現代語と古語の活用形の比較
学校文法で学ぶ 活用というものが あります。
活用というのは 用言が形を変えることで 動詞 形容詞 形容動詞が活用する 自立語だと言われます。
現代日本語であれば 未然 連用 終止 連体 仮定 命令 という活用形があることを 習ったことでしょう。
それに対して 古文は 未然 連用 終止 連体 依然 命令 というふうに 仮定形と 依然形で 名前はちがいますが 概ね 同じ活用の種類が あります。
例えば 格という動詞であれば 未然形 格化 連用形 格起 終止形 格 連体形 格
依然形はないし 仮定形は 格形 命令形も 格形
この格という動詞に関して言えば 古文であっても 現代語であっても 同じなんですよね。その活用形の形っていうのは 変わっていません。
すなわち 現代日本語の未然形 格化のご先祖は 格化であって 連用形 格起のご先祖は 格起であると そのようなことが予想されるし
それは だいたい 正しいんですが ここで重要なこと
あるいは 人によっては意外なことは 現代日本語の終止形は
古文の終止形に由来しているわけではなくて 連体形に由来しているんですね。古文の終止形を そのまま終止形として 引き継いでいるのではなくて
連体形を 現代日本語では 終止形として 受け継いでいます。
これは 動詞に限ったことではないんですね。BGMです。
始まりました。4月15日のツボ。皆さん いかがお過ごしでしょうか。 ルイ・アウムストロングです。
動詞に限らず 古文の時代の連体形を 現代日本語は 終止形として 引き継いでいます。
さっき 例に挙げた 格の場合は 終止形も 連体形も ぱっと見 区別がないので 分かりづらいです。
終止形も 格 連体形も 格なので 分かりづらいです。
終止形は連体形に由来する
分かりやすいのは 例えば ら辺動詞を 考えてみると いいと思います。
覚えていますか。古文で ら辺を 勉強しました。
あるより はべり 今そかり という文です。
これは りで終わるのが 終止形です。
古文では 終止形あり 連体形ある でした。
この連体形のあるが 現代日本語では 終止形です。
これは 非常に分かりやすいです。
さっきも 言いましたが 連体形を 現代日本語では 終止形として 引き継いでいるのは 動詞に限ったことでは ありません。
例えば 形容詞も 用言で 活用があるのですが 古文であれば 例えば 現代語の 高いは 高しというのが終止形です。
そして 連体形は 高きでした。
現代日本語の 高いという 終止形と 読んでいるものは 終止形の 高しではなく 連体形の 高きから 引き継がれている ものです。
この高きの 形の音が 落ちたというか イオンビンという 現象が あります。
それで 現代語では 高いと なっています。
この 高しというのは 古文では 苦活用と 言われるものですが 至苦活用でも 同様で 例えば 現代語の悲しいというのは 古文では 終止形は 悲しです。
この 終止形の 悲しが 母音が伸びて 現代語で 悲しいに なっているわけではなくて 連体形の 悲しきが やっぱり これも 形が落ちて
現代語では 悲しいに なっている つまり 連体形を 現代語では 終止形として 引き継いでいる ということです。
動詞でも 形容詞でも 現代日本語で 終止形と 読んでいるものは 実は その五線図は すべて 連体形なんですね。
連体形が終止形の役割を担うようになった経緯
未然 連用 終止 連体 仮定 命令 という 現代日本語の 活用のパターンだけ 見れば 古文と あまり変わっていない 気がするんですけど 実は その中身というか それぞれの 線像というのを 見てみると実は 終止形というのは 連体形に 由来しています。
というよりも 古文の 連体形が 終止形の 役割まで 分取ってしまった その領域を 拡大したといった方が 正確なんですね。
これは 終止形と 連体形の 合流とか そういった 言い方を することが よくあります。
実際に 形容詞にしろ 動詞にしろ 形容動詞は 一旦 置いておいて 終止形と 連体形の形が 全く 現代語では 同じです。
終止形は 文末の形で 連体形は 体言に つらなる 名詞の前に 出てくる形です。
本を書くも 書くだし 本を書く人も 書くという形です。
山は 高い 高い山 やはり 両方 高いという形です。
現代日本語で 少なくとも 学校文法で 終止形 連体形と 呼んでいるものは どちらも 連体形に 由来しているんですね。
では なぜ 連体形が 終止形の 役割まで 担うようになって しまったのか そこまで その機能を 拡大させたのか ということですが
さっきも 言ったように 連体形は 体言に つらなる形なので 後ろに 名詞が 出てくる時に 出てきます。
英語風に 言えば 関係説です。
本を書く人を 修飾する時に 書くというのが 出てきます。
しかし 連体形の役割は それだけではなく 連体形それ自体で 体言として つまり 名詞っぽく 使われていました。
こういうのを 順体法とか あるいは 順体句 という 言い方をします。
体言に 順する 名詞に 順する 使い方だ ということです。
連体形を 文末で 使うのは どういうことか というと 体言 つまり 名詞っぽいものを 文末で 使うことなので 要は 体言止めだ ということです。
文自体が 体言止めっぽくなる ということです。
古文の世界で この連体形で 文が終わるのは かかり結びで よく見られます。
特に 象をなむ 夜明かが 出てきて 文末が 連体形になる というものです。
例えば 百人一首の 山の奥にも 鹿ぞなくなる と言った時の この鹿ぞなくなる。
これ かかり結びではなかったら なくなり となっていそうな ところですが かかり助詞のぞ というのがあるので 文末が 連体形になって なくなる。
これが まさに 文末で 連体形が 使われている という例です。
ですので かかり結びは 一種の 体言止めとも 言えるのではないかと 思います。
かかり結びの消失と「のだ文」の発生
現代日本語には かかり結びは 少なくとも 共通語には ありません。
それは なぜかというと かかり助詞 象をなむ 夜明かが 出てこようが 出てこまいが
文末は 連体形 というのが 広まっちゃったので
かかり結び というルール自体が ある意味 必要なくなって しまったから なんですね。
かかり結びの やってたこと 機能 というのは なかなか 難しいですけど
永短を表す とか あるいは 解説を表す とか 言われることが あります。
かかり結びが なくなってしまったら そういう 永短とか解説っていうのが
ある意味 表せなくなっちゃうんですよね。
かかり結びが 滅んでしまった結果
もっと言うと 連体形を 文末で使うという そういった用法が 広まってしまった結果
もともと かかり結びが になっていた 永短とか
あるいは 解説という 機能を 果たすために
新しく のだ文が 発達して いったんですね。
のだ文というのは この文字通りです。
のだ という文です。
やってきたのだ とか 勝利に終わったのだ とか 言った時の のだというのが
ある意味 かかり結びが なくなった結果
新しい 体言止めとして 生まれてきたんですね。
この の というのは 形式名詞と 言われることもあって
この のによって 体言の変わりを するということが 非常によくあります。
昨日 買ってきたのを 見せてよ とか 言った時の のですね。
昨日 買ってきた の後に この形式名詞の の というのが 現れることで
全体を 体言として 扱うことができます。
つまり 連体形が 修飾形になって その動詞の活用として
体言化というか 名詞化というのが ちょっと 機能として 薄くなっちゃったんですよね。
その動詞の活用の代わりに 形式名詞の のというのを使って
現代語法では 体言化している ということができるんですね。
現代語の用言の修飾形と連体形
今回の話は かなり 広がってしまいましたが 最初の話に戻ると
現代語の用言の 修飾形と 言われているものは
もともと 連体形に 由来しているんだ ということです。
その連体形が 修飾形の役割まで 分取ってしまって
文末でも 平気で 使われるようになっていったと 大体 そんなお話でございました。
それでは また次回の エピソードで お会いいたしましょう。
番組フォローまだの方は ぜひよろしくお願いいたします。
お相手は シガー・ジューゴでした。