1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #296 「曖昧な日本語」につい..
2021-04-19 09:36

#296 「曖昧な日本語」について from Radiotalk

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:01
こんにちは、志賀十五です。
今日も志賀十五の壺、やっていこうと思います。
日本語は曖昧な言語だ、みたいな言い方、よくされますよね。
皆さんも聞いたことがあるんじゃないかなと思います。
あるいは、ひょっとすると、ご自身でそういったことを言ったことがあるかもしれません。
そういった話がもう一歩進むと、
日本人っていうのは、その国民性というか民族性として空気を読むような気質があるので、
それが日本語という言語にも反映されているとかね、
そういった話も聞いたことがあるかもしれません。
ちょっと具体的に言うと、
例えば日本語っていうのは主語を必須としないような言語なので、
必ずしも発話の中で誰がとかっていうのは言わなくていいと。
これはなぜかというと、
日本人っていうのは場の空気を読んで、
それに応じて聞き手が解釈するからだ、みたいなね。
そんなふうなことが言われたりするんですが、
果たしてそれはどうなんだいっていう話を今日はやっていこうと思います。
そういった民族性、国民性っていうのと、
言語っていうのがどれくらい関わり合ってるかっていうのは非常に難しいですが、
僕自身は安易に結びつけない方がいいんじゃないかなと思いますね。
どうかな。
僕は日本語が母語なので、
母語なしでは物を考えることができないので、
もし日本語がなかったらみたいな、
そういった思考の仕方はできないんですよね。
だから余計にそういった国人性と民族性に結びついていると言われてしまうと、
ある意味で納得せざるを得ないんですが、
ただ、言語の現象を民族性、国民性の一言で片付けてしまうのもどうなんだろうということですね。
過去にこれと同じようなトークは撮っているので、
これを聞き終わった後、ぜひそちらのトークも聞いてみてください。
詳細欄にリンクは貼っております。
今回のトークでは特に省略に見えるようなものが、
果たして省略と言ってしまっていいのかっていうね、
そういったことを考えていこうと思います。
03:01
確かに日本語はお互い分かっているような場合、
発話の中にその単語を出さないということはあります。
ありますが、これは特に日本語に限ったことではないですね。
どんな言語でも、その談話の流れでわかるようなことは、
発話に出てこないこともあるし、
ものによっては代名詞で置き換えたりもするでしょうけど、
そういう、いわば手抜きみたいなことはどんな言語でもあることだと思いますね。
例えば、「太郎は本を読んだ。その後すぐ寝てしまった。」みたいな文の場合、
2番目の文に太郎っていうのは出てきませんが、
これは当然前の文から推測できるので、
日本語の場合は太郎はすぐ寝てしまったとは言わないんですよね。
英語みたいな言語だと、わざわざここも太郎と言わず、日で置き換えるでしょう。
そういうふうに文脈で推測できる単語を日本語みたいにわざわざ出さなかったりとか、
英語みたいに代名詞みたいな軽い形式っていうんですかね、
に置き換えるっていうことはどんな言語でもあることだと思います。
なので日本語は場の空気を読むから単語が出てこないんだとはちょっとこの場合は当てはまらないですね。
やはり人間の傾向として楽して発話したいっていうのがあるので、
わかるんだったら言わなくていいし、あるいは代名詞みたいなので軽い形で置き換えればいいしということになっているんですね。
ただ日本語の場合は文脈が整ってなくても主語が出てこない場合があります。
例えば楽しい一言で言っちゃうみたいなね。
私はっていうのはわざわざ出てこないわけです。
他にも今日は本を読むっていう場合も私はというのはわざわざ出てきません。
問題はこれは果たして省略なのかということですね。
省略っていうのはもともとあったものが出てこないっていうことですけど、
僕はねこれは省略というよりはむしろ主語が出てこないことによって主語は一人称であることを表しているんだと思います。
楽しいとか今日は本を読むとかわざわざ主語が出てこないことで私はというのを表しているっていうことですね。
だからこれは省略とはちょっと違うと思います。
つまり日本語という言語は何もしなかったら一人称主語であると解釈されるということですね。
06:00
もし一人称以外が主語の場合は彼は今日は本を読むみたいに主語を入れないとダメなんですよね。
それに加えてですね日本語の場合は動詞の形である程度何が主語なのかっていうのが推測できるんですね。
例えばさっきの楽しいで言うと楽しいようだとか楽しいみたいだみたいな言い方になるとこれは主語は一人称以外と解釈されます。
今日は本を読むらしいみたいな言い方も同様ですね。
動詞の方の形を変えることによってわざわざ主語を出さなくても誰が主語かっていうのが特定されるということです。
こういった機能は実は敬語もそうでするって単純に言うのを致すというとこれは完全に主語は一人称私であるとわかります。
逆に尊敬語でなさるという言い方にするとこれは主語は私以外一人称以外であるということが特定できるんですね。
ということで今話したことをまとめると日本語っていうのは主語が表れていないとしたら自動的に一人称として解釈されやすいと。
あるいは動詞の方の形を変えることによってある程度何が主語かというのが特定されるということです。
これは省略とはちょっと違うんじゃないかなと思いますね。
今までの話はすべて主語の話だったんですが主語以外のところでも一人称の解釈がされるっていうのがよくあって、
例えば息子を病院に連れて行ったと言った場合この連れて行ったのは誰かっていうとさっき言ったように普通は一人称私であると解釈されます。
それに加えて息子をと言った場合この息子誰の息子かというと当然私の息子として解釈されるんですね。
ここでもわざわざ私の息子を病院に連れて行ったとは言いません。
息子を病院に連れて行ったというだけで自分の息子というふうに解釈されます。
つまり所有者を表すような名詞もやはり一人称の解釈になりやすいんですね。
他にも歯を磨いたとか手を洗ったって言った場合も普通は一人称の主語に解釈されますよね。
言語によってはわざわざ私の歯を磨いたとかあるいは自分の手を洗ったみたいな言い方をしないといけないものもあるんですが、
09:01
日本語の場合は何も出てこないことによって私のあるいは自分のと言った方がいいですかね。
そういった解釈になるということです。
というわけで今回の話は日本語は曖昧な言語と時々言われますが、
それは出てこないということによって何かを表しているんじゃないかと。
まあそういったお話でした。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。
ではまた次回お会いいたしましょう。ごきげんよう。
09:36

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