それを今回4作見た結論ですね、私の一番初めに言いたい感想としては、きつかったです。
僕が見たかったって言って見たんですけど、僕もきつかったです。
いやあのね、ノスタルチーで乗り切れるのは2時間までです。
そうですね。1作目まではまだ見れたんだよ。
ただもう2作目に行く気力がその時点で残ってなかったんだよね。
そうね。僕多分10年前ぐらいに同じことやってんすよ、自分勝手に一人で。
Amazonプライムで見つけたときに、えー学校の階段見えるみたいな感じで1作目から見始めて。
正直4作目の途中でもう疲れちゃったんですよね。
今回は一応約束だったんで最後まで握ったんですけど、やっぱり同じく2,3あたりでだいぶしんどくなってきたんですけど。
そういう中でも一応この作品は当時の小学生たちには強く受け入れられてヒットしていたわけですから、
一体何がそんなに刺さったのかみたいなことを考えていくのも大事かなというふうに思うんですよね。
前回、次回に向けてのというところで軽く触れたんですけど、
一応看板となったキャラクターとしてテケテケがいますよね。
いましたね。
あれは、
何ですか?
今見ると、何がそんなにっていう。
しかもさ、ちょっとなんかあの、ごめん、あの、なんだ、その、もう1作目見終わったあたりからさ、
もうこれちょっとやめたいなって半ば思いながらもう僕も見てたんだけどさ、
テケテケのさ、おふざけワンシーンみたいなのがさ、ちょいちょい挟まれるじゃないですか。
あのたんびに地味にイラッとするっていうね。
いやわかる。わかるのよ。
あのね、でもね、小学生ぐらいの感性だったらアハハハってなるのかもしれないんだけど、
早く次行けよってなっちゃうんだよね。
それがね、たぶん大人の残念なところなんだと僕は思うんですけど、
でもそれにしてもですね、あのちょっともう3で、
まあテケテケのなんか友達みたいなやつ出てきたじゃないですか。
なんだっけ、シャカシャカみたいな。
シャカシャカみたいなね、なんか変な名前のやつ出てきましたけど、
あれもね、なんか露骨ですよね。
露骨ですね。
とりあえず看板キャラもう1匹増やしてみようみたいな。
もうあの、ターボジジイとかさジェットババアみたいな。
そうそうそうそう、ついになるキャラ出してみましたみたいな。
でももともとのテケテケのさ、知り、あのその、
都市伝説的には、階段の都市伝説的にはなんだっけ。
上半身しかないんだっけ。
えっと、夜教室行くと、1人子供が机の上に突っ伏して寝てるんですよ。
はいはいはいはい。
どうしたの?みたいな風に声かけると、下半身はないんですよ。
あ、そうか、上半身だけなんだ。
そう、上半身だけで、まあ遠くから見ると座ってるように見えるから。
で、上半身だけで追いかけてくる。
何がどうテケテケなのか、歩く音なの。
テケテケテケって歩くの。
ちょっとかわいいじゃん。
ね。
っていうまあそんな感じの階段だった気がしますけど、テケテケので。
まあ、全然関係ないですよね。
普通になんか謎の妖怪みたいな感じ。
ただのクリーチャー、しかもちょっとゴーストバスターズっぽかったよね。
そうね。映像技術的にはもう完全にそれそのものだったけど、スライミーと同じですね。
完全に同じだったよね。
あとちょっとね、スクリームを見て、今回のやつを見てね。
僕らを一つね、学んだんですよ。
なんすか。
今回の映画で、誰一人として子供たちが死ぬことはありえないと。
いうことを僕らはもう事前に分かっちゃったんですよ。
ルールナンバーワンに定食しないんですよ。
ルールナンバーツーにも定食しない。
そうですね。
もうやるとしたら、ルールナンバーワンが絶対にセックスをしてはいけない。
ルールナンバーツー、酒やドラッグをやってはいけない。
ルールナンバースリー、すぐ戻ると行ってはいけない。
その辺はちょっと危険ですね。
危険ですね。
けども、ワン、ツーを定食してないから、こいつらは生き残るであろうと。
もう見始めた段階から分かるという、ちょっと安心して見れるホラーですよ。
そうですね。
夏休みの小学生向けの映画で、小学生死んだらちょっとさすがに大人的に笑いますけどね。
嘘だろってなるよ、それは。
何やっちゃってるのってなるけどね。
いやー、なんかね、とりあえずだから、正直だからもう本当に見ていて、後半はかなりきつかったんで。
オウマのことを軽く恨み始めてた節があるんですよ。
一体何を持ってね、そんなに見せたがってたのかなっていうのが、改めて分からなかったんで。
改めてもう一回言ってもらっていいですか。何でこれにしたんですか。
なんかホラーって聞いてさ、アマプラでホラーかーって言って見てたときに、学校の階段あると思って、うわ懐かしい以上です。
やっぱそこだよね。本当にノスタルジーって人の目を曇らせるよね。
それ以上でもそれ以下でもなかったよね。
本当に。本当に。
どんだけスクリームを見てさ、やっぱり考察するとかって楽しいよねとかって言っておきながらよ。
言って、そうだよね、やっぱりこういうのやんなきゃこのポッドキャスト面白くないよねとかって言っておきながらよ。
これ一体何のことかっていうと、いわゆる校内の学校の諸問題っていうものに結構フォーカスが当てられた時代でもあるんですよ。
で、言うならば校内暴力だったり、あるいはいじめの増加みたいなものが、結構メディアによって取り上げられ始めたような時代なんですよね。
ちなみにですね、2年後、1997年ですから学校の階段3が公開されたあたりでは、坂木原生徒事件もありましたよね。
いわゆるですね、学校内でいろんな問題諸問題が起きていく。で、大人が子供を管理するみたいなものが当たり前にできてきたというふうに思っていた大人たちにとって、
それがですね、そうもいかなくなってきたぞっていうことに気づき始めた時代。
これも変な話で、正直昔はむしろ学校が子供なんてほぼ管理してないんですよ。みんな自由にやってきてるんですから。
それが総管理、もう全部管理するような抑圧的なね、暴力と暴言によって抑圧されるような学校環境っていうものがですね、
問題が大きくなるほどどんどんエスカレートしていって、どんどん抑圧的な空間に学校が変わっていったような時代でもあるんですけれども、
その辺考えるとですね、やっぱりどこに行っても閉塞感っていうものがものすごくあるわけですよ。
そんな中でですね、子供たちがわからない、大人から見たときに子供たちが別の生き物に見えるみたいな、
今の子供たちが何考えてるかわからない、若者の考えることなんてわからないみたいなふうに思い始めてしまった時期もここなんじゃないのかなっていうふうに思ってるんですね。
っていうふうに考えると、この作品って結構素敵なことをやっていて、それは一体何かっていうと、
大人たちにとって自分たちの心のふるさとである学校像としての木造校舎に、今の子供たちを迷い込ませるっていう。
これはその舞台の中で今の子供たちが冒険することによって、大人たちは今の子供たちに感情移入するわけですよ。
なぜなら、なぜそれができるかっていうと、舞台が木造校舎なわけですよ。
ああそうそう、こうなってた、こうなってたみたいなところで、いつの間にか童子に帰ると。
その童子に帰った時にそこで活躍している子供たちに自分を重ねてしまうわけだ。
っていうふうになると、あら不思議って感じですよね。
その大人と子供との間に引かれていた線っていうものが、いつの間にかポーンとこう超えられてしまって、
なんかこう同じ目線で会談を楽しんでいくみたいな、そんな構図が生まれるんじゃないのかと。
さらにそこで展開されるのは、本当に純真な子供たちのですね、等身大のしょうもない喧嘩とか、
あるいはちょっと甘酸っぱい恋とか、そういうさ、
あの頃の子供なりの真剣さみたいなものが、一応展開として描かれていくわけですよね。
それに触れることによって、一つですね、その閉塞した社会の中で、
まあ世の中どんどん良くなくなっているんじゃないのかっていう社会不安の中に自分身を置いている大人たち、
そして自分一人の力じゃそんなことに何も変えられるわけないっていう無力感みたいなものに、
ずっとこう、なんていうかな、晒され続けている大人たちが、
まあこのジュブナイル映画の中でですね、木造校舎を入り口にして子供たちと目線を揃えることによって、
まあなんかちょっとしたカタルシスというか、カタルシスじゃないな、ちょっとしたこう開放感みたいなものを抱いてですね、
ちょっと心現れたんじゃないのかな、みたいな、そんな思いを抱いたんですよね。
なんかそういうふうに考えていくとですね、結構じゃあ大人たちが子供の中にこうさ入っていくんだとしたら、
じゃあ作品の中の大人たちはどう描かれているのかっていうのがやっぱり気になってくるわけですよ。
そうですね。
そうするとね、やっぱりね、大人ってね、掃除でね、かやの外なんですよね。
確かにね。
そう、本当にいないって言ってもいいぐらい、第1作においても大人たち一応いるんだけど、
あくまで子供たちが主役で、大人たちっていうのは本当にこう、まあ言うなれば無力ですよね。
で、第1作の中で一応頼りになったのは、担任の先生みたいな人なんだけれども、
彼は学校の先生は別にもう辞めるみたいな、別になんかこう、やる気がないわけでもないんだけれども、
別にそこにものすごい情熱を持っているわけでもなく、なんかフラリフラリとしているような、
そんな担任教師みたいな感じで、まあ頼りない存在として描かれているわけだけれども、
彼が子供たちと一緒に冒険していく中でですね、徐々に頼れる男へと成長していくわけだ。
あれはもうなんてことなくですね、子供として描かれてるんですよ。
そうですよね。
そう、あれはもう大人じゃない、つまり大人になりきれてない、あくまでね、子供のような大人、
いわゆるアダルトチルドレン的な感じで描かれていて、
だからそういう視点で言うと、あの作品にはやっぱり大人ってほぼいないんですよね。
で、その展開というか、その傾向が2になったらものすごい強まって、
マジで大人いないって感じになってくるんですよね。
で、唯一頼れるのが、あの泥棒っていう存在なわけですよ。
1と2の役者さん一緒だよね。
一緒です。一緒だけど、一緒だけど関係ないです。
関係ない。
関係ないです、はい。
で、その泥棒、なんで泥棒なのかなっていうふうに僕もいろいろ考えたんですけど、
やっぱりこう、いわゆる大人っていうものを持ち込みたくなかったんだろうなと思って。
だから本当にこうさ、発言力があって子供たちをまとめ上げてみたいな存在を入れてしまうと、
結局本当に自由な子供の気持ちで見ることができなくなってしまう。
大人ってやっぱり大人の世界で生きてるから、大人を見たくないんだよね。
そうっていうふうに考えると、第2作目においてその泥棒っていうものが一応キーパーソンとしてね、
唯一の物語にちゃんと影響を与える大人として扱われたのは、
その社会から妻弾かれていて、何の責任も持たない、
いわゆるなんていうのかな、大人の世界で生きられない大人なわけだから、
そこに大人を見なくて済むんですよ。
なるほど。
っていうふうに考えると、やっぱり第2作目においても大人は不在なんだなっていうふうに感じるわけですよね。
第3作はやっぱり監督が違うので、ちょっとやっぱり描き方が違ったなっていうふうには思いました。
いわゆる就職氷河期が本格化するような時代でですね、
証券会社が倒産したりだとか、そういったことが起きたような時代らしいです。
何より坂木原生徒の事件みたいなものも起きたりして、
非常にですね、人間が人間として生育していくことって、
つまりどういうことなのかみたいなものにみんなが不安を抱き始めたようなところだったりするのかもしれないですね。
若年層の暴力化みたいなものがものすごく言われた時代でもあって、
その辺も結局印象に過ぎないんだけれども、実際のところ犯罪率は下がってるからね。
でも一方で、そういう象徴的な事件が多発したことによって、
みんなが若者って怖いみたいなふうな気持ちをより強化していった時代に出されたこの第3作目なんですけれども。
3作目はですね、大人が結構活躍するんですよね。
そうだね。先生が戦う。
谷野先生がすごい頑張るんですけど、
しかも谷野先生が結構、運命に身を任せるなみたいなことを言い始めるんですね。
ちゃんと教師やってるんだよね。
運命じゃなくて、自分で切り開いていくんだよみたいなことを言い始めるんですけど、
これが結構すごい、大きくやっぱり描かれ方が変わったなっていう。
監督が変わったから当たり前なんだけど、そういう感じたところで。
1も2もどっちかっていうと、いわゆる運命の中で抗えないからこそ創作の中で自由になりたい大人っていうものが描かれてた気がするね。
そういう大人のために描かれた作品だと思ったんだけど。
3作目ではむしろ、社会、世の中の変容ってどうしようもないからもう傍観するしかないよねっていうふうな、
いわゆる社会に対する無力感みたいなものに対して、通列に批判してくるんだよね、担任教師が。
耳が痛いんですけど。
でもそれをやって何がしたかったのかなっていうふうに思ったときに、
3作目においてはものすごく強調されて描かれる怪異がいて、のっぺら坊なんですよね。
のっぺら坊なんか別にそんなに怖い怪異でもないなっていうふうに思ってるんだけど、やたらと登場回数が多くて。
これ一体何なんだろうなと思いながら見てたら、顔をよこせみたいなことを言いながら襲ってくるという。
あの辺はすごく多分監督はどうしてもやりたくてあれを入れたんだろうなって僕はなんとなく思いまして、
いずれも出てくるのっぺら坊が全員大人なんですよ。
子供ののっぺら坊出てこないですよね。全員大人なんです。
子供たちから見たときに自分たちを庇護してくれるはずの保護者である両親。
そして世の中の秩序を守るおまわりさんっていう、いずれも社会を管理する者たちなんですね。
子供たちによっての社会という家庭というのは子供たちにとっての社会なんですよ。
その管轄、その統括者である両親、そして社会全体の統括者というか監視者あるいは統治というか、
秩序を守るおまわりっていうものが両方とものっぺら坊になって顔をよこせって言ってくるっていうのは、
非常にメタファーが効いてるんじゃないのかなというふうに思うんですね。
じゃあ一体どんなメタファーなのかって言ったら、やっぱり確立化された大人像っていうものを僕はそこに感じるわけですよ。
いわゆるそこに孤難というものがなくて、ただやっぱりこうでなくてはならない、こうあるべきだみたいな、
いわゆるその社会の中での通説みたいなもの、あるいは規律規則みたいなものに縛られて、
全くもって本質を見ようとしなくなってしまった大人っていうものをそこに描いたんじゃないのかと。
だとすると、この3の中で子供たちが抱いている居場所の無さみたいなものも、
言うならば本当に自分を見てくれていないんじゃないのかみたいな、あくまでいろんなものに照らし合わせて自分を見てるだけなんじゃないのか、
みたいなそういう落ち着かなさっていうものがあそこに現れてるんじゃないのかなみたいなことも感じまして。
って考えると3はどっちかっていうと、やっぱり監督が変わったこともあって、むしろ大人たちに対して結構強いメッセージを送ってる気がして、
このままじゃあかんよねと、もう君たちがちゃんと世の中変えていかないと子供たちに示しはつかないよと。
運命は自分たちで切り開きなさいっていうのは、担任教師から子供に言われる言葉なんだけれども、それはそのまま大人に返ってくる言葉でもあるんだよね。
今まさに社会を支えてるのは自分たちなんだから、自分たちがこの社会変えていかないと子供たちに示しはつかないでしょと。
あんたらこのままただ言われたことをやり続けてんのと、それじゃあなたたちのっぺら棒になるだけじゃんじゃないのっていう。
個性も失って、顔を失っていくわけだよと。
それじゃ子供たち、あなたのところにいたいなんて思わないよねっていうふうな、そんな強いメッセージを3においては大人たちにぶつけてるんじゃないかと。
共通しているのはいずれもやっぱり大人たちをしっかりターゲットにしているっていうことなんじゃないかなっていうふうに思うんですね。
そして4作目なんですよ。
ここなんですけど、難しいですね。
あのね、4作目を今回ね、入れるべきか入れないべきかをね、僕かなり迷ってて。
それはね、すっごい思うの。
同じ名前の別のシリーズ作品です、これは。
そうですね、それは本当にそう思いました。
でもまあ、1,2,3は、いわゆる学校の階段シリーズ、文庫の学校の階段シリーズのヒットを受けて作られたものなんですけれども。
4に関しては、まあちょっとこう3で工業収入が落ちたっていうものもあって、
まあ、なんかしなきゃいけない、てこ入れしなきゃいけないっていう意識を働いての制作だったことは確かだと思うんですね。
で、その上でまあ、第4作目が公開されていく、制作公開されていくんだけれども、
やっぱり明らかにガラリと変わっていて、
ここまでですね、一応こう結構コンスタントに出てきたですね、花子さんとテケテケが出てこないですね。
そうなんだよね。
ここはめちゃくちゃ大きく転換したところで、1,2,3では全くストーリーに本質的に何の関わりも持たない、
ただのマスコットキャラクターとしての花子さんとテケテケっていうのが出てくるんですよ。
で、こいつらはマジでストーリーに対して重要な役割を一切持っていなくて、
花子さんはなんとなく微笑んでる感じの笑い声とカットが出てくるぐらいで、
でって言うみたいな。
しかもラストの方にワンカット挟んで、こいつが全てを握っていると匂わせて、次も何も出てこなくて、
で、最後にまた匂わされて、次こそと思ったら何も出てこなくて、
みたいな。
4になって、ついに出てこなくなったという。
出てこなくなったという。
だからもう4に関してはいよいよですね、本当にコンテンツで物を語ろうというふうにしてるんですよね。
いわゆる側の部分はもうどうでもいいと、真剣に作品を作ろうと。
学校の階段とは言いますけれども、単純にですね、一つの作品を作ったのが4なんですよね。
ただの階段です。
そうです。
ただこれが思った以上にしっかりしていて、それ故に夏休みジブライル映画としてはあまり機能しなかったのかもしれない。
いやそうなんだよね。
そう。だからもう4はいよいよ大人向けになっちゃってるんだよ、本当に。
唯一ガチ目のホラー。
ガチ目のホラーで、しかもガチ目に普通に楽しかったのよ。
だから4のおかげで僕は救われたんですね。
1,2,3は結構しんどかったんですけど、4で変わったなと、これは。
児童を性的に見ているとか、そういうことではないです。
大事なことですか?
そこの目線で言われると大変なことになるんですよ。
あくまで小学生の真相真理としての性の意識であるということであって、
大人目線の大人が見るアダルトビデオとはまた全く別物のことを話そうっていうことを、
強く強く先に言ってから。
そうですね。これ大事なことですから。
大事なことです。なのでちょっと言っておこうと。
うち健全な番組ですから。
健全な番組なので。
私が性を取り上げるときは、社会学的な視点や心理学的な視点から語ることが多いので、
あくまでそういう切り口だということを確認した上でお願いします。
これを聞いておおっと思ったロリコンとかペドフィリアンの方に関しては、
ブラウザーバックしていただいて構いません。
このホラー映画は95年から99年の学校の怪談シリーズなんですけども、
1、2まではかなりヒットしたっていう、さっきまこちゃんの話があって、
3からちょっと下がっていったっていうところもあるんですけども、
このホラーっていうものが、その怖さとして描かれている者たちっていうのが、
子どもにとって何だったんだろうって、何のメタファーとして捉えられたのかなっていうところが、
僕すごくちょっと気になったところだったんですね。
で、結論から言ってしまうと、その正体っていうのがこの性、
この性っていうのは、いわゆる性交渉としての性っていうよりかは、
性別の性であったりとか、差がという意味での性だったりとかっていう意味での性ですね。
その性の予感だったりとか、身体とか心の変化っていうことに対する、
違和感のスタートっていうことがあって、
そういう身体的心理的変化っていうのが、しばしば子どもたちの間では、
この快不快が区別できない、もやもや感として捉えられることが結構多いんですね。
だから、今回のホラーで怖いなっていう感情として見てた者たちっていうのが、
自分の身体、心理におけるそのもやもや感のメタファーになってたんではないかと、
いうところが今回の僕の説です。
ホラーと性っていうのが、いろんなところでね、
心理学的にも結構結びつくっていうものがあって、
フロイトなんかは、リビドーの欲圧と快とか不快の転倒、恐怖みたいなところが、
欲望の欲圧されたものとか、真相心理の奥に深まっているものっていうものが
裏がった形っていうことで、リビドーとしての欲望が出てくるっていうような。
あとは、見ちゃいけないものとかいうところっていうのが、
この近畿を犯すことっていうことが、
怖いけれどもそれと同時な快感みたいなふうに言われていると。
で、そういうふうに見てみると、やっぱりこの、
まこちゃんもちょっと前に言ってたけども、
ホラー映画にセックスって欠かせないよねみたいなことを多分言ってたじゃない。
そうですね。
そう。っていうのも多分大人向けに作られたのですら、
生と死みたいなところの循環みたいなところを描くと同時に、
多分このフロイト的な思想みたいなところから、
生をちょっと描いているのかなと思ったんですよね。
で、子どもの心理と発達っていうところを事前知識として入れておくと、
エリクソンっていうと小学校高学年とか、あるいは中学年から高学年、
で、中学校に入ってのすぐぐらいっていうのがこの性別がどうなるかとか、
身体の変化があるとか、あるいは他者との違いみたいなところを意識し始める時期で、
でもそれっていうのは男性女性とかあるいはセックスっていう意味の性とかではなくて、
なんか違うぞ、なんか変だぞみたいな形の本当にちょっとした違和感みたいな形で
少しずつ出てくるよというところ。で、そういうのっていうのがどこで出てくるかっていうと、
やっぱり学校という公的な場。で、今回、学校は公的な場であるとともに、
夜っていう自分たちが行かない時間で、トイレとか保健室とか鏡とかっていうような、
自分が行かない時の学校の側面みたいなところが、ある意味、
自分の知らない自分の性の感情だったりとか心理だったりっていうところが、
舞台装置となっていくんじゃないかなっていうところ。
だから男女の身体的心理的揺らぎみたいな直面した少年少女たちの不安だったりとか、
その揺らぎみたいなところっていうところが、この無意識に揺さぶりをかけていったんじゃないかなと。
で、じゃあ、どの作品でどういうふうに描かれているのかっていうと、
まずトイレの花子さん。
はい。
結局、何としてもあんまりストーリーには全然絡んでこないんですけれども、
非常にこれが一番象徴的だなと思ったんですけれども、
排泄と周知が行われる場所っていうところがトイレじゃないですか。
だからやっぱり身体的な感覚の場所っていうところっていうのもメタファーになっているから、
そのトイレっていうのは、普通に排泄でいつも行く場所、不条な場としても捉えられるし、