
なので、この好きとか嫌いっていう概念はかなり動詞のプロトタイプから離れているので、英語では動詞のカテゴリーに収まってますけど、
日本語ではもう動詞から離れちゃってる、形容動詞になってるということなんですよね。
こういったことが認知言語学がやってることなんですよ。
あんまりいい説明ではなかったかな。
話は分かりやすいですが、分かりやすいだけにじゃあ何なのって感じもしますね。
認知言語学が果たしてどういうものなのかっていう説明にはちょっとなってなかったかもしれません。
あとは認知言語学ではメタファーっていうのがよく挙げられるので、機会があったらそっちの話もやってみようかと思います。
というわけで最後まで聞いていただいてどうもありがとうございました。
コメントとかもしあればいただけたらと思います。
ではまた次回お会いしましょう。ごきげんよう。