1. しゅらシュシュシュ
  2. 生まれた時代の違い~解像度よ..
2024-05-12 31:12

生まれた時代の違い~解像度より分解能~柔かくある為に

いかにその時代に生まれるかという視点と、その影響の大きさ

それは選べないから、どの時代であっても通じる寒天の大事さ

葬送のフリーレンに出てくるキャラクターでも…


収録日:3月13日


#しゅらシュシュシュ

#樋口塾


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サマリー

前回からの続きです。生まれる時代によって人生が変わることがあり、また違う視点で物事を見ることが重要だと思われます。解像度や縮尺によって物事の見え方が変わり、それに気づくためには自分を揺さぶることが必要です。生まれた時代の違い~解像度より分解能~柔らかくある為にでは、生まれた時代の違いによる価値観の多様性や柔軟さが重要であるという話がされています。フィルターバブルや意見の程度についても話題に上がっています。

時代による人生の変化
前回からの続き
例えば渋沢栄一のお父さんとかが
お父さんとかも似たような性格だったとしたら
もしかしたらずれてたかもしれないんですよね
いかにその時代に生まれるかっていうのは
別に名前を残す必要はないんですけど
それは大事なのかなーとか思ったりしますよね。
そうですね。
作るの面白いのは間違いないですよね。
今だったら、表現活動してる人だったら
20年、30年前だったらプロの人が
例えば400万とか出して買わなかったツールとか機材が
スマホの無料アプリとか
スマホに2千円課金すれば使えますみたいなぐらいの
それを複数、しかもマルチメディアで
音響と動画とミキシングと画像効果全部できますみたいなのが
全部スマホで10万とか出せば
気になることができるようになってるんですよね。
10万は高校生もどうにか年出できるぐらいの金額なんで、がんばる。
それ考えるとうまい。
だからそういうのが前提条件になった時代に生まれること自体は
めちゃくちゃおもろいのは間違いないと思うんだけど
一方で、とはいえ
そういう時代に生まれないことに価値がないのかみたいな話になると
そういうわけじゃないと思うんで
そういうふうに一気に変化が起こる時代があるんですけど
それってその前にいろいろツリーム戦があって
ハイライトが来たってだけで
逆に言って今僕らすごい変化してるなとか思ってても
50年後こんなもんじゃないかもしれないじゃないですか。
なんでもなかったよね。
何がすごいだよとか言ってるかも。
たしかに。
それ考えるとやっぱり
もう少し早く生まれてればなんとか考えても
逆にもう20年遅く生まれてればなんとか考えても
やっぱり結局そこしょうがないと思うんですよね。
物事を見る視点の重要性
現実実現の話で言うと実現できないんです。
現実的には嫌だけど、現実を考えると嫌だけど
実現できないとこなんで
じゃあ今自分が実現できるところはどこなんだろうみたいなことを考える
しゅうさんの姿勢みたいなのが
どの時代においても幸せに生きる
生きるの一つのヒントなんだろうなと思う。
また古い話に戻って悪いんですけど
ウリヘの南の勇者わかります?
もう出てる?出てない?
出てないと思いますね、アニメのほうが。
記憶にないですね。ごめんなさい。
南の勇者がいいんすよ。
そうなんだ。
南の勇者の話、多分これ読んでる人はわかると思うんですけど
南の勇者の仕事がいいんすよ。仕事って言っちゃなんか失礼。
あれすごいっすよ。
今の文脈につながるようななんか。
多分わかる人はめちゃくちゃわかってくれると思うんですよ。
実際のハイライトとか。裏にはみたいな話になると思うので
ぜひ楽しみにしててください。
原作が読めるね。
いやいやいや、原作読めるところのサブスクが欲しくなっちゃうな。
なるほど。
結局どういう視点を持って物を見るかって話になっちゃうと思うんですよね。
何かを眺める方向もそうですけど、どれぐらいの分解能?
これも僕あんまり解像度ってことは好きじゃないですけど、どちらでも分解能だと思ってるんで。
なるほど。さっき使っちゃった、解像度って。
わかるんですけど、解像度って見られるほうのものの映され方だから。
10倍でしか見れないのか、100倍でも1000倍でも見れるけどあえて10倍で見るのかみたいなことをコントロールできる能力で。
それをみんな解像度で見る。
とにかく何かを見るときにどういう視点で見るか。
原木の話で言えば、原木が落ちた日本側から見るか、落としたアメリカ側から見るか。
またまたそれを遠くから眺めてた他の国から見るか。
他の国でも、被害を受けた東南アジアとかアジアの国から見ることが違うだろうし、
同じ敗戦国のドイツとか、もしくは連合法側のイギリスから見ると全く違うと思うんですよね。
共通してる部分もあるんですけど、それぞれの視点からして見えないこともあると思いますし。
あとは原爆ってものをどう捉えるか。
暴力の象徴と見ると、やっぱり日本がゴジラを生んだよね。
ああいうものを作品につながっていくと思うんですけど、
一方でアメリカは原爆を生み出し得る技術力をそこで身につけたことで、
その後の冷戦時代の、よくも悪くも技術進歩というものにつながっていくと思うんですよね。
やっぱりそれを見るときに原爆ってものが単に悪いものって思っちゃうと、
これは姿勢の問題ですよね。
ものを見るときの姿勢の問題。単に脅威であってもそこで思考停止しちゃうんですけど、
実際のところはいろいろありますけど。
一応二酸化炭素を生まないエネルギー源としては最有力候補ということで、世界中で活用されてるわけで。
原子力発電ってことですよ。
原子力発電自体が。核利用っていう意味じゃない?
異なる視点からの物事の捉え方
そういう意味。
テクマクナリウム素。
テクってものを核利用としてもう少し広く見るとそういうふうに見えますし、
何にしてもいろんな視点だったりとか、色んな縮尺で見れることみたいなことがすっごい重要なんですけど、
自分がやっぱり見れてないことに気づけないのが一番怖いなと思ってて。
修羅さんがオッペンハイマーを見ようかなっていう姿勢とか本当に重要だと思って、
強制的に自分を揺さぶるようなことを定期的に意識的にやらないと、
自分ではすごい考えて、レベルの別姿勢みたいな感じで思い込んでても、
それぞれ凝り固まった、自分の中の現実でしかなかったりすることを最近結構経験してるんです。
強制的に揺さぶる。
人と話すとかでもいいんですけど、話す相手にもよりますし、
芸術作品だったりとか、そういうものに触れて、
自分をどういう方向とかどういうやり方とかいろいろあると思うんですけど、
一回自分を疑う目を意識的に導入するっていうのは、
この時代だからこそ特に重要なんじゃないかなって。
それこそ、12年後何も想像できないですもんね。
24年前に入社した人に12年後のことを聞いたら、
部長ぐらいでも課長ぐらいでもやらせるかね、とか言っているところですよね。
そんな感じでしょうね。
今、那鶴さんの話を聞いてちょっと思い出したのは、自分の話じゃないんですけど、
やっぱりそういう、海外とかに出ると、
海外の方でもそういう違う視点っていうのを見させられるなと思ったことがあって、
うちの妻の話なんですけど、
うちの妻はイギリスの大学に行って、その後インターンシップでアメリカ行ってたんですけど、
アメリカ人に日本の工業製品のことを、
工業製品ってすごいよね、みたいなことを言われてて、
日本人って技術力があるから、
品質のいい製品を安く作って、日本の技術はすごい、みたいな。
割とそういうふうに特集するテレビも多いじゃないですか。
でもその時に言われたのは、品質がいいけど安い製品をアメリカの人が見て、
そのアメリカ人は、日本人って可哀想だね、負けたから奴隷みたいに働かされてるんでしょ、みたいなことを言ったらしいですよね。
なるほどね。
それが、やっぱりなんて言うんですかね、その人が特別そう思ったのかもしれないですけど、
そういうふうに見てる人もいるんだなって思ったって言って。
奴隷みたいにって思う人は日本でもいるかもしれないですけど、負けたからって言葉がつくのが。
そうそう、敗戦国、日本は敗戦国だから、可哀想だね、みたいなことを言われたりとかしてたとか。
あとやっぱりアメリカに行って、ネイティブアメリカンの居留国にもうちの妻が行ってたりするんで、
リンカーンの有名なあれあるじゃないですか、ガーバメントフォーザピーポー、バイザピーポー、もう一個なんだっけ、
オブザピーポーか。
オブザピーポーか。
人民による人民のための政治をこの世から滅亡させないために、みたいな演説。
で、それのオフィシャルの文には載ってないんですけど、ネイティブアメリカンの居留国にある博物館に行くと、
アメリカでネイティブアメリカンのことを昔レッドマンって呼んでたらしいんですよ。
初めて知った。
レッドマンは除くっていう風に言ってるらしいんですよ、演説の中で。
だからそのリンカーンって世界で尊敬される民主主義の代表的な大統領みたいな、
世界って言っても西側っていうかアメリカだけなのかもしれないですけど、
日本の政治家でもリンカーンとかケネディとかを尊敬してますみたいな人はいると思うんですけど、
でもアメリカの中でもリンカーンつったってみたいな、ネイティブアメリカンのこと全然考えてねえじゃんとか言う人もいたりして、
そういうのって特に日本だと出ないとわからない視点があるのかなと思ったりしましたね。
ちょっとそれを思い出しましたね。
でもなかなかすぐに海外、旅行レベルで行ってもなかなかわからないことなんで。
他の方法あると思うんですけど。
そうですね。なんていうか程度の差みたいな、リアルで感じられることって本当に大きいでしょうけど、
だからって言ってそこでしか感じられない?
生まれた時代の違いによる多様性
まあそれあるかもしれないけど、意識してるだけで全然違うよなって僕なんかは思ってて、
それをどんだけ積み重ねていけるか、で全然カバーしきれるような感覚を持ってますけどね、
それぞれの体験はもうそれぞれの人にしか持てないものだけど、
ふわっとした大きい目標というか方向性みたいなのは、
なんかそれこそ生まれる時代によって今フリーレンが流行ってるみたいに、
みんながなんとなくこんな感覚でいるからこの作品ヒットするよねみたいな、
そんな大きいレベルでのふわっとした意識では、
そういう大きい視点が大事みたいなところにだんだん来てる感じがして、僕も希望的に見てますね。
良い方にどんどん変わってきてるなーって途中しらさんがおっしゃられたみたいな、そんな感覚持ってますね。
いや本当に今の若い子とかすごいと思いますよ。
ですね。
感性がもう素晴らしいと思うんです。
途中でも言いましたけど極力柔らかくありたいですね。
この関節動かないみたいな、物理的な話じゃなくて、そこはどうしても譲りきかないみたいなのが、
ゼロにはできないでしょうけど、なるべくないように柔軟でありたいなーみたいに思いますね。
いきなり柔軟にはならないですよね。
それも徐々にですよ。そこも柔軟にというかそこも緩やかにというか。
本当にそれって結構意識的に取り組んでいかないと、
普通に今の現代の社会の動き方を見てると、
言っちゃえば、長蛇大仙屈が90センチ以上できない人はもう人権ありませんみたいなことになりすぎるんですよね。
どういうことどういうこと。
無理やり長蛇大仙屈に立つことはダメですけど。
でもそれはモラル感だったりとか。
フラスメントみたいなことをしないというのが結構、社会的な要請として出てきてるんですけど。
明日から、本当に法的にセカル的な発言をしたら一発で首が飛ぶとか、
刑務所でやられるみたいなことが起き得ると思うんですよね。
起きるかどうかですとして。
今の一つの例ですけど、そのときに少しずつ自分をアップデートしてれば、
昔はやってたけど、ちょっとずつ階段を自由度があるとして、
どうにか自分がんばって5段まで登ってれば、
そういうふうに法律が変わったときに、残りの5段を慌てて登って乗り切ることができると思うんですけど、
何もしてないと、ゼロ段目から一気に10番まで登らないといけなくて、
登りだけどめちゃめちゃしんどいとか、登れずに途中で立ち止まってドロップアウトするとか、
途中で転んでそのまま落ちてきて動けがするとか。
そういうことが起きると思うんです。
実際も起きてると思うんです。
それが松本ひとしだったり、ジャニー・タカルゼだったり、
あとは吉本先輩ですよね。
今のキャンセルっていう言い方はやっぱり良くないと思うんですけど、
見逃されてきたことに対する正当な批判っていうものができてるのが今だと思うんですよね。
そこで、登りきれるか登りきれないかみたいなのが結構普通に試されてると思うんですよ。
一般人にとっても非常に試されてることで、今の若い世代たちはそこを試してくるだろうな。
試すっていう感覚もなく、そういう視点で必ず上の世代を見てくる。
そこで、その時はダメでも、あと3段一気に登れるかみたいなことを、
すごい求められるんだろうな。
柔らかくあるためにはずっと毎日ストレッチやらないといけないってことですよね。
じゃないと骨折りますからね。
そこも逆説的というか、
何でしょうね、行き過ぎてる部分がないとは言えないと僕は思っていて、
今のそのキャンセルなんとかちょっとちゃんとわかってないですけど、
何か価値観が多様であるのは良いんですけど、そこにべきがつくとか、
価値観が多様じゃない人を叩くみたいなのって、ちょっと行き過ぎな部分がある場合があるみたいな感覚があるんで、
揺り戻しみたいなのも多分あるだろうなみたいに思ってるもんで、そこもひっくるめて、
俯瞰した視点で緩やかに体を柔らかくするみたいなイメージで見ていたいなみたいな、
結構大きい視点での緩やかみたいなことを僕は思ってますね。
柔らかい価値観と非対応的な意見への対応
怪我をしないためにっていうよりは、まあしないほうがいいけど、
今はそういう風に偶然、そういう流れが来ているみたいなぐらいで、
ゆったり揃えていたいなというか、そこに心の柔軟さを持ちたいなみたいな意味で言ってたかもしれないですね。
まあ思ってたとこで叩かれるときは叩かれるのかもしれないですけどね。
だいたいこんな感じですかね。今大量に天使が通ったような感じが。
広げようと思えばいくらでも広げれるんですけど。
この時間帯からそれやると危険だなっていう。
なんかこれは言っておきたかったなみたいなのがなければ。
本当にあれですね。どれだけ多様性っていうとあんまりぼんやりした言葉ではあれですけど、
しゅうさんが言った柔らかさみたいなのは、いろんな価値観の人とこれから、
自分と相容れない人とかも、見たことないようなタイプの人とかも、これから平気で対峙することになると思うので、
そのときにどれだけしなやかにそれを受け止められるかって話だと思うんですよ。
じゃあどうすればいいのかみたいなことは、結構難しいというか一概には言えないんですけど、
しゅうさんがオッペ・ハイマーを見ようと思うというふうに承知されるように、
自分が今まで触れたものと真逆のものをあえてやるということを、
結構強制的に意識的にやらないと、かなりこれから、
意外があるって言うと実現的にあってあんまり言い方がよくないんですけど、
普通にこうになるだろうなって思いますね。
そういうことをやらないとかやれない人っていうのは。
だからそういうことを意識してやってる人たちと、
現実世界ではなかなか、実生活の中ではなかなか、
わかるんですよ、この言葉使うとですね。
実生活の中ではなかなかできるようになるんですけど、
こういうふうにオンラインでも繋がっていることの大きなメリットってすごいあると思うんで、
ありがたいなって思います。
多様性っていう意味で言うと、
それこそSNSとかで多様な意見っていう、多様なのかわからないですけど、
いろんな意見が見れるじゃないですか。
それこそさっき言った、世間を騒がせているトラブルに対して、
いろんな人が意見を表明できたりとかするし、
自分自身もそういうことを発信できたりもするじゃないですか。
反響は影響のあるアカウントとは比べたら全然サザナミ程度ですけど、
でもそういうことをやってると、
普段自分が好んで情報を入れてるアカウントがいて、
それは俺自身がそうなっちゃうっていう話なんですけど、
俺自身が勝手にその人を信頼していくんですよ。
勝手に。
いつもこう言ってるからこうだろう、いつもこう言ってるからこうだろうみたいな感じでなってて、
で、自分と意見が異なるときが来ると勝手に傷つくんですよ、俺。
え、なんでこんなことを、あの人はあんなに頭いいのにこんなことをわからないんだろうみたいな。
やっぱ自分が正義みたいな。
って思ってしまって、それに対してリプライとかしたりたくなるんですよ。
するときもあるし、それってこうなんじゃないですかみたいな。
でも、それをやったところで、
あ、そうでしたごめんなさいとはなんないんですよ。
なんないし、
なってくれればいいですけど、
友達感だったらなりますけど、
でもなんか友達感覚みたいな感じになっちゃったりもするんですよね。
そういう意見を毎日見てたりとか。
勝手に傷ついてしまって、勝手になんか、
一日のその、
影響を及ぼすとまでは言わないですけど、
でもなんかそれによってちょっと気分が落ちるみたいなのが。
ちょっとだけでも、
それに対して、
こういう風に言ったらいいんじゃないかとか、
こういう風な意見があるんじゃないかとか、
そういう風に考え出すことで、
オンラインでの多様性のメリット
あれ何の時間これ?みたいな。
別にいらねえよこの時間とか思ったりするんですよね。
その投稿を見たことによって、
なんでこういう風にこの人は考えてるんだろうみたいな、
思っちゃうんですけど、
自動思考が働いてきちゃうんですけど、
いやそもそも、
そもそもそれがなんか、
俺が今考えてることで、
誰も得しないわみたいな。
自分自身も含めて誰も得しないわみたいな感じで、
思っちゃうことがあって。
で、
そういう投稿を見るのは、
そもそも見ないようにしようって思うんですけど、
でもなんか、
こうなんですかね、
なんだろう、
体に悪いおやつじゃないですけど、
食べたくなるんですよね。
そういう投稿を見たくなるんですよね。
はあ、そっか。
見たくなるというか、なんか癖なのか、
Xだったらトレンドを見てとか、
フィルターバブルとリベラル
そうは言ってもなんか荒れてるのをちょっと見に行こうかなみたいな。
え、そういうふうに意見するの?みたいなとか。
で、なんか大体リプラの裏を見てると、
そういうのに賛同する人のコメントがバーって出てて、
え、逆の意見発してる人はいないの?みたいな思ったりとか。
そんなことを思ったりしちゃったんで、
ちょっとなんか外れてどこに着地するか見えないかなってなっちゃったんですけど。
いやでも面白かったな。ちょっと意外だった。
確かにそういうとこ見ないと、
いいけど松本室の件なんか、明らかにアウトじゃんっていうことなんですけど、
本人のツイートに対してコメント残してる人見ると、
みんな、「まっちゃん戻ってきてね!」とか、「俺は信じてるよ!」とかいうのがウワーッと並んでて、
いいねもいけつない量ついてて、
いえーいってなりましたもんね。
ここなんだって。
そうなんですよ。建設的な話し合いにはなってない。
なんて言うんでしょうね。
結局フィルターバブルって言いますけど、
自分リベラルだと思っててもフィルターバブルってあるんだなって恐ろしくなったって感じ。
結局その中にいてしまうことの危険みたいなのが、
現代社会で問われてる気がするってのが僕のさっき話でた。
着物なのかって聞いてもらいましたけど。
見に行っちゃうみたいなのがわかりますわ。
なんかねー、なんか見に行っちゃうんすよねー。
どの件に対してこんなに賛同する人いるんだみたいな。
しかもスパムじゃないしっていう。
いやー、そっかー。
僕はあんまないかもしれないな。ごめんなさいね。
いいことで。
意見の内容に反応しないようになってる自分がいて、
それこそまっちゃんのことも全然知らないです。
どっちが正しい間違ってるか分かってないし、
知ろうとも思ってないし、
どんな確らしい意見が主流になっていても、
ひっくり返ることがあるって思ってるんですよ。
真実みたいなのがこれから絶対出てこないとも思ってないしとか。
それでいくと、どっちよりみたいなのは僕にも結構あるんですけど、
右左で言うと僕左寄りでずっと着てたみたいなところもあったりしたけど、
意見の程度と判断
とはいえ今それが程度が激しいと、
そっちの方、もう程度だけで見ちゃってるんですよね。
左の意見として激しすぎる人はもう、
あーいやそれは激しすぎるって思う。
だから意見の内容じゃないですよね。程度だけに反応してるから、
あんまり内容でショックを受けることないかもしれないなとかも。
今はですね、昔あったのかな、もう思い出せなくなっちゃった。
僕の中ではそれが自分の心の健全性を守る手法の一つになってるのかもしれないですけどね。
僕の敏感が反応するのは程度だけみたいになっちゃってますね。
程度か。程度も確かに。
まず程度で判断はするんですけど、
これはちょっと論外だなっていうか。
そっか。
グレーの、グレーっていうかなんか、
なんて言えばいいですかね、なんか言っとってもよくわかんないですけどね。
なんかあれですね、具体的な文章とかをなかなかレレに出せないでしょうし。
そっかそっか。それを聞いたら僕もまた、
あ、それはアウトとか言うかもしれないですけど。
すいません、それを知らずに。
判断する分には程度で切り取っちゃったっていうだけなんですけど。
でもすごい面白かった、興味深い。
今日は終盤だからあれですけど、
次回以降具体例が出せるようなものがあったときに話せたら面白そうだなとか。
宿題ですか。
そう、なんとなくわかんないけど。
あった昨日みたいに言える日が来るかもなーぐらいな、そんな薄々い期待だけでも全然。
それちょっとあれですね、実例あると全然話が違うかもしれない。
違うのかなーって思っちゃう。
次の書類までにこんなことあったんですよみたいなこととか。
次回以降というか、これからもどんどん続いていくと思うんで、
今回は一旦こんな感じっていうところで終わりにしたいと思います。
今日もありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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