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始まりました、志賀十五の壺。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今回はずいぶん間が空いてしまったんですが、お便りをお返ししていこうと思います。
まずは、ゆっこんこんさんから差し入れとともにいただきました。ありがとうございます。
ツイートの件、取り上げてくださりありがとうございます。
これは、敬語一方向仮説っていう投稿を取ったときのものですね。
させていただくっていうのが丁寧語だっていうね、そういうお話をしたものです。
鬼滅の刃を全くわからないままお話しする志賀十五様面白すぎます。笑い。
そうなんだよね。この鬼滅の刃を言語学するっていうのを本当に失礼な話で、タイトルしかわからないのに取り上げたということですね。
それだけブームだったという解釈でいきましょう。続きますね。
私も読んだことがなく、主人公の妹が鬼になっちゃうということしか知識がありません。
僕も同じぐらいの知識ですね。これからも配信楽しみにしていますねということで、ゆっこんこんさんどうもありがとうございます。
鬼滅の刃、タイミングが合えばいつか読むなり見たりしてみようと思います。
というわけでゆっこんこんさんどうもありがとうございます。
続きましてのお便りは、おばけの寝言さんからこちらも差し入れと一緒にいただきました。
こんにちは。先日はまさかの感想メッセージを読み上げていただきびっくりしました。紹介されてたシャープ55も早速聞かせていただきました。
このさせていただくは伝統的な用法ですね。それは置いておいて。
自分は人間の知恵の発達も分けることで分かり、つまり相対的なものだと思っていて、今後空の乳房じゃないですが、
何もないとこから突然点が現れ、その点の認識と同時に空間が認識され、その点が伸びる乳房で線になり、
その距離を認識したと同時に時間が認識され、その乳房を振り回すことで時空の世界が広がるというのが赤子の認識の発端かなと思っています。
それはまさしく切り分ける作業かなと。その中に言語もあるのかなと思わせていただきました。
そういう意味では言語ってデジタルな感じがしますね。
1と2の間には本当は無限のグラデーションがあるはずなのに、デジタルはそれを無視して成り立っているわけですが、
言葉も人間の感情や感覚の無限のグラデーションをデジタルに切って表現するための道具という感じがしました。
ということで、おばけのねことさん、どうもありがとうございます。
これはそうだと思いますね。
よく言われるのは、この我々が生きている世界というのは本当はカオスで、それを秩序を立てるものが言語であるというふうな言われ方をします。
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過去にもそういうトークはしていて、例えばシャープ55とかでやっているのですが、
そんなおばけのねことさんにおすすめの本もございますので、こちらぜひ読んでいただきたいですね。
ちくま学芸文庫から出ている「言葉とは何か?」という丸山圭三郎先生の書いていらっしゃる本で、
Amazonか何かのリンク先を貼っておこうと思うので、ぜひおばけのねことさんは読んでみるといいんじゃないかなと思いますね。
文庫だし読みやすいし、文章も平易ですから、僕も何度も読み返しています。
そういうわけで、おばけのねことさんどうもありがとうございました。
ほいで、今日は何の話をしようかなと思ったんですが、
久しぶりに人工言語、僕が作っている人工言語の話をしようかなと思います。
最近いろいろ改編したので、それに合わせて文法書も変えなきゃいけないんですけど、
部分的にしか書き換えられていないんですよね。
一応その文法書のリンクも貼っておくので、本当に興味のある方は見ていただけたらと思います。
僕の人工言語の特徴はいくつかあるんですけど、
自動詞と他動詞の区別がはっきりしているとか、
日本語のわとがの区別みたいなものをかなりシステマチックにやっているとかね、あるんですけど、
そういったものの中の一つに、濃角型の言語だっていうのがあるんですね。濃角言語。
これはなかなか馴染みがないタイプの言語で、
日本語をはじめとして英語、中国語、韓国、朝鮮語などなど、何語でもいいですけど、
我々が外国語と言われて思いつくものは大抵濃角言語ではないんですね。
とりあえず日本語を例に考えてみると、対角言語と言われるものです。
この濃角言語と対角言語の違いを考えるためには、主語と目的語っていうのはちょっと詳しく見ていかなきゃいけないんですよね。
ここで大事になるのは、主語っていうものに二つあるってことなんですね。
一つは自動詞の主語。私が走る、石が落ちる。こういったものは自動詞で、この場合は私とか石っていうのが主語ですね。
それに合わせて目的語っていうのもあって、私が石を落とす。こういった場合は石が目的語ということですよね。
我々は主語と言われたら自動詞も他動詞も関係なく主語と呼んでいるわけなんですよね。
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こういった言語が対角型の言語ということになります。
つまり他動詞の主語と自動詞の主語を同じものとして見ているわけですよね。線引きがそこでされているということです。
目的語だけ別の日本語だったらをっていうのがつくということですね。
あるいは英語や中国語だったら語順で、自動詞だろうが他動詞だろうが主語だったら動詞の前、目的語は動詞の後というふうに、
やっぱり語順においても目的語だけ特別扱いっていうかね、そういうふうにしてるんですね。こういうのを対角言語と言います。
では、濃角言語とは何ぞやというとですね、線引きが我々の知っている対角言語と違って、
自動詞の主語と他動詞の目的語を一緒にして、他動詞の主語だけ特別扱いします。
こういうのを濃角言語と言います。もう一回言いますね。
自動詞の主語と目的語が同じように扱われて、他動詞の主語だけ別個の扱われ方をするというものです。
これね、イメージしづらいかもしれませんけど、日本語を濃角言語とみなして、仮想日本語みたいに考えてやってみると、
さっきの例で言うと、私走るみたいに自動詞の主語のときは名詞に何もつかないと。私走る。あるいは、石落ちるみたいにね。
これが他動詞になった場合、私が石落とすというふうに、他動詞の主語のときだけがっていうのが出てきて、目的語は何もつかない。
この何もつかないというのは、私走る、石落ちるみたいな自動詞の主語と同じという、こういったものなんですよね。
これはなかなか理解できないかもしれませんね。
関連トークがあるので、リンク貼っておくのでそちらも合わせて聞いていただけたら、理解が深まると思います。
なんでそんなめんどくさいことやってんだと思われるかもしれませんが、濃角言語の母語話者からすると、
我々の方がなんでそんなめんどくさいことやってんだと思うでしょうね。母語ってそういうもんですから。
これはいろんな説明の仕方があるんですけど、
1つは、この自動詞の主語、他動詞の主語、そして他動詞の目的語、この3つのものを区別するのに、
3つも標識というか、マーカーがなくても別にいいんですよね。
そういう言語もあるみたいです。
自動詞主語、他動詞主語、他動詞目的語、この3つを、
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バラバラの転用派というか、そういうものを使うような言語もあるみたいですけど、
それって記憶の負担がすごい増えるんですよね。
すごいってほどではないですけど、人間はやはり楽視して生きていきたい。
そういうのがモチベーションになって、大抵言語の変化って進んでいくんですけど、
覚えるものは2つより1つの方がいいってことで、
最悪何にもつかない、全部何もつかないっていうのも考えられるんですが、
これが困るのは他動詞の時で、
俺、あいつ殴った、みたいに、俺にもあいつにも何もつかなかったら、
これどっちがどっち殴ったかわかんないんですよね。
なので、こういうのを区別するために、
英語とか中国語は語順を使って、つまり動詞を間に入れることで、
どっちがどっち殴ったかっていうのがわかるようにしてるんですね。
一方、日本語の場合は、俺があいつを殴った、みたいに、
名詞の方に何かつけることで、その2つを区別してると。
で、こうなった時に、
他動詞の主語か、他動詞の目的語、どちらかを、
自動詞の主語と同じにしてしまえば、記憶の負担って減るんですよね。
なので、対格型言語では、
他動詞の主語の方を自動詞の主語と同じように扱うっていう道を選んで、
一方、濃格型の言語は、
他動詞の目的語を自動詞の主語と同じように扱う道を選んだと。
一応、こういう説明があるにはあります。
どういった言語かっていうのを言ってませんでしたね。
これはバスク語っていう言語が、代表的な濃格言語となっております。
というわけで、今日はここまでということで、また次回お会いしましょう。
ごきげんよう。