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2025-01-01 29:59

03. 失敗はいけない?

#となりのニューロダイバーシティ
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00:14
はい、こんにちは。
こんにちは。
第3回目ですね。
はい。
第3回目のテーマでは、インナさんからお願いします。
失敗してはいけないは逆じゃない?
うん。
これは結構ね、もう一般的にも言われてるかもしれないね。
だんだん言われる。そうですね。捉え直しがされてきた。
まず失敗しないと学べないよねっていうね。
失敗しないように、慎重に慎重に何もしないと学びに繋がらないから、成長にも繋がらないよねみたいなビジネス性は結構出てるよね。
そうですね。あとやっぱり失敗っていうよりは試行錯誤のプロセス自体が非常に重要なんだとかね。
やっぱ知識っていうのはそういった特に実践値みたいなのはボトムアップでしか出てこないんだ。
理論値っていうのはその後追いでしかないよねみたいなことはずっと言われてるから失敗っていうものに対する捉え直しは一部では広まってきてるけど学校教育現場ではまだまだっていう感じでもあるかな。
先生自体が失敗しちゃいけないっていう感覚を強く持ってるかなと思う。
そうですね。発表会文化っていうか練習して披露するっていう。
あの文化がやっぱり何のために練習するかっていうときにやっぱり失敗しないためっていうかね。
なんかそれはより良い作品を作ったりより良い講演を作っていくっていう。
それは試行錯誤のプロセスとして回っていけばいいっていうことなんだよね。
だけどその失敗したら怒られちゃうとか注意されちゃうとかね。
そういったその懲罰的な文化がまだまだ色濃くあると心理的安全性が低下して非常に硬直した組織になってしまうよと。
なんか間違ったこと明らかに間違ったことを誰かがやっていても特にその人が自分よりも上位の立場だったりするとそれを指摘できないっていうことが起きちゃって。
でまぁイノベーションにもつながらないつまり新しい考えには結びつかないだけじゃなくて大きな事故起きてしまったりするよねみたいな話は結構されてますよね。
そういう失敗しちゃいけないっていうのが完璧な姿がもうすでに想像されていてそれがもう恰好たる望ましいものっていうものがあってそれに目指してやっていくっていうのは結構学校の文化だから
03:17
そういう中での失敗っていうのは結構そこから外れたものは全部失敗。だけどその通常の失敗、価値ある失敗っていうのは試行錯誤だから最終的な望ましい姿みたいなものはわからない。わからないから試行錯誤して見つけていくっていう。
そういう文化の中での失敗っていうのは失敗になり得るんだけどやっぱりその学校っていうレールに乗る乗せるみたいなところにいる限りなかなか難しいそういう発想の転換できなさそうだなっていう気はちょっとする。
その誰かのにとっての望ましさなわけでしょ。だからそこを転換していかないと揺さぶって相対化し転換していかないと難しいですよね。
そういう意味ではビジネスショーが最近心理的安全性が大事だよとかその失敗を通して小さな失敗を繰り返して学び続けていくっていうことがイノベーションにつながるんだとか成功につながるんだっていうストーリーを垂れ流してるけれども、
それは一部大事な一面大事なものではあるんだけどそこでのその成功っていう概念自体は結構従来型の成功、例えば会社の収益につながるとかさスポーツ選手として活躍するとか結構オーソドックスな成功を相変わらずイメージしてるなっていうところはあって。
そこも本来はその相対化の対象としてあるべきで、特に私が専門にもしてきたクイア理論とかだと成功っていうものがある種異性愛主義的家族主義的あるいは国家主義的な枠組みの中で形作られている特定のあり方でしかないよねっていう。
ふうに相対化して、それではない成功とか幸福のあり方を試行錯誤していくみたいなことをクイアな生き方として提示してたりするわけですよ。
そういうのも大事かなと思う。
失敗の相対化だけじゃなくて成功の相対化みたいなのも結構大事。
そうですね。やっぱりその特定のサクセスってことですね。
06:05
そうそう。
だからさ。
右肩上がりで。
それもあるし、例えばこの年末年始だと、家族とか自分の大切にしている友人たちと一緒に楽しく過ごすみたいなものをある種望ましい過ごし方としてる風潮ってあるわけじゃないですか。
それに合致していない自分の年末年始の過ごし方は何か価値が低いものとして、自分自身も評価してしまって落ち込むみたいな。
そういうことだよね。
そうだよね。
この年末年始の過ごし方自体も望ましさみたいなものと非常に密接に関わってるから積極的に相対化して、それとは違う行動を取った方がむしろ正月から働くみたいなのは結構大事で。
なるほど。
井野さん働いてましたね、昨日も。
あまり変わりなく、毎日一日一日だから、休みたいときには休めばいいし、休む必要があるときには休むし。
こういう文脈のときに会いたければ会いに行けばいいし、休みも別に実際に休まなくてもそれぞれ休んだほうが本当はいいはずなのに。
なんか望ましいやり方。
前回仕事とプライベートの話みたいなのをしていましたけど、なんか祝日には遊びに行くとか。
大移動しちゃうっていうね。
それも私が比較的自分自身の裁量が大きい職業に就いてるっていう特権もあるんだろうなと思いつつも。
でもまあそれがあるんであれば、そこは使っていったほうがいいよねって。
通常のオフィスワークだったらもうちょっと柔軟にできるはずじゃないですか、その辺は。
エッセンシャルワーカーの場合それがなかなか難しいし、だからそういう働き方できないってことあるけど、
もうちょっといろんな、普通の会社勤めみたいなものでも、もうちょっと柔軟に休みだったり、そういうことができたら本当はいいのにっていうのはありますよね。
でもこういうふうに言ってる私もやっぱり、実家に帰ることが期待されてるんだろうな、悪いなっていう気持ちは一応あるんですよ。
あるんだけど、年末年始みんなが動く中一緒に動いて、いつもよりも2倍も3倍も時間かかってしまうよりは、別の日にお休みとって行ったほうがいいかなとか、そういう感じですよね。
09:14
なんかね、お正月にやっぱり帰らなきゃみたいな感覚って強くあるんでしょうね。
ありますね。やっぱりそういうシステム、そういうふうにして、例えばお正月とか節分とか行事ごととかも、人間を動かすためのシステムなんだと思うんだけど、
それがなんか、もうちょっと色々多様に作れるはず、今のこの時代。
うん、そうそう。なんかだから私もさ、それちょっとリサーチ不足だなっていうふうに今話しながら思ってるんだけど、なんか共同体文化っていうのが非常に強かった時代においては、こういう行事ごとってすごく大事だったと思うんですよね。
なんか何らかの機能を果たしていたはずで。
そうだね。
だけどその現代社会、しかも都会で暮らしているような自分たちにとっては、同じような機能は持っていないはずなのに、それが重視されてるって一体何でなんだろうとか、いうのは考えたほうがいいテーマなんだろう。
そうですよね。コミュニティっていうのも別に、地域コミュニティだけじゃない色んなコミュニティがあるけど、それを維持したりしていく工夫みたいなのも、これまで通りの習慣をなぞらなくてもできるかもしれないですよね。
ちょっとだから話が拡散したけど、そういった形で失敗の相対化だけじゃなくて、成功の相対化も必要だよねっていうのが一方であると同時に、でも日常生活レベルで小さな失敗とか中ぐらいの失敗とかっていうのは経験してるわけで、
それに対して別の反応を、これまでとは違う反応を学習していくとか鍛えていくっていうことも大事じゃないかなと思ってるんですよ。
例えば失敗してはいけないっていう人は、もう失敗したら恥ずかしいとか、もう隠れてしまいたいとか、もう自分はダメだとかね、そういうふうに捉えちゃうわけでしょ。そう反応してしまう。だからそれとは違う反応を作っていくっていう。
平林さんは例えば臨床の場面でね、子供にこれ絶対見せたら子供は食いつくだろうって思ってもそうじゃなかったっていう時あるわけじゃないですか。小さな失敗ですよね。そういう時どういうふうに反応してるのかなって自分の中で。
自分の中で?
恥ずかしいとは思ってないはずなんですよね。
12:02
そうですね。恥ずかしいとは思ってなくて、なんかね、比較的子供に接してる時はフラット。フラットだった。その対比としてはもうちょっと人前で話すとか発表するみたいな時は私はかなり緊張してしまって、自分でも何話してるかわかんなくなるみたいな。
余計わかんなくなるんですよ。質問されたらその意図を汲み取るのに結構時間がかかるし、自分の考えをまとめるのにも時間がかかるから。時間がかかるっていうのか、ちょっと一旦こう泳がせて、頭の中で泳がせてから落ちてきて、で次生まれてくるみたいなイメージだから即時的にはできないっていうのがあって。
でもそれをすごく自分の能力不足みたいに捉えていて。
そこも世の中の誤解としてあるよね。瞬発力の高い人が頭の良い人みたいなね。実はそうじゃなくて瞬発力の高い人っていうのはいろんなものをごまかしてたり、分かったふりをしていたりとかするだけだったり、あるいは相手の文化と共有してるから相手に言ってることがすぐに分かってるだけっていう、そういう時もありますもんね。
そういう価値観を持っていて、それはだから自分の中では徐々にそれ変わっていったんですけど、それは井野さんと話していて、司会の役割みたいにポッドキャストで話したことがあるけど、司会っていうのは初めてちゃんとその参加者の人に話を振って、もしくはやらなきゃいけないことを全部決めなきゃいけないことを決めて、時間までに終わる。
それが役割だよって言われた時に、確かにって。私はなんかもっといいコメントをするとか、なんかいいまとめをする人みたいに誤解していて、それでなんかそれをそのように自分は上手く振る舞えないから失敗したっていうふうに感じて、だからちょっと上手くいかなそうになるとすごく緊張したり固くなって余計上手くいかないみたいなものだったのが、それがだいぶ外れてきて、
失敗してもいいじゃないって、失敗しましたねとか言いながら、よく頭を整理して、でも今まとまらないからっていうことも言えるようになっていったんだけど、
さっきの質問で言うと、子供に対しては比較的フラットで、あんまりこれ面白くないとかって期待してるんだけど、特定のその子に期待しているというよりは、いろんな子に話すから、同じ話を何人もにするんですね。
15:02
例えばチャットGPTってこんな面白いんだよ最近みたいなことを自分が経験したとしたら、それをシェアしたらいいかなと、誰かの、誰か面白いと思う子がいるかもしれないなと思って、何人かに毎回話す。
そうするとそれぞれ、それに乗っかってすごい面白いと思う子もいれば、あんまり響かない子もいて、なので比較的その子供とのやりとりで、すごくプレッシャーに感じたり、自分は失敗したっていう風に思わずに済む領域にいるのかなっていう。
学校の先生って30何人前にいて、一度にそれを動かしていくとか、それがまた誰かに見られてるとか、結構そういう失敗したりすると、それが露呈して評価を受けるみたいなことがかなり即時的に起こることかなと思うんですけど、職業的に。
私のやってることっていうのは、特別支援っていうのはもともと、もうちょっとその子に応じてやることだから、うまくいかないことも前提っていうか、うまく伝えられないから、そもそも伝え合えないから困ってるわけで、そんなにうまくいくことが前提になってないっていう。
面白いですね。
なるほどね。うまくいくことが、あるいは上手にやることが期待されている環境であればあるほど、失敗に対する抵抗感っていうか、心のハードルっていうのは高くなるっていうことだよね。
確かにそうかなと思って聞いてたんだけど、大学の授業なんかでも、基本最近は講義形式の授業が多くて、先行研究の紹介だけだと、やっぱり自分自身もあんまり成長しないから、研究者として。
先行研究をいろんなところから持ち寄りながら、現代社会を読み解くみたいな、私自身が非常に問題だと感じている流れっていうのを読み解いていくみたいなことを最近してるんですよ、授業の中で。
今一つの反応の時っていうのもあるわけ。そういう時に若干、あれ、うまくいかなかったかなっていう感覚を持つんだけど、私はそこで、うまくいかなかったって落ち込むんじゃなくて、何が実際には起きたんだっていうふうに、ちょっと面白がるじゃないけど、
18:08
なんか、うまく伝わらなかったところがあったとしたらどこかなとか、学生が引っかかったところがあるとしたら、あるいは反発を感じたところがあるとしたらどこかなっていうのを探ろうとする力、力っていうかその構えの方がちょっと強くなってきたかなっていうふうに思うんですね。
ちょっと前のメリガタの反応なんだけど、それ以外にも反応の仕方って、オルタナティブな反応の仕方ってあるなって思ってて、一つは私が通ってた精神科医の口癖、不思議ですね。
あれはもう最強の逃がし言葉っていうか、相手に返すわけじゃん。
なんでしょうね。
不思議ですねみたいな、そういう反応の仕方も。
キャッチでなくて。
つまり、そうそうそう、なんか思ったのと違うっていう反応が相手から来たときに、前のメリで、ちょっと前のメリで面白がるっていうのもあるかもしれないけど、不思議ですねみたいな。
なんか前のメリになって怒られたりするからね。
そうそうそうそう。
不思議ですねぐらいが。
ケースバイケースなんだと思うんだけど、そういうのもありだなって思ったのと、もう一つやっぱり失敗っていうことで言うとしたら、これはなんか特にさっきの前のメリともつながるかもしれないんだけど、構造要因に目を向けるってことはすごく大事で、
うまく伝わらなかったなって言ったときに、これは学生のリテラシーが足りないんだとか、あるいは自分の説明が下手だったんだっていう個人要因に向けるんじゃなくて、学生と私もずいぶん年齢差があるじゃない。
接してる文化もずいぶん違いますよね。
共通の規範の影響を受けている側面もある一方で、全然違う規範とかその強弱っていうのもあったりするから、そういうものが、つまり状況に目を向けたときにどんな状況の違いがあって、
それがどういうコミュニケーションの難しさみたいなものを生み出しているのかなみたいなのを考えるようにするっていうのも一つ大事なことなんだろうなと。
失敗をしたときに結構その原因追求をしてしまう。個人、誰かの責任にするっていう方向で原因追求してしまう力が働きやすいんだけど、そうではなくて、もっと構造要因に目を向ける。
そのときの状況がどうだったのかなっていうのをレイヤーを少しずつ広げていって、見ていくみたいな視点も大事なんだろうなと。
21:05
そうですね、確かに。なんか前にこうコミュニケーション上の相互みたいなものが起きたときに、井野さんはよくお互いの責任だよねって言ってくれることがあって、
コミュニケーションっていうのは確かに相互的なものだから、どっちかが悪いってことはないんだけど、結構どっちかが悪いっていうふうに捉える力のほうが強くて、
そういえば状況的にもこっちの方が悪いだ、みたいな。だけどそれは常に両方の。
状況把握の仕方によるからね。非常に限定的な状況把握で判断したときには、確かにこっちの方が悪いよねみたいな判断はあり得るんだと思うんだけど、
そういう判断を下さなきゃいけないときってあるじゃない。性暴力のときはそうだと思うんですよ。どっちもどっちだよねって言ったら、それは二次加害になるわけだから。
そういう判断をしなきゃいけないときってのはあると思う。でも常に全ての失敗に対してその判断をしなきゃいけないわけではないから。
まずはさ、構造にまでいかなくても、特定の個人じゃなく、その相手とか周りに広げ、構造に広げっていう風に視点を移していくっていう。
それがどのくらい広くまでいけるかは、練習みたいなところがあるけど。
だからそれと、責任追及されるべき人の責任を保留にするっていうのとはまた違うんですよ。
そうですよね。
私の中ではね。
全く違う話だけどさ、婚者っていう政治みたいなものってさ、すごく不思議だなって。
その責任追及のプロセスを丁寧に踏んで、それでその人に責任があるってなったのに、それを方面にするっていうのを、不思議だよねって思って、全然関係ないんですけど。
でもやっぱりその法にのっとって、その責任追及は一旦したわけじゃないですか。
だからそこで一応正義は達成されているっていう考え方なのかもしれないですよね。
でもそれをさ、誰か一人の権力者が辞めるときに、その人の力みたいなものでね、婚者っていうのは。
あれはだからまた別の機能があるんじゃない。
やっぱりね、その権威者のさ、この力っていうのを、で、その力っていうのは処罰する力でもあるんだけども、それって許す力でもあるみたいな、神的なその力を付与してるっていう側面もあるのかもしれないね。
24:21
こういうのもさ、たぶん人類学とか、そういう研究者の本を読むと、しっかり書かれてるなと。分析されてると思う。
なんか終身刑の人が契機を積んでいって、御社みたいな話はよくわかるんだけど、償ったじゃないかとか、そのプロセスを踏んで。
なんだけど、なんかその、そういうことなのかもしれないんですけど、御社に関するちょっと危険が。
ちょっとチートっぽく見えるのね。
どういう仕組み?みたいに。
確かにね。
不思議な話がずれました。
失敗、失敗を捉え直すっていうこと、大事だよねっていう。大事っていうか。
まあだからさ、私やっぱり失敗だと思わないんだよね。
あんまり多くのことは。ただなんか、いろいろ試してるっていうだけだから。
失敗を、失敗から学ぶっていうのは失敗を失敗と捉えないことっていうのもあるよね。
だからさ、でもその失敗はダメなんだっていうような価値観に対して、それをちょっと揺らがせたいから、そういうことを言うっていうのもあったり。
失敗の非常にネガティブなイメージっていうのを変えていくことで、その失敗があったときに、それを隠したりとかごまかしたりとかしないようにするっていうことだよね。
それを隠したりごまかしたりすることがやっぱり様々な問題を生み出してきたからっていうことなんだっていうのはわかる。
そうですよね。失敗を見せるっていうのも積極的にというか、正確的になのかしらないですけど、前よりはしていて意識的に。
それはなんか大事なことだよねと思ってやっていて、学校の先生にもそれを勧めて。
それ多分次とかのトピックにつながっていくのかと思うんだけれども、私失敗を見せるとかっていうのは大事なんだけれども、
なぜ見せるのか目的を一して、見せることが目的化するっていうときあるじゃない。
自己プレゼンテーションとしてあくまでもやってしまう。
本来はそこからボトムアップで学んでいく、地を作り出していくっていうことが大事なのにそっちはせずに、
私ってこんな失敗する人なんだよ、こうなんだよ、こうなんだよっていうおしゃべりばかりが続いていくっていうこの現象も、
このポッドキャストで取り上げたいなと思ってるトピックなんですよね。
27:02
いったい何が起きてるんだろう。
失敗をすることを開示していくっていうことと、
失敗はいいものなんだからいいんだ、何も努力しなくてもとか、失敗の原因みたいなものをよく見なくても、みたいなのがあるよね。
あるかなと思う。
弱さとか弱さの自己開示とかそういうのも大事なことなんだけど、
でもそれは別の目的があって言われてきたことなんだよね。
でも弱さを自己開示できること自体がいいこと、なんか強いことみたいな。
で、それにこうみんながいいね、いいねってして、どんどんどんどんその弱さの自己開示が広がっていって、
でもじゃあそこから何が生み出されているのって言ったら、
ちょっとね、もともと狙っていたというか、本来大事だよねってされていたものとは違う現象っていうのが生み出されているかもしれないなって。
そうですよね。
それ次のトピック。
確かに。なんか失敗の内容自体、失敗すること自体は悪いことじゃなくて、
だけどその失敗がどんな、なんでうまくいかなかったのか、
うまくいかなかったものはうまくいかなかったっていうことを認識するってことだから、
なんかそれを失敗はいいことだっていうのが、こう消し去ろうとしてくるような力があるよね。
例えば責任みたいなものもさ、開示した方がそれはちゃんとさ、責任を果たすような仕組みにしていかなきゃいけないとか、説明することもしていかなきゃいけない。
だからその開示することがさ、価値があるわけなんだけど。
失敗もあるよね、そういうこともで終わっちゃうとあんま学びにつながっていかないじゃないっていう。
そうですね。
じゃあこの話は次につながっていきそうということで。
ではこの話は一旦区切りますかね。
でまた再開。
今日はもうちょっと再開しようと思っています。話そうと思っていますが。
すぐにしますか。
2時半ぐらい。
2時半。
じゃあ次の配信は2時半です。
聞いてくれてありがとうございます。
次2時半にまた次のテーマ話したいと思いますので、もしよかったら聞いてください。
ありがとうございます。
29:59

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