🌵その後風車小屋は街のみんなから火つけられて多分死んだねみたいな感じになるんですね
🌵でなんかねもう一個面白かったのは怪物が脱走した後女の子と知り合うんですよ
🌵ちっちゃい女の子ねでちっちゃい女の子があなた何誰に何してんのみたいなこっちで遊びましょうって言って
🌵で女の子が花を摘んでてその花をポイって湖に投げるんですよ
🖥あーマジ花摘みね 🌵お花摘みね普通の花摘みね虫っ子じゃなくて
🖥はいはいはい 🌵花摘んでピーってやってそれが湖に浮かぶと
🌵で怪物がそれ見てうわぁ面白いみたいな感じのリアクションで自分も一緒に花投げるんですよ
🌵そしたら花が湖に浮かんでお二人してわははははってやるんですけど
🌵そしたら怪物が思ってた花がなくなっちゃってそしたら何を思ったかわかんないけど怪物は花の代わりに女の子投げて溺死させるっていう
🌵なんかこう何その知能が追いついてなくて起きてしまった悲劇みたいな悲しい描写をしたいのかもしれないんだけれども
🌵あの前後の描写が雑すぎてなんか 🖥ギャグでしかないな 🌵ギャグでしかないし
🌵なんかこうこの話をどっちに持って行きたいんだろうがわからないわけね
🌵あとは印象的だったのは本来は健康な脳みそをこの怪物に詰めるはずだったんだけれども
🌵フリッツっていう人が間違えて健康な脳を落として壊しちゃったから代わりに犯罪者の脳を借りて持ってきた
🌵でその脳を入れられたから邪悪になっちゃったみたいな
🖥あー 🌵だから完全に現代の犯罪心理学とは全然違うアプローチで
🌵当時のいわゆるその変な話優先しそうじゃないけれども悪いことする人は悪い脳の状態にあるみたいな
🌵なんかこういわゆる骨葬学とかさそういう方向性の思想も結構入っていてだいぶ時代を感じる表現とありましたね
🌵結論から言うと悪趣味なものを覗き見る喜びみたいなものを本当にエンタメとしてのホラーを作ったっていう感じの印象でしたね
🖥あー 🌵それが結局この作品というかフランケンシュタインのいわゆるビジュアル面の
🌵アイコンを作った作品として3000とこの映画史に残っている中でギレル・モデルトルが一体何をしたのかって言ったら全然違うよねっていう
🖥いやーヒューマンドラマですからね 🌵ちゃんとヒューマンドラマだし
🌵しかもそれが原作小説のテイストをしっかり守りながら一方で3時間という尺の中に収めるために
🌵いくつか登場人物の生鮮をしたり背景を書き換えたりする中で物語の展開をきれいにまとめつつ
🌵現代的なテーマに落とし込んだなっていうところで結構感心しましたよという話です
🖥いやー今回の映画は素直にめちゃめちゃ面白かったっすよ 🌵面白かったよね
🖥本気で面白かったびっくりしちゃった 🌵今急に君の声が小さくなったんだけど大丈夫かな
🌵え、なんで?そんなに小さくなってる? 🌵分かんない、ちょっとマイクから離れた?
🌵いや離れてない、ちょっとゲインを少し上げるねじゃあ こんなもんでどう? 🌵そうそうそんな感じ
🌵なんだろうね 🌵じゃあちょっとジャブしていこうか
🖥はい 🌵じゃあどうぞ 🌵一個いいですか?
🖥フランケンシュタインが着ると服も強くなる説 🌵それはインクレディブルハルクに言わなきゃダメなやつです
🖥これね同じようなところで言うとドラゴンボールも同じ説があるんですよ 🌵そうなんですよね
🖥特に下半身、ドラゴンボールに関しては 🌵特にチンコね
🖥ははは 🌵そこだけは絶対破けないんだよね
🖥破けないね 🌵だからあれはさ、軽装体みたいなさ機能なんじゃない?
🖥だってみんな強そうじゃんハルクも悟空もクリーチャーも 🌵そうだね
🖥やっぱり完全に封印するためにそれなりの強度作られてるんじゃないですか?強度と伸縮率と耐熱性みたいな 🌵そうだね
🖥まださ街頭が燃え切らないって残るのはまだわかるのよ 胸の前でさダイナマイトを仕込んでたわけじゃない?
🖥悟空はせめて前は爆散するんじゃない?って 🌵そうねそうならないんですよね
🖥しかも彼の指の強度どうなってるのってちょっと思ったけどね 🌵指すごいよね
🖥あれもう一回生えてきたとしか思えないぐらいじゃん 🌵だからやっぱもう一回生えてきたんでしょ
🖥もう一回生えてきたのか?もう一回生えてくるとするとさあいつ永久効くんだよね 🌵もう一回生えてきたのか?もう一回生えてくるとするとさあいつ永久効くんだよね
🖥そこも今回のデルトロの改編だよね 不死の怪物ではなかったはずだから 🌵いやだからそうなんだって
🖥うんうんうん 🌵それを不死の怪物っていう形に置き換えることで
🖥はいはいはい 🌵怪物の絶望みたいなものをより大きなものにしたみたいなところがあるのかなって気はしますけどね
これはちょっと投影はしてなかったけれども
兄弟間の露骨な格差があったりとかあるいはそのお母さんの喪失があったっていうところで
セーフティーっていう安全基地がなくなってしまったっていうところがさらに重なっていくことで
ビクター自身も愛された方だったりとかケアのされ方っていうところも
あとは人との健康な関係の作り方っていうところも知らないまま大人になってしまったと
そんな人間が創造主として親になったらどうなるかっていうと
どういうふうに育てていいかわからないから自分の父親がしたのと同じような方法で教育しようとする結果
虐待の連鎖が生まれると
そこを丁寧に丁寧に描いてくれたなと
これはもう心理的によく言われてることなんだけれども
非虐待児っていうところがケアがしっかりされなかった場合
加害者側に回ることがよくあるっていうことがやっぱり言われていて
その愛着形成の歪みだったりとか他者を信じられないとか自分を否定していくとか
あとは自分の情動感情のコントロールがなかなか難しいとか
あるいはこの支配をしていけば安心するっていうような学習をしていくっていうことが起こったりとか
いうことでその連鎖が生まれていくし
このケアがされないからこそ怪物が怪物を生んでさらに怪物を生んでっていうところの連鎖が生まれていくっていうところがある
だからその虐待っていうものに関わるときに
僕らはどうしてもその虐待をされた子供側に目を向けがちなんだけれども
実は先に同時にその虐待をした側もケアしていくっていうことがすごく大事なんだなっていうところが
この映画からすごくよく見て取れると
なんでこのフランケンシュタインっていうところを今この虐待の目線っていうところでリメイクしたのかなっていうところをちょっと考えてみたんだけれども
やっぱり世界的に今虐待の件数っていうのは過去最多になっていて
しかも孤児の育児だったりとか産後打つだったりとか
親のメンタルっていうものもどんどん脆弱になってるよっていうところも言われている
だからある意味このビクター的な汚名っていうのは今珍しくもなくなってきてしまっている状況もあったりとか
それはさ俺ちょっと見方違ってそれは顕在化してきただけっていうか見える数字に多分なってきただけでいじめの認知件数増量と同じだと思うんだよね
昔は何かある意味そういうのが閉じた家庭の中であるいはもう社会全体がそれが子育てだと思っていた地域もあったから
今そういうところがいやそれって問題なんだよそれって子供にとってすごいストレスだよねそれによって子供の人格形成ってかなり阻害されるよねみたいな話がちゃんと表立ってされるようになってきたっていうことだと思う
だからなんかこう今の方が昔と比べて増えてきたっていうよりはちゃんと認知されるようになってきたって言った方が語弊が少ないんじゃないかなって気がするわ
確かにね可視化されたっていうだけだなそうだね確かにそれはその通りだわ
で続き言うとこだっけ
あれどこまで言ったっけまあいいやまとめちゃおう
ビクター自身がまとめるとビクターは虐待をする親である以前に非虐待児であったと
で怪物は非虐待児の発達過程の宿図みたいなところを丁寧に描かれている
ケアがなければ虐待を連鎖して誰でも怪物になることが発生する
だからこのネットフリックス版ていうのはその怪物映画としての怪物をただ描きたいんじゃなくって
虐待というもの自身の物語っていうものを紡いでいたんじゃないかなと
だからその怪物は生まれた瞬間から怪物だったんじゃなくて怪物にされてしまってるんだよ
でそれをどう捉えますかっていうところがこの映画として描かれているところ
なのではないかなと考えましたというところで最後に一言なんですけども
前にも言ったと思うんですけれども虐待の通報チャンネルっていうものがありまして
110とか119と同じように189という番号を皆さん必ず覚えて
ポッドキャストでは皆さん189をちゃんと知ってるよっていうのを
全国5000万人のリスナーの方々は覚えましょう189
一早く
はい
ね
一早くです
いやあの
ビンゴですね
僕はもう絶対にオウマはこれで来るなって思ってました
っていうかそれだけなんていうのかな本当にギレルモデルトロは明らかにこれを
もうメインテーマに組み込んでいるというかむしろそれを描きたくてこれ書いてるっていう節はあるねっていう
ぐらい
ど真ん中だったよね
本当にど真ん中で描いてきてこの作品は誰がどう見ても誰がどう見てもね
怪物が悪い奴だなんて思うようには描かれてないわけですよ
まして下手したら怪物はなんていうのかないてはいけないものだとも言ってない
やっぱり死の象徴に見えていた父を超えること
父殺しをすることへの執着としてのイメージが
そこにあったんじゃないのかなっていうふうに思います
そんななんか視点でビクターを見てみると
ビクターのイメージカラーも結局黒なんだよね
常日頃から黒じゃないですか
でも手袋だけは赤いんですよ
たしかに
ここにそのビクターの二面性っていうものがまさにそこに詰まっていて
その生命を作り出すっていうことを目的としている彼の手が赤色であるっていうのは
生に焦がれる彼の思いっていうのが
その手袋に現れているのかなっていうふうに思うんだけれども
結局彼自身はというと明らかに父と重なるようなパーソナリティを確立してしまっていて
だからそのビクターの揺らぎのある二面性ね
生命を作り出すっていうふうにそこにエネルギーを持ってるんだけれども
その実結局死を克服するっていう死に対する意識の方が
明らかに強くなってしまっているような彼のその何ていうのかな
矛盾じゃないけれどもその表裏一体の二面性っていうものがその色彩で表されているんじゃないのかなっていうふうに思いました
この辺もやっぱりこう色をどうやって配置していくのかっていうところのこだわりを感じさせるようなポイントでしたね
重要なのは彼にとってのクリーチャーっていうのがやっぱりあくまで道具に過ぎなくて
彼にとってはそのクリーチャーを生み出すっていうことは彼が死を超越し
すなわち神を超越しさらに言えばその神を超越する彼にとっての神っていうのはこの母を奪った父だから
父を超越したっていう勲章に過ぎないんだよね
だから結局彼は決してクリーチャーに名前をつけないんだよ
で創世紀ではアダムがその動物たちにこれは何と呼ばれるっていうの名を与えていくんだよね
あれ
あ、帰ってきた
そう創世紀ではアダムが動物に名を与えるんだけれども
やっぱり名をつけるっていう行為はその他者と関係を結ぶことだったりあるいは責任を引き受けることにもやっぱり繋がると思うんだけれども
ヴィクターは決して名を与えないんだよね
だから彼はその結局父になることを拒否してる
父が彼に求め続けていた知性っていうものはクリーチャーが持たないわけだから
彼からしたらその勲章っていうのは不十分で
だから彼のその自分の被造物であるクリーチャーに対する愛情っていうものが結局憎しみに転化していく
生み出した直後はものすごい興奮しているのに一瞬で興味を失っていくその過程っていうのは
まさにクリーチャーをただの勲章としてしか見ていないところにあるのかなっていうふうに思うんですけれども
まあ聖書においても神って人間を生み落としつつも何かっていうと責め苦を与えているので
ある意味その神の無慈悲さみたいな部分が結局その神を超えようとしていたはずの
ヴィクターがその再演をしてしまっているっていうところの皮肉が効いているのかなっていう気がしました
対してクリーチャー目線に第二幕から変わっていくんだけれども
まさに彼の憎しみの原点は救いのない世界に生み落とされたことへの憎しみなわけですよね
それって結局さっきもオーマンも言ってたけど
ヴィクターがかつて抱いた神への反抗心とも結局合致してしまうんだよね
ヴィクターは結局救われぬ自分の手で救われぬものを生み出すっていうものすごい大きな過失を犯してしまうんだけれども
一方で彼は流れ着いた先の彼はっていうのはクリーチャーね
クリーチャーは流れ着いた先の山小屋で一つのものを手にするわけですよ
これは信仰なんですよね
老人との話の中でわかるんだけれども彼らが読んでるのは旧約聖書です
明らかに旧約聖書を読んでいて
中でもですね、失落園も読んでるわけですよね
だから結局彼が反慮の必要性みたいなものをヴィクターに訴え出るのも
彼が結局パラダイスロストを読んだことによって神が人が一人でいるのは良くないと言って
アダムにイーブを与えるわけなんだけれども
支え合う相手がいなければ僕は人間になれないんだっていうのを
すごく理解するっていうのは
これ彼が信仰を手にしたからっていうふうに見ることができるのかなっていうふうに思うんですね
そういうことだったのか
あそこはね完全に信仰の獲得を描いているっていうふうに
読んでいいのかなっていうふうに僕は思いました
でなければ読んだ本の内容をそれとわかるようにですね
セリフに組み込まないだろうというふうに思っています
だからクリーチャーは善人だったんだけれども
善人こそが悩み苦しむっていうのはですね
聖書の世界の人間像で当たり前なので
そのあたりもですね非常に聖書を思わせるような展開だったなっていうふうに思いました
対してエリザベスはどうなのかなっていうふうに思うと
彼女は生命に対する徹底的な肯定的な関わり方
神秘を神秘としてたとぶみたいなそういう姿勢を持って
科学っていうものをその対話なんていうか
自然とのコミュニケーションツールとして扱うような女性なんだけれども
ある種彼女こそがですね
ビクターが唯一世界とまともに繋がる最後の手がかりだったんじゃないのかなっていうふうに思うんですが
結局彼は自分の狂気的なですね
死の克服という目的を優先することで彼女とたもとわかってしまったわけだ
ものすごい本音と建前が混在しているような社会だと思うんです
それで言うと特にこの許すという行為っていうものは向こうのキリスト教権においてはめちゃくちゃ重要な行為だから
あの許し合うということを仮にそれが建前だったとしても
あそこで互いに確認し合う行為によって今我々は人間になったってヴィクターとクリーチャーが確認し合うわけですよね
クリーチャーがそこで今私たちは人間になったんだっていう言葉は
まさにクリーチャーが信仰によって自らを救ったっていうことを少なくともクリーチャーは信仰を手にしたから
彼を許すという行為を通して自分も人間なんだっていうアイデンティティの獲得をそこで成し得たんだよね信仰の存在によってっていう
またヴィクターも結局生きる糧を失ってもう最後の生きる糧はそのクリーチャーを殺すっていうことだけだったんだけれども
クリーチャーを許すまあ彼の場合は犯した罪の方が何倍も大きいけれども
けれどもそのクリーチャーの存在を許す存在を許すっていう行為を通して
自らの犯した罪もまた許されるっていうふうな構造を得て安心して死んでいくことができたという
本作は当然さっき大間が言ったような虐待の再生産っていう悲劇
そこに対する課題意識っていうものを社会に向けてバーンと打ち立てるような作品ではあるんだけれども
そこにキリスト教的な価値基準においての信仰を獲得することによって我々は人として人と関係を結び直すことができる
憎しみ合いの中から許しというものを得て改めて関係を結び直すっていう
その超越的な判断ができるようになるんだっていうふうなところを描いてるんじゃないのかと
ただ一方でねデルトロはやっぱり不死のものを描くっていう点においてはピノキオもそうだったと思うんだけれども
その不死の生命っていうものが持つ孤独永久に続く孤独っていうものを
ドーンと作品の中心に置くことによってよりその失われる命の悲しみっていうものを
コントラスト強めて訴えてくるっていうふうな構造は多分好きでやってるんだろうと思うんだけれども
それは見事に機能してるなというふうには思いましたが
なんかこう理不尽に満たされているこの世の中において時に我々は互いに憎しみ合うんだけれども
許し合うことで初めて我々は人間でいられるんじゃないのかっていうそのキリスト教的な
最も重要な許しっていうものを最後の最後に持ってくることで訴えてるんじゃないのかなというふうに思ったということでございます
なるほどね
いやなんかね面白かったですよだから
多重構造みたいな話をしましたけれども
さっきオウマが言ったようにそもそも虐待という意味においても多重構造になってるんだよね