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2023-08-27 30:47

映画で開始?#3~作品の長さ多さ~自分の期待値コントロール

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映画を観るタイミングの良し悪しみたいなものもあって

モヤモヤするからこそ2回観ようと思えたり

そこから読書の話にも入っていきますが…


収録日:7月15日


#しゅらシュシュシュ

#樋口塾


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サマリー

彼は映画で作品との出会いを大切にし、タイトルの重要性や映画の長さと小説の難しさ、作品の印象が後から湧いてくることがいい作品の証として、自分の期待値コントロールの重要性を考えています。また、彼は読書や映画を通じて他者の言葉や作品に触れ、自分の言葉で伝えることが大切だと思っています。彼は自動的に他者の言葉を使ってしまうこともありますが、自分自身の言葉で表現できる能力を持ちたいと考えています。彼は作品の長さや多さ、評価や結論のない作品についての悩みや映画の深さについて話しています。

作品との出会いの重要性
前回からの続き。
認めればいいんじゃないかなって最近よく思うんですよね。
とやかく言われたからって。
んなもんで選ぶような映画なんて好きな映画じゃねえだろ。
はい、なんかちょっと話が発達しちゃって。
作品との出会いとかってのを大切にするタイトルって結構重要だよねってのが僕の思いです。
そうですね。それを踏まえたら、タイミングがある意味僕は、もしかしたら良くなかったかもしれないわけですよね。
レナードの朝に出会うタイミングがある意味でですけど。
なことが逆に今良かったって思ってますね。
2回見ようって逆に思えるからみたいな。
違和感があるから。
あのときわからなかったけどみたいな。
とか思いましたね、今聞いてて。
そうじゃない、作品もいっぱいあるから。
映画はまだそれができるからいいかなと思うんですよね。
言っても2時間3時間じゃないですか。
でも若い頃に読んだ小説を今読みなおそうとかって相当きつくないですか。
小説自体あんまり読んでないな。
普通に悩みです。
長すぎるからってことですか。
学生時代にはどうにか読めたドストエフスキーの白紙。
何にも覚えてないですよ、ぶっちゃけ。
そうなんですね。
大変だったら読み切ったって記憶しかないぐらいですよ。
でもなんか読み切ってはいるんですよ。
だけどこれ読んで何も残ってないって俺やばいんじゃないかみたいな感じで、
もう一回読みなおそうと思うんですけど、
ただ学生自体にあれだけ読書に時間とか体力費やせるリソースがないんで、
できなくて苦しいというかもどかしいなっていうことが起きて。
小説だと作品にもよりますけど、再読って難しいですけど、
映画と小説の比較
映画はどっかで2時間撮っちゃえば見直せますもんね。
それはすごいなと思いました。
そうですね。
小説は、俺も歴史小説とか読んでたんですけど、
若い頃。それこそしがり太郎とかね。
古典ラジオ聞くとまた読み返したくなるパターン。
読み返したくなるんですけど、魚上のクマとかなかなか。
あれが長いんですよ。
何巻でしたっけ?
文庫版でちっちゃいやつで見て8巻ぐらいですかね。
長いっていうか、長さがいいんですけどね。
NHKでドラマやったじゃないですか、魚上のクマって。
あれだとちょっと早すぎて展開が。
早すぎてちょっとなーっていう感じだし。
僕がロード・オブ・ザ・リング見たときと同じ感想ですね。
早すぎるんです。
ロード・オブ・ザ・リング。
やべー、両方知らない。
魚上のクマって。
やっぱり原作見た上で見ると、ああああってなっちゃうんですか?
魚上のクマですか?
原作を読んだ上でドラマの方を見られたりとかですもんね。
そうですそうです。
やっぱ早いよってなっちゃうんですね。
早いし、そうっすね、早いし。
やっぱりその、描ける限界というか。
主人公が秋山兄弟で、小玉玄太郎とかなんか描いてますけど、
もっと人物が出てくるんですよね、やっぱり。
なるほど。
で、特に赤嶋基次郎っていうスパイ。
スパイ活動してた人がいるんですよね。
日露戦争の時にロシアの中で活動してた。
まあそれは一応小説の中では本当にそんなことやってたのかなっていうね。
小説はね、創作もあるんで、何とも言えないですけど、
そういう赤嶋基次郎とか、あとその高橋コレキヨとか、
その裏方の人の動きまでは描けない。
けど小説とかだと、その辺を、逆になんかここまだ終わんないのか?みたいなのもあるんですけど、
ちょっとやっぱギュッギュッと詰め込んでて、
詰め込んでるし、特にその203コーチのとこなんかは、
割とやっぱりドラマだとスッと終わるんですよね。
作品の印象と期待値コントロール
スッと終わるっていうか、相当ヤバいこと。
あのコテンラジオであんだけ熱意で語ってた203コーチがスッと終わるんですか?
そうそう、スッと。
テレビとかだとどうしてももう分かってるし、結果が分かってるし、
これをやってから勝てたっていうのが分かってるから、
まずその、あの壮絶さとか、
自分の中で想像する時間があるんで、やっぱ小説とか、一気には進まないし。
そう考えると、ちょっと短いよなぁ、みたいな。
こんなに簡単には言ってないぞ、みたいなことが感じましたかね、同時に。
恥ずかしいのは、柴領太郎、全然触れてなくて。
僕もですね。
家が大好きで、めちゃくちゃ家に本があるんですけど、
一回学生のときにトライしたんですよ。
ぶっちゃけあんまり歴史とかそんな好きじゃなかったんで、
でも読むかと思って、読んだんですよ。まさに坂上の子も読んだんですよ。
まあ普通に読めるじゃん。むしろなんか面白いじゃんと思ったんですよ。
で、一回読み終わるじゃないですか。
で、親父の本棚見に行って、次読もうと思ったら、まさかの2巻だけないパターンだったんですよ。
ほか全部あるじゃないですか。
おもろ。
僕は、柴領太郎にちょっと拒絶されたまま、今にいた。
全何巻なんですか。
8巻とか2巻ぐらいですかね。
いやーでもなんか深いなー。
僕、序盤で怪物を見に行った理由として、みんながいいって言ってたから見に行ったって言ったじゃないですか。
それぐらいもう読まないといけないじゃないな。
読みたいだったり見たいだったり、そういうものがめちゃくちゃ多い上に、加速度的に増えて排出されていってるじゃないですか。
だからこそそういう、本当にこれが評判になりすぎてるからぐらいでしか見れないなって今僕は思ってたから怪物もそうしたんですけど、
それこそさっきなつぐるさん言われたみたいに、それって前評判になるわけじゃないですか。
そうそうそう。
それを持って見てしまうと、僕は怪物に関してはある意味期待外れって言うとちょっとお言い過ぎなんですけど、
そういうものがあったのかもしれないとか思うと、もっと難しいなって思っちゃいますね。
自分の期待値コントロールですよね。
でもそれを越えて何回も見たいって思えたらそれが本物みたいに思っとけばいいのかなぐらいのところが落としどころなんですけど、自分の今のタイミングでは。
覚えてる作品って、意外と見た当初はそんなに何も感じんかったみたいなことって多いと思うんですよね。
何だっけ、ちょっとごめんなさいね。
それは小説の中で出てきた逸話なんですけど。
たしかポール・ウォースターの、ポール・ウォースターってご存知ですか、アメリカの作家さん。
いや、わかんないですよ。作家。
ポール・ウォースターの鍵のかかった部屋っていう小説があって、
ここから間違ってたら申し訳ないんですけど、主人公の親友が失踪しちゃって、
大量の書きかけの小説の原稿だけを残して失踪しちゃうと。
いろいろ経緯があって、その原稿を主人公がまとめて出版することになるんですけど、
最終的にその出版が大成功を収めるんですよね。
ただ出版するときに、原稿を持っていった相手の編集者っていうのが結構堅物というか、
かなり厳しい人で、ダメな作品は絶対に出版しないというぐらい厳しいスタンスの人なんですけど、
その人が出版を決めたきっかけというかエピソードを作詞で語ってるんですけど、
たとえばシャワーを浴びてるときとか、日曜のふとした瞬間に読んだ原稿のことを思い出して考えてしまう。
強い印象を受けたり感動したわけじゃないんだけど、
日曜のふとした瞬間にふっと湧いてきて、「あのシーン何だったんだろう?」とか。
全然関係ないときに、「あのシーンってもしかしたらこのことだった?」みたいなことが頭の中で湧き出る瞬間が、
映画とか小説を読んだ後ってあると思うんですけど、
そういうのが、やっぱりある作品っていうのはいい作品なんだろうなって僕はずっと思ってます。
完全にそれの受け入れなんですけど。
怪物も結構そういうタイプの映画だと思ってて、わかんないんですよね。
レナーダも、僕もさっき偉そうなことを言いましたけど、
見た当初は、「え?え?え?」ってなった人で、そんなことはなかったんですけど。
やっぱり頭の中で出てきたときに、
最後のロバート・デニールのおこえみとか、「あれなんであそこで笑えたんだろう?」みたいなことを考えたりするきっかけが後からあって、
ちょっとその解釈が固まっていったようなことはあるんですよね。
だから、今だとインスタント的な映画の消費のされたとかしてて、
すぐ泣ける、すぐ感動できるみたいなのが、
その一抜かじゃないと思いますけど、
ひとつの評価されちゃう時代だと思うんですけど、
そうじゃなくて、後から映画のことを思い出した瞬間を大事にしたほうがいいんじゃないかなって、
最近映画たくさん見るんで思いますね。
それはほんとそう思いますね。
でもその意味で言ったら、さっきのなぜぐるさんのドストエフスキーでしたっけ。
何も記憶にないってことはもう見なくていいじゃないですかね。
他者の言葉に触れることの重要性
拷問を受けてたかもね。
作中人物の脇役の独り語りみたいなのがバッてくると言えられるんですけど、
まだ続くの?まだ続くの?って。
通学するときの駅の電車で読み切れなくて、
帰りの電車で予約を読み切ったんですけど、
独白で12ページとかやるんですよね。
独白。
一人が演説みたいなのをかばったりとかで、
ずっと喋ってて、終わったら12ページって言うの。
同じことが別の本なんですけど、
トーマスマンの魔の山って本も読んだんですけど。
初めて両方。
トーマスマンっていう名前だけは知ってるんですか。
知ってるんですよ。僕も読んでたんですけど。
有名なのはベニシア・ニシスですよね。
映画も有名かもしれないですけど。
うん、映画が有名ですよ。
この映画の話も同じですけどね。
あの映画に出てきた美しい少年が、ミッドサマーで飛び降りた老人ですよね。
ん?ミッドサマーってもまた映画別の?
映画なんですけど、ミッドサマーのご存知ですか。
知ってる手出ちゃった。
俳優が一緒ってことですか?
これはちょっと、ミッドサマーのベニシア・ニシスも知らないと意味がわかんないと思う。
俺はベニシア・ニシスはタイトルぐらいしか知らないですね。
トーマスマンの魔の山って作品も、主人公とは別で、
二人の全く真逆の思想を持った登場人物が、
その主人公にいろいろ語りかけてくるんですよね。
政治思想とか、自分の歴史認識みたいな。
それがめちゃくちゃ長いんですけど、
すごい苦労してたくさん読んだのに、何一つ覚えてないのが面白いなって思ってます。
へぇー、そうなんだ。
何一つ覚えてないのがすごいなぁ。
びっくりしますよね、俺。あんな苦労してるのに。
やっぱり苦労したらダメなのかなぁ、残んないのかなぁ、かもしんないね。
そうかもしんないですね。
そうかもしんないというか、でも残ってると思うんですけど、きっと。
それはあり得るんですよ。
自分のオリジナルの思想だと思ってたものが、
読み返した本の中に出てきたときに、俺これ受け売りだったじゃん、みたいな瞬間。
逆に、ちにくいなったから良かったって思ってますけど。
でも危険なのは、人のパクツイみたいなことをしてたかもしれないなっていうのが怖いなって思いました。
この限られた時間の中で、いろんな作品ってみんな見てみたいなおすすめされるじゃないですか。
そうなんですよね。
それはそれでありがたいし、実際見たら良かったみたいなことあるんですけど、
それがないと、ないとじゃないな、ないとってわけじゃないですけど、
そういう映画とか小説とか元ネタがあってこそ盛り上がったりできるんですけど、
それって何でだっけなみたいに思ったりもしてるし、
自分たちは自分たちの人生があって面白いって感じてたりすることがいっぱいあるはずで、
それを共有して共感するみたいなところがあると、特に僕みたいな暮らしをしてると、
有料だからさっきのアマプラのウォッチパーティー参加できなかったりとか、
そういうハードルがあったりすると、なおさらその辺がもっともっと自由に公開されてたり、
公開されてたところで時間は足んないんですけど、せめて自由に選べたらいいなって思ったりすることとか、
それがなくても共感伝える手段があったらいいなみたいな、これ答えなく今イメージだけで喋っちゃってるんですけど、
でもその一つがポッドキャストだったりはしそうな気はしてるし、
人とつながるためだったり、そういう手段として捉えてんのかなーって、
何が言いたいかわかんないけど、そんなこと言いたくなって言っちゃいました。
うーん、どう言ったらいいのかな。
いまいくら非常に有料なものを……。
有料っていいものですね。
はいはいはい。
非常に有料なものが、結構昔と比べたらすごいコスト安く接しできる時代になってると思うんですよね。
極端に言えば天ぷら月額1,000円としても、10枚分でもとおか取れちゃうぐらい。
はいはい。
なんか妻に話してない?
え、いやいやいやいやいや。
今の例えダサいなとかわかる?
なんか世界中で1億回ぐらいくらいくらいくらいいくらいくらいくらいくらい。
まあまあまあ。
それこそコテンラジオとかですよ。
あれが無料でいいのかなって。
天ぷらにしてもストック販売しても、これが月額1,000円でいいのかなみたいな、使い古された言い回しなんですけど。
でもなんか最近思うのは、子友として本を読むことって、
子友として本を読み続けることってすごい大事だと思ってて。
つまりさっき、しゅうさんが自分たちの人生だと面白いはずだし、
そういったとこから共感するとことか、
響き合うとこを見出せるはずだっていうのは僕も当然だと思うんですけど。
ただ、その人生の深みみたいなものを取り出すときには、
やっぱりさっき言った子友として本を読み続けるってことが絶対に必要だし重要だと思うんですね。
小説が合う人、実用書が合う人。
ちょっと言い方ですとスピリチュアルみたいなアプローチが合う人。
映画が合う人。
まあ映画はダメけどドラマが合う人とか。
ポッドキャストが合う人とか。
音楽、非言語的な活動が合う人とかいろいろあると思うんですけど。
つまり何か、自分とは違う他者が作り上げたものっていうのに、
ずっと常に触れ続けてるみたいな感覚って大事だと思うんですよね。
それは別に毎日一本映画を見るとかそういう話じゃなくて、
全然最近読めてないけど、
2ヶ月前から読んでる本が1冊あるぐらいの感覚でいいと思うんですよ。
それぐらいの弱い触れ方でいいと思うんで。
それからさっき言ったように、どんなコンテンツだってどんな媒体でもいいと思うんですけど、
そういったものを併用しないと、
さっきしゅうしさんがおっしゃったような、
もっと楽につながるはずなんだけどな、みたいなところには僕ちょっと到達できない。
自分の言葉で伝えるための努力
到達できないというよりも、むしろそれが困難になってしまうんじゃないかなって気がするんですよね。
なるほど。確かになー。
そのためにある程度お金がかかってしまうっていうのは、
今は社会構造上、必要経費だと思うんですけど。
すみません。
1ヶ月に1回インプットを募ります。
何が言いたかったんだ、今日が。
言いたいことを代弁してくれるっていう側面もありますよね、映画とかってね。
確かにそうですね。
だからそれがいいっていうのと同時に、今なずぐるさんが言ってくださったことも本当に必要だったりっていうふうに思いつつ、
同時に僕、自分の中でのこうありたいみたいな欲求として、
映画とかを引用せずに自分の言葉で伝えられるようになりたいみたいな欲求もあったりして、
それを両立させたい気がしますね。
そうなれるために栄養分として本とか映画をいる気も、今話聞いててそういう気もしてきたし、
即時的な反応と向き合うことの意義
そこのバランスだなーみたいに思いましたね。
それ言うと僕がさっきちょっとパクツイみたいな感じで、あんまりいい反応をしてるわけじゃなかったんですけど。
読んだことは忘れてるけど、自分が自動的に使っちゃってる考え方とか言葉ってあると思うんで、
それはさっきも言ったとおり、自分の血肉になった言葉なんですよね。
でも、血肉にするには食べないといけないっていう当然の流れがあって。
だから自分の言葉で語るためには、他の人の言葉に耳を傾けなければいけないってことだと思うんですよ。
傾けるってことは、それをすべて肯定して受け入れるとかではなくて、
とりあえず文句言わずに黙って聞いてみるみたいなタイプ。
今だとどうしても、例えば映画見た後でも結構すぐ感想シェアしたりとか。
人に伝えることが前提になっちゃってるんですけど。
例えば映画館が車で20分くらいのところにあるんで、
君たちはどう生きるかってのを見終わった後で、結構暮らしちゃったんで。
車の中で特に音楽を流すに20分くらいぼんやり帰ってたんですけど、
その20分間でかなり自分の中で理解が深まった部分があるんですよね。
映画に耳を傾けるっていうのは、見てる間だけじゃなくて、
その後人に話したりすることなく、自分で一回向き合ってみるっていう時間だったりとか、
経験を経ないといけないんじゃないかなっていう。
即時的に反応することがすごい求められてる社会なんだけど、
だからこそ、それで取りこぼしてるものに目を向けないといけないんじゃないかなと。
そうするためには、単純に感想を出すってことを前提にせずに、
相手を批評とか判断するってことを前提とせずに、
まず今目の前にある作品などに触れてみると。
作品の長さ多さについての悩み
作品に触れる練習を繰り返すことで、
実際の日常生活だったりとか現世界で起きるような事象に対しても、
解釈だったりとか見方っていうのが進めるようになるんじゃないかなっていうのが最近の考えです。
なるほどなー。
ドックハックが12ページ続くのかなと思いました。
ごめんなさいごめんなさい、今ちょっとボケたくなっちゃって言っただけで。
2ページ半ぐらいになるのにもう少し続けてもいいですか。
いやでも、それは思いますね。
そうですよね。評価とか判断っていうのは、みんなができるようになって、
みんなが一応表明できることになったからこそ出てきてる。
これからもっと出てくるのかもしれないですけど。
悩みというか。
悩むかもしれないですね。
新しく想像してる。
評価を挟まずに、評価を挟まないっていうことが、
自分の話にしちゃって恐縮なんですけど。
いやいやいや。
なんかその今ね、しゅうさんも受けてもらった僕がやってる経調、
カウンセリングっていうのは評価を、判断をしないで聞くっていうことなんで。
だからその、分かってることって、
分かってること、はっきりしてることはやっぱ評価、判断が済んでることなんですよね。
だからその部分を尊重するっていうのは、
映画で言うと、なんか良かったよねみたいな感じから、
その感じとなんか良かったみたいな感じを一緒に共有する。
なんかいいんだねみたいな。
それって普段な日常ではなかなかできないことだと思うんですけど。
言っちゃいますもんね。
どの市が食ってきた?って言っちゃいますもんね。
そうそうそうそう。
特どの辺とかね。
なんかね、議論であの辺がこう、もやっとしたよねって言うと、
どうもやっとしたのか?
もやってどういうこと?みたいな感じに言っちゃうんですけど、
ああ、もやっとしてるんだみたいな。
不運じゃないですけど、不運だとちょっと聞いてないんで、
ああ、もやっとしてるんだねって言い続けるとか。
なるほどねって、そこかって言うだけで済ますってことですね。
で、結局結論って出ないんですよね、そういうことって。
そうですね。
評価や結論のない作品の深さ
で、結論が出ないことを罰としないっていうのは大切なのかなっていうのはちょっと…。
見るタイミングの話とかにもなったんで、そこともやっぱり繋がってるなって思いながら聞いてたんですけど、
こないだ見たレナードの話に関しては、もやっとのほうが上回ってたっていう感じだったんですけど、
ここでどの辺がとか聞いてたんですか?
いやいや、それはそれでね、複合的にというかいろんな要因で、
ひとつの例としてみんながいい話として捉えちゃってたのかなとかみたいな表現もしましたけど、
それはもう本当に多分いろんな感情の中のひとつをピックアップして出しただけで、
なんかそのタイミングではもやっとするものだったけど、もっと深く考えたら、
もやっとしないというか、むしろいいと思える面も現れてくるみたいに。
なんでしょうね、なんかこううまく言えないな。
その映画も結果が、結果というか結論が決まってるわけじゃなくて、問題提起な側面もあるし、
よく考えたらこのシーンはこういうふうにみたいなのを今日お二人の話聞いてもすごく感じたしっていう、
深掘っていけるもんだと思うんですよね。
そのスタート地点っていうのが最初の見終わった時の感想みたいな、
その時のふわっとしたそういうもやっとの方が大きかっただったり、感動したっていうのが先に来てたりっていう、
そのタイミングの違いがあるだけで、本当に深みのある作品っていうのはそっからがスタートなのかなみたいに思いましたね。
また映画の話に戻しちゃっただけなのかもしれないですけど。
この話一番映画がわかりやすいと思うんですけどね。
むやっとだったり、いらつく瞬間があるじゃないですか、映画見てて。
なんでこんなことするんだよ。なんでこんなことやってんだこいつ。わかんねえよこっちは。みたいな瞬間があるんですけど、
意外とそういうのって大事にしといたほうがいいと思ってて。
次回へ続く。
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