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なぜ我々はツバを汚いと感じるのでしょうか。 100歩譲って、人のツバ、唾液であれば汚いと感じるのも、なんとなくわかりますが、
自分のツバであっても汚いと感じますよね。 これは、
衛生的にもちろん、不潔だ汚いというのも あるかもしれませんが、それ以前の問題 という感じもします。
大げさに言えば 医学的な知識として、
ツバ、唾液が不潔だといった知識が なかったとしても、おそらくツバを汚いと 感じていたのではないかと思います。
いわば、本能的に汚いと感じているのではないかと 思いますが、
果たして本当にそれは本能なのか、 本能とはちょっと別の次元で汚いと感じているのではないかというのが、
今回のテーマといえばテーマかなと思います。 ツバに限らず、
排泄物も汚いと感じるし、
あるいは切った爪とか髪の毛とか、 こういったものにも少し嫌悪感、不潔感というのを 感じることがあるのではないかと思います。
ツバにしろ、排泄物にしろ、 切った髪や爪にしろ、
これらはすべて、もともと自分の内にあったというかね、 自分に属していたものが切り離されたものですよね。
さっきまで自分だったものが自分ではなくなった。 この辺のことが今回のポイントになるのではないかと思います。
BGM、行けい。
始まりました四月十五のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。 田村雅一です。
ツバにしろ、排泄物にしろ、切った髪や爪にしろ、 さっきも言ったようにこれらのものは、
自分でありながら自分ではないもの。 エゴでありながら非エゴである。
そういう境界の、 境界線の上にあるようなものですね。
人間というのはいろんなものを分けて考えています。 言葉の機能が世界を切り分けるっていうような考え方もあって、
この世界というものは本当はカオスで、 言葉によって名付けることによって世界が細かく切り分けられる、分化される。
こういう半中華としての言語っていうのは、 言語学ではかなり一般的に認められている機能ではないかと思います。
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例えば、色とかがそうですね。 色というのは本当は連続体で、赤と青の間に紫があって、
赤と紫の間には赤紫、 紫と青の間には青紫があって、
その間には無限の連続体というのがあります。 それをある意味無理やり赤とか青とか名付けることで切り分けているんですよね。
昔の日本語であれば、青っていうのは緑も含んでいました。
その青と呼んでいたものが、現代日本語では青と緑に分けられているのは、 緑と名付けることで、それを分けているということですね。
青とか緑と名付けることによって、 その色を我々は認めることができて、
緑という言葉がなかったとしても、 それは青という言葉でカバーできたりとか、
そういうふうにして我々は世界を認識しているんですよね。 有名なのは虹の色の数とかですね。
日本語は7色っていうことになっていますが、 世界の様々な文化言語では必ずしも7色とは限りません。
それは色の連続体をどこで区切るかという、そういった問題なんですよね。
ただ、その色の名前がないからといって、 人間がその色を認識できないというわけではないと思うんですよね。
青という一単語しかなかったからといって、 現代語でいう青と緑を区別できないとか、そういうことではないと思います。
空の色と葉っぱの色、どちらも青と呼んでいたからといって、 その2つの色を全く区別できなかったというわけではないと思うんですが、
少なくとも言葉の上では区別がなかったということですね。 あとは人によるみたいなところもあると思うんですよね。
その語彙が豊かな人とそうでない人と、 世界の見方がある程度違うっていうのは多少あるかもしれません。
例えばカラーコーディネーターの方だったら、たくさん色の名前を知っているので、 その分多少世界の見え方が違うというのはあると思います。
この色の例は非常にわかりやすいですが、色に限らずですね、 人間というのは言語によって世界を切り分けて、分割して、それを認識しているということです。
ただ、おそらく言葉がなくっても、ある意味本能的に 区別できているものもあると思うんですよね。
例えば、私と私以外。 これは言語が私っていうものを生み出さなくても、
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言葉というものがなくっても区別できる、 もっと本能的というか根本的なものではないかなと思います。
この辺はちょっと難しいですけどね。 人間が認識しているものが、果たしてそれが言語によって認識できるようになったのか、
それとももっと本能的に、ある意味動物的に認識しているのかというのは、 言葉を持ってしまった以上確かめようはないですけど、色々議論があるところではないかなと思います。
人間は言語によって、ものに名前をつけることによって、命名することによって世界を切り分けて、それを認識しています。
その中には、もしかしたら動物的な、もっと本能的なものも 含まれているかもしれませんが、
その切り分ける過程の中で、 どっちつかずというものが出てきます。
この言語で切り分けるという比喩の中で、その切り分けているものが 線だとしたら、その線にある程度幅がある。
そのように考えていただいて、その幅に収まっちゃう、 その幅に乗っかっちゃうものがある程度出てきてしまうと。
そういったものに人間は不潔と感じたり、 不情であると感じたり、あるいはタブーとして扱ったりと、そういったことが起こります。
これが冒頭のツバの例です。
ツバというのは、自分の体内にある時には何も感じません。
それはエゴである、自分であるということなので、 境界線のこっち側というか、きちんと切り分けられています。
それが一旦体の外に出てしまうと、 どうやって扱ったらいいか、ある意味わかんなくなってしまうんですね。
自分であるのか 自分じゃないのかが よくわからない。
境界線の上にある。
そういったことで不潔に感じてしまう ということです。
排泄物や 切った髪の毛や爪も同様です。
こういったものが 自分の体から離れていない限り、自分に属している限り 境界線のこっち側にあるので、何も感じません。
それが切り離された途端に、 自分でありながら自分でないものという、
一種、矛盾をはらんだ存在となるので、 不潔に感じてしまうということなんですね。
この境界線上にある、どちらにも分割できないものが タブーとして扱われるというのは、
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世界のあらゆる文化で見られるものです。
謹慎相関もそのように説明されることがあります。
これは自分と他人という、その二つの区別の間に 家族というのが存在していて、
そういったもの、境界線の上のものとの 婚姻関係というのは禁じられていたりとか、
あるいは人間は雑食ですので、 動物の肉を食べるわけですけど、ペットは食べないですよね。
このペットというのは、ある意味人間と動物の間、 境界線に属しているようなものなので、
食べることはしない。タブー扱いしていると。 そのようにタブーを説明することもあるんですね。
言語は世界を切り分けるという言い方を 先ほどしましたけど、
そういった言語の機能は普段気づきづらいと思います。 言語といえばコミュニケーションの手段とか、
あるいは自己表現の手段であるとか、 そういった機能手段がパッと思いつくんじゃないかと思うんですよね。
言語が世界を切り分けていると言われても、 我々は上の世代が使っていた言葉をそのまま引き継いでいるだけなので、
もうあるものを使い回しているという感じですよね。 その言語を使って自ら切り分けている。
世界、カオスを切り分けて秩序を立てたものにするというか、 班中に分けるとか、
そういうダイナミックな機能があるというよりは、 もう切り分けられたものを我々はそのまま使っているという感じなので、
実感として言語は世界を切り分けているっていうのは、 ピンときづらいところですね。
というわけで今回は、 なぜ唾を不潔と感じてしまうのか、汚いと感じてしまうのかということについてね、
世界の切り分け、分割という視点からお話しいたしました。 それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローまだの方はよろしくお願いいたします。 お相手はシガ15でした。