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はい、今日のテーマは、何者でもない僕らが、ゆるされる場所。
僕たちは、何者かでないと評価されない世界で、生きている気がします。
学歴、資産、偏差値、時給、いろいろな数字で、命や時間が測られている。
気づくと、人まで数字の中で生きているように感じてしまう。
でも、もし、名前も役割も言葉もルールも通用しない場所があるとしたら、どうでしょう?
そこでは、誰かが決めた数字に当てはめることなく、ただ生きることができるのかもしれません。
日本では、そういう場所を異界と呼ぶことがあります。
海の向こう、山の奥、深い森、神社の静かな空気。
そこでは、人の言葉も、評価も、役割も、あまり意味を持ちません。
あるのは、ただ、自然の呼吸、風の音、土の匂い、水の流れる音。
その中では、どんな有名人も、どんな経緯者も、ただの一人の人です。
そしてそこには、生だけでなく、ちゃんと死も存在している。
僕たちの世界はどこか、生の方だけに光を当てている気がします。
でも本当は、1秒前の自分はもういない。1秒ごとに小さな死と小さな生が繰り返されている。
生と死は分かれているものじゃなくて、ずっと循環している。
その感覚を思い出すとき、僕たちは少し楽になるのかもしれません。
何者かでなくてもいい。ただここにいる人として、風を感じていればいい。
そんな風に許される場所が、きっとこの世界のどこかにある気がするのです。
はい、少し補足していきます。
その…まぁなんていうんですかね、どうしてもっていうわけではないですけど、
社会とか周りというか、何者かにならなきゃとか、何者かにさせようとする部分があるのかなっていうのをちょっと思っていて、
もちろんどうしても社会の中で生きるとか、人が長いスパン、未来を考える時ってそういうのも必要だと思うんですよ。
こうありたいなとかっていうか、あり方の問題でもあると思うので、
もちろん生きている中でどうしても仕事をしなきゃいけないとか、
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学生の期間でもあると思うんですけど、どうしても責任っていうものがあると思うんですよね、そこにも。
責任の重さは全然違うと思うんですけど、
その中でずっと生きているとどうしても心が苦しいなっていう部分があると思うんですよ。
言葉だけで生きていると苦しさが出るっていうか、
だからこそ昔の人たちっていうのは日常とは少し違う場所っていうのを大切にしていたのかなというか、
言葉だけに溢れてないところに行きたかったのかなっていうか、
自然と共に生きてきたっていう面が大きいのかもしれないですけど、
山に行くとか、海を眺めたり、海に足だけ使ってみるとか、
そういうところだと、肩書きとか役割っていらないじゃないですか、自然と共にある時って。
だからそういう自然の中にいる時に多分気づくのかなと思ったんですよね。
その命ってずっと続いてるわけじゃないというか、
生と死っていうものだけがそこにあるような気がするんですよ。
葉っぱは落ちるし、波も消えたりもするし、季節もどんどん変わっていく。
そういう生と死っていうものが離れているものじゃないっていうか、
同じ流れの中にあるんだよっていうのを分かるというか、
今こういうふうに生きているとどうしても死っていうものを感じにくいというか、
排除されてしまっているような気がするんですよね。
そんなことない、死なんてないからみたいな感じにくくなる時があるのかなと思って。
現実って言われているもの、例えばお金とか評価とか役割っていうものは、
その死っていうものが前提になりたくてないっていうか、
その生の部分からしか見てないんですよね、その人っていうのを。
でもそれだと多分、死んでるのと同じだと僕は思うんですよね。
もちろん大事なんだけど、より2つ合わせるっていうか、
2つがあってこそ生きていられるっていうことが大事なのかなと思って。
そこだけが1つ、光だけがいいことじゃないっていうか、
全てじゃないっていう、いい悪いじゃないんですけど、
だからこそそういう日常の世界とか、
そういう少し静かな異界っていう自然なもの、生と死っていうものを感じるっていうことが、
なんていうのかな、大切っていうか、その生と死を行き来してるんだ、僕たちはっていうのが、
感じるっていうのがもしかしたら魂とか、僕たちが失ってしまったものっていうのを
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思い出すきっかけになったりもするのかなっていうのを思ったっていう、今日この頃でした。
最後に一言言って終わろうと思います。
何者かじゃなくてもいい。
風を感じるあなたももう十分にこの世界の一部です。
今日もここまで聞いてくださりありがとうございます。
それじゃあ、またね。