エティックとイーミックの基本概念
エティックとイーミックという用語があります。 簡単に言えば、物の見方とか分析の仕方みたいなことで、
エティックな観点から言えばとか、イーミックな視点で言えばとか、まあそんな使われ方をします。
言語学内し人類学、あるいはそれにまたがるような言語人類学なんかで使われる用語だと思います。
前者のエティックっていうのは、他の言語や文化、体系と共通した枠組みで観察する、そういった視点のことで、
後者のイーミックっていうのは、その言語、文化、内部で どのような対立を持っているか、どのような構造、体系を成しているかっていうようなものの見方です。
なかなかふわっとした言い方でわかりづらいと思いますので、 まずはエティック、イーミックの語源からお話ししていこうと思います。
BGMです。 始まりました4月15日のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
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さて今回のエピソードのテーマであるエティックとイーミックですが、 これは一種の造語です。
もともとはフォネティックとフォニミック この2つの用語に由来します。
フォネティックの方は音声学的、 フォニミックの方は音韻論的という意味で、
音声学と音韻論っていうのは どちらも言語の音、言語音を扱う
言語学の分野と言っていいんですが、 その見方っていうのが異なるんですよね。
音声学っていうのは言語音の客観的な記述、 科学的な記述、あるいは物理的な側面を扱う分野です。
それに対して音韻論というのは一つの言語の中で、 その言語の中での音の記述という感じですね。
これもちょっとわかりづらいですが、 音韻論が対象とするのは音想と言われる音の単位です。
これは音声とは明確に区別されて、音想というのは その言語の中で意味の区別に関わる音の単位です。
物理的にはいろんな音のバリエーションがあったとしても、 それが意味の区別に役に立っていないのであれば、
それは音想とは認められません。 わかりやすいのは日本語のラリルレロの音、
龍音とか単にラ行と言ってもいいですけど、 このラ行の音は
一種類しかないんですよね。というか、日本語母語話者にとっては 一種類しかないというふうに認識されていると思います。
一方、英語にはLとRの区別がありますよね。 ここで英語でLとRの区別があると言っているのは、
LとRそれぞれの音が意味の区別に関わっているからです。
正しいのライトと 明かりのライトは別語の単語として英語の中では存在しています。
こういうふうに意味の対立に関わっているのであれば、 別語の音想ということになります。
一方、日本語でラーメンというのを 英語のLみたいにラーメンと言ったとしても、
英語のRみたいにラーメンと言ったとしても、 意味の区別には関わってきません。
確かに 音色はちがいますが 同じ単語を表しています。
あるいは 巻き舌でラーメンと言ったとしても、
そういう話し方や 個人の特ちょうを 認識するだけで、ラーメンという意味には 変わりません。
これが 音声学と音韻論の ちがいです。
日本語のラ行の発音には おそらく個人差というのが それなりにあるかもしれません。
ラリルレロをLで言うのか、 ラッというふうにベランメ区長で巻き舌で言うのか、
個人差はそれぞれあるかもしれませんが、 そういう物理的な側面を
ある意味中小化して、1個のラ行の音として扱う。
これが音韻論のやっていることです。
その言語の中では、そのラ行の音のバリエーションというのは 本質的には関わってきていないんですね。
LだろうがRだろうが巻き舌だろうが、 そういうことをもう気にせずに、
一つの抽象的な単位として分析するのが 音韻論的なものの見方です。
逆にLとかRとか巻き舌みたいな、 そういう物理的な側面に注目するのが音声学です。
音声学ではいろんな言語の音を 比較対象することができます。
ある意味、世界のあらゆる言語の音を 共通の物差しで測るみたいなのが音声学です。
一方、音韻論というのは繰り返しですけど、 あらゆるバリエーションがあったとしても、
それがその言語の中で意味の区別に関わっていないのであれば、
一つの単位として、音素として抽象化してしまうんですね。
その言語の中で分析するのが音韻論。
言語を超えて分析するのが音声学とも言えるかもしれません。
この音声学的な研究態度と音韻論的な研究態度が、 言語音以外の研究にも拡張されて、
エティック・イーミックという言い方をします。
エティックっていうのは、 あらゆる言語・文化を超えて共通の物差しで見るような研究態度。
それに対してイーミックっていうのは、 その言語や文化、その体系の中で分析するという態度です。
このエティック・イーミックの対立がわかりやすい例として、
例えば、日本語では米を表す単語がたくさんあります。
収穫する前、田んぼにあるやつは稲と呼びます。 店で売られている場合は米と呼んで、
食卓に並べれば飯とかご飯と呼びますよね。 お茶碗によそってあるのを稲とは普通言わないし、
田んぼにあるのを見て飯がいっぱいになっているとも言わないですよね。 これはある意味で音韻論的なものの見方、
つまりイーミックな観点であるということができます。 というのが、稲にしろ米にしろ飯にしろ、
一つの植物の別の言い方でしかないんですよね。 科学的というか植物学的な観点で言えば、
稲という一つの植物でしかありません。 こういうある意味で客観的なものの見方のことをエーティックと言うんですね。
イーミックなものの見方っていうのは、その言語や文化でのものの見方ということなので、
例えば英語であれば、 稲だろうが米だろうが飯だろうが全部ライスで済ますんですよね。
で、それは英語におけるイーミックなものの見方で、 それが間違ってるかどうかではもちろんありません。
その言語文化における世界の切り分け方が違う、それがイーミックな視点ということができます。
日常生活への応用
このエーティックとイーミックっていうのは、 ある意味で研究者の態度みたいなものですが、
日常生活においてもね、少し心に留めておいてもいい視点かもしれません。 その人独自の視点においては、その人の世界観においては、つまりイーミックな観点から言えば、
なんでもないように思われるものがすごく重要なことかもしれないし、 あるいは逆に自分の中で当たり前だと思っていたことが
客観的な世界、エティックな世界では全然当たり前ではないということもありかもしれません。
個人レベルとか民族レベル、共同体レベル、国家レベルでそれぞれのイーミックっていうのがあるかもしれないっていうのは、
現代社会においてちょっと気にしていてもいいことかもしれません。
というわけで今回のエピソードはここまでということで、また次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローまだのかとはよろしくお願い致します。 お相手はシガ15でした。
またねー!