彼をじゃあ狂人としてね、本当に解釈して飲み込んでいいのかなっていうふうに考えたときに、
だとしたらこの作品の前段は一体何になるんだろうかみたいなことを考えると、
ちょっとようわからなくなってくるんですね。
やっぱり大事なのはその一本筋が通ってるのは川っていう話をさっきしましたけど、
やっぱりその川の中で起きる出来事っていうのは一つ一つは独立していて、
で、川を通して繋がってると思うんですけど、
やっぱり川って上流にことの発端があるわけですから、
一番上流で出会うカーツとの出来事っていうものと、
ここらで起きてる様々な出来事っていうのは何かしらで一本繋がってた方が気持ちいいだろうなというふうに僕は思って、
だとしたらこの辺かなっていうふうにちょっと思ってみたいんですよ。
でね、特に僕が注目したのが主人公のモノローグなんですけど、
川を上がっていく最中にいろんな出来事が起きるんですけど、
その最中にウィラードは軍本部からもらった様々な資料を読み込んでいて、
それがいちいち差し挟まれるんですよね、ちょいちょい。
カーツもとにかく経歴を見る限りエリート中のエリートで、
こいつが一体なんでこんなことするのかわかんねえみたいなことも言ってたりするんですけど、
僕が特に気になったのがですね、
そもそもカーツが罪に問われた、殺人罪みたいなことを軍から言い渡される理由が、
ベトナム人スパイを二重スパイ容疑で独断で4人処刑したということが罪に問われていると。
ところがそもそも彼がその処刑を独断で行った理由としては、
彼の大尉に対する襲撃がちょいちょいあったみたいなんだよね。
二重スパイ容疑でベトナム人4人を殺した後からは襲撃はピタリとやんだ。
彼は正しい4人を殺したのだっていうのを主人公がモノローグで言うんですよ。
はい。
これめちゃくちゃ大事なことじゃないのかなって僕は思っていて、
ちょっとそこに迫りたいんですけど、
今日はですね、だから前半で描かれていく様々な軍蔵劇的な色々な出来事と、
カーツがやったその4人の殺害という罪、そして辿り着いたカーツ王国の情景辺りを通して、
カーツは一体何がしたかったんじゃっていうことをちょっと僕なりの解釈で見ていきたいんですね。
じゃあまず一つ目ですけど、
とにかく本作はベトナム戦争って中身なくね?みたいなことを言いたいんじゃないのかなと思ってるんですね。
元よりベトナム戦争自体はアメリカ国内においても、戦争中においてもですね、
非常に反戦運動が起こるぐらいには結構問題に問われた戦争であって、
なおかつアメリカが唯一敗戦した戦争とも呼ばれている。
さらには戦争中に使った枯れ葉剤がその後にですね、
重篤な健康被害をもたらすことにもなり、かなり国際的な非難も集めたような戦争なんですけれども、
本作においてはその戦争の中で行われている様々な出来事を通して、
ベトナム戦争の中身の無さっていうものを可視化していったんじゃないかなっていうふうに思っています。
そもそもこのウィラードが一番初め川を上流するにあたって協力を要請する相手がキルゴアさんですね。
キルゴアがまず結構ぶっ飛んだ人物でしたよね。
サーフィン命だったね。
そうなんですよ。サーフィンが好きでサーフィンしたいから襲撃してるみたいな。
もはやそんなレベルなんですよね。
彼は一応建前みたいなことは言うけれども、結局のところサーフィンに適した砂浜を手に入れるために村を襲撃してるようなものなんですよ。
むしろそれしかないよね。
果たしてそれってどうなんっていう。でもそれが現実なんですよね。
結局彼らがやってることっていうのは、現地人を殺していく上で、非常に有名なのがですね、
ワーグナーの曲が流れる中での、あれは本当に地獄の木食を象徴するような音楽になってますけれども、
それを流して連中を震え上がらせるんだぜみたいな。
結局やってることっていうものが大義に従ったものではなくて、
単純に殺戮を何とも思わない、殺戮するために殺戮をしている。
そのうちそれがサーフィンという娯楽のために殺戮をしているみたいなことにどんどんすり替わっていってしまってる現状があるのではないのかと。
結局兵士たちもその爆撃をゲーム感覚で楽しんでいるような節もありますし、
プレイミートの描写も同じだなっていうふうに思ってます。
結局プレイミートが来たあの描写もさ、
いるかいらないか言ったら別になくてもいいようなシーンなんだけれども、
やっぱりわざわざ差し込まれて、なおかつウィラードがひたすら空虚な顔で兵士たちを見てるんですよ。
あいつも兵士なのに。
一体何が空虚なのか。
結局ウィラードが今回は作品の中での狂言回しみたいな感じで、
観客の代わりになってくれてるような感じじゃないですか。
一貫して彼がベトナム戦争をただ見つめていくっていう風な流れなんですけれども、
暴力が目的化し、拘束や秩序っていうものが崩壊して、
そこにいる人たちは自らの暴力でもって周りを傷つけながら自分自身も精神を削られ崩壊していくっていう、
全く中身がないのにただただ互いを傷つけ合っているっていう、
ベトナム戦争の姿っていうものが描かれていたんじゃないのかというふうに思ったわけですね。
で、最終的にカーツの元にたどり着いていくわけなんだけれども、
カーツって一体どんな人物だったのかっていうふうに考えてみると、
とにかくエリート中のエリートで経歴を見たら、
もう本当にありえないぐらい軍の本当にどう考えてもこれからの軍を率いていくのは彼だったんじゃないのかって言われるような人物であると。
火の付け所のないような経歴を持った人物らしいぞと。
だからちゃんと頭はいい人だったはずなわけですよね。
で、裏を返せば軍ってやっぱりその規律を非常に意識するような場だから、
結局そういった組織で認められたエリート中のエリートっていうことは、
彼はただ頭がいいだけじゃなくて秩序だったり規律っていうものに対して極めてロイヤリティを持ったというか忠誠心を持った人物だったであろうことがそこから見えてくるわけだよね。
だとしたら彼が二重スパイ容疑でベトナム人4人を自己判断で処刑したとき、それは狂気だったのかどうかっていうふうに言うと、それは狂気ではなかったはずだと思うんですね。
つまりは一体何なのかっていうと、カーツが行ったその判断っていうものは、
軍の利益のためであればどんなに非常な手段であってもそれを取らなければならない。
そしてそれを判断するのは責任を持っている自分の立場であるっていうふうな判断だったんじゃないのかと。
ところが一方で結局その行動っていうものが軍からしたら都合が悪くなったら、それは殺人罪として彼をチャージしてしまうわけですよね。
この時にカーツが一体何を感じたのかっていうことを考えたいんですよ。
結局戦争の本質は殺戮に過ぎないわけですよね。
そうだね。
結局は。
さらにそういった中で軍っていうものは規律だったりっていうものを非常に重視するような組織であるわけじゃないですか。
そういった中で軍に求められた成果を得るためにした行動っていうものが、いきなり殺人だというふうに手のひらを返される。
要請に応えたはずなのにいきなり手を切られるっていうふうなこの出来事っていうのはカーツにとっては決して受け入れられるものではなかったんじゃないのかと。
で、カーツがちょうど中心にいたと。
だからウィラードっていうのが、
自分の国がやった過ちを自分で処理をするみたいな、
自分のケツを自分で拭いたみたいな、
その皮肉な構造になっているなっていう。
で、最終的にこのザ・ホラーっていうところで言うと、
暴力の本質だったりとか人間の闇だったりとか、
あるいは文明というものそのものの欺瞞みたいな、
っていうところを指しているんだろうなっていうところは何となく指した。
で、アクション映画は平気なのに、
戦争映画はダメな理由っていうところにちょっと入っていくんだけれども、
これはちょっと完全に僕個人の感覚になっていくんですけれども、
なんか暴力が参照している現実が違うからなのかなっていうふうに思ったんですね。
で、アクション映画の暴力っていうのは非常に極度に記号化されていて、
善と悪がはっきりしているっていうのと、
その中間地点の話っていうのがあんまりないから、
漫画的、ファンタジー的、だからランボーでも、
ブラックホークダウンでも構造的にアンパンマンと一緒なんですよ。
だからどっち側に立つかっていう目線をはっきりさせてくれるから、
自分が必ず勝利側に立てるから気持ちよくなれるっていう、
今自分で言っててすごく自己嫌悪なんだけど、
気持ちよくなりたいがために見れる、すごく娯楽になっているっていうところ。
でも戦争映画の暴力で僕が嫌なところってさっきもちらっと言ってたけれども、
その歴史的な事実である、現実であるっていうところと、
実際に否認が必ず出ていると。
あとは政治的な暴力っていうものをどうしても参照しちゃうよ。
だからそういう偶和的なものではなくて、現実だよねと。
だからアクション映画って娯楽だけで見れるんだけれども、
戦争映画っていうのは現実の痛みっていうものを想像してしまう。
だからこの何を見ているのかっていうところが、
自己認識してしまうからこそ、戦争映画って僕嫌なんだろうなっていうのを感じたわけね。
事故の矛盾なんですけども、
この暴力性に対するリアリティを拒否することっていうのが、
一見すると、戦争そのものに対する反対だよとかっていうような、
すごく倫理的な話のように見えるんだけど、態度だったりとかに見えるんだけれども、
結局その戦争の美化に巻き込まれたくないとか、
他者の痛みっていうものをゴーラックスとして消費したくないみたいな、
気持ちは確かにあるんだけれども、
同時に暴力っていうものを自分の範囲外に置いてるだけなんじゃないか、
目を逸らしてるだけなんじゃないかっていう自問も湧いてくるわけさ。
だから安全な場所から戦争映画という痛みの象徴を回避して、
その回避は結局暴力っていう現実から距離を取るっていう行動でもあると。
だから自分の中の倫理性と、あと逃避性っていうのが同時に存在しちゃう。
となると、この矛盾はどちらも僕の中に成立しちゃっている以上、
どっちかを起因していれば解決するわけじゃなくて、
これって矛盾として自分の中で持ち続けていいのかな、どうなのかな、
っていうところがよくわかんなくなっちゃったっていうところがあるね。
でも、地獄の目視力が面白かったというよりからは、
興味深く見ることができたのが、この自己矛盾っていうものを
無理やり方向づけすることなく、その矛盾をそのまま悩み続ける姿勢だったりとか、
何なんだろうなっていうところを可視化してくれた作品だから、
スルッと見れたのかなと思ったね。
最終的な話になっていくんだけれども、
暴力の表装に対して僕があんまり感じていることっていうところがあるんだけど、
すごく個人的な感覚なので、
なべさんが同じような気持ちを持っているとも思わないし、
まこちゃんが同じような感覚を持っているかとも限らないけれども、
ある意味大なり小なりやると普遍的な問題でもあるんじゃないかなと思ってて。
で、暴力を避けるっていうのは一見倫理的なんだけれども、逃避にもなり得る。
これも矛盾して見えるけれども、実は僕という個人の中ではどちらも自分になっている。
だから、戦争映画を見る見ないっていうような選択の奥の方の中に、
自分の倫理観に対する恐れだったりとか、
社会に対する、ある意味距離を取りたいみたいな自分のアイデンティティのありようっていうことが
見えてきたのかもしれないなと。
基本的に俺は人と関わりたくないんじゃないかなっていうところまで見えてきちゃって。
でもそこがなんでかなっていうと、
自分の自己選択っていうものによって自分が害されたくない以上に、
暴力に巻き込まれたくないであったりとか、外に置きたくないと同時に、
人と関わってみたいみたいな、そこの矛盾なんだよね。
この映画を見て、いろいろ感じ取ることとか、
そういうことがあるんだろうなっていう、