2020-08-18 12:51

2020-08-18

便宜上ラジオと呼んでいるもの / 集まることの定義が揺らいでいる / 日記の朗読

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おはようございます。今日は8月の18日火曜日、今朝の6時17分になったというところなんですけれども、これはもう半年ほど在宅勤務が続いていて、
人と一人で暮らしているっていうところもあって、人と対面することがなくなってしまって、あまり目的なく話すってことがないから、
おかしくなってないかなっていうのがちょっと不安になってきて始めたという趣旨の、昨日あった出来事を思い出したりして、
10分ほどちょっと話して、心の平穏を保つっていう試みを神奈川県川崎市からお送りしています。
昨日まで一応夏休みいただいていて、会社の夏休みで、先週の水曜からお休みだったので、と言っても別に休みらしいことは特にしてなくて、
ずっとラジオを聴いてインターネットしてたというところなんですけど、
昨日、遠くの雷鳴さんにこのラジオで話してたことをツイートしてもって、すごい嬉しかったっていう。
遠くの雷鳴さんっていう名前でいいのかっていうくらいそんなに名識があるわけではないんですけど、
自分の心のリハビリのためにやっているとしても、聴いてもらっているっていうのがすごい嬉しいですよね。
そして、やっぱりコミュニケーションが恥ずかしくてあまりコメントできなかったんですけど、
遠くの雷鳴さんがやっている、YouTubeに上げている永遠の坂森チャンネルっていうんですかね。
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遠くの雷鳴さんが一人で10分くらい喋るラジオごっこみたいなところもすごい勝手に聴いているので、嬉しかったですね。
遠くの雷鳴さんのこのラジオ、よくて、よくてって言うと、人柄、会ったことないんですけど、遠くの雷鳴さんに会ったことはないんですけど、人柄がすごい出ている。
最後に、じゃあねみたいな終わり方とかすごいいいなって。何なんですかね。
ラジオっていうか、便宜上もラジオって呼んでますけど、個人のポッドキャスト、知らない人の声による生活、自分語りみたいなのが、
やっぱりまた、昔はデジオ宇宙、僕の中学生くらいの時のポッドキャストムーブメントみたいなのがあって、それとはまたちょっと違った、なんか非同期な、ライブじゃないコミュニケーションっていうことも、
最初の第一次のポッドキャストムーブメントが、テクノロジーが使えないことに対してのカウンター、ライブ配信の機材とかいうものが充実してない中でのカウンターとしてのMP3ファイルをそのままサーバーに送っているアプローチだったとしたら、
最近はインスタライブなり、ペリスコープなり、ライブ配信できる状況の中で、あえて同期しないコミュニケーションを選ぶ、その方がむしろ豊かっていう風に感じられるんじゃないかっていうところで、
この第二次なのかわかんないですけども、僕は知らないだけなのかもしれないけど、ポッドキャストムーブメント、最近のはすごい面白いなと思っていて、
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コロナウイルスの感染拡大によって、すごいコミュニケーション、直接する機会が立たれている、集まることが禁止されているっていう時に、
例えば会社のミーティングもだし、学校の授業もですけど、集まれないことをインターネットで解決しようとすると、配信する、それぞれの場所から視聴するっていうことになりがちなんですけど、
ただ、実際のところ、ちょっとやってみると、双方向にコミュニケーションする場合は同期しないといけないけど、一方的に誰かが喋っている状況って別に同じ時間にやる必要がないっていうことに気づいてしまうことでもあったのかなと思っていて、
つまり、同じ時間を過ごさなきゃできないと思っていたことが、実はそうでもないんじゃないかっていうことに気づくチャンス。
チャンスっていう言い方はあまり良くないですね。
どっちがいいとかいうことではなくて、気づけるっていうところだったのかな。
思うと、学校の授業とか研修、会社の研修とかもそうですけど、特にリアクションが返ってこないこの画面に向けて延々と話すっていうのは、話す人の方の精神もちょっと負担がでかい。
誰も画面もマイクもミュートしている画面に40人とか60人とかいるチャットルームに向かって、自分だけマイクとカメラをオンにして何かを話し続けるっていうことの精神的な負担ってやっぱりちょっと経験してみてすごかったんですけど、
そういうこととか、あとこうやって一人でマイクに向かって話してるみたいなことは、同期してない、つまりライブじゃないんだけど、
聞いてる人にとっては同じタイムライン、同じ時間をして同じ経験をするってことは知っているわけで、それはつまり同期してない時間だけど集まっている状態と言えるんじゃないかなと。
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集まるってことの定義が同じ時間を過ごすっていうことで、ただ同じ時刻を過ごすってことじゃないんじゃないかっていうふうに考えると、集まるっていう定義がちょっと揺らいでるんじゃないかと思うんですよね。
ライブハウスの問題とか、ライブハウスなくなってほしくないけど、そして生の熱量っていうのはもちろんあると思うんですけど、もしかしたら一人ぼっちの同期しないことの可能性っていうのもあるんじゃないかなと思っていて、
それがやっぱり個人のポッドキャストっていうものに今結構面白みを感じる。
もともとのYouTubeとかが流行っていたのも、実は個人がテレビをやるっていう面白さじゃなくて、実は同期しないけど、なんか集まっているふうに思えるっていう。
新しい行動様式って言葉が出てきた後、ちょっとしばらくして書いた日記がノートにあって、5月12日に書いた日記なんですけど、ちょっとこれを朗読して、ちょっと今日は終わりに。
この朗読シリーズ、終わりにしたいなと思います。
新しい行動様式、もといニューノーマルとかいうものの本質は、ソーシャルディスタンシング的な意味の距離の違いではなく、コミュニケーションを非同期に処理できるようにするところにあると思う。
とりあえずの現実の代替として、一変に置き換えられたビデオチャットにみんなが慣れてきた頃、同じ時間を過ごすことの意義とかかるコストをはかりにかけて、参加者が同じ立場にいない場所から効率的に終わっていくだろう。
そんな風に、同期という軸でこれまでにやってきたことが分類されて、非同期で処理できるものから移行していくのではないか。
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離れても繋がるとは、顔を見ることではなく、それぞれの時間を生きること、その多様性を認められるくらい信頼できること、想像すること、私が私を尊重すること。
ひとりぼっちとは、つまり非同期である。離れ離れではないのだ。
ここまで聞いていただいてありがとうございました。
シュカでした。
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