だとしたらね、ポケ沼の中庭みたいにオープニングもちょっと別枠で作っといた方がいいのかなとか。
ああ。
うん。思ったり、思わなかったり。
それを作るのはマコちゃんですかね。
そうなんですよね。割とね、骨なんだよね。作るの。
でしょうね。結構さ、こだわってるじゃない。
そうなのよ。適当にはできないじゃないっていうのがあって、ジングルしかり、オープニングしかりっていうのは一応歌王じゃないですか。
そうですね。
番組の。それこそだからゴジラの登場シーンに流れる曲と一緒ですよね。
ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン。
ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン、ドゥーン。
っていう、そこなんですよ。だから、始まるんだなっていうふうに思っていただきたいんですね、同じものを聴いて。
それをだから、あんまり力の入ってないものだとちょっとよろしくないなって思うと、ちょっとなんかコツコツやりたくなってきたりしちゃいますよね。
でもね、そういうのって熱が入ってるときじゃないとダメですね。
なるほど。
今僕、頭の中でエンディングのテーマ曲が一応組み上がってるんですよ。
中庭の?
そう。それ前にも言ったんですけど。ただ、ちょっと音に起こせないんですよね。今エネルギー不足で。
それはね、モトちゃんの体の方に向けるエネルギーが大きいからね、今ね。どうしてもね。
多分そういう方向性なのかなっていう気がするんですけど、とりあえずだから元気になったら早く作りたいなというふうに思ってます。
今回本当にガチでドラムもギターも全部自分で起こさないといけないという、そんな感じの楽曲になりますんで、皆さんちょっと楽しみに待っていてください。
ちなみにあまりにも今日も暑すぎるんで、今冷房入れましたからちょっとノイズが乗っかってくるかもしれませんが、ご理解ください。
大丈夫っす。僕もエアコンつけて酒入れ玉でも回してますから。
暑いねしかしね、ほんとね。
暑いよ、今日やばいって。
日中地獄でしたよね。
日中エアコンの効いた環境でずっと引きこもってました。
ああ、なるほど。僕は日中外歩きの仕事もあったんで、ちょっとしんどかったね、ほんとに。びっくりしちゃった。
この時期に外歩きはやばいね。
そうなのよ、こんなに暑かったかなって思っちゃって。よく考えたら俺が子供の頃なんてね、まだ真夏とはいえ夕方になったら夕すずみができたわけよ。
そうだよね、もっと涼しかった気はするんだけど。
だって夕すずみという言葉があったわけだからね。今夕すずみできひんやん。
いやもうなんか、ねえ。
夕方になってもずっとむすから、全然すずもうにもすずめないっていうような感じで、いや参ったなあというふうに思いますとですね、
やっぱり古き良き日本というものがかつてはあったなと、少なくともまだ僕らが子供の頃にはですね。
そういった視点で言うとやっぱこのゴジラマイナスワンという作品は失われた日本っていうものを舞台に描いてきた作品でしてですね。
やっぱりこれまでの作品同様、カルチュラルリーディングが重要だなという話になると思うんですよ。
苦手なやつ。
ちょっと話がだいぶそろってたから無理やりつなげましたけど。
だろうなと思ったよ。
そうなんですよ。本当にその当時、どういうふうに人が何を感じて生きていたのか。
それを考えながら作品に触れるっていうのってやっぱり結構効果的ですよねっていうのは、これまでゴジラ見てきた中でもすごくあったと思いますし、
なんだったらそういう作品って多いよねっていう。実際ね現実的に。
僕らが今生活している中でも実際に起きた出来事っていうのが、センセーショナルな出来事みたいなものが、
その時代の作品にどんどん影響をするわけじゃないですか。
それっていうのはその当時の雰囲気の中じゃないとおそらくまっすぐ理解できないものもいっぱいあると思うんですよね。
例えば今もう不倫とか浮気とかってゲイの肥やしとかじゃないじゃないですか。
そうだね。
し、そういうものがあるってどうなのみたいな。倫理的にどうなんみたいな。不倫って言ってるくらいですから倫理的ではないのは分かりきってるんですけど。
ただ、非常にそこら辺の感覚っていうのが道徳的なところに収まりつつあって、円溜めだからいいよね。すらも通らなくなりつつある。
昔は円溜めだからいいよねどころか、不倫こそ純愛みたいな、そういう世界線もあったじゃないですか。
エマニエル夫人ですか。
エマニエル夫人ってそうなの?
いや、僕もよく分かんない。
エマニエル夫人。
エマニエル夫人ってさ、僕ずっとドキドキしてさ、配信されててもクリックできないんだけどさ。
あれ不倫の話じゃなかったっけ?違ったっけ?
あ、そうなの。有名なフジでできた椅子ですよね。
ん?
エマニエル夫人と言えば椅子でしょ。ちょっとググって、エマニエル夫人、椅子。
僕、エマニエル夫人のイメージちょっとエッチな映画っていう。
いいえ、その通りですよ。丸出しなパッケージだったと思いますけど。
エマニエル夫人、あ、椅子って書いてあるね。
ほらほらほら。
エマニエル夫人と言えば椅子なんですよ。
どんな話?タイの万国を舞台に、当時不倫した外交官が若妻を性的欲望に奉仕させるために自らの好みに飼育し、その若妻が美しく開花していく様を描く。やっぱ不倫だよ。
そうですね。で、やっぱり椅子がアイコンなんですよ。
僕とあるですね、セクシーな場所にですね、社会勉強のために迷い込んだことがありまして、そしたらね、椅子が置いてあって、これ分かる人にしか分からないやつだってなった覚えがあるんですよね。
そうだね。
そうなんです。
いろんなとこ、別の場所で見かけるとお?ってなるやつね。
そうそうそう。独特のお?みたいな感じのね、ありましたけど。そこ掘り下げてもよろしくないんで。とりあえず何の話してたかわからなくなっちゃったね、マニュアルのせいで。
椅子の話で。
いや違う、不倫の話。でも昔はそれが当たり前というか、例えば江戸時代とかの作品でもしょっちゅう出てくるじゃないですか、真珠ものみたいな。
許されざる愛ゆえに死を選ぶみたいな。それが究極の愛の形であるみたいなものが共通認識としてあった時代とかもあるし。
それを言うだったら、ゴジラの初代もある意味許されざる恋だよね。
まあそうだよね。あれもだって、本当は競り沢のいい名付け?なんですよね。だけど、ほぼバレバレな形で惹かれ合っている状態みたいな。競り沢もそれをわかってるみたいな。
そう、なんかね、それを、あの時にちょっとさ、あの後にもう一回初代のゴジラを見た時に思ったんだけど、ここでこの競り沢がさ、もう全然心よくではないかもしれないけど、普通にちゃんと共闘して、共同して譲った形じゃないですか。
まあそうですね。
競り沢自身が嫁にもらえない理由があったのかなっていうのをちょっと考えてさ。競り沢自身、オキシジェン・デストロイヤーを作って、ドイツかどっかで事故に巻き込まれたかなんかして目を失ったとかだったよね、確かね。
なんかそんな感じだった気がする。
そうね。あれも一種の核のメタファーの一つだったのかなと思ってさ、放射線被曝によって生殖能力を失うとかさ。
ありますね。
そうそうそう。そういうことも入ってたのかなとかって勝手にちょっと思ったんだよ。あれを2回目見直して。
あるかもしれない。
実はアメリカ版の初代ゴジラを見るまで、あの3人の関係性が僕全然理解できてなくて。
そうだったんだ。
そうそうそう。こいつらなんなん?っていうところだったんだけど。
確かにね。今の感覚で見ると違和感あるよね。
うん。
だってなんかもう一緒にいて当たり前みたいになってるけど普通だったらそうならないはずだよねみたいな。
うん。
でも当時の感覚的には別にそれでいいのかもしれないみたいな。
うん。でもお父様もね、そんなに認めてない感じもなかったしね。
そういうのってあるんだなっていう。男はつらいを見てた時にもこういうエピソードがありまして、奥さんに逃げられたみたいな人が出てくるんですよ、男の人が。
で、トラさんがもうなんか見てらんねえなみたいな感じで兄貴風を吹かしてね、一緒に蒸発した奥さんを探しに行くみたいな。
うんうん。
で、北海道の片隅でようやく見つけるんですよ。
うん。
で、もう、ショマ行ってこいって言って行かせたらすぐ戻ってきちゃう。あれはダメだっつって。で、何言ってんだよみたいなこと言ってトラさんを覗きに行ったら、いるんだけど、男の家にいて背中に赤ちゃん台です。
ああ。
あれはもうダメだって言って。そうだなーっつってトラさんも言って。これはもうダメだよ。もう見送ってやるのが男だみたいな感じの。
うん。
なんかもう今の感覚だと逆じゃないというか、もうそこは責められるべきみたいな感じになりそうじゃない。
そうだよね。医者料いいから取ろうかなみたいな。
そうそうそうみたいな感じになるけど、当時の感覚で言えばもう愛し合って子供ができるぐらいで、しかもその子のことを思うんだったらことを改たせずに身を引くのが男みたいな。
だからそういうのって本当に時代で全然違うんだなっていう認識が。そこにちょっと僕はびっくりしてしまったし。
だからなんたらもうダメだって言って諦めて戻ってきた男に対してトラさんが結婚してなんか言うのかなと思ったら、あれはダメだなってなるっていう。
そこにやっぱり僕はびっくりしたんだけど、でもやっぱりそういうことなんだろうなっていうふうに今その後やっぱ思うわけですよ。
時代によって本当に感覚が違うから。だからそこまで遡らなくてもなんだったら失落園とかめちゃくちゃ売れたじゃないですか。
一切見てないんだよね。
ドフリンの話ですけど。というかそれしかないっていう。
ひでえな。
フリンセックスみたいな感じの作品なんですけど、でも全然それが当たり前に受け入れられた時代があるわけなんですよね。
それはそれで。もちろんねいろんな声があったと思いますけど、でも今だったら多分いろんな声があるというよりはもう多分完全に否定の方に触れちゃうよねっていう気がするんですよね。
だからやっぱり時代時代で作られたものはその時代の中で解釈されるけど、でも今回で言うとゴジラ-1っていうのはやっぱりその時代に戻すっていう感覚で見ないといけなくて。
一方で、どうしても僕が今日言いたかったのは実はそっちじゃなくて、今回の作品はゴジラが何のメタファーか云々観音とかじゃなくて、とにかくゴジラは脇役で戦争と人間、そして生きるとは何かを直接的に描いた作品だっていうことを言ったんですけど、その後いろいろ考えてみるとゴジラもしっかりメタファーの役割をしているんじゃないかと。
マコちゃんが体調が悪いので咳が止まらないリスナーの皆さんはこのマコちゃんの辛い体をいたわりながら、辛いんだな、かわいそうだな、今しんどい顔してるんですよ、しんどい顔しながら語りたい、その気持ちだけで今ふるい立ってマイクの前に立っております。
生きるとは何かという話をしながら激しく咳き込んでると、こいつ死ぬんか?みたいになりますけどね。大丈夫です、マコまだ死ぬ気はないので、頑張ります。
本当にちょっと心配になるんですけどね。
とりあえず戻しますが、しっかりメタファーだなって思ったんですよ。それが何のメタファーなのかっていうのが、僕はなんとなくふわっとしていて、一回目見た直後は圧倒的な暴力とか、あるいは荒見玉的なところなのかなって思ってたんだけど、あれはもはや死そのものだったんじゃないのかっていうふうに思い立ったんですね。
今回のゴジラが死という概念そのものであるというふうに仮定すると、わりとピンとくる描写が多いんじゃないのかっていう気がするんですよ。
これが一体何かっていうと、ゴジラに主人公シキシマは何度も襲われるんですけれども、言わせてしまうんですけれども、その都度彼は退治することを避け続けるんですよね。
退治したい、でもできない。
そっかそっか、そうだね。
で、シキシマはどういう人物だったのかっていうことを見返してみると、特攻隊として出発するも死にに行く覚悟ができずに、機体トラブルを偽って大野島にやってくる。
で、結局覚悟が全く決まってないけど、それは何が悪いんだみたいな。
そういう死にに行くなんてできないっていう思いなんですよね。
そんな彼に向かって死の象徴はひしひしと向かってくるんだよね。
でもそんな死に対してやっぱり向き合うことができないから、シキシマはいつまで経ってもゴジラと真っ向から戦うことはできないんですよ。
で、2回目にゴジラと出会うのが置き合いですよね。
置き合いでゴジラに会うんですけれども、あの時ゴジラが必要にですね、シキシマが乗ってる船を追いかけてくるんですよね。
嫌いに爆破されても決してめげずにですね、再生して追いかけてくるんですけれども、
あれこそですね、戦争が終結して死というものから逃げ切ったと思ったシキシマ。
ところが、シキシマの意識の中では自分は死ななければならなかったんだという意識がずっと残り続けてるわけですよ。
自分が攻撃してなかったがために死んでしまった大戸島の整備兵たち。
その人たちの生きたかった思いっていうものをずっと持ってると。
自分の戦争は終わってないんだ、自分はいつか死なないといけないんだ、死ぬべきときに死ななかった人間なんだというふうに思っているからこそ、
生きたいにもかかわらず彼には死というものがずっとつきまどってくるわけですよね。
あそこで迫ってくるゴジラっていうのは、シキシマの意識下の中でずっと自分自身に襲いかかってくる死への恐怖。
死ななきゃいけないんだっていう脅迫観念のメタファーになってるんじゃないのかって気がするんですね。
なおかつやっぱり決定打を打てないでいるという。
そんなシキシマ君の姿をあそこで拝むことができるし。
あとは何より僕がすごく面白いなって思ったのは、銀座の地に降り立ったゴジラがですね、ブレスを吐くわけですよね。
あの瞬間ですね、死ななきゃいけないけど生きたかったというふうに思って、でも結局何もできずにいる。
自分がどうすればいいのかわからない。自分は死ななければならない人間だから、
のりこたちを幸せにする立場にはできないと思ってるシキシマ君は、結局あの時立ちすくんで何もできなかったわけじゃないですか。
そうですね。
一方で戦争が終わってですね、新しい社会の中で新しい生き方っていうものを見つけようとしていたのりちゃん。
のりぴー。
のりちゃんが、シキシマをかばって死んでいくわけですよ。
そうだね。
実は死んでないんですけどね。
あれは奇跡でね。
実際は死んでないんだけどっていうのがありまして。
ここ実は僕全然言語化できてないんですけど。
でもまあ象徴的場面だなとは思うんですね。生き方が定まらない人間っていうのが生き残ってしまって、
新しく生きよう生きよう、新しい時代を生きようとしている人が死んでいくっていうところが、
だから僕らはあそこでちょっとああってなるのかなっていう気がするんですよ。
その辺の人物像の死への向き合い方というか、死に対する立場っていうのを描き方はすごく象徴的だと思ってて。
シキシマに関してはさっきまこちゃんが言った通りだし、
ノリちゃんに関しては、戦火の中でお母さんとかお父さんとかが火に焼かれながら
あんたは生きろって言われたから私は生きなきゃいけないという、
逆に生を義務付けられた人間というふうに描かれているし、
あとゴジラも一つの人間っぽく捉えるとすると、
オード島でのんきに暮らしていたけれども、ある種巻き込まれた事故によってゴジラ化してしまって、
その後あくまで生にしがみついて執着している生物。
だから東京を襲った理由っていうのも、オード島じゃもう暮らせなくなっちゃった。
狭すぎて自分の餌の範囲とか何とかっていうのが色々あったんだろうと思うんだけども、
から東京中の新しい縄張りにして生活していこうという時に、
外獣である人間みたいなところが邪魔っけだから、
ここ俺の縄張りになってしたっていう、
ゴジラもまた生に、ノリちゃんは能動的に生にしがみつく人だけれども、
ゴジラは能動の逆が主体か、主体的に生にしがみつく存在みたいな、
ここの三つども絵の描き方があったんじゃないかなと思うんやけど。
何だったら本当に今回出てきた人たちって、それぞれに生に対する考え方が違うような気はしますよね。
やっぱアキツーいるじゃないですか。
嫌い状況の佐々木倉之介さんでしたっけ?がやってる船長さん。
船長さんね。
船長さんなんかもう、ある意味一番新しい時代に生きてる人だなって気がして。
だってゴジラは何としても止めるんだとか言っときながら、ゴジラが出てきたらよし、無理だっつって。
生き残るのが当たり前だろうという、自分たちはっていう意識が当たり前に持っててる人だし、
一方で同情してる水島ね、
博士じゃない方。
坊主か。
そう、坊主。小僧ね。
小僧か、坊主じゃねえや。
小僧は死に憧れてる人間じゃないですか。
そうですね。
意義のある死っていうものを迎えたかった。
そこに憧れたまま、今を生きている存在なわけで。
ある意味では死が見えてないからこその、そういう意識、姿勢なのかなというふうに思いますけど。
なんかすごいさ、宿図になってる気がするんですよね。
戦争が終わった時の人々のね。
で、学者も学者でさ、もともと技術士官で。
で、戦中は兵器の開発に携わっていたっていう過去が明らかになりますけど。
ある意味では死を作っていた人物じゃないですか。
そうだね、オッケーハイワーみたいな立場だもんね。
本当にいろんな立場で死っていうものと向き合ってきた人間っていうものが、この作品の中では散りばめられているから、
見ていて、それぞれの人がちゃんと生き生き動くんだろうなって気がするんですよね。
ちゃんと糸を持って設定されてるから。
そこがすごく上手だなっていうふうには思いましたね。
とにかくゴジラが死そのものである、死の象徴であるというふうに考えるとですね。
最後の作戦、わたつみ作戦でしたっけ。
わたつみ作戦です。
あそこに行くように元海軍の人たちがお願いをした瞬間のあのシーンとかもまさに象徴ですよねって気がするんですよね。
ゴジラに立ち向かって行くってことは要するに死にに行けということなわけですよ。
橘淳将と同じこと言ってたもんね。
そう。無理やりにでも死と向き合うことを人に強制するとはどういうことなのか。
そしてそれが戦中から戦後になって人々の意識が変わった時に、そこに人が一体どうやって目的を見出すのかみたいな。
だからあそこも本当に描き方が丁寧でよかったなって気がして。
変にもうUSAみたいな感じで全員で突撃みたいな感じになると、凶座めだと思うんですよ。
そこでやっぱりちゃんと自分の新しい時代を僕は生きるんだ。
だからもうそんな自分が行かなくてもいいじゃないかっていうところで去っていく人がいて当たり前じゃないですか。
加えるとしたら博士が作戦のことを自分の心情をちゃんとトロしたシーンで、今まで人の命が軽く扱われすぎていたから、これからの時代は違うよね。
だから生きるっていうものをゼとしてしていく作戦が今回初めてやりたいんだよっていうそこの意思をちゃんと、ここはすごくわかりやすく言葉にしてくれた。
そうだね。生きるための戦いっていう位置づけ。
だから死にに行くことをゼとしてきたものから、いや違うんだよと、生き残るための戦いなんだよっていうところをしっかり言葉で示した瞬間ですけれども。
でもまあそれがあるからこそやっぱりその後の神殿の脱出装置がまた生きてくる。あれの前振りみたいな部分でもあるのかなって気がしますけどね。
あとあっこですごい、言い忘れたと思ってたんだけどさ、死がゼとされている世界の常識っていうところから、生を常識とする世界に変わった瞬間、
小僧がどういう役回りになったかっていうと、旧世代の人たちを原動力として引っ張る存在に関わっていったじゃない、和達未作戦で。
あっこも、旧世代の人間たちがまた作り上げていった基盤っていうところをもとに、新しい世代の人たちが躍進して伸びていく、それで全体を引っ張っていくっていうような社会構図っていうものを映し出したっていうのも、これはいいなと思ったんだよね。
あそこで出てきてくれたのは嬉しかったよね。だから、ある意味では小僧の再登場っていうのが、ただ出てくるだけじゃなくて、生き残るための戦いと定義付けられた戦いで出てくることに意味があるのかなって気がしますね。
さっきあこちゃんが言ってくれたように、やっぱり死を憧れるっていう存在から、これは違うんだよ、違う作戦なんだよってなったときに、じゃあ私の役割はどこにあるのっていうところで、自分の役割を再定義して動き出せる人間を描いたっていうのが、やっぱりあそこがすごく良かったなと。
しかも山崎監督の最初の構想では、最初の嫌いのシーンで小僧を殺す予定だったらしいんですよね。見た後にインタビュー関係を読み漁ってたら、あそこで死ぬ予定だったんだけど、あんな大爆発に巻き込まれたのに腕一本で済んでるじゃないですか。
あそこはちょっと矛盾があるんですけど、でもなんか殺したくなかったんですよねって。しかもちゃんと意味のある生かし方をしてくれたなっていうところが。
そこでただ思いつきで生かすんじゃなくて、ちゃんとストーリーの中で生きる形で生かすっていうのは大事ですよね。
そういうことで言うと、ノリちゃんもそうらしいのよ。完全にバッドエンドにする予定だったらしいの。
けどもやっぱりノリちゃんが生き残ったっていうところも、戦争がどうなったとかっていうところのハッピーエンドっぽく見せかけて、そうではない部分もちゃんとあるんだよっていうところをちゃんと見せながらっていう。
やっぱり全部の登場人物たちがしっかり生かされながら、ストーリーもちゃんと前に動いてて矛盾なく進んでいくっていう。
あの人天才だよね。
本当にいい作品になってるなと思いますね。
しゃべってたら一個思い出したんで、もう一個だけ言わせてください。
何でしょう。
わだ積み作戦いいよねっていう話で。
団結することは悪ではないということ。
これはとても大事なことじゃないかなって思うんですよ。
これ一体何なのかっていうと、戦争においては国民意識っていうのは統一されてですね。
それこそ一億火の玉みたいなね。
そんなスローガンのもとでですね、国一丸となって立ち向かっていくんだみたいな形で戦争が行われてですね。
それは間違いでしたよ、みたいな感じで戦争が終わっていくわけじゃないですか。
そういった中で、ある一定数の人間が協力することっていうものそのものが、ちょっと会議的に見られるような風土っていうのが、日本においてはやっぱり立ち上がってきた気はするんですよ。
でもそうじゃないよねっていう。
作られた目的のもとで意思決定を迫って団結するではなくて、
各々がそれぞれの理由でもってしっかりと意識を持ち、その意識が重なった最大公約数的なところで団結して、何か大きな役割を果たしていく。
そういう形の団結は非常に価値がある団結なんじゃないのか、みたいなものを僕は和田積作戦にすごい感じたんですよね。
だから戦争終わった中でもう一度戦いに出てもらうっていう非常に苦しいお願いをするわけじゃないですか。
駆逐艦の元艦長が。
あのシーン良かったよねって話を今さっきしたばっかりですけれども、あそこの一致団結っていうのは自発的な一致団結なんじゃないですか。
ここで戦うことに意味があるんだと。
自分たちの意思であの人たちは残って、自分たちの意思で団結をしているわけで。
そしていっぱいの船でね、小僧が連れてきた船と一緒にさ、失敗しかけた作戦っていうのがもう一度軌道に乗っていくみたいなところも、そのカタルシスあるなって思って。
そうだね、そう考えると農道多動っていうのも一つのテーマだったのかもしれないね。
ある意味、生きるとか死ぬっていうことに農道多動っていうのがはっきりと色濃くあった戦争の時の時代っていうのと。
あとその現代における生きるとか死ぬって非常に曖昧でふわっとしたものになりつつあるんじゃないかなとか。
自分の生きる意味とはとか、あと死ぬ価値とはというのがすごくふんわりしたもので、ちょっとそこに行けば手に入るみたいな。
そんなところになっているっていうところも、その時代背景の照らし合わせというか、っていうところでも対比できる一つの構造になってるんじゃないかなって今思った。
いかに死ぬかっていうのって非常に今やっぱり難しいですよね。
そうだね。
何となくでも生きていけちゃう時代なんで。
死っていうのがただの賞味期限でしかないんだよね。
しかも今賞味期限もさ、アホほど伸ばせるようになりつつあって、死なせてくれない問題もあるじゃない。
健康寿命みたいな話もあってさ、ただ生きているっていうだけの状態に陥ってしまって、でも自分で死を選ぶことができないみたいな。
じゃあ一体それって生きてるって言えるのかっていう。自分の意思がないままでね。
当人がどう生きるかっていう、そしてどう死にたいのかっていうところの意思を持って生きることってすごく大事だと思うんですよ。
やっぱり前回ヒーバーの話をしましたけど、生きるっていうことに何か目的を持っていたいし、そこの目的があればいかに死んでいくかっていうところも見えてくると思うんだけど、
自由が約束されているこの社会においてですね、それってすごく難しいなっていう。
名を残さなくても別に生きていけるわけじゃないですか。名を残すほどの努力をしなくても。
そうだね。
そういうふうに考えるとですね、別にいつ死んでも同じじゃんみたいな感じのね、結論に至っちゃう人も出てくるのかなって気がするんですよ。
どうせ別に死んだら何もかもなくなるんだしみたいな。別に何かなせるわけでもないしみたいな。
でも生きるってもっと尊いもので、そこにちゃんと目的、何か自分が生きることに目的、意味があるんだっていうのを、
それこそ本当の尊い生命だよねっていうのをなんとなく感じさせてくれるのかなって気がするんですよ、ゴジラ-1を見てると。
確かにね。やっぱりこの生と死両方を描いたっていうのは、どっちもないとどっちも輝けないというか、考えられないっていう。
やっぱり生を意識するためには死を意識しなきゃいけないし、死を意識するためにはやっぱり生を意識しなきゃいけないし。
そうだね。だから汚いものを描かないと綺麗なものは綺麗に見えないからね。そこはすごく大事だったと思うし、変に死を美化しないっていうところも大事だなっていう気はするんですよ。
なんかこう、よくあるじゃない?そういうの。死ぬことを美しく描きたいみたいな。
僕あれね、別の作品の文句になるんですけど、セカチュウ僕大嫌いなんですよ。
はいはいはい。
世界の中心で青い家を叫ぶね。
まあ一大ムーブメントになりましたよね。
僕あれ本当に心の底が嫌いで、一つは死に際を描くことを美化したっていう風潮が世にはびこってっていうのが一つ。
はいはいはい。
あと病人の人たちが辛く苦しくでも頑張って生きてるっていうイメージを押し付けたのが一つ。
そして発血病、死ぬ病気だと現代においても強くイメージを悪い方向に押し付けすぎたっていうのが一つで、この3つの理由で我々の作品がめちゃめちゃ嫌いなんですけど。
なんでしょうね。まさに死っていうテーマを過剰に美化した作品ではありましたね。
どうなんですかっていうのは正直思ってしまって、人って人じゃないですかっていう。
だから別にみんな性格合わせ持ってるわけですよ。
そうだね。
だからそのあたりも描いてほしいし、なんだったら死ってもっと時にあっけなかったり時に理不尽だったりするわけですけど。
そのあたりも妙にキラキラとしたハイキーの映像でシャラランみたいな感じで描かないでほしいんですよ。
それ言うとゴシラマイナスワンはすごく…マジで俺死ぬのかな?
大丈夫。まこちゃんが死にそうになった時、俺が中学時代から温めてたオーラをそっちに送るから。
いらないです。
すごくですね、死を泥臭く描くじゃないですか。
ゴジラに理不尽に踏みつぶされていく人たちもそうだし。
とにかく恥みたいなものを持ってるんですけど、でもそれを包み隠せずどうしても死ねない生きたいっていう思いをとろしてしまう四季島とかね。
多分美化系の映画にしていたら、もっと儚げに語りますよね四季島はね。
そうだね。
でもそうじゃない。
そういう意味で言うと三丁目の夕日を描いてた頃の山崎監督だったら多分そういう描き方をしてたんだろうなって気がするんだよね。
でも永遠のゼロをやったからこそ、臭いんだけど泥もちゃんと被ってるみたいな。
そういう監督の中の一本の手法みたいなところがさ、増えたことでゴジラで綺麗にその辺が描けるようになったのかなって気がする。
結局そうして良かったねっていう話になっちゃうね。楽しかった。楽しかった本当に。
良かったよこの映画。本当にね、いろんな人に見てほしい。
なんだろうね。1個くらいケチつけたいなあ。
俺はもう1個ケチつけてるからさ。
何つけてたっけ?
のりこがゴリラっていう。
ねえ、のりこメジャーデビューですからね。
そうそうそうそう。
でもそうね、あれはもう僕も笑いましたけど、よくあることなんで。
ハリウッド映画で車爆発しがちと同じような、そういうあるあるネタということで、押さえてあげてもいいんじゃないのかなって気がしますけどね。
でも僕はあれだな、ブレスかっこよく描きすぎ問題っていうのはね、言いましたんで。
ああそうだね。
あれはちょっとね、装飾型ですね。
そうかな、僕は好きだけどなあ。
いいんだよ別に。ゴジラがかっこいい映画だったらいい。
けど今回はゴジラがかっこいい映画じゃないから。
まあそうだね。
ここすごく大事なことで、映像ってさ、すごく成長して、とんでもない時代に突入してると思うんですよ。
だから舞台セット作る位置から作るとかじゃなくても、本当に今の人たちが実際に赴くことができないような古代の街並みに人を置くことさえもCG技術とかでできたりするような時代で。
だからもうかっこいい映像とか作ろうと思ったら、センスと技術力があれば限りなくド派手でかっこよくてスピーディーな素晴らしいカットは作れると思うんだけど、
でもそれってこのシーンに必要ですかっていう視点も常に持ってないといけないと思うんですよ。
そうだね。
引き算の美学じゃないですかね。
結局だから、そういう映画だったらいい。いわゆる映像がかっこいい映画。
あるあるあるとかね。
そういうことですよ。ド派手なみたいな。アクション映画とかそういう痛快なねみたいな、そういう作品だったらアリだと思うんだけれども、
一方で本当にそういう視覚的な刺激ってやっぱり人間にとってめちゃくちゃ情報量、占める情報としては大きいので、
そこであんまりにも見せすぎると、絵にやっぱり主題がぶれるっていうのは絶対にあると思うんだよね僕は。
それでいうとやっぱりあのシーンはめちゃくちゃかっこよかったんだけど、かっこよすぎちゃう。
ちょっとか。
だってその瞬間お前、はえーかっこいいってなったでしょ。
いやもうなんか行きかけだもん。
でしょ?だからそういうことなのよ。
なるほど。
その瞬間あなたはこの映画の主題について深く思考できてましたかっていう。
このゴジラは一体何をっていうさ、何を意味してるんだとか、そういうところにリーチできなくなるんでその瞬間。
確かによいしょってなったね。
そうそうそう。そこなのよ。だからまあそれで言うとちょっとあれはかっこよすぎちゃったねっていう気がしてますね。
なんかどうなんかなーみたいな気がしましたね。
まあケチつけるとしたら本当に増えないですね。前言ったことをもう一回言ってるだけですから。
そうだね。
そうだね。なんかあるかい?
あー俺ちょっとあるかな。
ん?なんだい?
うーん。やっぱね。
うん。
みんなね。
うん。
きれいだね。
顔か?
まあ顔もきれいですけど、まあそれはもう言い出したら創作映像作品全部そうなっちゃうけどね。
まあまあまあまあ。
あのーなんだろうな。汚れてるけどきれい。
確かにボロはまとっている風だったけどっていうところはあったね。
そう。でね、ここがね、日本映画は弱いなーって僕思ってんすよね。
うーん。
なんかこうね、汚いものをとことんまで汚く描けないんですよ。
確かに最初のノリちゃんの登場シーンでさ、こう家に転がり込んでくるノリちゃんってさ、そこそこ厚着してるじゃない?
うん。
あのーハンテンも着て、着物も着て。
うん。
えーと、なんて言うんだっけ、あのなんかあの時代、モンペでしたっけ?
モンペね、はい。
そう、モンペも履いて、フルセット揃ってるんだよね。
うん。
絶対に、どっから持ってきたの?っていうレベルで。
だから、あっこはもっと本当になんか、もう、なんかモンペも履いてるのか履いてないのか分かんないぐらいのボロだったりとか、なんかもう不老者と見も違うぐらいのレベルの服だったりとかね。
まだあの隣のババアがそこそこの服を着てるっていうのは、まだ家がそこそこ残ってたから、まだ分かんなくはないけど。
なんかね、そう、なんか戦火を逃れた人たちっていうのが、果たしてそんな今の我々みたいに、毎日お風呂入れるかつ。
絶対臭いよね。
そう、だからね、もっとね、もっと汚いはずだね。
綺麗すぎんだよ、やっぱり。どう見ても顔はすすっぽいので汚れてたりするんだけど、やっぱ綺麗だよね。
だからそのあたりをね、なんかもう本当にもうガチで汚くしてほしいなって僕思うんですよ。
そういうところから作り上げていかないとっていうのはなんとなく思ってしまって。
それもあれだろうな。
日本の映画業界は本当ね、ちょっとね、
一回ね、全部爆破したほうがいいと思ってる。
そういう意味ではね、日本のドラマだったんだけど、
すっごいいろんなこと汚く描いたりとかしてくれたのがサンクチュアリー。
あーはいはい、それネットフリックスですか。
そう、ネットフリックスオリジナルの相撲のドラマだったんだけど、
めちゃめちゃ面白くて、僕一気見しちゃったんだけど。
ネットフリックスだからできたのかもしれないしね。
そういうのがあってほしいですよね。
やっぱりそういうどこか、日本の配給会社から外れたところでやっていくっていうのは大事なのかなって気がしますよ。
すごく難しいですけどね、
日本の芸術関係ってどうしてもいやらしい話をするとね、
それぞれの会社で持ち回りで賞をあげてたりとかさ、
書道の世界でもそういうのがあるんですよ。
とあるね、権威のあるところが、会派が順番に賞を取っていくみたいな。
剣道で必ず大会の会場の人が勝つみたいな。
会場になってる剣道人達が勝つみたいな。
にぽんって感じがしますね、そういうのね。
僕はそういうのは持ち込んじゃいけないなって思ってるんですよ。
そういうことやってってどんどん鋭さを失っていくんじゃないかという気がするので。
ゴジラ-1に関しても素晴らしい作品だったのは間違いないんですけど、
やっぱり汚いものは汚く描いてほしいなっていう気持ちは残りましたね。
でも絞り出してそんなもんです。
本当にでもそんなもんだよね。
ようやったなという気はしてますよ、本当に。
僕はもうこのぐらいしか言うことないんで、オーマはあるんですよね。
あと一個ね、ゴジラの記号としてがんっていうところも描いてたんじゃないかなと思うんだよね。
がん細胞。
そうそうそう、ゴジラがん細胞、G細胞がん細胞説。
オルガナイザーG-1。
なんでこの〜説を言うと必ず出てくるの?
〜説って言うとなんかすごいチープになるんだけどさ、
やっぱりこの放射線とがんって切っても切り離せないんだよね。
やっぱり放射線を過度に浴びるとがんになるっていうところもそうだし、
逆に言うとがん細胞を消すのにも今放射線を使ってたりもするので、
放射線治療ありますもんね。
そうそうそうそう。
だから、このがん、やっぱりのりちゃんの体にくっついたっていう、で助かったっていうのもさ、
やっぱりそのー、たぶんのりちゃんあのー、
なんかがれきたちに飛ばされながら、あのー、吹っ飛んでいったじゃない?
うん。
ま、普通に考えたら死死死産状態でいるはずなのに、
ほぼほぼ無傷っていうような状況で出てきたってことは、
本当にがん細胞のように肉体再生が行われたっていうのにしか考えられない気がするし、
それは僕のね、勝手な妄想だけど。
そこはね、冗談の妄想だったりしても、
やっぱり被爆したっていうところの、被爆して生き残った人っていうところの描き方っていうところでも、
あそこでそのー、ゴジラ細胞が体にくっついたよっていうところを描くことで、
そのがんだったりとかっていうところをしてるっていうところもあるかなーっていうところもあるし、
あとゴジラの体の描き方、この再生するときの描き方が、
今までのゴジラだったら修復過程を描いてたんだよね。
傷ができました、魔法みたいな、ベホイミみたいなのを使って治っていく、
シューってきれいな体になりました、だったんだけど、
今回のゴジラの修復過程って汚いんですよ。
ケロイドみたいな形になって、ここに傷跡あったよねっていうのが残りながら修復していくっていうところが、
なんかこの、ガン細胞のこの、わしゃわしゃって増えてってみたいなところ、みたいなイメージも出てくるし、
あと最後の死に方。結局そのゴジラの核の部分を残して、あとなんかこうボロボロに崩れていったじゃん。
なんかそれもなんかちょっと細胞っぽいなーっていう気がして。
なんかこのゴジラの、ある意味ちょっとガンとか病気ではないんだけども、
本当にガンっていうところのなんかをエッセンスとして入ってるんじゃないかなっていう気がした。
なるほどね。わからなくもないかなって気がしますね。
ガン細胞って人間にとってやっぱり天敵みたいなもんじゃないですか。
そうですね。
だからある意味では死の象徴にもなるわけで。
そっか、そうだね。
ガン細胞は死の象徴であり、なおかつそのガン細胞に関しては特色の一つとして不死という特色を持ってるっていうところも非常に象徴的かなという気がしますね。
でまた、ガン細胞はあと二つ特性としては増殖する、そして転移するわけですよね。
死への恐怖っていうのも同じかなという気がするんですよ。
死への恐怖っていうのは死を思えば思うほど増大していくし、そしてそれは他人へも波及して広がっていく。
戦火における人々の死への恐怖だったり、死を思ってしまうその思念みたいなものも同じような広がり方をしていったんじゃないのかみたいな感じで考えると、今回のゴジラが死でありなおかつガン細胞であるっていうような考え方はありだなという気がしますね。
同時に、やっぱり克服できないというか、完全な死を迎えさせることはできないようなものなわけじゃないですか。
そう考えると非常にいい描き方だったんじゃないのかなっていう気がするんですよね。
だからこういうゴジラであってほしいねっていう。
少なくとも僕らが求めてたゴジラは初代を見て、次に見たかったゴジラはこれだったんだよね。
だからゴジラっていうものにフォーカスを当てちゃダメなんだと思うんだよ僕。
出てくる人たちの人間ドラマを見たときに、「じゃあゴジラはこういうものだったんだ。」に落ち着くのがゴジラなんだよ、きっと。
でも結局そこを下手をしたら、ゴジラを作っている大本の制作側も理解していなかったから、いろんな迷走が起きて、ガシャーンってなるわけですよ。
そう考えるとキングギドラは結構ニヤピンショしたんじゃない?
そうだよね。それは本当に思う。ミレニアムシリーズのゴジラ、モスラ、キングギドラ、東京SOSみたいな。あれは良かったですね。
ちゃんと人間ドラマっていうか、人間がどう動くかっていうところをしっかり描いて、ゴジラも象徴としてのゴジラっていうところだけで頑張って描こうとしてたし。
だから良かったんじゃないのかなっていう気はするけど、怪獣出しすぎてね。
ちょっとね。
ふわっとしちゃうよね。
渋滞したね。
非常に難しい。だから結局今回ゴジラマイナスワンは完全に子供をターゲットにしてないよねっていう。
そうだね。仮面ライダーでいうとガイムぐらいのやつ。
ちょっとピンとこないんですけどそれは。
すいません。
それは必要というか、そういう思い切りがないと、そもそもゴジラコンテンツは子供に作れるものではないなという。
だってそもそも初代が多分子供向けじゃないもんね。
じゃないからね。それは結局子供に当たっちゃったから。怪獣というものがね。
アイコンとしてね。側だけがヒットしちゃって。で結局その側にばかり注力したから昭和ゴジラは滅びたわけですよ。
だから滅びたっていうね。カカロットの名言的な感じで滅びていったわけなんですけど。
やっぱり結局ゴジラを描くっていうのは厳密にはゴジラを描くんじゃなくて人間を描くっていうことなんだよきっと。
だからその視点で言った時に僕はやっぱりシンゴジラは、ゴジラ映画としては100点満点には程遠い作品だったなというふうに思いますね。正直。
側のゴジラを描いた作品としては素晴らしい作品ではあるけれども。
そう、エンタメとしてね。
だけどそのゴジラの本質的な部分っていうのは、ある意味ちょっと土返しはされてたのかなっていうのかもしれないし、単純に庵野がドラマが嫌いだから、描かなかった説もあるんだけど。
どっちにしてもゴジラって何だろうっていうのを誘導したらダメだし、制作側もゴジラって何だろうっていうようなのを提示しちゃいけないなっていう気がするんですよ。
やっぱゴジラの正体が一体何なのかっていうことがテーマになっちゃってたからね。
だからそれはプロセスであってほしいなという気がするんですよ。
描きたいものがあって、それにゴジラのメタファーっていうものを使っていってほしくて。
このゴジラは一体何なんだろうっていうのをメインテーマに据えてはならぬということだとなんとなく思いました。
なるほど。
マキ教授って誰だったんだろう?みたいな。楽しいんだけど、それは楽しいのよ。
でもそれは、渚薫って一体何だったんだろうっていうのと同じだと思うんですよ。
そうそう。まったく構図が一緒だよね。
そう、構図としては一緒。だからそれはゴジラ映画では厳密にはなかったなという。
ゴジラっていうものを使って、庵野っていう作品を作ったに過ぎないという。
結局ちょっと庵野監督の画が強すぎた。
それをみんなで楽しめたから、それはそれでいいんだけど、ただやっぱりゴジラ映画っていう中で評価をつけていくってなると、僕はやっぱりゴジラマイナスワンの方がゴジラをしているなというところに落ち着きますね。
なんかやっぱり良かったわ。今回ゴジラを通しで見て良かった。
これはね、マイナスワンだけ見てたら絶対に言えなかったと思う。
そうだよね。
想像してごらん?マイナスワン見ようって言って、マイナスワンだけ見て、マイナスワンについて語ってる俺たちの収録。
薄いだろうなー。
何言ってるかね?
いやなんかさーみたいな、最後さーみたいな、四季島がさー降りてきてさー泣いたねーみたいな感じになってるかもしれない。
なんかもうゴジラシリーズじゃなくてゴジラマイナスワンっていう映画しかないのであれば別にそれでいいんだけど、ゴジラという作品を扱うのであればそれはもうペラペラのペラよね。