では、始めましょう。
まず、なぜ彫刻という世界に行っていらっしゃるかというのが、それは一つなのと、
あともう一つ、あえて京都に活動の場所を置かれているというところもあるので、その二つをちょっと深掘りできたらなと。
承知しました。
まず、なぜ今、彫刻の方に行き始めたかというと、
一つ、これは単純にファッションという文脈から離れたいって思うようになったのが大きくて、
ファッションにはファッションの良さはあるっていうのは今も変わらなくて、
その一時的というか、その瞬間、高揚感だったりとか、感動させたりとか、人の心を動かすものっていうのはあると思うんですけれども、
僕が目指すところっていうのが、もうちょっと普遍性というか、時間軸が長いものっていうのに対してすごく美意識を感じるようになってきたっていうのがあって、
ちょっとこういう言い方するとファッションの否定的に聞こえちゃうかもしれないんですけれども、
もちろんそういう意味だけじゃなくて、どうしてもサイクルってあるじゃないですか。
コレクションって多ければ一つのブランドでメンズレディース入れて年4回でプレイでもっと増えるわけですよね。
そんな中でいろんなものがどんどん消費されていって、すごいスピードで回っていくわけじゃないですか。
そしたら、例えばデザイナーが何年もかけて考えてきた一つのコンセプトとかテーマっていうもので作り上げてきたものが、
もう翌年からすると古いものとしてなってしまいがち。必ずしもそうじゃないと思うんですけど。
っていうサイクルにちょっと自分自身が疑問を持ち始めたっていうところと、
いろんなラクジャリブランドがあったとして、その大きな資本の中でデザイナーがずっといろんなところを点々とするっていう感じも、
ちょっと自分の中では違和感があって、もちろん素晴らしい才能を持ってらっしゃる方なので、
別のブランドに行って良いものを作れる可能性もあると思うし、その人にしかできないデザインっていうのがあるからこそ、そういうふうにブランドの移動されてるっていうのは思うんですけれども。
ただ僕がやっぱり、もともとそういう社会にコミットできてるまで、自分がファッションの中で活躍できてたかって言った話はまだ別なんですけれども、
自分が表現したいものっていうのが、ある種、前は200年って言ったんですけど、最近ちょっと数字を増やしまして、
500年前の人が見ても、500年後の人が見ても、インスピレーションになるようなものづくりをしたいなっていうのがあって、
なんかその服装誌としての文脈ではなくて、その表現としてそういうものづくりをしたいって思うようになったのが、
いわゆるファッションっていうものだけではなくて、彫刻っていうものに行こうとしようとしてるっていうところはありますね。
今、その転換期というか。
はい、とても転換期で、自分自身すごく悩んでいたというか、考えてはいて、
ブロンズの足っていうものに移行した時に、前回の個展から、最近僕、個展をさせていただいたんですけれども、
気がついたら3年かかってたんですよ。
で、自分が今まで一応履けない靴だったとしても、用途があるもの、ある種作ってきた人間がそれをやめて、
用途がないものとして表現っていうところだけを純粋に作るっていうことに対して、
なんかこう自分の中でどうしても腑に落ちてなかったというか、納得できてなかったっていうのがあって、
もちろん環境っていうことも含めるし、僕、次、新しい作品っていうのは陶器を使ってるものなんですけれども、
自分が粘土を触ったことがなかったっていうこともありまして、
なんでそういう意味で、いろいろこうだこうだ、うだうだ悩んでやるかやらないかとか、意味があるのかなとかっていうもので、
3年かかって、やっと自分のこう、吐き出すことができたっていうところがありますね。
あと京都ですかね。
そうですね。その質問を、これもちょっと事前にいろいろ読ませていただいて、
やっぱり世界で通用するものを作るときに、ちゃんと自分の国のこととか、自分のいるところの伝統もちゃんとわかってなきゃいけないということで、
京都という場所が、そういうものが深くあるっていうのは、外から読んで理解をしたんですけども、その辺はどういうふうに思いますかね。
そうですね。ちょっと比較対象として、東京って町をすると、東京は僕の中でカルチャーが生まれる場所だなと思っていて、
新しいものがどんどん生まれては、ある種、消えていく側面もあるっていう、とにかく前に進み続けるっていうことが東京の町だと思っていて、
その対象として、京都っていう町はヒストリーっていうのは、歴史をずっと作り続ける、守り続けるものだと思っていて、
東京は前を向きながら進んでて、京都は後ろを向きながら前に進んでるような感覚があるんですよね。
そういった意味で、自分がものづくりをする上では、どちらかというと、東京ってあまりにも自分にとってはスピードが速すぎて追いつくのにちょっとしんどいというか、
あとはやっぱり、すごいいろんなものがどんどん勃発して、すごいエネルギーがバンバン上がってる中で、僕が考えてる普遍性みたいなものっていうのは、
そこの町ではちょっと生み出しにくくて、ああいう京都っていう歴史だったりとか文化っていうのは、より多く残ってる場所の方が自分としてはゆっくり腰を据えて、
ものづくりができるっていうのは大きいですね。あとは材料も含めて、周りに環境としてはすごく製作する上で整ってるんですよ。
例えば今回焼き物で言うと釜もそうですし、粘土っていう材料、釉薬もそうだし、画材もそうだと思うし、木とかもそうだし、いろんなものがすごく小っちゃいコンパクトな町の中で揃う。
で、困ったら誰かに相談できるとか、漆も含めてとか、蝶菌とかも含めて、とにかくいろんな職人さん、技術を持った方が、もう圧倒的小っちゃいコンパクトの中でいるっていうのがすごくて、
あと例えば、1人か2人誰かに相談したら、大体誰かに繋がるみたいな、そういうローカルコミュニティがあるんですよ。そういう意味では自分にとっては、とても製作のしやすい場所ではありますね。
じゃあそれが今、ご自分が追求し始めてる彫刻という形での表現なんですけども、でも延長線上でも客観的に見ると、靴というところからこういう彫刻でも足がモチーフになっていて、そこのテーマっていうのはご自分の中では描かれてるんですか?
そうですね。
ちょっと予期せぬ話の展開になりましたけど。
すいません、全然重たくは思ってもなくて、ありがとうなんですけど、前提としてやっぱり自分がやってきたことの系譜をどう組み込んでいくかっていうことだと思うんですよ。
全く例えば文脈がない中で急に僕が足を作りましたって言われると、特に今このタイミングでってなるとちょっとなんか話が違うって自分自身思うし、多分僕も納得してこっち側にはできてなかったと思うんですよ。
で、あと僕のなんかその近年すごく大きなテーマとして、さっき言った人の姿勢感だったりとか歴史とか歩みだったりとか、なんかそういったところを表現するにあたって、僕の中では足しかないっていう確信があって、やっぱりその霊長類で二足歩行するのって人間じゃないですか。
で、かつ一番大地とコネクトしてる地球と一番接点があるのって足じゃないですか。で、かつ僕ら重力がある中で、地球って重力で守られてる側面もありながら、でも重力から離れないと歩けないんですよね。なんかそういう意味で重力と抗ってるっていうのも含めて、いろんなメッセージ性というか思いが足に僕は凝縮してるんじゃないかと思っていて、ただ僕が靴作ってなかったらもしかしたら足に行ってなかったかもしれないですけどね。
なるほど。じゃあまだまだその先は今、結構探してるところも今話して感じるんですけども。
わかんないっていうのが正直なところで、やっぱりしんどいんですよ。なんかこういう多分、まだちょっと僕はアーティストなんていうのは拒ましいですけど、
こういう表現をするってなった時に、なんかそのアーティストって自分で自分のものをコピーし始めたら終わりなんじゃないかなって思ってて、
なんかそれはずっとこう廉価版というか、ただ同じことを繰り返して技術だけ上達するっていう状態はある種なんかこうもったいないっていうか、次に前に進めてないんじゃないかっていう風に思ってるので。
で、あとちょっと以前先輩のアーティストの方にお話しさせてもらったことがあって、アーティストっての生き方っていうのは園芸だと思うんですよね。
いわゆる泳ぎ続ける園芸。長く泳ぎ続けるって、ただ足をつけない。足を地につけないで、で時々浮いてもいいし、ここぞという時はクロールしてバーって進めばいいし、
しんどくなったら平泳ぎもしてもいいし、ただとにかく泳ぎ続けるっていうことがアーティストの活動だと思ってるんですよっていうことを数年前に大先輩に偉そうに言ってしまったんですよ。
そしたらその方がちょっとこう笑いながら、あ、そういえば串野くんが言ってることと同じようなことを別の素晴らしいアーティストの方がおっしゃってたよって言われて、
それ何なんですかって言ったら、アーティストは溺れながら死なない状態をどれだけ続けることができるかって言われて、全然意味ちゃうやんって。
結局その溺れながら死ねない状態って、やっぱり海の苦しさをどれだけ続けるかっていうことだと思うんですよ。
でも演芸っていうのは、ある種の自分のマインドっていうのは、もっと緩やかなことだと思うので、確かにその差は大きいなと思って、今はその溺れながら死ねない状況にやっと飛び込めたかなという感じですね。
でもそうですね、泳げさえすれば、それはおっしゃったみたいにスタイルは変わったとしても、何らかの形で前に進んでいくっていうのもあるので。
今、アートという表現の世界での比喩だったと思うんですけども、でもそれって別にアートだけじゃなくて、誰もが生活をしていく中で泳ぎながら前に進んでいかないと溺れちゃうし、死んじゃうかもしれないので、
それはアートだけの世界の話でもないのかなっていうのは今聞いてて。 もしその違いがあるとするならば、アートの場合は答えがない、ゴールがないっていうことなのかなって今お話聞いて思いました。
ある種仕事とかで言うと、その中での葛藤あるかもしれないんですけど、目標とかゴールがあって、そこに向かって泳ぎ続けるっていうのがあると思うんですよ。