なのでもう少し話のネタを絞ってより埼玉感がある話をしようと思うんですけど、中でもちょっと渋沢栄一と鉄道に関するお話をさせていただければと。
鉄道ですか。
そうなんです。
そもそも渋沢栄一の業績とかってどれぐらい、ちなみに黒麦さんご存知ですか。
中学生ぐらいの頃だったら答えられたと思うんですけど、今ちょっともう何も覚えてないですね。
確かに私も正直あんま覚えてないんで、銀行作りまくってたらいろんな会社作ることになりましたみたいな、そんな感じでざっくりと覚えてるんですけど。
そうですね、いろんな会社作った人っていうイメージですね。
そうですね。その渋沢栄一が晩年に結構影響を与えたのが秩父だったり秩父鉄道だったりしたので、ちょっとその辺のお話をしようと思います。
というのもですね、渋沢栄一いなかったら実は今の秩父なかったかもしれないっていうぐらい、秩父の発展にめちゃくちゃ渋沢栄一が関与してたんですよね。
えー、秩父の方に。
そう。なのでちょっとその辺を破綻しようと思うんですけど、秩父鉄道ってちなみに利用したことありますか?
何度も乗ったことありますね。
なんかちなみにどんな用途で使ったとかありますか?
そうですね。秩父方面に遊びに行くときに、秩父の巡礼とかやったことあるんですけど、あれの帰りに乗ったりとか。
あとは長トロとかも乗って行ったこともありますかね。よりとかから乗り換えて。
なるほど。はいはいはい。
熊谷方面で使ったことあんまりないかな。
あー、でもまあ確かに、えっと、埼玉の南の方に住んでる人は、なんか熊谷に行くんだったらJRとかでいいかなっていうふうになっちゃったりとかしますもんね。
はい。まあ各々私も同じような使い方をしていて、まあそれこそ一般的に生活圏内で利用してる人よりは話を聞いてる人だと、秩父とか長トロの観光とかで利用することが多いのかなっていうイメージの鉄道ですね。
はい。で、まあそんな秩父鉄道なんですけど、最初名前が違くて、乗務鉄道っていう名前だったってことご存知でしたか。
乗務鉄道。あ、上野武蔵ですかね。
あーそうです。上野武蔵で。上野武蔵の無は武蔵っていうのがわかると思うんですけど、上っていうのが何を指すのかっていうところで、なんかご想像つくところもしあればお伺いしたいんですけど。
そうですね。今秩父鉄道が走ってるラインを考えると、武蔵の国のまあ北の端っこなので、北っていう意味で上なのか、それともお隣の群馬県が神戸で、あの上野って書く。
はいはいはい。
上野都会で神戸という、なんかもともと、なんかもしかしたら神戸の方まで行くつもりだったのかっていうあたりかなっていう想像ですかね。
はい。もうお察しの通りなんですよね。
あ、当たっちゃいました。
はい。神戸、まあ上州の方と武蔵をつなぐということで、乗務鉄道っていう名前がつけられてまして。
ほー。
もともとは秩父から縦林までつなごうというところを考えてたんです。
あ、結構遠くまで。
そうですね。はい。で、まあ当時の秩父ってどういう状況か、まあその明治の頭ぐらいの話をすると。
もし鉄道がなかったらっていうことを想像していただきたいんですけども。
はい。
まあ道路としては、秩父から他のエリアにつなぐ道っていうのがまあいろいろあったんですけど。
はいはい。
例えば秩父から本城の方を結ぶ秩父新道っていうのが明治19年に開作されていたりとかしています。
ほう。
で、まあ乗り合い馬車とかね、当時は馬車鉄道じゃないか、乗り合い馬車っていう乗り物があって、まあその馬車も通るような主要な道路だったんですけど。
ほう。
まあこの道がですね、あの峠道だということもあって。
はいはい。
まあ雨とか雪の時はぬかるみがひどくて、結構交通の便がいいっていうわけではないというのが状況だったんですよね。
ほうほうほう。
なのでやっぱり、それを解決するためには天候にもあんまり左右されない鉄道みたいな乗り物が必要だと。
ふんふん。
いうところで、まあこの秩父鉄道を作りたいということを、まあ最初は常務鉄道ですけれども、柿原万蔵っていう方が発起人になって始めました。
ほうほうほう。
柿原さんっていう方が、秩父名船とか、米産として、あの織物があったんですけど、あの織物の買い継ぎをするとんやみたいなものを営んでいて。
なるほど。
しかも、まあその昔、江戸時代には、お師藩、業田の方の藩ですね。
はいはいはい。
の御用足しという形で、そことのやり取りもあるっていうぐらい、結構秩父を代表するような織物のとんやさんだったと。
おー、なるほどなるほど。
結構財力もあるような方が発起人となって、秩父には絶対必要だということで闘争というような形になったんですけど。
ほうほう。
で、先ほど言ったみたいに、最初縦林まで繋ごうと。縦林はあの製糸工場とかもあるので、繋ぐの便利だろうなと。
あー、なるほどなるほど。
うん。
いうことを考えてたんですけれども、結局熊谷の辺りからその縦林方面っていったところは、後回しにしようということになってしまいました。
ほう。
はい。これ後回しにする理由みたいなのが、地形的なところでちょっと想像できたりするかなと思うんですけど。
ほう。
なんかありますかね。
おーっと?なんだろう。
熊谷から縦林に鉄道を通そうとすると、ちょっと問題が生じてしまうことがあるんですね。間に何があるかと。はい。
間に、利根川とか高崎線にぶつかる?
あー、素晴らしい。その通りですね。実は利根川とか渡瀬川とかもあるんですよね、間に。
あー、川の方か。
はい。なので、川を渡るためにはやっぱりそれなりの橋っていうものが必要になるわけで、技術的にも建設費的にもちょっとコストが高いというところで、ちょっとやめましょうということになって先送りになったと。
なるほど。
はい。ただこれ先送りにしちゃうと、ちょっと問題が生じてしまいまして。
ほう。
何かっていうと、鉄道を作るときにはやっぱり資金が必要になりますよね。
そうですね。
で、資金をどういうところから集めてくるかっていうと、やっぱりその鉄道を引くときにメリットのある人たちにお声掛けをして、資金くださいというふうに話をしていくっていうのが一般的な動きだったのが当時だったんですけれども。
はいはい。
この熊谷から先のところを先送りにすることになったので、この羊毛とかの地域からお金をもらうことができなくなっちゃったんですよね。
あー、なるほど。
はい。ということで、実は当初よりも資金繰りっていうのがちょっと難しくなるというような状態になってしまって、実はこの乗務鉄道のスタートのタイミングは結構お金カツカツの状態からまずスタートしていくっていうような感じになってしまいました。
なるほど。
はい。それぐらいカツカツなんですね。
ほうほうほう。
はい。なんで、お金がないっていうことは工事もあんま順調に進まなかったりするわけですよ。
そうですね。
はい。なので最初は熊谷の方から建設を始めたんですね。
ほう。
はい。で、最初の第一区間って言われてるのが熊谷からよりの間ですね。
はいはい。
が、まず作られることになったんですけど、その区間でも建設費足りないよっていうことが分かって、株主総会とか開いて、ちょっと借入金を増やそうぜみたいな。
はいはい。
なんかそんなかけずがされたりとか、借金をどんどん増やしていくというような感じでした。
ほう。
で、よりまで開業したときにもうすでに10ヶ月ぐらい遅れちゃったと。
なるほど。
しかもですね、開業したらやったーじゃなくて、いわゆる営業係数っていうものが鉄道にはあるんですけど、
はい。
簡単に言うと、例えば100円の収益を得るのに必要な費用っていうのがどれくらいかと。
ほうほうほう。
で、例えばそれが100円を超えていると費用の方が大きいので赤字。
で、100円を下回っていれば黒字みたいな感じの営業係数っていう考え方があるんですけど。
はいはい。
このよりまで開業したときで、大体90ぐらいだった。
あー。
はい。
ちょっと損が出ると。
はい。ただこれ問題なのが、この秩父鉄道ってこれからどんどん工事していかないとその先の延伸ができないですよね。
これで終わりじゃなくて。
はい。
なのでその工事費用を含めるとゴリゴリ赤字なんですよ。
なるほど、そうですね。
うん。
なので、例えばですね、そもそもなんでこんなに営業係数低かったのかっていうと、機関車2両で運用してたんですね。
ほう。
なので、1日5往復しかできなかったと。
あー、なるほど。
はい。それはもちろん本数増やせば収益も増えるはずなんですけど。
はいはい。
5往復しかできなかったっていうのと、あとは熊谷海寄りってそんなに距離もないので、需要っていうところでもまだまだちょっと少ないというところで収入が伸びなかったんじゃないかっていう風に言われてますと。
なるほど。
はい。で、もともとは寄りから先の延伸っていうのを、今の秩父駅の方まで伸ばそうという風に計画はしてたんですけど、
はい。
もうお金がないから途中までにしようということで、今で言うはぐれ駅っていうのがあるんですけど、ご存知ですか?
あー、寄りの隣ですね。
あの、波に久しい例。
はい。
はい、あの嫁の駅。
嫁の駅。
はい。あそこまでしか直近延伸できないんじゃないかというところで、そこまでにしました。
なるほど。
はい。で、このはぐれっていう場所がですね、結構先ほど南北ですよねっていう話があったと思うんですけど、
はい。
あの、もともとあの漢字って地名とか何にもなくって、もともと破れるに崖って書いて、
おー。
普通に読むと破崩れとかなんですけど、
はいはいはいはい。
これではぐれっていう風に読んでたんです。
おー。
で、これ何かっていうと、まあ崖崩れが多い場所っていう意味なんですよ。
あー、確かに川沿いですしね、あの辺。
うーん、そう。で、まあ確かに実際にあのはぐれの駅のあたり行くと、
あのー、めちゃくちゃなんか、あのー、線路の方に岩とかが結構出っ張ってる箇所とか多くて、
はいはいはい。
あのー、これ無理やりコンクリート付けにしてるなっていうのがわかるような箇所結構あったりするんですけど、
そうですね。
はい。
なんで、まあそういう、まあいわゆる難所の場所だったので、ちょっと工事も難しかったみたいなんですよ。
結構あの、川とか山もあるから大回りにしなきゃですしね。
うーん、そうなんですよね。
で、まあそれもしかも今でも残ってるんですけど、
その崖崩れを防止するためにレンガ、レンガで30メートルぐらいの高さの壁を作って、
で、その上に線路を通すっていうような工事の仕方をしたので、
はいはい。
まあお金も結構かかってしまったと。
そうですね。
はい。
ということで、よりまで開業した2年後にその剥れまで伸ばすことができたんですけど、
ここから7年間ずっと剥れ終点だったんですね。
おおー。
はい。
まあもちろんちょっとしか距離が伸びてないので、
いわゆる営業係数っていうのも全然伸びなかったっていうのがあるんですが、
そうですね。
はい。
実はこの時に鉄道よりも実はメリットがある別の乗り物があるので、
みんなそっちを使ってしまったという事情があるんです。
さっき会社設立するときに6000株ぐらい適当に分配しましたみたいな話をしたと思うんですよ。
あれがですね、株主にバレちゃったんですね。
株主は直接会社の帳簿とかを見れないので、裁判所のほうに帳簿開示請求みたいなやつをするんですけど、
その請求が通っちゃうと、世間に会社の低下落がバレてしまうという形にはなってしまうんですけど、
このときの柿原万象社長ですね、株主に全ての事実っていうのを告白して、申し訳ありませんでしたと。
ことを言って、やっぱり秩父どうにかしたいんですよって言ったところ重要性とかを改めて説明して、
そしたらですね、株主に納得してくれて、訴状を取り下げてくれたっていう、そんな出来事もあったりしますと。
そうこうしてると日露戦争とかもあって、ちょっと不況に日本全国的になってしまうと。
さらなるピンチが実は訪れて、初代の社長の先ほど言った柿原万象が病気になっちゃって、
代わりという形で、弟の柿原貞吉っていう方が取締役社長に就任するということになりました。
ここで一つ改革をすることになります。
というのが、さっき議決権の話をしたときに、10株以上だと優遇しないよみたいなお話があった。
少数の株を持っている人の権限っていったところを増やしたかったっていう話があったと思うんですけど、
これを議決権を1株につき1つに全部統一して戻すことにしたんです。
っていうのも、会社の経営方針に少ない株を持っている人たちが結構やんやんやんや行ってしまったっていうのが、これまでのトラブルの元だと思ったみたいなんですね。
なので、しっかりと責任を持ってくれる人にちゃんと議決権を持ってもらうということで、小さい株主の人たちの話をそこまで聞く必要がないんじゃないかと。
いったところもあって、1株1個に戻したと。
なるほど。
はい、誤導しました。
でですね、結構長丁はしゃべりましたけど、今回のテーマで一番話したかったのはここからなんですけど、
お金がないですということで、この柿原貞吉っていう新しい新社長はですね、
まず知り合いの諸井恒平っていう人にちょっと相談をすることにしたんです。
この諸井恒平っていう人は何者かっていうと、本庄出身の人物で、当時は日本レンガ製造株式会社っていう会社の専務を務めていました。
レンガの深谷とかの方?
そうですそうです。
で、なんでこのレンガ製造株式会社の専務やってるかっていうと、実はですね、この諸井恒平さんは渋沢栄一のおじいさんの娘の子とか、親族にあたるわけですよ。
ほー、なるほどなるほど。
見えてきましたね。
ちょっと出てきましたね。
若くして諸井恒平さんのお父さんがいなくなってしまったということで、それを気にかけて渋沢栄一が日本レンガ製造を入れよって言って、入社させたっていう経緯があったんですね。
で、ちょっとそこからあれよあれよと昇進して、専務という役職に就いていたわけなんですけれども、この諸井恒平と先ほどの柿原貞吉社長は、埼玉学友会っていう、埼玉県内でいろいろ企業とかをやってる人たちの交流の場みたいなのがあったらしいんですけど、
それの一員で、いわゆる仲間だったということで、ちょっとその人に渋沢栄一紹介してくれやと。
なるほど。
で、栄一に会うことになると。
なるほどなるほど。
はい。で、もちろんですね、渋沢栄一に話をしに行ったんですけど、そんな人質陣なわでもないんですよね、渋沢栄一って。
まあそうでしょうね。
やっぱり交通機関っていうのが産業の発展には必要だよねっていうところと、あと、やっぱり埼玉県商工業まだイマイチだよねっていうような反応はしてくれたんですけど、まずは話は分かりましたというようなところでした。
で、ちょっと会社の改革をしつつ、もう一回渋沢栄一と会ってみようというところで、実はもう一回訪問してみたんですね。
はい。
そしたらですね、何度も来るということで、ちょっと分かりましたと。応援はしてあげたいですと。
ただ、一つ条件がありますと。
それがですね、本当に秩父まで延伸したら、再産性あるのかと。
それで、ちゃんと再産が取れるのかっていうのをちゃんと調査していろと。
おお。
というふうに言いましたと。
さすが名証人。
ね、そうですよね。しかもですね、その調査を柿原さん、社長とかにやらせるんじゃなくて、渋沢栄一のいわゆる後輩というか仲間というか。
おお。
を使って調査させるということになりました。
へー。
はい。で、そのうちの一人は先ほど出てた脆い爪兵ですね。
はいはい。
あともう一人、人を呼んで、山中麟之介っていう方を呼びました。
で、この人何者かっていうと、この人は小川の出身なんですね。
ほうほう。
江戸幕府の時代に、銃砲御用っていう武器を管理するような役職に勤めていて、この銃を作っていろんな藩に売り付けるっていうところで、巨満の富を築いた資産家だったという人物なんです。
はいはい。
で、第1回の衆議院選挙で埼玉県から出発して議員に勤めていたとか、それぐらい財政界、どっちにも顔が広いと。
おお、結構な大物だった。
そうです。当時、なにわ銀行っていう銀行があったんですけど、その銀行の取締役もやってたぐらいなので、すごい人物だったんですね。
なるほど。
はい。で、その2人に本当にこの秩父鉄道延伸して意味あるのかって調査をさせましたと。
ほう。
そうするとですね、調査結果は、ある資源があることによって秩父延伸しても生産性取れそうですと、再産良さそうですというような結果が出ました。
ほう。
さあ、そのある資源とは何でしょう。
本当は、あの辺だと土とか岩とか。
土とか岩も確かに取れました。
他に。ああ、何だろう。
まあ、秩父といえば。
あ、銅か。
ああ、確かに銅もあるわ。
ではないのか。
確かに銅もあるけど、でもあれは結構古い時代ですからね。
そうですね。
でも、なるほど、確かにそれも着眼点としてはいいですね。
じゃあちょっとわかんないですね。何だろう。
実はこの時代まだ未開発だった、ある山があります。
ほう。
武耕山っていうある山が。
はいはい。
そしてその武耕山にはある資源があったんですけど。
武耕山?
はい。
え、綺麗な水とか。
ちなみに武耕山って知ってますか?
うーん、正直名前ぐらいしか知らないですね。
実はですね、秩父にある武耕山は石灰石で有名なんですよ。
ほー。
石灰石でできた山っていう風に知られていて。
へー。
当時は未開発だったんですけど、今秩父から武耕山を見ると、もう山削れてるんですよね。
完全に石灰石取り。
あれ石灰石工事を上からどんどんどんどん削っていったから、削られたような山肌になってるんですけど。
それなら剥げてるんですね。
そうなんですよ。
なるほど。
これがあるじゃんと。秩父には石灰石あるじゃんと。
ほう。
というところで、その埋蔵料とか、ちゃんと厳密に資産とかした結果、この開発をすれば、全然秩父鉄道延伸して、それなりのメリットあるぞということが分かりました。
なるほど。
これに納得して、渋沢栄一の方も第一銀行っていう、自分が持ってる銀行を通じて資金援助しますというようなことを決めていただいたということなんですよ。
なるほど。
もちろん単純に資金援助するだけだったら、どこか別の銀行とかから借りても変わらない部分もあるとは思うんですけど。
渋沢栄一が婚姻にしてる第一銀行、今でいう水穂銀行の先駆けみたいなところですけど、あとはさっき言った山中倫之介が持ってた何和銀行、ここからも援助しろと渋沢栄一が言って、はい、分かりましたということで援助をすると。
この何和銀行は今でいう三井住友銀行の前身にあたるところですけども、そういう大手銀行の元になったような銀行から融資をするということができて、しかも利子が年8%という、当時で言うとめちゃくちゃ低金利という金利で借りれたので、資金がこれで一気に確保できたということになりました。
ちなみに資金援助を決定した臨時株主総会が行われて、その後に秩父鉄道一番株を持ってたのが渋沢栄一になるわけですよ。
渋沢栄一、当時秩父鉄道、この時は常務鉄道ですけど、株として1000株ぐらい持ってまして、これ確かに後々ハイトー金すごいことになってきそうだなっていう、その先見の名もちゃんとあるっていうところがちょっと大きいんですけど。
でですね、そのはぐれからようやくその先の金崎って言ったところ、今で言う上長トロ駅のあたりまで、まず延伸ができましたと。開通式やって、渋沢栄一も祝辞を述べて、この金崎って言ったところは、まだ木材とか石材とかそういうものの積み木の拠点になってたところなんですね。
荒川からも取れたし、石とか。あとは川を使って木材の煮上げとかもできたので、そういったことをやってました。
でですね、まずまだ秩父鉄道まで延伸してないんですけど、この時点で貨物収益が爆増しました。
で、もう配当金もちゃんと渡せるぐらいになりまして、当時配当金、株の種類によって変わりますけど、持ってる株の10%ぐらいの配当金っていう、もうありえないぐらいの配当が出るようになったんですよね。
で、ようやく大正3年、1914年に秩父まで延伸するということになって、また秩父まで延伸した時には渋沢栄一、また祝辞を開通式で述べるということをちゃんとやって、駅周辺の地価が3、4割冒頭するということで、秩父の街も潤い。
そして工業とか林業とかが急激に発展して、秩父の街全体に影響を及ぼすということになったわけです。
なるほど。
はい。なので、この出来事がなかったら、秩父はもしかしたらまだ未だに陸の孤島的な立ち位置になっていて、今みたいな発展はもしかしたらなかったかもしれない。
なるほど。
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