あなた可愛いね、セックスしようぜみたいなことっていうのはあまりしないけれども、
結局これってインターネット上のマッチングアプリって同じことじゃないのかなとかさ、
その時代に合わせてやり方はちょっと変わってきてるけれども、
今はわりと一昔前のフリーラブみたいなぐらいの範囲と、
60年代の範囲と考えると、60年代の方がもっとヒッピーが流行ってたりとか、
本当に誰でも彼でもっていう時代ももちろんあって、それがちょっと縮小化して、
今マッチングアプリとかそういうのにしてまた拡大化してっていうような時代に来てるから、
このフリーラブみたいなのも、現代では形を変えて生き残ってたりするんじゃないかなとかっていうのがあるし、
あとはよく俺は最高にイケてるみたいなムーブをオースティンは結構かますっていうか、
多分それがスイングみたいな文化だったんだろうけども、
今そのSNSのバエとかいいねみたいな文化っていうのは、これにすごく非常に似てるような、
あんたかっこいいじゃんってお互いに言い合うことで承認欲求を満たしていくスタイルみたいなところとか、
あとオースティンの自信満々な状況っていうのが、今自己肯定感を高めるためのマインドフルネスメソッドみたいな、
すごい流行ってるじゃんとか、あとは何だろうな、写真家でありスパイでもあるみたいな独自の路線を貫いているっていうのがさ、
それこそクリエイターさんだったりインフルエンサーだったりっていう、個人の個性っていうのを武器にするみたいな、
その手の内容っていうのが、意外と現代でもオースティンの1960年代って、意外とマッチするんじゃないかなって。
分からなくもない。分からなくもないというのは、歴史は繰り返していくわけじゃないですか。
面白いことに、今特に中高生あたりに改めてブームとして来ているのがY2Kファッションですね。Y2Kです。
Y2KAB?
Y2Kです。YKKABです。Y2Kはイヤー2000、2000年代のファッション道です。
渋谷マルキューとかがブイブイ言わせた時代の服をあえて着るみたいな。
確かにへそ出しファッション、アムラの見えみたいなの流行ってるもんね。
あとはずっとやり続けていくこととかずっと残り続けていくものって結局定番化したりとかして、クラシック的な良さとかお馴染みだからやっぱりいいよねっていうところに入っていくから、そういう良さもあるって思いたいよね。
でも実はあるから今こういう風になってんだろうなって気はしますよ本当に。
カセットテーププレイヤーがウォークマンですよね要は。がまたちょっと再ブームになってるだとか。
僕もレコードを持ってますけど、レコードに針を落とす気持ちよさだとか、あるいはフィルムカメラもそうですよね。僕は好きでいじりますけど。
やっぱりこうデジタルカメラがある程度使えるレベルになったときにすごいやっぱそっちにロマンを感じたのよ。
デジタルカメラも例明記は全然使い物にならないぐらい画質悪くて。
そうだね、中学校くらいの時はもう全然しょうもなかった。
お話にならない。やっぱりフィルムの方がよっぽど美しかったし。
ただそれがこう段々とね技術レベルとして追いついてきたときにはもうデジタルカメラの方がいいでしょうと。
もうその場でね、もう写りを確認できて何度だって撮り直せるよ。
もうこれって一つのブレイクスルーだよねっていうところへのロマンをものすごい感じて。
実際でもそれはプロの現場ではそっちの方が絶対にいいから。
やっぱりプロの現場では本当にデジタルカメラの一興になっているわけですけれども。
ただじゃあ価値ってそこで決まるかっていうとそういうわけではなくて、
プロの世界じゃなければ個人の世界であればやっぱり魅力に感じる部分っていうのは他にあっていいんだよね。
そうなってきたときにやっぱり今改めてフィルムカメラを触ったときにその機械をいじってるっていう気持ちよさだったりだとか、
その極めてですね、こちら側からアプローチしなければ何も動かないっていう、
この自分に全てが委ねられている感覚だとか、そういういろんな側面に価値を感じて、
やっぱりかっこいいなこれっていうふうに思えるっていうのは、やっぱりどんなものにでもあるんだなっていうのはすごい感じますね。
時代がちょっとずれたりとかさ、価値観がちょっとずれてるからこそ、
もともとの期待値が僕らおじさんたちは低いじゃない。
ってすると、逆にこのゲイン効果を狙いやすくなるっていうのもあるかもしれない。
だから僕らがちょっと活躍したりとか、ちょっといい感じになると、
今の方が優れてる点があるじゃないっていうところを見落としてしまったがゆえに、
余計この時代から取り残されるし、
さらには時代からも受け入れがたくなる存在になってしまうっていうものがあるとすると、
やっぱりあの映画で学んだ教養と、
教養って言ってもなんだろうな、
素人すること自体っていうのがやっぱり一番大事なんだろうね。
まあでもね、僕らキャンディーみたいには逆になろうと思ってもなれないのよ。
それは何でかっていうと、僕らはやっぱりオースティンだから。
なるほど。
農園を持ってないのよ。
オースティンは嫌でも、変わってしまった世の中の波に飲まれざるを得ないから、
時間の問題ですよ、誰に指摘されなくても、いつの間にかあれちょっと俺がずれてるっていうところは気づくはずなんですよ、別に。
魅力的な女の子に言われなくても。
キャンディーは気づけないよね。
だって自分の農園から出ないんだから。
まあそうね。
自分の王国があってね。
最近どっかで見た構図なんですよ。
これ富士テレビですね。
なるほど、確かにキャンディーランドだね。
そうあれキャンディーランドなんですよ、言ってしまえば。
結局時代に、まあ今言いましたよ、言語をする必要はないけど理解はしたよね。
でも理解するためには触れなきゃいけないんですよ、ということだと思うんですよ。
その時代に言語をしてないままですね、その時代と触れ合うことをしなかったら、
そこに理解は生まれないからずっとずれ続けるし、そのずれがですね、時に人を傷つけるわけですよ。
そこだと思うんですよね。
まあその言語をしなくていいとは言いました。
ただやっぱり、時代に合わせられない自分っていうものをどこかで見ないといけない。
そこはやっぱりずっと持っておきたいところですね。
多分時代と自分が合っていないということに気づいてないままずれ続けることはおそらく違うんじゃないのかっていう。
だからまあそこにもやっぱり理解っていうものが欠けてるからなのかなっていう気がするんですよ。
昔ながらの笑い合って当然会っていいと思ってるんです、僕は。
要はそれをですね、互いに押し付け合うことがなければいいんじゃないのかということなんですよ。
というのも僕らだってかつては若者だったわけじゃないですかと。
僕らを笑ってる人たちはいずれね、笑われる側に立つんですよ。
ここがやっぱり年齢っていう対立の非常に残念なところですね。
攻撃した分だけですね、自分に返ってきてしまうということになるわけじゃないですか。
大事なのは世代が違うから分かり合えないんじゃなくて、単にそこは切り離して考えてるから分かり合えないんですよね。
別にちゃんと時系列としてはつながってるわけだから、自分たちの世代に理解できないものっていうものが、
いずれは今度は下の世代から見たら理解できないものっていうふうにどんどん変わっていくわけで、
そのあたりはちゃんと理解しておかないといけないし、そこが理解できたら別に全然住み分けもできれば両立もできるんじゃないのっていう。
気はするんですよね。
そうだね。あと同時に慢心をしないっていうのも大事かなと思った今。
俺分かってるからおじさんにもなっちゃいけないなって思った。
理解があるふりをして自己妄想の世界に入っちゃうと、
リアリティのない自分の時代の合わせ方になって、それはそれでずれが生じるよねって。
本当にそれはそうだと思うね。
例えば一人二人の若者と話をして、若者文化を知った気になるのもすげー怖くねっていう気がするんですよ。
特に今みたいにいろんな方向に人々の興味関心が伸びている時代に、一人二人の現地を取ったからといって、それが社会的なムーブメントだと思うのは非常に怖いよねっていう。
僕すごいそれを感じるんですよね。
若者たちの文化って確かにね、僕らの時代とは大きく変わったと思うし、
派用化してるのは確かなんだけれども、実際の根っこのところはやっぱり若者には若者らしさっていうものがやっぱりまだ生きていて、
僕らの時代に見られた嫌なところっていうのはやっぱりね、少なからず絶対に残ってると思うんだよね。
今の子たちはこうだからこういう僕らの悩みは分かってもらえないというか、むしろ分からなくていいし清らかになったねみたいなふうに思う人いるかもしれないけど、
それって多分ただやっぱり理解してない、見てないだけだとは思うんだよ。
そのあたりも結構よく考えていかないといけないよねっていうのをすげえ感じてて。
そうなんだよね。結局フィールドが広がった分隠し場所が増えちゃったっていう結果でもあるから、
例えば僕らの時代ってメールがちょうど始まったぐらい。
携帯が個人が携帯を所持するっていうのがちょうど始まったぐらいだから、
仲間外れに仕方っていうのが変わった時代なんだよね。
いつも普通に学校で話していても、メールで別のフィールドがあるとか、
あるいはそのミクシーのグループをあいつ抜きで作ってるっていうのがちょうど始まって、
それまでは学校という見えるフィールドで仲間外れがあったんだけれども、
それがインターネット上で仲間外れっていうのがスタートして、
今もっと僕らはそういうイメージだけれども、もっと別の場所に今隠されてるかもしれないし。
攻撃の仕方が増えたっていう。
だから僕らよりも前の世代なんかは結局、ちょっと嫌だなって思う人に、
何かしら攻撃したいと思っても、消しゴムのカード使ったくらいで怒るなよみたいなことを言うぐらいしか方法がなかったわけじゃないですか。
お前の天井、お前んちの天井低いなみたいな。
そういうのでちょっと攻撃をするみたいなぐらいしか嫌なことをできなかったんだけれども、
今は例えば、本垢ではフォローしてるけどサブ垢ではフォローしないということによって相手にダメージを与えるみたいな。
全然フカワリオンのネタにもならないような、
どっか威力を要する攻撃とかもできるようになっちゃってるわけで。
これってだから表に見えてないだけで、全然僕らの時代と本質的なところ何も変わってないよねっていう。
そうなんだよね。あるいは僕らが攻撃をしていると認識できてないっていう。
だから別にサブ垢は面倒くさかったら登録してないんじゃない?ぐらいにしか僕は思わないけれども、
多分本人たちからするとフォローしてる、フォローされてるっていうのの重要度が全然変わってくるんだよね。
意味があるね、そこね。
そうそうそうそう。だから全然変わってきちゃうから。
逆にこれ今ちょっと因出な面でも言ったけれども、これプラスの面でも多分同じだったと思うんだよね。
例えばYouTubeがどうのとか推しがどうのとかっていうきらびやかな面とかプラスの行動の面っていうところでも、
多分ちょっと一昔前っていうのと今っていうのも楽しみ方の変遷っていうところもあるから、
俺らにとってはなんだよこんな陰気なことやっててってちょっと見えちゃうものっていうのも、
今の時代からするといやそれがいい楽しみ方だよねとかっていうのも全然見えてきたりもするだろうから、
やっぱりその価値観の押し付け合いだったりとか、無理解じゃないな、
理解しようとしないで自分の価値基準にだけ当てはめるっていうことが一番危険なんだろうね。
上手な生き方って何かって言ったら、やっぱり価値観をうまく使い分けることなのかなって気がして、
例えばだから若い世代が楽しいと思えないことをおじさん世代が楽しむ方法を知ってたりだとか、逆もまたあるわけじゃない。
っていうふうに考えると、自分では気づけなかったことっていうのがその世代差によって気づけるっていうふうなケースは、
別に仕事を教える教わるとかじゃないレベルでいくらでもあるわけじゃない。
例えば多分、ザリガニ釣りの面白さを知らないまま大人になってるやついっぱいいると思うんですよ。
わかんないけどね、インタビューしてないから。でもそれって僕らは知ってることだよねっていう。
逆にだからSNSでバズる快感っていうものを、多分僕らはあんまり知らないというか。
多分意味が違ってると思うんだよね。
10件ぐらいしかいいねついたことないもん。
だから別にそれででっとしか思わないけど、それに対してものすごい落ち込む人たちもやっぱりいるはずだしっていう。
そこらへんのマインドの持ち方って、もっと気楽になっていいんだよっていう。
こういうふうにこんなスタンスでいれば全然気楽だよみたいなのも提示できたら嬉しくなれるかもしれないっていう。
だから自分が気持ちよく生きるためには、いろんな価値観を自分の中に持っておいてもいいのかもねっていうところもあるのかなという気はしますね。
ちょっと話戻していきますけれども、実は1時間超えてるんでね。
マジで?
そうなんですよ。
とりあえず僕はやっぱり今回まとめるとですね、コンプラとの付き合い方ですね。
お前ら前に習いしすぎてないかっていう。
コンプラコンプラで芸能人叩きとかもすごい加速してる気がしていて。
下手したらオリンピックの結果に対して選手を罵倒するみたいな人たちも中にいるみたいで。
それも結局表だったところで人を攻撃できなくなったから、
元来持ってるその人の鬱屈した攻撃性っていうものがネットを介して他の人に向いてるってだけで、
時代は変わっても人間って変わってねえなっていうのを僕は日々感じてるんですよね。
だからなんかすごいいびつなものにすごく見えるし。
なおかつ物を作っていく時とか、物を表現していく人たちっていうのが、
そういうところでどんどん失われていくっていうのは非常に残念だなというふうに思ったりはするんですよね。
法を犯してたらそれ裁かれて叱るべきだと思いますけれども。
でも裁かれた後は当然社会復帰してくれないと困るわけですし。
逆に当事者間の争いである民事裁判で何癖つけんのも変だしとか、
いろいろ感じちゃったりするんですけど。
いろんな笑いがあっていいし、いろんな価値観があっていい。
ただそれを楽しめない人たちがそれを享受しなければいいじゃないという。
そこはきれいに墨分けをしてあげれば余計な圧力も生まないでしょうし。
いろんな枠組みがあるからこそ、その枠組みを破壊する笑いが生まれるんじゃないのかっていう気もするんですよね。
だから全てを一つの枠組みへと変形させていくんじゃなくて、
いろんな価値観という枠組みがある中でその一つ一つをお互いにくさしたりして、
ぶっ壊して笑えたらそれが楽しいなという気がします。
だから合わせる必要はない。ただ理解はしちゃおうと。
理解した上でくさして笑うんだったらそれって気持ちいいじゃないっていう。
多分それができてる作品がオースティン・パワーズだったんじゃないのかという気がしてます。
なるほどね。
僕は何だろうな、価値基準自体は己になくてもいいんだけれども、
価値基準のエビデンスを外部に求めちゃいけないのかなって思った。
これがいいよね、あれがいいよねっていうところを、いろんな人の意見を聞くっていうのは素晴らしい。
結局マクジャンの言ってることと一緒なのかもしれないけれども、
いろんな価値基準に触れるっていうこと自体に抵抗しちゃいけないし、
触れていくこと自体が学びになるっていうことはあるんだろうけども、
そこに最終的な決定を下す自分なりの根拠となる部分っていう、
この判断の部分、価値の判断の最終決定権っていうところは
己の基準っていうものと合わせて考えていくっていうのが大事になってくるのかな。
だから、やっぱりどっか核を持っていないとフラフラするだけでもいけないよねっていう、
そこのどこにマイルストーンを置くのかなっていう、そこがあって
いろんな価値に触れるっていうことが大事になってくるかなと思った。
最終的な判断は自分でっていうのは、ある意味では行動すべての責任を自分が持つということにもなりますから、
そこはやっぱり手綱を渡したくないよねっていう気はしますね。
今の時代はこうだから自分の価値観をもっと変えていかないとねみたいな。
言いますけど、僕も一応スタンスで言うことはあるけど全く思ってないけどね。
正直。ポジション的に言いますけど、価値観をアップデートしていかなきゃねみたいな。
言うけどそんな気さらさらないよ正直。
求められる場面においては相手に合わせるけど、時代に自分を合わせるってのはちょっとどうなんだとか、ちょっと思っちゃいますね。
もちろん根本的なところでは人に迷惑をかけない。ここだけはしっかり趣旨をしてあげれば、
根っこのところでは自分は自分を生きるっていうところを別に変える必要はないなっていう気がしてます。