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2025-04-19 20:37

23. ルールは守るべき?

#となりのニューロダイバーシティ
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サマリー

このエピソードでは、学校のルールが合理的配慮にどのようなバリアを作るかを掘り下げています。特に、日本社会におけるルールの正当性と、それに伴う柔軟性の欠如について考察され、ルール破りがもたらす影響や教育の場での適切な配慮が必要な理由が議論されています。ルールを守ることには利点と欠点があり、特に子どもたちの視点を取り入れる必要性が強調されています。制約を通じて新たな楽しみを見出す一方で、柔軟性を持ったルール作りが求められています。

ルールの目的とバリア
はい、こんにちは、平林です。 こんにちは、イーノです。
今回はですね、テーマ、こちら。 ルールは守るべき?それって逆じゃない?っていう話ですね。
このルールっていう話をしたいな、 テーマにしようかなっていう風に出てきた背景っていうのをお話ししていくと、
合理的配慮っていう、個別の変更調整が必要な人が、結構、打ち当たるバリアとして、学校の中のルールっていうものがあったりしますよね。
ですから、そのルールがあることによって、その人が活動に参加できないみたいな時に、
ルールがバリアになるとき。
ルールがバリアになるときに、じゃあそのルールって、そもそも何のためにあるの?っていうところまで立ち返って、そのルールについて考えないと、
誰はルールを守らなくてもいい人なのか?みたいな話ばっかりになってしまったりしますよねっていう話。
合理的配慮の中には、既存のルールに例外を設けるっていうのも入ってるんですけどね。
それがなかなか、特に日本の社会においては、ルールは守るべきものっていう規範自体が非常に強いから、
ルールに例外を設けるということが、ルールに例外を設けるという合理的配慮がなされにくいっていうところもそもそもありますね。
そうそう。それでそのルールに例外を設ける場合には、誰に対してはそれを許容するのかっていうのはすごく厳密に。
だからこの文脈だと、障害のある人は誰なのかっていうことが、よく吟味されないと、それをやらないっていうことが起こる。
ので厄介だなって。
ルールの正当化と構造的問題
そうね。バリアになってるんだったら、それを取り除くっていうのが、本来その法の趣旨に照らすと望ましいはずなのに、そうなってないっていうことですね。
でそのルールを破ったりすると、それをすごく休断されて、その人の事情っていうものは、あまり聞いてもらえないっていう。
まあね、それはそうでしょう。ルールっていうのは、すごく正当性を持ったものとして受け取られているから、
本当はなんかそのルールってじゃあ、誰が作ったの?とかさ、その時に誰の声は聞いて、誰の声は聞かなかったの?とか、
そういうその構造的な問題っていうのが、もう一回問い直されていいはずなんだけど、ルールってなった時点で、もうそれは正当性を持ってしまっちゃうんですよね。
だからルールっていうのは、守るか破るかどっちかしかないっていう、すごく二極化した考え方が定着しちゃってる。
最近、学校の先生との研究会の中で、スクールスタンダードの話が。
もうあれもルールってね、もう本当にさまつすぎて。
だけどそれができてしまったことで。
何のためにできたんだろうね、本当に。
不思議ですよね。
確かに。
だけど同じじゃない?何のためにできたんだろうってものが、いつの間にか幅を引かせてるっていう。
守ること自体が目的化されちゃうっていうことね、確かにね。
スクールスタンダードって結構研究してみると面白そうですけど、ヘンテコなのがいっぱいありましたね。
ありますね。鉛筆は何本とかね。
色鉛筆、赤鉛筆は、ボールペンOKなものは赤色だけでとか、シャーペンのね。
シャーペンは何年生以上とかね。
そもそもそれをまともに考えようとすると、シャーペンはなぜダメなのか。
何でしたっけね。分解して遊ぶからだったっけ。
なんかいろいろと出てきましたよね。
そういうのもあるかもしれないし、分解して壊しちゃうっていうのもあるし、
あとやっぱり低学年だとまだ筆圧のコントロールが書き慣れてないからできないので、
ボキボキシャーペンのシーンを折っちゃって上手く書けないとか、そういうことを優先するとしたよね。
ボキボキ折っちゃったらじゃあ鉛筆にしようかって言ったらいいだけの話を、なぜかルール化しちゃうっていう。
あとなんか授業の学生さんからはやっぱりちょっと危険性があるからじゃないかみたいなとがってて。
でも鉛筆だって十分危険だみたいな。
やっぱりルールっていうものができると、それはなんか正当性があるっていうふうにみんな勝手に思い込んじゃうから、
そこにいろんな理由付けを考える、なんていうんだろうね、マインドセットができちゃうっていうか、
それを正当化するための理由をいくつも思い出そうとするっていうか、そういう傾向ありますよね。
後付けの理由がいろいろあるっていう。
そもそも何のためにこれできてんのっていうところがどんどんずれちゃって、
正当化のための様々な理由が出てくるっていう感じはしますよね。
確かに、体育のときは短パンじゃなければいけないっていうのがあるっていうのも聞いたときにも、
なんか変とこな理由がいろいろありましたよね。
あと下着を着ちゃいけないとかね。
それもなんかちょっと合理的な理由としては全然共有できなかったので全くわからないんですけど、
汗をかいたときに、たぶん着替えが、下着はないから、
下着を脱いで体操服着てたら、着替えたときにまた下着着れるから、
濡れたままにならないとか、そんなようなことなんだけど、
それで自分で判断すればよくて、それで風邪ひくようだったら次は下着の替えも持ってくればいいとか。
だからルール化っていうのは、そういう個別性みたいなもの、
文脈依存的な側面っていうのを、
殺傷するっていうか無視する側面はあるじゃないですか。
ありますね。
それがすごく日本の学校で合理的配慮の実践が難しいものとすごい共通してますよね。
教育現場のルールの見直し
確かに。合理的配慮ってそもそも柔軟な対応なんだけど、
ルール化しちゃうとその柔軟性を失っちゃうから、あるいは制度化すると柔軟性を失っちゃうので、
その個々の事情に応じた柔軟な対応っていうのができなくなっちゃう。
そういう矛盾を抱えてるかもしれないですね。
確かに。
そういうヘンテコなスタンダードみたいなものがどんどんボコボコ生まれていくような、
今の学校のこの在り方そのものが本当にちょっと見直さないといけない。
本当はね。ルールってでもやっぱり作ったもん勝ちみたいなところありますよね。
もうそういうふうになってんだから。
ルールはルールだ。
そう、説明さ、何もしてないのにそういうふうに言えちゃうっていうね、
意義申し立てがあったり、あるいはその合理的配慮だったら要望、個別の要望があったとしてもそれに応答しなくて済んじゃうっていうかさ、
ルール、これがルールだからこうなってるからみたいなね。つまり責任も取らなくていいっていうね。
大体やっぱルールってさ力のある方が作るじゃないですか。
そうですよね。
本当にね、この権力の不均衡がどんどん拡大していく。
増幅装置ですよね。
だからルールを破ったら、破ってしまった人にルールを破ったみたいにいうことからやめていたらいいかな。
なんか事情があったんじゃないかって言って話を聞くっていう。
なかなかそういうふうにはならないね。
排除されちゃうからルールを破った人っていうのは逸脱者になったりとかさ、違反者としてレッテル貼られて。
でもそれは社会を変えていくための開拓をしていく、変革をしていくためには大事な人ってことですよね。
大事にした方がいい。変革者ってことですよね。
そういうふうに読み換えていけたら、もうちょっとね、その人の事情を聞いてみようかみたいなふうにもなるんでしょうけどね。
結構学校行事っていうのも同じ文脈で、ルールがすごくたくさんそれによって作り出されてるような感じがしましたよね。
確かに。
複数のルールを学校行事を一斉にやらなきゃいけないから、じゃあそれをやるためにはルールを敷いていって、統制取っていくみたいな。
それによって苦しむ子どもがいるっていうことを先生たちも認識してるんだけど、なかなかそれをやめられないっていう。
そうだね。
研究会の中では大縄跳び事件っていう。
事件とまで言えるかな。
事例大縄跳びっていうのが紹介されてましたし、マラソンとか、マラソン大会なんかも紹介されてましたね。
大学もね、いろんなルールに縛られてるというか、勝手に作って、勝手にね、守らせてるようなところあるから。
学校って言っても小学校中学校だけじゃなくて、大学まで、大学ってもう結構大人だと思うけど、学生は。
それでもルールでがんじがらめにして、何をしたいんだろう。
しかも授業料払っているカスタマーですけどね。
カスタマーでもあるよね。不思議だよね。
不思議。
企業もあるのかもしれないね。ルールでがんじがらめに縛られて。
身動き取れないとか、自由に思考したり、自由に考えたりとか、あるいはそのルールを問い直すっていう実践自体がもう抑制されてるみたいなところもあるかもしれないね。
ヘンテコルールを収集していくのが大事な活動ですかね。
一応その、なんだっけ、ブラック拘束みたいなさ、そういうタームができて、拘束の見直しみたいなのは進んできてるから。
てかそこまで逆に進んでたんだっていうのが驚きでしたよね。だから下着の色まで決められるとか。
自分たちが中高生だったときと比較してってことでしょ。
そんなのなかったし。
なんか時代的に逆だと思ってたもんね。勝手にね。
そうですよね。
自由度高くなってるのかなって思ったら、そうではなかったっていうね。
驚きですよね。それを戻そうとする動きは大事なことだけど、なぜそんな風にまでなってしまうのかっていう。
やっぱり特に子供の年齢が上がってるっていうのはあると思うんですよ。大学生も子供扱いしてるから、そうやってルールで縛るんだと思うんですよ。
一人の自分と同じ意思や自由を持った人間として対すれば、そういうことはできないはず。
けど子供扱いですよね。子供の権利っていう考え方もないから、コントロールする対象なんでしょうね。
ね。
なんかちょっと視点を変えてもいいですか?
どうぞ。
でも逆にルールがポジティブに自分たちに働くっていうこともあり得るかなと思って、
ルールのポジティブな面
この間YouTube見てたら、お小遣い制でいる夫みたいな人が、漫画家の人の書いた漫画が紹介されるYouTubeが出てきて、
1ヶ月1万5千円とか2万円とか、どんな風にそれを工夫して生活してるかっていうのを紹介していくっていう漫画なんですけど、
その中でちょっと印象に残ったのは、子供の時は駄菓子屋さんで、1日に使えるお金は50円とか、
そういう時に、その50円をどう使うかで、すごく悩んで、あれにしよう、これにしようとか、
友達はなんかクジュにして一攫千秋を狙うタイプ、自分はコツコツ小さいものを買って楽しむタイプみたいな、
そういうのを思い起こしながら、つまりそういう制約っていうものは、お腹が空いているとすごいご飯が美味しいみたいな話と同じで、
制約のなんか工夫すると楽しいっていう、同じお金でも制約、自由に使えてしまうと、
なんで大人になったらこんなにつまらなくなってしまったんだろうっていうのが描かれてて、
子供の頃のあの50円で楽しめた、あれは何だったんだろうか、つまり制約っていうものが、
その自分の楽しみっていうか、ワクワクにまた思い出させてくれるみたいな話があって、
それはなんかルールとか制約のいいところかなと思って。
1万5千円はどうなったんですか?
1万5千円っていうことを、それは色々子育てをしている中で家計のやりくりが必要だから、
自分に課せられた制約、自分も共有した制約なんだけど、
それは実はそのポジティブな面があるんだっていうことを紹介している。
それは個別の事情に合わせた制約ってことですよね。
まあそうそう。
今日話しているルールっていうのはもうちょっとこう、一般化されたルールっていうか。
そうなんだけど、そのポジティブな面も、
ルールっていうのは常に自分に課せられているものだっていうふうに認識するんじゃなくて、
ルール作りの重要性
自分もそこに作る側として参加し、自分が利用するものでもあるっていうふうに思うことで、
子どもがその参加してルールを一緒に作っていくみたいな話もあるけど、
そっちのプラスの制約をかけることによって自分が行動しやすくなるっていうのが、
締め切りみたいな話で私がその締め切りをポジティブなものとしても認識しているっていう話があったんですけど、
ルールっていうものもそういう側面もあるのかなって。
当然そうじゃないですか。自分がそこにルールメイキングに関わることができるとか、
そのルールに自分の事情が一定程度反映されるっていうふうになったら、それはそうなんだと思うんですけど、
多くの学校、大学含めのルールっていうのは、学生とか子どもの事情っていうのはあんまり考慮してないじゃないですか。
そこが問題だっていうことだと思うんですよ。
だから会社でもそのルールがあるのかなって言ったみたいに、大人であってもそういうルールの作り方をするっていうような文化がなさすぎるんじゃないかな。
民主主義じゃないからね。民主主義だって思ってるけど、民主主義っていうのは市民が、それぞれの多様な市民が自分の事情を持ち寄って、
意見を交換して、強制するための、共に生きるためのルールを作っていくっていう、それが法律になってたりするんだけど、
一応ね、直接民主主義性じゃないから、議員とか選んで、代理民主主義みたいな形になってるけど、全然反映されてないじゃないですか。
そのマイノリティの意見とか、子どもの意見とか、そこが問題なんだっていうのはそうだと思う。
ルールメイキングの仕方を一つは変えていく。これまで考慮に入れられていなかった人たちの視点とか事情を踏まえたルールを作っていくっていうのも大事だし、
でもそれは常に誰かのその事情とか個別の状況っていうのは、には適応しないから、適合的じゃないから、やっぱり合理的配慮みたいな形で例外を設ける。
そこは柔軟に運用しようよっていうマインドも重要だし、実践感も大事だし。
でもそのルールを一緒に作っていけるっていう風にしていかないと、合理的配慮だけは本当に難しいよね。
難しいですね。本当にね、もうなんかやっぱりさ、その制度化されての副作用っていうのがもう本当によく見えてきたなぁとは思いますね。
何年経ったんだ?2016年からだから、9年くらい経って、本当にどんどんどんどんやっぱり既存の秩序に調和的な形で本当に縮められてしまったなっていうね、柔軟性がない方向で運用されてるなっていう風に思いますね。
そうですね。残念ですよ。
少し訴訟が起こり始めて、そこに裏切りもありますかね。建設的対話しなかったり。
司法っていうのはね、やっぱり忠実にというか、法律に書かれてあることに一定程度忠実に判断すると思うから、今これまである秩序を守る方向で運用はあんまりしないので、司法判断っていうのが、じゃあどう現場での運用を変えていけるかっていうところはまた見ていく必要がありそうですけどね。
やっぱり個々の現場、法律って司法での問題だけじゃなくて、いろんな現場で運用されてるから参照されて、個々の現場を見ると大学もそうだし、小学校中学校もそうだけど、もう既にある秩序に合わせる形で非常に最小限に抑えた形での運用がなされてるし、
どんどんどんどん柔軟性がなくなって固定化されてる、新たなマニュアル作りみたいなさ、新たななんかこう、こういう障害にはこうするみたいなね、そういう対応リストみたいなものになっていってますよね。
そうですね。
ということで。
ルールは守るべき。
なるほど。だからプラスの側面もあるけど、副作用もあるねっていう。
ルールは変えることを前提に守りながら、変えながら、常にね、更新可能性に開かれてないといけないんだけど、一旦決まっちゃうと、なんか幅を利かせちゃうみたいなね。
そんなにあんた偉かったの?みたいなね。
ルールになりました。
私がルールです、みたいなね。
いうことを聞いてください。
今日からルールになりました。
そういう捉え方、ルールの捉え方をちょっと変えていかないとダメだねっていう話ですかね。
はい。では以上になります。ありがとうございました。
ありがとうございました。
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