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2025-12-27 45:14

セミラジオ4周年! ~イザベラ・バードと旅する明治の日本奥地~

4周年記念回は、明治期の日本奥地を旅したイギリスの女性旅行家、イザベラ・バードについてお話しました!


イザベラ・バードの日本紀行(ラジオドラマ/YouTube)

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サマリー

このエピソードでは、明治期の日本奥地を旅した女性旅行家イザベラ・バードについて語られています。彼女の旅の詳細や独自の視点を通じて、その時代の日本の文化や社会状況が明らかになり、特に彼女が観察した日本人の生活様式に焦点が当てられています。イザベラ・バードが明治時代の日本の奥地での各地の文化や人々との出会いを描写しています。新潟や北海道での食文化やアイヌの人々との交流を通じて、当時の日本社会の風俗や好奇心に満ちた様子が伝わります。また、彼女の旅の様子と印象が紹介され、特に彼女と同行した伊藤との関係性や旅の独特な風景についても触れられています。

セミラジオ4周年の特別企画
みなさん、こんにちは。 自然を愛するウェブエンジニア、セミラジオです。
今日は、明治期の日本奥地を旅した女性旅行家、 イザベラ・バードについてお話ししたいと思います。
今回のエピソードは12月27日にアップする予定なんですが、
12月27日というのは、当番組、ポッドキャスト セミラジオ生き物とサブカルがちょうど4周年を迎える日になります。
4年。 もう4年もやったんですね。結構しゃべりましたね。
ポッドキャストを始める前は、どれくらい続けられるか、 ネタが続くかよくわからずに、とりあえず勢いで始めたんですが、
話したいことって意外となくならないものですね。 僕自身が割とどんどん、その時々で興味のあるものが変わっていくので、
ネタに関しては、一旦ストックがなくなったかなと思うと、 しばらくすると、これネタになるなというものが出てきて、継続できてますね。
そしてモチベーションに関しては、当初想像していたよりも、 多くの方に聞いていただけているかなというところで、とても励みになっています。
皆さん、いつもセミラジオを聞いていただき、本当にありがとうございます。 これからもマイペースにやっていければと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
今回は、そんなセミラジオ4周年の大型企画として、 明治期の日本を旅した女性旅行家、イザベラバードについてお話ししたいんですが、
皆さん、ご存知でしょうか。どのあたりが大型企画かというとですね、 今回、イザベラバードの日本気候という本を資料として読んだんですが、 この本を読むのに非常に時間がかかりました。
講談社学術文庫から出てるんですが、上下巻で1000ページ近くある上に小さい文字で印刷された、非常に情報量が多い本でして、 それでまた明治期の日本って、僕を含めて今の日本に住んでいる人にとって異世界だったりもするので、
内容をしっかり理解したくて、かなりじっくり読んだんですよ。 2、3週間くらいずっとこの本読んでましたね。
それもあって、今年読んだ本の中でもかなり記憶に残る濃密な、 イザベラバードと一緒に明治期の日本奥地を旅したかのような、心に強く残る読書体験ができました。
ただ、実は最近まで僕はこのイザベラバードという人のことをよく知りませんでした。 イザベラバードを知ったきっかけなんですが、うちの妻のバク子がこのイザベラバードの旅を題材にしたラジオドラマを聞いたことがありまして、その話を僕にしてくれたんですよ。
そこから興味が湧いて、今回テーマとして取り上げることになりました。 ちなみにこのラジオドラマ、イザベラバードの日本気候なんですが、
JWAVE会局25周年記念の特別番組として制作されたもので、企画構成三谷幸喜、朗読松高子、音楽被災師ジョーというかなり豪華な制作人のドラマーでした。
YouTubeに音源も上がってたりしますので、ご興味がある方はイザベラバード三谷幸喜などで検索してもらえればと思います。
で、このイザベラバードという人なんですが、1831年10月イギリスヨークシャーの生まれで、日本に初めて訪れたのは1878年になります。
日本に初上陸した時点で56歳だったんですね。 幼少期には病弱で北米などに天地療養をしてたんですが、このことが旅行家としてのイザベラバードの現体験になったのかなと思います。
そして成長したイザベラはアメリカやカナダ、オーストラリア、ハワイやアジア各国、中国、朝鮮、ベトナム、シンガポールなどを旅することになります。
日本での滞在中、イザベラバードは故国にいる妹に多くの手紙を書いたんですが、イザベラはそれらの手紙形式の文章をまとめた本を1880年に出版しています。
今回資料としたイザベラバードの日本気候はその本を日本語に訳したものになります。
朝鮮中国ハワイでの旅についても本が出ているので、このあたりもいずれ読みたいなと思ってるんですが、今回はイザベラバードの日本での旅についてお話しできればと思います。
イザベラバードが日本にやってきた1878年なんですが、元号で言うと明治11年にあたります。
ほんの10年ちょっと前くらいまでは徳川幕府が日本を治めていたそんな時期ですね。
この頃明治政府は欧米の文化を取り入れた新しい国づくりのために多数の外国人を雇い入れていて、それらの外国人はいろんな分野で指導に当たっていました。
ただ、イザベラバードがこの後旅していくような日本の奥地、内陸部や当時エゾと呼ばれていた北海道のアイヌの集落まで足を運ぶ外国人というのはとても珍しい存在でした。
イザベラバードが日本で行った1400マイル、約2240キロに及ぶ陸路の旅というのは、当時もですし今の価値観からも空前絶後の大冒険だったと思います。
1878年の5月、イザベラバードは18日間の船の旅を終えて日本の横浜港に到着しました。
日本に上陸したイザベラは初めて目にする日本の街並みの中に不老者が一人も見当たらないことに感心したそうです。
当時のイギリスのイザベラの生活圏では不老者はかなり多かったみたいですね。
で、それに関連して後に続くイザベラの言葉があるんですが、これが何というか犯人の着せないという感じで、
当時の一イギリス人の日本人に対する率直な感想が綴られてます。
上陸して次に私が感心したのは不老者が一人もいないこと、そして通りで見かける小柄で醜くて親切そうでしなびていてガニ股で猫背で胸のへこんだ貧相な人々には
全員それぞれ気にかけるべき何らかの仕事というものがあったことです。 そんな印象を書いてるんですね。
この後もイザベラは断るごとに日本人のことを醜いとか貧相とか率直に表現するんですよ。
このあたりは日本人としてまあまあイラッとするところではあるんですけど。 で、横浜から東京までイザベラは鉄道で移動します。
この頃日本にはもう鉄道があったんですね。 鉄道は横浜から東京まで、また神戸、京都、大津を結ぶ全長76マイル、約122キロが付接されてました。
この頃の日本の街にはたくさんの人力車が通りを走ってました。 ちょっと意外だったのが人力車の歴史って僕が思ってたよりも浅くて1870年、つまり明治3年、
イザベラが日本に来る8年前に発明されたばかりでした。 人力車を引くシャフの仕事はなかなか稼ぎがいい仕事だったみたいです。
イザベラバードの日本での旅ではこの人力車もたびたび利用することになります。 人力車以外では日本産の小柄な馬、もしくは徒歩で時には凄まじい
悪路を進む中で馬から転げ落ちたり、足を取られたりしつつ、日本を口を旅していくことになります。 イザベラは東京での滞在中、日本式の演劇を見物するんですが、古い日本に興味を持ち、日本語の知識もまずまずある外国人には古典劇ファンが多いのですが、
シントミザで上演されたものがその代表であるなら、私にはテンポがのろくて退屈だと書くしかありません、とバッサリ切り捨てています。 かなりはっきりものを言う人なんですね。
イザベラは東京で日本を口への旅のお友として通訳を雇おうとするんですが、なかなかいい人が見つからず苦労することになります。
ぜひとも私を雇ってくださいと言ってやってくる 辞書通訳の日本人の中には英語がほとんどわからない人もいたみたいです。
そんな中、紹介状もなく唐突に訪ねてきた伊藤という男とイザベラは会うことになります。
伊藤は英語がかなりうまく話せて書くこともできて、 イザベラと英語で意思疎通をすることができました。
伊藤は植物研究家のイギリス人チャールズマリーズ氏と日本の東北地方を旅した経験もありました。
日本の北部への旅を計画していたイザベラは伊藤を雇うことに決めます。
イザベラによると、伊藤は身長147センチで、がに股のっぺりとした顔をした18歳の青年で、人の表情を盗み見るような仕草を見せる時があるということで、
イザベラは伊藤について信用できないという第一印象を持ったようです。
この信用できないという印象は確かにその通りで、 伊藤は割とずる賢いところがある人で、
宿屋の主人と結託して、イザベラが宿屋で払う宿泊費の何割かを中引きしたりする抜け目ない奴ではあったりしたんですね。
なんですが、一刻も早く北日本への旅に出発したかったイザベラは、通訳兼荷物持ち兼世話係の伊藤と共に、いよいよ陸路での日本奥地の旅に出発するわけです。
イザベラは道中、伊藤に宿泊費を中引きされているということに気がつきながら、ある程度は目をつぶったりもしていたようです。
ちなみに、伊藤は身長約147センチということなんですが、 この頃の日本人の体格は、イザベラによると男性が153から165センチ、女性が142から155センチの範囲に収まっていることが多かったということで、
伊藤は当時の日本人の中でも小柄な方だったみたいです。
伊藤と共に東京を出発したイザベラが目指したのは日光でした。 イザベラは日光への道中で目にした準備中の水田の凄まじい匂いに並行し、
有毒沼と表現しています。 昔のドラクエに出てくる紫色の歩くとダメージを食らうあの毒沼みたいな感じで、日本の水田のことを表現しているんですが、
この頃の水田って、稲を育てるために油かすとか、ありとあらゆる栄養を含んだものを投げ込んでいたみたいで、なかなか強烈な匂いを放っていたみたいです。
イザベラと伊藤は路傍の茶屋で休憩をとりながら旅を続けます。 この茶屋は1、2時間の休憩とお茶で3千から4千という料金形態だったようです。
明治時代、1千というのは約200円だったみたいなので、 だいたい600円から800円くらいということかなと思います。
今、カフェでコーヒー一杯頼んで休憩するのと、そんなに変わらないくらいの感覚かもしれません。
日光を訪れたイザベラは、日光東省宮や日光の森の山道、歴史的な建造物や日本の自然の美しさに深く感動し、
広い道が日光の聖なる森の山道、杉の並木道へと変わり、木漏れ日が草に木の葉の影を揺らめかせ始めると、私は日本を美しいと思いました。と綴っています。
経験なキリスト教徒の家庭に生まれたイザベラは、思考の中心にキリスト教がある人で、日本の仏教や神道についてはあまり肯定的な見方はしてないんですが、
この日光東省宮という雄大な神社と調和した日本の自然には、信仰の違いを超えた胸打たれるものを感じたみたいです。
こういった胸打たれる場面もありつつ、イザベラは日本の宿での宿泊の際は、のみや白身など不快な虫に悩まされ、日本式の食事も口に合わずかなり苦労したようです。
イザベラは日光の周辺に住む人たちについても描写しています。大人の女性はひき眉とおはぐろをしていることが多いということで、
ひき眉というのは、もともと生えていた眉毛を全部抜くか反るかすることで、もともとの眉毛の位置よりも少し上に隅で新しい眉を描くことを天井眉と言ったそうです。
そしておはぐろ、歯に溶液を塗って黒く染めるというものですね。今ではすっかり廃れた風習ですが、この頃の日本人女性は大人になると多くの人がこのひき眉とおはぐろをしていたんですね。
それとイザベラは、これほど自分の子供たちを可愛がる人々を見たことはありませんと日本人のことを表したりもしています。
今でもヨーロッパの家庭では割と小さな子供でも一人で部屋で寝かせると聞いたことがあるんですが、欧米では子供の自立心を育てるという意識が強いのに対して日本やもしかすると東アジア一帯では子供は可愛がるという傾向が昔から強いのかもしれません。
コサゴエ村の文化と生活
イザベラが北へ北へと旅を続ける中でコサゴエ村という村にたどり着きます。
これは現在の日光市コサゴエにあたる場所で、ここでイザベラは横浜や東京など都市部で雨にしなかった日本奥地の村の様子を目の当たりにすることになります。
イザベラによるとコサゴエ村では男はふんどしのみでほぼ何も着ていない。女性は薄い布とモンペで裸の赤ん坊を母親が背負ってると。人々は一週間に一度はお風呂に入ると私に言います。
ということで、令和の価値観からするとなかなかすごいなと思うんですが、当時日本の内陸の村って大体どこもこういう感じだったみたいです。
そういう内陸のある村で昼間から酔っ払って暴れながらフラフラ歩いている女性をイザベラは見かけます。
すると同行していた伊藤が顔を押さえてうずくまってしまって、どうしたの?と声をかけると、こんなところをお見せするとは恥ずかしくてどうしたらいいかわかりません。と言うんですね。
伊藤は外国人と多く交流してきた経験から、外国人には日本を立派な国と見てもらいたいという意識が強いのかもしれません。
伊藤という人の一端を感じられるエピソードなんですね。
で、当時のこういう村って外国人ってほとんどあるいは全く見たことがない人ばかりで、イザベラが村に会ってくるともの珍しくてもう村中大騒ぎになるんですよ。
イザベラが通行証を見せに村役場みたいなところに行くと村人全員がその後ついてくるっていう本当にそんな感じだったみたいで、
宿に泊まっても後期の視線を常に感じて、もう露骨にイザベラがいる部屋のドアを開けてじろじろ見てきたり、プライバシーという概念が存在しなかったようです。
今の日本だとここまでする人って多数派ではないですよね。
この頃の日本ってプライバシーという概念もないですし、好奇心のままに行動する人が多かったみたいです。
そんな感じではあるんですが、イザベラが言うにはむき出しの好奇心をぶつけられはするものの、
日本人は概ね外国人を手帳に扱ってくれると、イギリスやヨーロッパだとこうはいかない。
お金をふっかけられたり、雑に扱われたりするだろうという印象を持ったようです。
それとこの辺りの村で一泊した宿のおかみさんとイザベラは会話を交わしたんですが、
おかみさんはロシアが大国であることや、当時中国大陸にあった国である新国のことは知ってたんですが、
イギリスやアメリカという国のことは知らないとイザベラに語りました。
イザベラの旅は続きます。
新潟の食文化
新潟の内陸にある津川というところから、阿賀の川という川を船で下って、新潟の都市部までたどり着きました。
新潟はこの頃では唯一の日本海側にある大きな港町で、年間何千足もの下駄が作られるところでもありました。
喫煙具の専門店などもあったみたいですね。
この頃の日本人の喫煙率は非常に高くて、イザベラによると女性の多くと男性全員がキセルとタバコ入れを帯に挟んで持ち歩いていたそうです。
それとこういうお店が立ち並ぶところでは、人気のある外国製の製品のラベルの貼られた瓶に低品質なお酒とか別の何かを詰めて売るという商売をする良くない業者が少なくなかったようです。
イザベラはこのあたりで日本の食べ物について紹介しています。
中でもイザベラは大根をひどく恐れていました。
軽く干してから米ぬかとともに塩水に漬ける。
大根は多孔質で寝かせてある3ヶ月の間に大量の漬け汁を吸収し、その結果それを食べている時は同じ家の中にいるのも困難なほどの悪臭を放つようになる。
私の知る悪臭の中でこれよりひどいのはスカンクくらいのものである。
これはたくあんとか大根の漬物について言ってるんだと思います。
相当苦手だったみたいですね。
あるスープは黒い液体の中に皮のような舌触りの干した巻き貝が入っており、
大半のスープは聖書に記される忌々しいものの煮出汁という文句がぴったりである。
とも書いていて、これは日本の味噌汁とか各地で食べられていた煮汁のことを言ってるみたいです。
イギリス人らしいウィットに富んだ文章ですよね。
あと、この頃の新潟の人はとにかくきゅうりをよく食べていたみたいで、
この地方ほどきゅうりを食べるところは見たことがありません。
子供は朝から晩までかじってますし、母親の背中におぶわれた赤ん坊ですら一生懸命しゃぶっていますと書いてます。
今でも新潟のあたりはきゅうりが名産品みたいなんですが、
この頃はよりその傾向が強かったんですね。
食文化の違い的なところで言うと、イザベラが立ち寄った村で牛を見かけて新鮮なミルクが飲めるかなと期待したところ、
誰にその牛乳飲みたいという話をしても、
牛の乳を飲むなんて西洋人の文化っておかしいなぁ的なことを言われて大笑いされたそうです。
牛乳を飲む文化というのがこの頃の日本にはほとんど定着してなかったんですね。
新潟をたったイザベラは山形、秋田、そして青森の港までたどり着きます。
アイヌの人々との交流
そこで蒸気船に乗り1時間かけて約100キロ近くを進み、ついに江戸の入り口、函館に到着します。
この頃の北海道は推定人口が約12万7千人ということで、今だと約500万人なので桁が全然違いますね。
函館の人口が3万7千人、札幌が3千人だったそうです。
個人的にはこの頃の札幌の人口が3千人だったということにびっくりしましたね。
札幌は今は人口約200万人の大都市なんですが、この頃は3千人の人が住んでいたということなんですよね。
人口ということで言うと、この頃の北海道のアイヌの人口は約1万2千人だったようです。
この頃の日本全体の人口が約3400万人に対して、北海道のアイヌが約1万2千人ですから割合としてはかなり少なかったんですね。
イザベラは本州の旅ではずっと内陸部の山合いの道や集落を旅してきたんですが、
本州の風景とは違う北海道の広々とした大地にイザベラは魅せられました。
馬に乗って大平原を思い切り駆け抜ける。本州ではできないことがここではできる。
ここは日本だけどどこか違うのです。そんな風に記しています。
イザベラが絵像での旅の中で特に関心を持ったのがアイヌの人たちの暮らしでした。
アイヌのことって話すのがなかなか難しいんですが、
イザベラの記述と僕自身の主観を交えてお話ししたいと思います。
まず最初に言うと僕自身はアイヌに対して結構親しみを持っているんですね。
というのは今手元にアイヌ語集、アイヌ語招致典という小冊子があるんですが、
この編参に携わったアイヌの首長である宮本恵香島徳という人の写真と言葉がこの小冊子に載ってまして、
この宮本恵香島徳さんってなんていうかちょっと僕と顔が似てるんですよ。
恵香島徳さんはアイヌの首長らしく立派なヒゲを蓄えてて、僕はヒゲは毎日電気ヒゲ剃りで剃ってますのでそこは違うんですが、
ウリ二つってほどではないんですけど、輪郭とかパーツとか絶妙に似てるんですよ。
うちの妻の幕子も似てるねって言ってました。
で、以前もお話ししたんですけど、僕は山梨県民と山形県民のハーフなんですよ。
父が山形県の出身で、で、東北アイヌという集団もいたという話もありますし、
何も確証はないんですけど、もしかすると自分の遠い祖先に東北アイヌの人がいてもおかしくないよなぁと勝手に思ってるんですよ。
なので僕はアイヌに対して親近感を持ってるんですね。
で、このイザベラが旅した1878年の時点で映像に住んでいたアイヌと呼ばれる人たちについてなんですけど、
すごくざっくり言わせていただくと、日本の主要民族である和人とは全く違う言語や風習を持った別の民族ということだったと思います。
体型ががっしりして多毛、特にアイヌの男性は体毛がとても濃い人が多く、ものすごく立派な髭を蓄えたアイヌの男性の写真が残っています。
イザベラによるとアイヌの男性は身長163から169センチ、女性は154センチを越すことが滅多にないということで、和人の男性が153から165センチの範囲にだいたい収まっていたことを考えると、
特にアイヌの男性は和人の男性より大きな体格の持ち主であることが多かったようです。
明治政府はそれまでアイヌが行ってきたいろいろな風習を禁止し、同化政策を進めました。
その結果、今では日常的にアイヌ語だけを使って伝統的なアイヌの生活をしているという人はもういないんじゃないかと思います。
このあたりははっきりしたことは言えないんですが、おそらくそうだと思います。
はっきり言えないというのは、アイヌと差別という問題があるからなんですね。
アイヌであることで差別されることがあるから言えない。
なので、自分がアイヌの血を引いていることを大っぴらに言えない。
今もそういう人たちがいて、なのでアイヌの実態が見えづらくなっているということなんですよね。
アイヌの血を引く方の中で、そういったご自身のアイデンティティについて本などで発信している方もいらっしゃいます。
今回、そこに触れるとちょっと収まりきらなくなってしまうので、深くは触れないんですが、
例えばイザベラバードの日本気候でもその描写はあります。
通訳の伊藤なんかははっきりとアイヌに対して差別的なことを口にするんですね。
イザベラが私たちを迎え入れてくれるアイヌの人たちに定調な態度を取らないといけません。
というと、アイヌは人間じゃなく犬に過ぎないのに、みたいなことを言うんですよ。
伊藤は横浜育ちの都会っ子で、ここまでイザベラが人里離れた内陸ばかりを進もうとするのに
ヘキエキして散々文句を垂れてきたんですけど、なんだかんだ言ってついてきてくれてたんですね。
なんか憎めない奴ではあるんですよ。そんな伊藤がアイヌに対してはそういうことを言うわけです。
これは別に伊藤に限ったことではなくて、アイヌの人が通りがかったとき、
あ、犬と言ってバカにする、それってアイヌの人を差別する定番のやり方だったみたいです。
ただこの時代の北海道でも、そんな風にアイヌの人を詐欺すむ日本人もいれば、
アイヌに親しみを感じて仲良く暮らしていた日本人もいた。
イザベラの手記にはそんな風にも書かれています。
ともあれ、このイザベラバードがアイヌの集落を訪ねて、
そこに住んでいるアイヌの人たちと言葉を交わし、彼らの暮らしぶりを目にする。
このくだりは、イザベラバードの日本気候の中でも、特に印象深く僕の中に残ってます。
漠然とした知識や印象しか持っていなかったアイヌと、
イザベラの主観を通して自分も出会うことができた。
そんな風に感じたんですよ。
イザベラはアイヌの集落で、アイヌが行っているいろいろな儀式を見せてもらいます。
アイヌはそれぞれの家に棒を加工して作った神様を祀っていて、
とても大切にしています。
また、アイヌはお酒を申請ししていて、
お酒をその棒で作った神様にかけたり、
自分たちでお酒を飲むことで、神様への信仰心を表現していました。
イザベラによると、アイヌは日本人ほど酒に弱くなく、
日本人なら馬鹿な真似をしそうな量の3杯飲んでも平気だったそうです。
この辺りの儀式について、アイヌたちはイザベラに、
日本の役人には黙っていてほしいと懇願してきました。
なぜなら、アイヌの伝統的な儀式は明治政府によって禁止されていて、
こっそりと儀式を行っていることを知られたら、
ひどい目に合わされるからということなんですね。
この辺りからも伝統的な暮らしを禁止され、
困窮するアイヌの人たちの様子が感じられます。
アイヌの女性は5歳か6歳になると、
口の周りや手に入れ墨をする習慣がありました。
あるアイヌは、入れ墨をしない女の子は結婚できないと言ったそうです。
この入れ墨も明治政府によって禁止されました。
また、アイヌの家では日本の侍からもらった刀などの宝物を棚に飾る習慣がありました。
そして、アイヌの村ではどこでも首長の家の近くには、
特に肉を取り去ったクマの頭をてっぺんにつけた高い柱が何本も建ってました。
ヒグマはアイヌにとって信仰の対象であり、強さの象徴だったんですね。
アイヌは槍や毒や仕掛け弓などでクマを飼っていたようです。
イザベラはエゾでアイヌと交流する中で、
アイヌの言葉にとても強い印象を受けています。
アイヌの言葉、低く歌うような声、
イザベラ・バードと伊藤の別れ
私がそれまでに聞いた何よりも穏やかで優しい、
そんな風に書いてます。
アイヌはかつて日本に暮らしていた縄文人の地を
最も色濃く受け継いだ民族であるという話があります。
イザベラが耳にした穏やかで優しい、低く歌うようなアイヌの言葉、
それはかつて縄文時代に話されていた言葉とどこか似ていたかもしれません。
北海道での旅を終えたイザベラは、
本州に戻ることになるんですが、
これまでにつき添ってくれた伊藤とはここで別れることになります。
伊藤は実は以前仕えていた植物研究家のチャールズ・マリーズ氏と
引き続き契約を結んでいたんですが、
イザベラが提示した給料がマリーズ氏よりも条件が良かったので、
勝手に契約を保護にしてイザベラのところにやってきてしまったんです。
それでは筋が通らないということで、
イザベラは伊藤をマリーズ氏の元へと返すんですが、
いよいよ別れが近づいたとき、
伊藤はイザベラに、
これが最後の朝だと思うと残念ではありませんか?
自分は残念です。
と主張なことを言います。
ズル賢くて欠点も多い伊藤なんですが、
正直ここはグッとおきます。
伊藤と別れたイザベラは、
箱根から横浜、そして東京に戻ったかと思うと、
今度は関西に向かいます。
そして京都や神戸などを旅することになるんですが、
ところどころで伊藤のことを思い出して文に綴っています。
伊藤の作ってくれたお粥が恋しい、
みたいなことも書いてますね。
第一印象は信用ならない男で、
実際、宿題を中抜きしたり、
小ずるいやつだった伊藤なんですが、
数ヶ月にわたり旅をする中で、
お互いに親しみを抱いていたのかなと思います。
このイザベラと伊藤の関係性も、
イザベラバードの日本気候の見どころの一つですね。
そして1878年の5月から12月まで、
日本各地をめぐったイザベラバードは、
横浜から故郷イギリスへと帰っていきました。
明治時代の日本の風景
今回イザベラバードの旅の中で、
印象的なところをお話しさせていただいたんですが、
いかがだったでしょうか。
冒頭でも言ったんですが、
1878年の日本って、
やっぱり完全な異世界で、
思いもよらないことが多くて、
今回1000ページ近く読んだんですが、
全然退屈はしなかったです。
読むのに体力はいったんですけど、
内陸の村の男の人は、
夏場ということもありますが、
ふんどし以外身につけてないとか、
服を着ている子供が一人もいないとか、
お風呂は1週間に1度とか、
そういうお話がありましたけど、
江戸時代あまりに日本人がお風呂好きで清潔なので、
西洋人がびっくりしたみたいな話ってあると思うんですが、
一方、内陸ではそういうこともあったということで、
過去の日本も地域ごとに多様な生活や風景があったんだな、
ということが感じられて、
それがすごく新鮮でした。
ちなみにさっき伊藤とイザベラバードの関係性のお話をしたんですが、
実はこの伊藤とイザベラの旅を題材にした小説や漫画なども存在しています。
イザベラバードとサムライボーイという小説や、
不思議の国のバードという漫画なんかが出てまして、
僕はまだ読んでないんですが、
この辺りからチェックしていただいて、
いずれ本編も読んでみるというのも面白いかもしれません。
今回資料とした講談社学術文庫のイザベラバードの日本気候も含めて、
概要欄に貼っておきますので、よかったらチェックしてみてくださいね。
セミラジオではお便りを募集しています。
Xのハッシュタグセミラジオや概要欄のフォームからお送りいただけると嬉しいです。
今日は明治期の日本奥地を旅した女性旅行家、
イザベラバードについてお話しさせていただきました。
ご視聴ありがとうございました。
45:14

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