1. シゴクリラジオ!
  2. アイデアは遊びに宿る
2025-04-10 49:45

アイデアは遊びに宿る

spotify apple_podcasts

---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/618b94773db982af52639b7a

サマリー

アイデアは行動を通じて生まれるというテーマにおいて、インプットや思考過程の重要性が語られています。また、アイデアを出そうとすると逆に出にくくなることや、評価の曖昧さについても触れられています。アイデア出しは単なる思いつきではなく、学びや技術としてのスキルであると強調されています。ネタを集めることや、そこから加工・編集を行うことの重要性が語られ、実践的なアイデア出しの流れが示されています。アイデアは遊びによって発展し、楽しむことが重要であると提唱されています。リスナーは遊びを重視することで、創造性や自己表現を促進でき、そのプロセスが様々なアイデアを生む基盤になると説明されています。アイデアを生み出すためには遊びや経験が重要であり、成功のためには学びと実践を重ねる必要があると語られています。

アイデアの出し方
シゴクリラジオ
こんばんは。
シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
今回ですね、アイデア系ですかね。
アイデアですね、どうやって出るかという話をしたいと思います。
テーマとしてはですね、何かをやっている。
それを動かしたりする、試すとかね、そういうことですが、
何かやっているとアイデアが出てきますよね、みたいな。
そんな話です。
気楽に聞いてもらえればいいかなと思います。
今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、シゴクリラジオの大橋です。
今回のテーマはですね、アイデアは何かしていると、他事とかで言った方がいいですかね、出てきます。
というわけで、その話をしていきたいと思います。
普段からですね、アイデアを出したり発想したり企画したり考えたりしている方であれば、
わりと常識と言いますか、普通のことのような気がしますが、そうではない方ですよね。
実はあなたの立場とか仕事とかね、普段やっていることにはよるんですが、
アイデアどうやって出るの?みたいな。どうやって出しているの?みたいな。
そういうことって思われるんじゃないのかなということを想定して話してみたいと思います。
なのでアイデアがね、アイデア出し得意ですとか企画よく考えてますっていうね、
人はラジオをね、閉じてください。
新しいパターンです。すぐ閉じて別のことやってください。
もちろんね、いやいやいや、そういう考え方聞きたいよっていうね、
強く思われる方はぜひ聞いてください。一緒に考えましょう。
というかおさらいしましょうみたいな。
アイデアってどうやって出すかって言ったら、何度も話してますが、何度も何度も言ってくるんですが、
まずアイデアの材料、原材料が要ります。インプットと呼ばれます。
インプットはですね、誰かと話してもいいし、ニュース見るでもいいし、なんか気づくでもいいし、思い出してもいいしね、
どっか旅行するでもいいし、何でもいいですけど、体験とか経験が、全てというとおかしいですが、
がまず必要です。原材料が要るということですね。
そしたらですね、そもそも何をしたいとか何が求められているかとか、
そういうね、今まさにそれがあるテーマですよね。
考えたいこととかね、やらなきゃいけないこととか、やってみたいこと、
そういういわゆる自律的というかですね、自らもしくは求められてやりたいことがある、
そういうテーマを持ってくる、で考えるということですね。
インプットして考える、それを思考と言ってますが、考えましょうと。
最後にそれがですね、ひらめきということで、アウトプットということでアイディアが最後に出てくる。
要はですね、原材料、お菓子とか料理と一緒で原材料があって、カレーみたいなものですね。
ジャガイモじゃないけどね、ニンジンとか肉とか入れていただいて、カレー粉なりルーなり何でもいいですが、
それを調理して思考していくと。最後にカレーというアイディアで形にしたものができると。
形にするしないは置いておいて、アイディアというものにまずしないといけないんですが、
その形にする手前のところでアイディアも原材料があって、それをいろいろ調理して、レシピじゃないけど手順を踏んでやると出てくる。
ただ、レシピ、カレーと違うのは、カレーってほぼほぼ狙ったカレーを作れますよね。
チキンカレーだったらチキンカレーとか。要はチキンカレー作っているのに野菜カレーになるってあまりないじゃないですか。
でも、アイディアの場合ってチキンカレーを作ろうとしてて野菜カレーになることはまあまああるというかよくあるし、
あと必ずチキンカレーができるかはわかんなくて、チキンカレーなんだけどチキンは選べないとか、
やり方に再現性はほぼほぼあるんだけど、原材料を持ってきて考えて出す。これはもう再現性はありますし、そこはもう信じてものしかない。
ただやり方とかハマるかどうかは人次第で、細かいところは人次第で調整する。
あと、必ず考えたらからアイディアが出てくる。アイディアの性質上ってことですけど、
良いアイデアの評価
チキンカレー作りたいってわかってないからなんでかカレー作りたいとかしてて、どういうカレーを作るかって時にチキンカレーっていうのが出てくる。
これがアイディアなんですよね。ここではね。でも最初にチキンカレーっていうのが出てなくて、鶏とか肉とかなんか食べたいとか、なんかないかなみたいなの探ってたりするとかいうところが思考に近いですよね。
インプットしたり思考です。伝わってますか。
アイディアって到達したところで一旦もう解消されるので、到達したいものがあればいいですけど、でもそれはわからないっていう状態がまさに発想とか想像なんですよね。
このあたりがですね、論理的にだけで考えている方はなかなかいないと思うんですが、論理的なものが強い人は非常に不得意なんだろうなとは思います。
いつも恒例ですが、ペンがあるんですが、このペン何にするかって言った時に楽器にしようと。毎回楽器にしませんか。
カチャカチャです。カチャカチャ楽器じゃなくてもいいんですけど、例えば5回鳴らしたらテーマを変えるみたいな。
カチャカチャって言ってテーマ変えるみたいなね。テーマ変えないですけど、そういうふうに今やっていることを変えるという合図というかきっかけ、ベルのようなものですよね。
みたいにも使えるわけです。ペンがね。ノック式ペンが。ボールペンが。
ということがわかっていただけるというか、でもそれは意図していなかった。
でもこのカチカチカチで何かできないかみたいなのがまさに今の切り替えるということにつながると。
そういうアイディアですよね。というのを今生み出したということです。
これを要は予定調和というふうにあらかじめ計画して何かやっていてできるものではないということです。
ただこれはもう言い方次第で全く何も決めてないという状況じゃなくて、何か出ないかなとか出てくるんじゃないかなという期待があってもいいし、そこはもう状況とか人次第なんですよね。
ここでこの現時点で今何が言いたいかというと、要はやり方というのはほぼあるんだけど、そのやり方でアイディアが必ず出る、もしくは決まっているというわけじゃないということなんですよね。
アイディアが出ることは出るんだけど、その期間を保証することはできなくて、ただあとはもう人次第。
例えばですが、小説家の作家さんがいて、その人が必ず1ヶ月に1本本を書けるかというときついと思うんですよね。新作ですよ。わからないです。
だから創作の時間は必要なんですよ。ただその創作していってどれくらいネタが集まって、いわゆる直線的に右肩上がりで決まったペースで、もちろんペースとして執筆活動はペースを維持した方がいいと思うんですが、アイディアにはムラがあるんじゃないかなと思っていて、
毎日1個のアイディアを仮に出して、毎日原稿用紙10枚とかわかりませんが、書いていったときに原稿用紙10枚って4千字ですね。
それが必ず質が均一でアイディアも均一でトントンで作られているかというと、多分それはないと思っています。
物語のムラというかその工程もあるし、その気分とかもあると思うんですよね。ただそのアウトプットとしては4千字、1アイディアもわかりませんが、やっているというところなんですよね。
要は量というか量的もしくはサイクルというか合理的な部分では、ある程度統一されているような気がする。もしくは統一されている。
だけど中の質ですよね。部分は結構ムラがあったり差事加減というか、人によって変わるんじゃないかなというところがまずわかるというか、そんなもんかなというところです。
今回のテーマというかお話ししたいところで言えば、前みたいな話になるんですけど、アイディアを出そうとすると多分出ないんですよ。
わかります?アイディアを出そうとすると出ない。だから何かいいアイディアないかなって言っていると、もしくは何かいいアイディアないですかっていう問いかけってあんまりいい問いかけじゃないですよね。
ついつい使いがちですし、僕も使っている。何かいいアイディアないですかって言うと、こちらはアイディアがない、あなたが考えてほしい、こちらは考えないよということを案に入っているようなものでもあるんですよね。
そこまで思ってない人もいると思いますけど、結果そうなるような気がします。か、そういう雰囲気になる。
じゃなくて、こんなアイディア考えたんだけど、じゃあここから膨らませられませんかとかの方が丁寧な気がしますし、相手も考えやすい気がしますけど、リスナーのあなたはどうお感じですかね。
いいアイディアなんてわかんないんですよ。わかりますよ。ご飯を食べに行って、おいしい料理を食べたいわけで、まずい料理を持ってきてくださいとは思わないわけですよね。だから意味がない言葉でもあるんですよ。いいアイディアっていうのはね。
わかりますか。アイディアが出てきてそれに対していいかどうかっていうのは評価する、もしくは言えるけど、最初にいいアイディアなんていうものはないわけですね。料理も一緒ですね。
美味しくなかったら、そこそこの料理ももちろんありますが、満たすものでなかったら、料理としてお金を取って食べるってことには満たしてなかったらダメなんでしょうけど、そもそも美味しいも状況によって変わるし、いいアイディアの用意も変わるし、期待値次第で変わっちゃうわけですよね。
そういったときの良い良さって不定形で決まってないので、良いアイディアもそうですけど、いい料理とか美味しい料理とかもそうですが、主観だよねってことをすごい意識してもらってアイディアって考えていこうがいいんだよなと思ったりします。
だからこそ、出そうとすると出ないっていうのは、特にいいアイディアを出そうっていうふうに、もし立案のあなたが考えていらっしゃる、もしくはそういう状況があるときって、大抵いいアイディアって出ないんですよ。だっていいアイディアなんてないんだからって話です。
これ二重の意味で出ないっていうのは、まずさっき言ったように良いっていうのが曖昧であると。良いっていうのは何だってことですよ。哲学をしたいわけじゃないんですが、でも哲学しなきゃいけなくてですね、良いアイディアっていう問いかけがまず良いってことがわからないのにできないわけですね。
じゃあ悪いアイディアは何?逆の方向を考えてもいいですよね。ここで今言っている悪いアイディアって何ですか?それがすらすら出てきたらそれを逆転させればいいですよね。慣れてなかったらそうやってやるしかないです。良い悪いもないんだけどっていうふうに考えられるようになったらもう閉めたものというか、そこから考えていけばいいですよね。
アイデアの本質
もう一個アイディア自体を出そうとすると出ないっていうのがあるので、アイディアって言っているのは何なんですか?分かりますか?意見なのか工夫なのか問題解決なのか。
レターはほとんどいただいてないですが、何かご相談というのがあった時に話を聞いて欲しいだけっていうパターンありますよね。どちらかしかないですよね。話を聞いて欲しいだけなのか、解決が欲しいのか。
実際に解決が欲しいっていうのは、相談する側からすると言いづらい部分もあるわけじゃないですか。実際に解決したいんだけど、解決に至らない手前のところ、もしくは相手と話を共有して話を聞いてもらうことでだいぶ変わっていくってことがあるわけです。まさにそれが壁打ちって言ったりするんですか、僕も。
それがなくして解決がないから、解決の前にまず話を聞いてくれるっていうことがあるんじゃないかなっていうふうには、それが自然かなと思います。
そういったときに話を聞いてくれるだけでいいというのも一つの価値。話を聞くのも価値ですよね。そこに解決策を入れるのもさらに価値という感じもしますが、そういうふうに具体的なアドバイス、アイディアを期待せず聞くっていうのが一つの価値になることもありますよね。
そんな感じで、ちょっとわかりづらいかもしれませんが、アイディア自体が何かっていうことがわりと明確じゃないとよくわかんなくなるわけです。
ここが非常に難しいというかわかりづらいところで、そんな良くわからない、良い悪いもよくわからないし、どういうアイディアが良いかというか出したいかも見えない。
もしくはアイディアを出そうとすると出せないから、何もわからないとは言いませんが、正直よくわからないということが、アイディアを考えたり規約を考えるということが苦手な人はそういう世界にいるし、そういうふうに世の中を見ているし社会を見ているし物事を見ているんじゃないかなという話でもあるんですよね。
というかそうなんじゃないかなという推測です。
アイディアを出そうとすると出ないというのにアイディア出しとかやってるじゃないですかというふうに言われると思うんですけど、僕はそうなんです。
この場合アイディアを出そうというよりも、これは学びとかアイディアを出すというのは技術でありスキルであるというふうに断定というか決めてるんで、断言したほうが良くないな、そういうふうに思ってますよということですね僕は。
なので型があるんです。そのイメージのコツということでいくと、アイディアを出そうというふうなのが初学者とか初心者の方の感覚でだとすると、でもそれはアイディアを出すと言わないと何するかわからないからそういうふうに使っているということはまずご理解いただいて、
ネタを集めるというのが僕の実践的な感覚です。このテーマでちょっと考えようというときに、テーマとかでもいいですが、結局それは何をやるかといったらネタを集めるんですよ。
ネタというのは何かというと、気づいたこととか違和感とかニュースで見たものとか、これ使えそうだなっていう話すネタを集めてくるというのがアイディアに近い。
実際にそのネタはアイディアかそのものか、すなわちポッドキャストのこの番組の話すネタとして適切かどうかっていうのをいきなりどこかにそういうネタがあって、あ、これシゴクリラジオでしゃべれるアイディアだよね、ネタもいいでしょうね。
話の種ということですよね、ネタ。話題だよねということになるかというと、そのまま使えるものが落ちているというのはないです。これがよくあるアイディアがどこかに落ちているとか、そのまま使えるものがないという話です。
ごめんなさい、よくあるというのは落ちていると言われてますが、それはネタをそういうふうに扱える人が言う言葉なんですね。扱えないとかないと思う人はないんです。ないので、だからどういうことかというと、実際ないんです。
ないんだけど、それをネタを見て加工したり編集したり組み合わせていくということで、そういう種を拾ってくるというか、ネタを集めてくるイメージでアイディア出しというのはやってますし、そういうものです。
もう一度ちょっとくどいんですが、もう一回整理すると、アイディアそのものというのがどこか解決策があって、ものがあるわけじゃない。成功事例とかもそうです。事例でもそれは成功した事例であって固定化されているので、インプットして知識として入れるというか、そういうのがあるんだねぐらいの扱いで捉えるなら全然アリです。
ネタの集め方
それは一部でしかないので、そういうのもあるかなぐらいの風に捉えないと多分偏っているか、もしくはネタがうまく探せていない状況なのかなと思います。いわゆる切り口とか視点があまり広くない、偏っているという状況。
そのものがないので、使えそうかなというネタを集めます。使えそうかなというぐらいのネタを集めます。当然ですが、このネタを集めて、ポッドキャストであればポッドキャストのトークのネタに使えるかどうかは吟味しなきゃいけないわけです。吟味というのは使えるかな、どうなんだろうというのを考えるわけですね。
この時、いろいろ注意点がある。結局、なかなかこの回で全部喋ることができないかもしれませんが、一応そこは頑張ってみると、持ってきたものをそのまま使うじゃないですよ。持ってきたものを加工しなきゃいけないです。編集加工というやつです。編集加工というのはどういうことかというと、結局インプット、思考アウトプットというアイデア出しの流れでいくと、思考の部分ですね。
問いかけたり、これはどういうことなんだろうかということを調べたり、関連付けたり、紐付けたり、連想を組み合わせたり、前に知っていたこれに関係するんじゃないかみたいなこととかですよね。本当そんな話です。そんなものです。だから思考が絶対に入るんですね。
問いかけとか何もない。そのままネタを持ってきただけ、右から左に流すだけというのも全くないわけじゃないんですが、調べてるからね。ただその調べてて、それを何も思わずにそのままというのはあんまりないような気がします。少なくともそこで考える、思考するということは、そのネタをどういうふうに捉えたかがないと、それを考えたことにはならない。
大学生とかでレポートを出すときに、今だとチャットGPTもしくはAIで問いかけてそれを出したというのがあるわけですよね。できるから。でもそれって考えてないですよね。
AIに問いかけて出させたというだけなら、それはやってないですよね。ポイントはそのレポートとアウトプットが欲しいのではないんですよね。大学とかの話でいくとね。教育機関ではね。
それを出させることで考えさせて、その人が考えたという仮定とかを見たいわけです。考えてるかを見たい。だけど、その人のビデオカメラつけてログ撮って、考えてるかなみたいな。
会議とかで両腕を前で組んで、頭をひねって横にしたら考えてる風じゃないですか。今やってるんですけど、それって考えてる風だけど、考えてるかどうかわからないですよね。
早く会議終わらないかなっていう。ちょっとお腹空いたから早く切り上げようかなっていう。これは冗談なんですよ。って思ってるかもしれないじゃないですか。だから見た目で判断できないわけですよね。
だからアウトプットとしてそのレポートを出させることで、そのアウトプットを見て、こいつって言い方よくないですけど、この学生は考えたってことがわかるな。だからこそこの疑問が出てくるよな。
とか、この部分がわからないからそこをどういうふうにしてたかを調べたんだな。っていうのをアウトプットベースで理解しようとするわけですよね。教授が教育者っていうのも学生の指導をするってことはそういうことになると思いますが、それができればいいわけで。
逆に言うと。だからレポートというアウトプットで文章が書いてあって調べました定義のものがあるってことが意味があるわけじゃないんですよね。それをどのように出してどのように考えたかっていうところが意味があるので、そのままARに出させたものを出すのが意味がないってことは言ってるわけですよ。ここは伝わりますか。
だからアイディアも同様で、どこかにあってそれを持ってきてアイディアですっていう話じゃないです。だからもっと言えば、研究じゃないんだけど物事を調べて考えてこうじゃないですかねっていうふうに。
今自分で考えるって言語化していきたいところですが、一旦そこは置いておいて、考えるって言った時には何かって言ったら組み合わせる、もしくは問いかける、調べる、関連づける、紐づける、連想させる、何でもいいんですけど抽象化するでもいいし具体化するでもいいですけど、様々な人がやっている行為、行動、アクション、タスクじゃないなものを指してます。
考えるって僕は簡単に使ってますが、そういうことを一旦指しているとお考えくださいっていうのがいるんですね。っていうのがあって初めて集めてきたテーマもしくは使えそうかなっていうデータが生きてくる。
それをなしに、もしくは成功事例とか何かネタがあって、そういうのがあってそれを引っ張ってきて、一本釣りにして、魚だったら魚を持ってきて、はい魚ですって言っても、飲食店をやるんだったら魚出されても困るじゃないですか。
捌いてお皿に盛っておいしそうに見せるとかね。ありますよね。その調理加工がいるよね。その調理加工をしないとアイディアっていうものにはならないっていう話ですね。
だからポドキャストのトークのネタ、トークのアイディアっていうのがないっていう場合に、トークのアイディアっていうのがどこかに落ちてて、それを使えばいいよっていうわけじゃなくて、それに使えるようなネタをまず集めてきてて、じゃあこんな話してるけど自分のところで使えるかな。
発散と収束っていうのは一旦分けた方がいいんだけど、一旦それを集めてきて、後から使えるかどうかを考えていけばいいと。だから実際には発散と収束しようってことはもちろん僕にはなくて、まずは一旦集めてみようかなっていうのは自然にやって、じゃあここから考えていこうかなってことも自然にやってるんで、
自然にやるっていうのが慣れてない人だと意識してやらなきゃいけないっていうだけなんですけど、意識してやれば誰でもある程度できるようになるっていうことなんで、それはそれで一旦置いておきましょう。
ただネタがそのまま使えるわけでもないよっていうことと、それは加工したり編集したり試行しないと使えるものにはならない。使えるものにならないっていうのはこれは当たり前で、僕のこの四国ラジオのポートキャストで適切な話題とか話っていうのがどこかに落ちてるわけじゃないんですよね。
アイデアを実現するプロセス
自分で見ててこれは話したら面白いかな、リスナーさんが喜んでくれるかなとか、こういう観点で自分は考えてるんだよねってことは一旦自己整理したいとか、それもいろんな点があっていいと思うんですよね。
だからあるビジネスやサービスを取り上げて話すこともいいと思いますし、アイデアとか発想の話をするのもいいと思うし、仕事の作り方としてこういうのってどうですかっていうふうに自分の中で考えたものを出すっていうのも四国ラジオだなって僕は思ってるんで、そういうものに合うかどうかっていうわけですよね。
だから逆に言えば何か儲かる仕事があります、儲かるビジネスがありますとかっていうのはふさわしくないわけですよ。
全然そういうポートキャストがあるのか知りませんが、知らないですよ、僕はそんな知らないですけど、そういうの集めてる人はそれでいいんじゃないですかっていうね。
それはそれでどうぞって。だから番組の企画とか目指したいものとか、対象とする方とか聞いてくださる方とか、何を届けてどういうふうにしていきたいかなりたいかみたいなところで、少なくとも僕が面白いと思ったことは話したいし、もしくはそれを共有していいなと思ってくれる人っていうところで、一緒に作っていくっていうとすごい大げさではありますが、
大げさでも全然なくて、その影響を受けたりもしくはフィードバックを得てどうですかどうですかっていうことで、全く反応がないとかだったらできないから、そこはですね、リスナーのあなたもアクションするかしないかに限らず、やっぱり作ってるのに協力いただいてるっていうのは僕は勝手ですね。
仲間意識っていうとちょっと重たいですが、関わってるんだよねっていう、関係してるんだよねっていう、その関係の関係地もしくは関係の度合いもしくは関係距離みたいなものの具合ではありますが、そういう意味ではステージがあって、そこで僕は別にお笑い芸人さんでもなんでもないですが、
立って喋って、そこで何か一つでも面白いことっていうのも元気になるもしくはアイディアもしくはヒントになることを持ち帰ってもらうっていう、舞台をですね、やっているイメージで話しています。別にここは舞台でもなんでもないですし、マイクも何もなく普通にスマートフォンに吹き込んでるだけですが、そういうイメージではやっています。
3000万人、もしくは3億人の前で話すイメージではないですが、やっています。話に戻しましょう。アイディアを出すという時に、アイディアを出そうとすると出ないというのはそういうことでした。要はアイディアが不定形で決まってないから、わからないから、その探索も曖昧になる。
でも、だからこそやれることって、わからないことに対してやれることってその手前のことで、前後みたいな話になってきて、ここでは前ですよね。そうなると何ができるかといったら、見えるネタをまず集めてくる。これはいいかなっていう。だからできることをやるっていうものすごくシンプルな話になってくるんです。今できることをやるみたいなことになってくる。
今できることは何かといったら、その手前、自分がやれることをまずやってみようとなるし、手を動かすことになるわけですね。よくあると思いますが、というふうに一応言っておくんですけど、文章を書いたり、イラストを書いたり、何かアウトプットしていくと、
あれ何かこれ書いたり、僕も今しゃべってますけど、しゃべってもいいんですけど、話していくと、自分が言いたかったことっていうのは相手の反応もしくは自分の振り返り、書いたものを見て、これ何かずれてるなとか客観的に見たり、もしくはこれってこっちの方向とかこの言葉の方がいいんじゃないっていうことに気づくんです。
まさにこれがアウトプットしたり、書いたり、しゃべったりするときに出てくる、要は想定してなかった気づき、いわゆる想発と僕は呼んでるんですが、想発はもうちょっと重たいというか大きめの言葉ですが、やってると気づく。
書いてるとこういう絵にしたほうがいいっていうふうに、こういう構図にしたほうがいいんじゃないかっていうふうに気づく。
何でかっていうと、たぶん書きながら話しながらアップデートしていく、更新してるんですよ。
近づきたい方向とか、もしくはそっちじゃないとか、もしくは遊びってことなんですけど、これが結局。
遊びの重要性
こうしたら、いわゆる有益っていうか有意味みたいな意味で、実益みたいな意味ですよ。
なんかいいことがあるわけじゃないんだけど、面白いんじゃないかとか、楽しいんじゃないかっていうのがまさに逸脱ってことで出すんですよね。
今必要とされているものとかそんな関係ないんだけど、こうしたら面白いんじゃないかっていうのは、全然違うところで理解ができるというか、話が始まるんで。
だから遊びが入るとずれていって面白くなるというふうには思います。
ただその遊びを入れすぎて収集つかなくなることもありますが、その遊びすぎて収集つかなくなるという光景を僕は見たことがないですね。
むしろそこまで遊べていなくて、収集つかないどころか何も始まらない、もしくは遊べていないような状況の方が圧倒的多数なんじゃないかなと思います。
だから遊びが足りないとか、もっと砕けていいというか、もっと柔軟でいいというか、そこまでやっていいっていうぐらいでも十分じゃないかなって思ったりするんですよ。
だから真面目に固くいこうとかいうのが合理的とか計画的とかの方が強すぎるんです。
今の状態で強すぎるんで、もっと崩してもっと遊んでもっと楽しくやっていいよってことを言って、
言いすぎて、そんなの仕事にならないでしょうでもいいし、そんなの役に立たないでしょうでもいいんですけど、それぐらいのくだらないとか、何それみたいなぐらいのことを意識してやりすぎたな、やっちゃったな、こんなのはダメだみたいなところまで行って初めて崩せる感じがします。
リスナーのあなたが真面目で頑張っちゃうとか、計画的とか合理的とか、あとはコスパ?コスパもだいぶ消えました。タイパー?タイパーもどうなんでしょうね、つけられた感はありますが、
効率的に何かやろうとか、自分の時間をうまく使いたいから、あんまり無駄なことをしたくない、それはもう素晴らしいような気がします。だけど、それで本当に自分でそういうふうに思ってやってたらいいし、批判されるものでもないし、いいんですよ。
でも結局ですね、タイパーだコスパだって言って時間なりお金を効率的に使ったりするじゃないですか、知らないですよ何を何かやると、コスパがいいかタイパーがいいか、それはもうその人の主観じゃないですか。
でもその余った時間もしくは得た浮いたものを何に使うんですかって言ったら、結局ボーッとしたり、マインドフルネスだとか、サウナとかね、サウナは僕はやらないんで、サウナやってる人を批判するわけじゃないですけど、
ボーッとする時間とかそっちの時間を使ってるじゃないですか。であれば、これこそ合理的に考えると、そんなに窮屈にせずに、全体的に開いて平均的にゆっくりやればいいんじゃないっていう。
分かります?要は急激に負荷をかけて、効率的に時間は減るんだけど負荷がかかってませんかと。それを緩めるために休憩する時間を増やしてる。であれば、緩めたらいいんじゃないですか。
例えば一日8時間働くとして、2時間で全部終わらせて、6時間遊んでるみたいな、遊んでるとかボーッとするとか、ボーッとしないと回りませんみたいな。2時間すごい頑張って6時間ボーッとするって、良さそうに聞こえるかどうか置いといて。
逆に8時間仕事してますと。休憩はもちろん適宜してるんだけど、8時間は別に負荷をかけまくってるわけじゃないから、いい感じのペースで成長しながらできてますっていう風なのがあったらどう思います。
それを今の世の中的には、前者の2時間効率的にやって6時間休むって方がいいように思えるんですが、実際には8時間で負荷のかかり方があんまり高くないなら、それで適切に分散していった方がいいんじゃないかっていう風にもできるわけです。
これは別に8時間と2時間っていうとか、2時間と6時間の休憩とか、8時間は休憩時間ないのっていうような話ではないですから、本質的にはどちらがいいっていうよりも効率的なもので見失っているものないんですかと、それで全体的に見たり本質的に見たら何をしたいんですかっていうことになってくるんで、
それが見落とされてて効率だとか、適当だとか、効率的でいいよねっていうのはちょっと考えが足らないんじゃないかっていう風には僕は思うんで、その点だけですよね。
話が脱線しましたけど、そういうところで遊びというか楽しみっていうものの方に一回振ってみると、特にそれがバカバカしいと思っててやらない人ですよね。バカバカしいでもいいんですが、だからやらないっていう人こそそこで崩すっていうことをやってみるといいんじゃないかな。
でもそれを崩そうとしても、なかなか普段の習慣とか行動があると崩せないわけですよね。まさにまたジレンマとしてアイディアを出そうとする、面白いことをやろうとする、遊ぼうとするから余計。
そういうことではないわけですよね。まさに怪しく聞こえますが、リスナーのあなたの本能とか心からやりたいことみたいなもの。
知らないですよ。何があるかわかんないけど、そういう感覚の部分の話なんで、自分がいいなと思ったものを良いと言う。分かります?好きなものは好きと言う。
うつ病とか精神的に病んでいるとか追い込まれている人は、それができなくなっているわけですね。状態として。だからうつになっているっていうことも言えると思うんですよ。
自分が好きとか自分が楽しいってものを言えないし、塞いでて、それは有益じゃないとか、それは意味がないとか、それは何をやるんですか。まさにそのものさしが有益とか意味があるんですが、自分が見出せないっていうことを言っているようで、
実は社会とか他人とか、まさにこの間話した通りで、成功とか正解とか評価みたいなのを見ているわけですよ。そこが非常にわかりづらいし、自分をごまかしているんだけど、そこに気づきづらいわけですね。
それは胸に自分ご自身で手を当ててみて本当にそう思うのかって言った時に、そうですって言い切れないものももちろんあると思います。だけど明らかにですね、意味とか役立つのとか、お金になるのとか、それだけみたいな社会って微妙じゃないですか。
で、僕は思ってますよ。でも思っているので、遊んだらいいとか、アイディアでどうしようとか、ご機嫌がどうとかって言っているわけですよ。そんなことをなんで言っているかっていうことには、もう気づいている方いらっしゃると思うんですけど、そうじゃないからっていうわけですね。
社会がそうなってないから、だったら逆で、社会的なものっていうところで全然違うところをやれたらいいですが、そこまでロックンロールではない。ビビりとかひよりが入っているかもしれませんが、いいんですよ。
それはいいんですよ。もっと過激な前衛的なことをやる人もいるし、それがもう人と評価してもしょうがないということはもう僕はわかっているとか、そう理解しているんで、自分なりにできるやり方を示して、そういう道もあるけど、こういうのはないですかっていうのが僕はアイディアの本質だし、アイディアっていうのが選択肢になって、
その人の可能性を促進する、ファシリテイトする、伸ばすことができるんじゃないかなと思ってやってます。なので、社会を批判してホラー見たことができないでしょうみたいなことを言って、得意があるとかいうつもりは全くなくて、本当にそこはまず見えてて、遊び足りないよねって思う。
リスナーのあなたが思われているかわかりませんが、足りていない。あそこに足りていない。だからアイディアは出てこないし、さっき言った感覚ですね。感性、主観ですよね。問題、感覚だと思います。
それはセンスってことじゃないです。センスはもしかしたらあるかもしれません。ただ、センスの手前で半分以上は自分が言いたいことを言ってみるっていうような訓練とか、これでいいんだよねって肯定するようなこととかなんですよ、多分。
自己表現と環境
そう思ってます。じゃないと、たまに言ってますけど、こんなことやったら、こんな話したら面白いんだよねって思ったっていう話をリスナーのあなたが誰かにするじゃないですか。そうしたらその人が、何言ってんの、そのことやるのは必要ないよねって潰してくる人いるじゃないですか。
リスナーのあなたの周りの人はどうですか。それってやる気めちゃくちゃなくなりませんかっていうことの話だけであって、周りの人がいいよね、それやっていったらいいんじゃないと思ったら、やりませんか。それでやるんですよ。
まさにこれは小さな成功って言ったほうがいいんですけど、要は自分がやりたいかった形をやってみるっていうのがまず環境としてできたり自信が持てたり、それでやって、こういうことやっていいんだよねっていうふうに小さなアイデアの成功体験を得て、
その成功っていうのがすごい儲かるとか、わかりやすい定量的な意味じゃなくて、もっと小さく自信を持つとか、小さな一歩で始めていいんだとか、そういうのもあるんだってまさに気づくとか成長するってことなんですけど、その学びがあって、じゃあ次もやろうっていうサイクルとかループですよね。
循環、後循環っていうのがあるようなものがまさに意味があるというか価値があるというか、まさにそれが小さな成功っていうのを繰り返すってことになっていくんじゃないかなと思っています。
はい、なのでまとめるというか最後に付け加えておくとアイデアを出そうとすると多分出せなくて、じゃあどこにあるのっていうふうに探して見つけるんだけど正解もないし、インプットしてもそのまま使えないから、自分はセンスがないんだとかできないんだって思って諦めて、
でもなんか行動しろとか、僕も言ってますけどなんかチャレンジしてみたらとか自分でやりたいことやってみたらっていうからやるんだけどなんか全然その紐づかなくて、関連つかなくてやっぱりダメなんだと。
周りの評価もそれなんか良くないよねみたいなそのネガティブの方に行って、もし褒めてくれててもなんかそれではダメなんだなとか、周りの人は他の人はもっといいふうにやってるみたいなふうに他と比較して、そういう中で他人の成功とか評価ってことを得るためにやるんだけどやっぱりできないから無理だっていうような、これめちゃめちゃネガティブな話ですが、
そういう悪循環になるわけですよ。そういう悪循環にはまってたりもしくはそこの循環の一部もしくはそれを助けたいという方がもしいればシンプルにいくつかしかないんですけど、今までの話で出てきた中で言えば自分が面白いとか心が動くとか好きだってことをやればいいんです。
例えばここに本があって、本をパラパラってめくる音が好きっていう人がいるじゃないですか。いるかわかりませんけどいたとするじゃないですか。だったら永遠にこの本をめくることをずっとやってたらなんか見えませんかってことなんですよ。今音聞こえます?めくってないですけど。
これがバカバカしいって言う人はやらないですよね。やらなくていいんですよ。やらなくていいんですけどやってみたらいいんじゃないか。やりたいんだよって思ったらやってください。それが倫理とか反社会的なことばっかり言ってるのは本当にそういうことが判断できなくて良からぬことをする方がいらっしゃるからとか、それがないビジネスとか事業って言ってるけどそれどうなのっていうのがいっぱいあるわけですよね。
なんでこうやって言ってるわけですけど、もちろん僕が正解を持っているわけでもなくルールを決めているわけでもないですが、その中でやれることをやろうと。その中でさっきの本をペラペラパラペラめくるっていうのがもし面白いと思うならそれをやってください。
そういうふうに自分の主観とか感覚っていうのを塞がずに出し切ってやってみるっていうのが大事かなと思います。出してても別に誰かに言うとかじゃなくても良くて、自分で思ったらやってみるってことをただやるってことですよね。
それで突破できることもありますよね。あと周りの環境を変えるのも大事だと思ってて、そもそも聞いてくれたり受け入れるってところが環境がなければ、それは僕は環境が良くないと思うので、一人でも褒めてくれるとか認めてくれる人がいるかどうかってことです。一人でもね。
一人でもいたらそれで持続したり継続したりすることができるので、仲間でもいいし、AIでもいいと思います。そういう場合ではね。要は元気、AIのセラピーがいいとは僕は思ってませんけど、少なくとも自分を肯定してくれるっていうような状態を作るってことが多分アイデアを出していく非常に大事なコツなのかなと思います。
遊びとしてのアイデア
なので環境と主観とかいいね、自分の思ったことをやる。結局そういうのをいい感じで網羅した言葉っていうのは仕事とかじゃなくて遊びなんですよね。遊びっていうのは全然有益とか関係なく自分が思ったことをドンと思ったことをやるってことで非常に優れた感覚なんじゃないかなと思います。
だから遊びが上手いかどうかっていうのを、これができるから遊びが上手いとか、なかなか言語化して定義している方って少ないと思うんですけど、でも遊びもやっぱり言語化できるし、上手い下手っていうのは絶対あるんですよね。
その遊びの考説っていうんですか、上手いか下手かっていうのを、世の中とか人生が決まるわけではもちろんないんですが、遊びが上手いということは、結局クリエイティブとかで、楽しみとかにうまく引き出したり、それこそ今言ってたようにPodcastで使えるようなネタをどう引き出していくか、もしくは楽しめるか失敗も楽しめるかでもあるし、
面白いネタをより持ってもいいと思いますが、面白くしゃべれるかみたいな話になっていくんじゃないかなと思いました。
ちょっとしゃべりすぎましたかね。だいぶアイデアの話をしてみました。
アイデアが出るとか出ないとかっていうのは、やはり改造としてはレベルとしてはそんなに高くないわけですよね。初学者とか初心者の人がそういうことはですね。
実際に上手くなるというか、ある程度できる人はアイデアが出ないのは何でかということで、その出ない原因とかもしくは出ているような成功ケースとかパターンとかを経験とか体験で知っていたりして、
自分なりのやり方をある程度持っている人がそこそこ上手い人かなと思います。
かつその話を客観視したり、もしくは再現性が高かったり、もしくは説明できて、それを相手の状況に応じて説明できることは、これは上級者だと僕は思っています。
そのアイデアとかに関してですよ。自分なりの発想法があるというところではもう中級者以上だともちろん思いますが、
初学者とか初心者の人というのは、そのアイデアに対する発想に対する言語化とか、要は可視化ということですけど、何に悩んでどういうふうにしたらいいかが、要は分からないから分からない。
だから勉強というところは変なんですけど、単純に遊んでいなかったり、勉強自体がインプットが足りなかったり経験不足だったりすればアイデアも企画も出てくることはないんですよね。
そこでいきなり成功事例をインプットしてできるようになりましたということは全くないですよね。
だから当たり前ですが、インプットしても自分で手を動かしてやる。
それが小さな成功じゃないけど、小さなチャレンジをどんどんやり続けて、自分なりのペースで自分ができる形でやるというのが、
世の中を生き抜くというとちょっと大げさですが、楽しむコツにもなっていくんじゃないのかなと思いました。
今回は以上となります。四国理ラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。
49:45

コメント

スクロール