子どもとアドボカシー
平林です。
飯野です。
今回は、第23回目ということで、 先日、マナプラのセミナーでベストトークをやりまして、
4月の6日に堀正嗣さんに来ていただいて、 子どもの権利を守るのが難しいのはなぜというタイトルでイベントをやったので、
そのアフタートークをやってみたいと思います。
まずはじめに、飯野さんと私のお互いの感想を共有していきますか。
いいですよ。
じゃあ、飯野さんからお願いします。
いくつか印象的だったフレーズっていうのがあるんですけど、
一つは、アドボカシーは意見聴取の一方法ではないっていうふうに明言されてたところがすごく印象的でした。
引き続き考えなきゃなと思ってるのは、意見聴取ではなくライフスタイルなんだというふうに言っていて、
それってどういうことかなみたいなのを、私自身も実践しつつ考えていきたいなっていうふうに思ったっていうのが一つ。
子どもっていうのは意見を聴取される側の立場で、常に聞かれたことに答えれば、それで子どもの意見を聞いたってことになるみたいな、
そういう今の子ども大人主体の聞き方ではなく、子ども主体にしていくには何が必要なのかなっていうところでもあるし、
ライフスタイルっていうことは、子どもに対した時だけじゃなくて、常に何か求められている構えとかがあるんだろうなっていうふうに思ったので、
たぶんその一つがネガティブケイパベリティっていうことだと思うんだけれども、ライフスタイルであるってどういうことなのかなっていうのは、引き続き考えたいなっていうふうに思いました。
もう一つは、親や教師は子どもの意見を100%聞くことはできないっていうふうに言ってたところもすごく印象的で、
特にその親で一生懸命やっている教員であればあるほど、自分もやっぱり子どもアドボかケイト身につけて、自分の子どもだったり自分が担当している子どもの声を聞こうって真面目に考えちゃうんだけど、
でも親である、あるいは教員であるっていうその役割を持っているがゆえに100%聞くことはできないんだっていうふうにおっしゃってたところも非常に重要で、それをある種心に留めながら子どもの話を聞かないと、いつの間にか親主体、教員主体になって子ども主体じゃなくなっちゃってるっていうことなのかなとか思いながら聞いてました。
なるほど。
あの、質疑応答のときに、子どものフリースクール的な場所をやっている方が感想というか、共有してくれて、その子どもがいる場、なんていう表現でしたかね、
えーっと、まあその子どもがいる場自体、それを作ること自体がみたいな表現だったかな、子どもの意見を聞くっていうのは、まあ居場所であるっていうね、アドボケイトっていうのは居場所と似ているねみたいなことをおっしゃってくれましたよね。
それがなんか、さっき陣野さんが感想で言ったライフスタイルっていう、生活の中にもう組み込まれた、子どもが安心してそこにいられるような場所を作ることでしか、子どもの意見をうまく聞いていくことっていうのは難しくて、一時的にはい、意見言ってくださいねとか、言われたことを受け止めるか受け止められるのかって言ったら、
そういうものではないのかなっていうような感じがしました。
専門職と権利
そうですね。私が印象に残ったこととしては、やっぱり一番初めに知らなきゃいけない、歴史的なそのおさえるべき、戻るべきところっていうのを、障害者運動だったり、部落解放の運動だったり、そこにしっかり根があるっていうことを、私はこのイベントで知ってほしかった。
参加者の人たちね。
自分がそれを知ったときに、本当にこれが大事だなと思っていて、子どもによかれと思ってすることっていうものが、それが進んでいくとどういうことになってしまった、歴史的なことがあるのかっていうことを知らずに、子どものためにやってるんだからいいじゃないかみたいに、少し短いスコープで考えてしまうと、
短期的には子どものために見えるかもしれないけど、そうじゃないっていうことを立ち返るところが、歴史なのかなと思うので、そこを改めてお話いただいて、それがやっぱ大事だなと、多くの人に知ってもらって、そこから話が始まるといいなっていうふうに思った。
っていうのと、やっぱり専門職っていう難しさというか、というのはすごく子どもの権利では焦点を当てて考えなければいけない、大事な。
以前からこのポッドキャストでも、アマチュアの話をしたりとかしたことがあるし、自分がその相談をたくさん受けたり、まるまるの業界の専門家みたいなふうに呼ばれるようになったりすると、それから見失うものもあるよねみたいな話をしてきましたけど。
今の時代の専門家っていうのは、それこそポジティブケイパビリティって呼ばれる、具体的な問題を解決するっていうことが求められる立場にあると思うんですね。
唯一専門家で全然そういうの求められてない、ある意味どっちかっていうとネガティブケイパビリティみたいなものが重視されてるのって精神科医ぐらいだと思うんですよ。
でも最近はそうでもないんじゃないですか。
精神科医でもそうだってるけど。
歴史的にというか。
ちょっと聞いてる人のために整理すると、ポジティブケイパビリティっていうのは問題を解決する力とか問題を明確にする力とかそういうものですよね。
ある種正解主義の枠組みで非常に重視されてるような力。
今の時代っていうのはとりわけそれが強く求められてるし、ある種無前提ってか無批判にそれが必要だとされてるかなっていうふうに思います。
だからこそ堀さんが言っていたようなネガティブケイパビリティつまりその曖昧さを受け入れる力とか答えがない問題不確実であるということを受け入れる力とか一旦判断を保留にするとか予白を大切にするとかそういう姿勢ですよね。
それが大事なんだっていう話でね。
やっぱり今の専門家はポジティブケイパビリティがすごく求められている。当事者からもそうだと思うんですよね。
例えばその障害を持った子どものサポート支援もそうだし、障害学生支援もそうなんだけど、なんか具体的な問題があって法律に照らして正しいことをするためにアドバイスをするみたいな。
でもやっぱり結構さ、現実って複雑だからそんなにこう一直線に問題解決できないことってたくさんあるわけですよ。
そういう時に、曖昧なままというかすぐに答えを求めないで、わからないまま受け止めるみたいな、そういう力ってすごく大事。
問いの中に留まるみたいなのって大事なんだけど、あまり重視はされてないし評価もされてないっていう。
でも子どもアドボケイトにおいてはそれが非常に大事なんだっていう話が繰り返されたと思って、そこはすごく私も実感するんですよね。
これ子どもだけじゃなくて、障害学生のアドボケイトでもやっぱりそうだなっていうふうに。
解決急ぐと自分自身も焦って間違ったことっていうかさ、その人の意思を確認しないままっていうか意思とは違うことをやっちゃったりするから。
自己決定権の重要性
なんか、子どもの意見っていうのは、もともとの英語がビューズっていうお話も改めてあって、やっぱりこれすごい大事だよなっていつも思っていて。
風景ってね、説明されてましたよね、ビューズってね。
で、その風景を見える場所にまずは立って、見えるかは別として、理解していくっていう、その人が見ている風景っていうものを想像するのか、話を聞きながら一緒に描くのか。
結構、それは子どもだからっていうのではなく、障害のある人とかも、その人がどういう風景を見ていて、今考えるに至っているのかっていうことを理解するには結構時間が必要だったり、
分かったと思っても分かってなかったり、分かることがそもそもできないことなのかもしれないんですけど、そういう感覚を持った状態でいられると、もう分かったみたいな、あなたの要望はこれねみたいにならずに済むかもしれないなっていうふうに思ったりしますね。
なんかそのレンタル何もしない人っていう話出てきましたね。まだちょっと調べられてないんだけど。
私知ってましたよ。
本当?それもなんか面白いメタファーだなと思って。だからさ、やっぱ専門職とか専門家って何もしないわけにいかないから、アドボケイトとしてはやっぱりこう難しいところがあるっていうことなんだなっていうふうには思うんですよ。
だから結構居場所っていう感覚、言葉っていうのは良いですよね。そこに何ていうのかな、何もしない放置ではなく居場所、居場所っていうのもなんかちょっといろんな意味合いが今のこの世の中だとあるので、居場所づくりみたいな居場所は私はあんまり好きではないんですけど、そこにその人の居場所があるっていう状態を大事に考えてどうそれを作るために。
動くのかというようなことなのかなと思って。
とはいえ、専門職の人が子供アドボケイトを身につけても何の意味がないのかっていうと、意味がないのかっていうとそういうわけではなくて、これ私たちも以前堀さんとお話ししたときに聞いてたけど、一回専門職の帽子を脱いで、アドボケイトの帽子をかぶり、その上に専門職の帽子をかぶるんだっていうね。
そういう比喩もすごくこう、なるほどなって思わされるし。
そうですね。立ち位置をまずアドボケイトの立ち位置を知った上で、また専門家としてやらなければいけないことがあるとしたら、そこを責め合いながらやるっていうかね。
でもまあ、下にそのアドボケイトの帽子をかぶっているっていうのがすごく大事だと思うんですよね。
そうですね。
あともう一個、障害学の視点が入ることが大事だなって感じるのは、子どもの権利条約でも、意見を表明する能力のある子どもがとか、成熟度に従ってっていう言葉があるっていう紹介があったけど、
それってすごく特定の子どもみたいなものを想像させて、あなたはまだそこに至ってないから、まずは何か準備しましょうねみたいな扱いを受けるっていうことがあるのを問い直していくのが障害の分野の大事なところ。
そうですね。これは別の研究会でお話したときに私たちも知ったんだけど、やっぱり子どもの権利っていう文脈では、障害者運動の中で非常に重視されている自己決定権っていうのは、ちょっとこう、そこまで子どもに与えてもね、みたいな考えを持った人が多いんだっていう話を聞きましたよね。
だから自己決定権じゃなくて意見表明権に終わってるんだって。それを結構堀さんは問題視されてましたよね。子どもの権利っていうものの不十分さはそこにあるって、自己決定権っていうのを置いてないっていう。
と同時にやっぱり障害者権利条約が子どもの権利の部分に関しては、子どもの権利条約に委ねてしまってるから、この障害者権利条約も弱いところがあるんだっていう指摘もすごい重要だなと思って、今まで私が持ってなかった視点なので、もう一回それは読んでみないといけないなと思いました。
そうですね。ではちょっとお互いの感想を共有しあったところで、今度はアンケートとして参加者の方からアンケートを寄せていただいているので、それちょっと紹介していきたいと思います。
いいですね。今回参加者もすごくこう、いろんなフィードバックとか質問を出してくれたから、どんな感想が届いたのか気になりますね。
子どもとの関わりの立ち位置
そうですね。印象に残った感想としては、例えば保護者だったら、自分が保護者として子どもに関わる時の自分の立ち位置っていうものを、結構ちょっともやもやしていて、どういう立ち位置でいればいいんだろうって思ってたところにヒントがあったっていうような感想を書いてくれた方が複数おられて、
そのヒントっていうものについて具体的に書いてあった感想もあって、それは友達みたいな立ち位置かなとか、パートナーみたいな立ち位置かなとか、複数そこでいろいろ考えて、
例えば友達だったら、いつも自分は子どもに対しては〇〇運動しようかしなさいかな。
ああ、こうしなさい、ああ、しなさいと。
言ってしまうけど、友達だったらそうは言わないような、一緒に運動しに行かない?とか言って言うかなっていうふうに、そこを問い返して、そこに選択肢を作る機会になったっていうようなことを書いてくださってて、
なんかそれすごいやっぱり、子どもとの立ち位置ってこれなんだっていうことではなく、どういう立ち位置がその子との親として関わるときに子どもの尊厳を守りながら一緒にいるときの立ち位置なんだろうかって、そこに考えを巡らせたっていう。
子どもと共にいる、子どもと共に過ごすためにはどういう距離感がいいんだろうかと。
常にその、親のそれこそ帽子も脱げないわけですよね。脱げない中で、でもちょっとできるときというか、違う立ち位置と取れるときも。
うん、確かに。専門職の帽子はまだ脱げるけど、親の帽子はね、確かに脱ぎにくいものとしてありそうですね。
そうですよね。脱いでたらちょっと社会的に怒られたりするかもしれないですからね。
その辺はうちの父親とかに聞いたらいいんじゃないですか。
そうですか。脱ぎ慣れてます?
本人は否定するかもしれないけど。
そういう意見は結構印象に残りました。
子どもアドボカシーの重要性
あとはですね、それまでも子どもアドボケットの活動に触れて堀さんの話も聞いたことがあるっていう方も何人か、このマナプラのセミナーにも来てくれて。
マナプラのセミナーってLD、学習障害系の話題が多い中で、子どもの権利を扱ったことを非常に嬉しい、ポジティブに知って欲しかったっていう思いがあるんだと思うんですが、
ポジティブに考えてくださった方も複数いたし、今回初めて子どもアドボケットっていう考えに触れた方からもご意見、これだっていうものを見つけたみたいな、そういう感想もあって、それが印象に残りました。
あとその子どもアドボカシー養成講座っていう堀さんがメインでやっておられる子どもアドボカシー学会主催の養成講座も、今度も、ちょうど昨日まででしたか、我々は昨日まででしたね。
そうですね、11日までって言ってましたね、申し込み。
まあ滑り込めるかもしれませんが、そういう養成講座があって、年何回かやってるっていう風に言ってたので、ちょっとまずは本読んでみて、これもっと詳しく勉強してみたいなっていう人は受けてみるといいですよね。
そうですよね。
私たちも受けたいなと思いつつ、なかなか予定が合わず先送りになってたけど、今年は挑戦してみたいですよね。
そうですね、それに早速申し込みましたっていう。
すごいですね。
若い方からの報告もいただいたりしていて。
なので、やっぱりこのモナプラでこれまで取り組んできたテーマと、子どもの権利を守る活動っていうのはかなり共通点というか、大事なポイントが重なっている部分もあるんじゃないかなと思いました。
そうですね。
これからもいろんな形で触れていくと思うんですけど、合理的配慮っていう話ともすごく関係が深いということで、もともとこの分野を取り入れなくちゃと思って勉強を始めて、それで去年を一年取り組んできたので、今年もまた取り組みたいなと。
それを通してね、合理的配慮の誤解みたいなものが解けていくといいんですけどね。
やはり法制化されてよかった面と、ちょっと副作用というかね、やっぱり既存の非常に官僚的な枠組みに、なんていうのかね、囚われて硬直化してしまっている側面と両方あって。
さっきの問題解決を志向するポジティブケイパビリティの話じゃないけど、そういう側面ばかりが着目されているので、実はやっぱりその合理的配慮に至る建設的対話の段階ではネガティブケイパビリティ的な観点というのはすごく重要なんだけど。
やっぱり今はその障害を持っている当事者自身も、早く問題を解決したい。何かそのね、相談している相手、専門職の方が答えを持っているっていうふうに想定していることが多かったりするので。
私も結構日々、なんていうのかな、そこのあたりのズレっていうのを感じながら、まあそういうものではないんだけどなぁと思いつつ、取り組んでいるところあるんですよね。
ネガティブケイパビリティというものが結構、思われているほど単純ではないっていうところも、なんかもっともっとね、教えられるといいかなというふうに思います。
あと、そうだお知らせがあるんでした。我々東京大学のバリアフリー教育開発研究センターと学びプラネットと自治体であるスイタシトで、インクルーシブな学校づくり研究会っていうのを2021年から4年間やってきていて、
そのプロジェクトを報告というかまとめたサッシが、ハンドブックが2024年のやつが公開になりましたので、インクルーシブな学校づくりハンドブック2024という形で検索していただくとPDFで読めますので、そちら見ていただきたいなと思います。
あとその研究会の方もですね、今年度からは全国の学校を募集して研究会やろうということで、今募集中で来週の日曜日に、4月19日の日曜日10時から無料ガイダンスも計画してますので、それももし関心のある方、個人の方でもいいですし学校でも。
自治体関係者の方でもいいんですけれども、ぜひガイダンスに。
そうですね、ガイダンスは誰でもOKっていう感じにしてるので、聞きに来てこういうことやるんだっていうのを知ってもらうっていうのがいいかなと思うし、特に学校で参加したいとか自治体として参加したいっていう人はいろいろ質問もあると思うので、そういう質問もガイダンスの時に投げてもらえるといいかなと思ってます。
はい、では今日はですね、4月の6日に実際にとかやったイベントのアフタートーク。
そうですね、で、まだアーカイブは販売中ってことですか。
そうです、4月中は購入できますので。
はい、ぜひ来てください。
とてもおすすめの講座です。はい、では以上になります。