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2025-11-21 33:42

考え抜くとは何か?を考えてみる

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サマリー

このエピソードでは、『考え抜く』というテーマの下、考えることの重要性やその深さが考察されています。特に将棋の例を通じて、考えるプロセスの複雑さや試行錯誤の必要性が強調され、仕事やクリエイティブな活動における考え抜く力の意義が探求されています。AIの普及により生まれる余暇時間の使い方についても考察され、創造的な時間の重要性が強調されています。思考を深めることで得られる洞察や価値は人間にしかできないものであり、それを怠るとクオリティ・オブ・ライフが損なわれる可能性があります。今回のエピソードでは、考え抜くことの重要性やそのプロセスに深く掘り下げており、思考量の向上がどのように仕事や社会に役立つかも考察されています。

考え抜くことの意義
はい、シゴクリラジオ大橋です。よろしくお願いいたします。このシゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組となっています。
はい、よろしくお願いします。テーマはですね、考え抜くことということで、考えるとか考えているとか考えますとか、考えるって言葉をよく使っているかなと思います。
リスナーのあなたもよく使われているのではないかという想定の下、じゃあ考え抜くって何かと。一般的には考え抜くだから、より考える。ちょっと考えただけじゃなくて、さらに次とかね、たくさん考えるとかね。
そんなイメージがあるかなと思います。もしくは、考えた先に行動したり、何かアクションにつなげていくとかね。そういうのもあるかなと思います。考えるというのが、頭の中だけの作業というふうに捉えると、すごく狭い言葉になる、狂言ですよね。
広い意味でいくと、やっぱり考えるということは、体験や感情や試していろいろあった上で考えてどうかということになるので、そこが考え抜くということなのかなと思っています。
今回はそんな考えることについて、じゃあ僕なりに考え抜くって何だろうか。そして、考えてやるって何?みたいな。すごいテーマとしては大きいですけども、ちょっとそのあたりね、粘って考えて、ちょっと考えてみたいと思います。よろしくお願いします。
はい、四国理ラジオです。よろしくお願いします。四国理ラジオです。四国理ラジオの大橋です。よろしくお願いします。テーマは考え抜くことです。まずですね、1個目にまず考える回数ですよね。数学、別に好きでもなんでもないんですけど、数式っぽくいっていろいろ書いてたんですけど、
Tですね。OPQRSTのTで1、小さい文字で1、もしくはT2、T3、タイムなのかステップのSだとわかりづらいかと思ったんですけど、総和のサムだとね、かぶるんでTにしたんですけど、タイム、機械、頻度、フェーズみたいなイメージで考えたもの1、T1、次考えたT2、
T3、T4みたいな感じに立ってて、どんどんあってT、N。Nは2以上ですか。だから1回は考えると。T1でね。T2、T3、でそれ何って言ったら、それがスポーツで言えば、まあスポーツってあんまり言わないですけど、
Eスポーツでもありますが、将棋ですよね。頭を使う戦いもスポーツだという定義があるわけなんで、ゲームもEスポーツになるんですが、そういうところでいくと、TがNまであってNが2以上みたいなところの世界で、でこれ何言ってるかというと、将棋だと1回相手の手が何が来るか、じゃあこちらは次の手をやろうっていう手をやったら相手が何か、
でこちらが次のやろう、でこれで5手ですよね。だから1手自分が刺して相手が刺して2手、でこちらが刺して3手、だから基本的に奇数になりますよね。要はこちらが打ったら相手が打って、っていうところまでじゃなくて、次こう来るみたいな。
もちろん自分が打ったら相手がこう来るだけでもいいんですけど、それだと自分の手が良いか悪いかわかんないんで、ってことだと思いますね。こちらが考えるっていう意味では3手5手7手みたいになっていく。夏目将棋でそうですよね。
こちらで終わるみたいな感じですね。それが5手7手9手11手13手15手みたいになってきた時に、それを将棋では考えてやるということから明らかなのが、17手先まで見えてる人と3手先しか見えてない人が打つと、
17手先で見えてる人からすると、あそこまでしか考えてないの浅いってなりますよね。つまりT17とした時にT3までしかない人は、手の上で手の平で転がされるような感覚かもしれないですね。全く歯が立たないみたいな。
T3までしかないですね。T17の人だと物足りないので、その人とやってても、その記録ってやつですね。実力がつきづらいかなと。その指導対局とかだったらいいですけど、自分が成長するためには厳しいみたいなのがありますよね。
ってことは何を言いたいかというと、将棋で言えば弱ければ、自分が弱かったら自分が成長できないので、強い相手を探しに行くっていうね。ストリートファイターっていうゲームじゃないですけどね。強い奴を探しに行かなきゃいけないわけですね。
そんなことをふと思いました。仕事づくりでもそうですし、やりたいことの企画でもいいですし、夢の実現でもいいし、旅行でもなんでもいいんですけど、それをやろうとしました、やってみました、やりました、考えました、うまくいきませんでした。
考えました。で、T1で終わってたら、それはうまくならないですよね。もしくは、考えが足りないみたいになりますよね。試行錯誤が足りないと言ってもいいんですけど、なんでそのT1で終わってんの?
T2で。もしくは、そのやっていることに対して、次のものも考えられるようにしないといけませんよね。っていうことをわかります?この間の話で早押しクイズみたいな会話コミュニケーションにおいて、その相手が言っていることに対してどういうパターンがあるかって、留意としてはパターンで捉えているというよりも、こういうことが言えるかなとかいうのを探っていったりするっていう意味では、さまざまな選択肢から
相手が言おうとしていることを補足しつつ、相手の言葉があるもので表現したいんだろうなっていうことをある種浮き彫りにしていくみたいな作業がコミュニケーションだっていう話をしてたと思うんですけど、初めて聞く方、もしくは気になる方はぜひ聞いてみてください。
そういうことで、要はその会話っていう一つ、ちょっと会話しましょう、雑談しましょうっていうのも、その話をした時にT1、T2ぐらいで終わってたら、それは上っ面なわけですよね。例えば、仕事が疲れたって言ったら、疲れたんですねってすごく上っ面じゃないですか。
上っ面なんだけど、いきなりヘビーな話をぶち込んでも対応が困るので、ちょっとその仕事疲れた話聞いてくれるみたいな、こういうことをやって疲れたんですね。その疲れた種類もいろいろあるわけじゃないですか。
自分が本当にその肉体的に物理的に物量が多くてやること多くて疲れたって話だけなのか、それとも誰かに指示してもらってその対応が大変だったのか、後はむしろ全然自分関係ないところでトラブルが起きてその対応だったのか、いろいろあるじゃないですか。
それも考えが浅いというか、たくさん考えたら深いっていうふうには屈辱になるわけじゃないんでしょうけど、基本的には比例していくんじゃないかという説。考えすぎるとちょっとそこまで考えなくてもいいんじゃないかみたいなことになりかねないんで、そこは調整があるんですけど、基本的にはそこがどこまで考えているかということで、
そこで仕事で疲れた話も考えていったらなんか疲れてたわけじゃないみたいな。
わかります?要するに仕事で疲れてたって言ってるんだけど、言葉としては、その仕事で疲れたんじゃなくて、単にその仕事じゃなくても同じことやってたら疲れません?ずっと同じことやってたら。
1日8時間とか1時間でもいいから、自分がそんなにやりたくないことをやらされてたら疲れると思うんですよ。僕じゃなくてもね。そういう疲れじゃないとか。新しいことになれる疲れもあるじゃないですか。
今は全然時期が違いますけど、4月とか、入学式とか、社会人の方が働き始めるとか、別にその時期が全然違ってて、転職したり、新しいアルバイトとか仕事始めたりとかね、全然状況ってあるわけじゃないですか、今から始めるとかもね。
それやったことないと大変ですよね。毎回違っている。
皿洗いとかをして、その皿をどこに戻すか。コップとか箸とか。そういうのをやってない人はもう分かんないと思うんですけど、やろうとしたら分かると思うんですが、やったことある方は分かると思うんですが、
慣れてたら、この皿はあそこだよな、この棚だよね、こっちの棚だよね、とか分かりますよね。だけど、自分のうちじゃない、例えば友人のうちとか、全然知らないとこ行くと、一個一個全部分かんないから、一個一個開いて一個一個やらなきゃいけない。もしくは全部聞かなきゃいけないから、効率がめちゃくちゃ悪いですよね。
だから、手伝うのとか手伝うってことじゃなくて、そういう感じで一個一個確認しなきゃいけないみたいな。そうすると、ものすごく考えなきゃいけないですよね。そういうのって疲れませんか。
だけど、考えるって結局そういうことを知ってこないと、それに友人のところで手伝うっていうケースは稀だと思いますけど、例えば職場で何か書類を整理するとか、書類じゃなくてもほとんどデジタルの話に向けて、パソコン上もしくはネットワークファイルのところでどこに管理しますか、クラウドなんか分かりませんけど、そういうのどこにありますかっていうのも、いちいち最初は聞いて確認して、ここにありますか、知りません。
だからファイルがここに入れてても誰も見てないみたいなのが出てきたりするわけですよね。だからそれでも同じかと思います。最初は分かんないと。で、それに慣れていって学んでいくみたいなことありますよね。
で、話を戻していくと、考えるっていうのは目の前のことをやって考えて早終わりっていう、T1ってやつですね。1回で終わることもありますが、考え抜くというのはT1やってダメなら次T2みたいな感じ。もしくはT1やったらT2があるから、さらにT3やってT4、5、6、7っていって、以下TNまで続いて、将棋であれば一応試合っていうのがあって、一日かかることもあるし何日もかけることもあると思うんですが、
それで終わるじゃないですか、試合は。将棋だと。でも企業とか仕事作りとかに関しては終わりがないので、撤退基準っていうのを決めてもいいし、決めないとダメでもないし、自分がやりやすい形に持っていく必要があるわけですよね。
終わりがないんですよね。作ったところでそれをやり続けるっていうことも期限がない。誰かがやれっていう話でもなく、自分がやりたいからやっているという世界でもある。一方でお客さんがいればその人たちがいるからやるっていうこともあるし、極めてフワフワしてるんですよね。
少なくとも、ただ一個だけここで言えるというか、言いたかったのはT1、T2みたいな感じのT3みたいな、これだからこうだよねみたいな、一発でわかりやすくて誰でも回答ができてみたいなこと。
要はその上っ面とか表面的なことだけで終わることはないんでしょうね。少なくともT1、T2、T3ってこういうふうだったらどうなるんだろうかっていうことを考えていかないと、あまりいいものがもしかしたらできないかな。
考え抜くっていうのはとことん考えると言ってもいいと思います。他の人がそんな考えなくてもいいよみたいなことを考える。もしくは他の人がそんなに興味ないということをやってみる。それが別に他の人にとってそこまで価値がないと思うとかはどうでもよくて、まず自分がやりたいことをそこでぶつけてみるというか、そういうものじゃないと考え抜けないじゃないですか。
AIと未来の考える力
考え抜けないと思います。前後してもいいんですけどね。最初か最後の問題。最初か最後じゃないですよ。始めかちょっと後かの問題であって始めるのが、要は自分がやりたいことが他の人の望んでることじゃないのもあれば、他の人が望んでることをやっても自分がやりたいことじゃないみたいな。
そんなのいくらでもあるわけなんで、いろいろやっていって調整して探っていくしかないかなっていう話でもあります。
結局そのTのNっていうところで何度も何度も考えていったりして時間をかけたらいいわけでもないし、とは言ってかけなくてコスパだタイパだみたいなことをやってたら、T1で終わるようにするんだけど、それって人に与えられた何かでそれをやればいいみたいになっていって、
やればいいかもしれないけど、やったところで何が得られるの?どうなるの?みたいなのを考えないと、それはね、なんかかわされたりね、言われたことをやることになりますから、そこの前提が違うんですよね。
だから人が与えられたことをやりましょうっていう話は考え抜けなくて、自分がこれいいんじゃないかとか、じゃあ次こうなるんじゃないかみたいな、それこそ一つ抽象的になってきてるんで、抽象的じゃないごめんなさいね、曖昧な感じになってるんで、具体的なやつにいくと抽象的か、だから抽象的すぎるかなと思ったんで、一つだけ言うとAIがありますよね。
AIで考えなくなることが言えるし、人がね、考えなくてもいい社会がもしかしたら来るかもしれないと。それは意見だろうが、事実ベースであろうが、何か出てくるとするじゃないですか。
例えば教育現場で学生さんがAIで丸々のやつをぶん投げてきたと、でも先生はそれをダメとしたと。それって分かんないんですけど、ごく一部だと思ったりします。みんながみんなそれやらないっていうのは、学校現場の先生とか、大学とかね、高校、小学校、どこからAI使ってるか分かんないんで。
でもそれって、子供とか学生さんじゃなくて大人社会人側がある種をもっと楽視したいということで、分からないでしょみたいな感じでやると。今の仕事を置き換えていくと。
そうしたときに、これ何度も言ってますけど、AIで時間が浮きますよね、ときにどうするんですかと。でですね、ここで畑と困るというか、分からなくなるのは、それで自分がやりたかったことをやるんだけど、
例えば、変な話、田舎暮らししたいみたいな、自分のやりたかったことがあったから、それをサーフィンしたいから、田舎に住んでサーフィンするっていう。浮いた時間で毎日サーフィンできます。幸せです。
それは全然いいと思うんですよ。QOLが上がるんで。一方で、ここだけが気になるのが、今まで仕事で考えていた部分があったとして、それをある種AIに投げてやらせるってことで、考えなくなるじゃないですか。
要は今までやってたことが、やらなくていいっていうのが、作業レベルのバッツラーの部分で、誰でもできて、右から左に何かやってるっていう。それは教育コストもかからない。要は誰でもできるような仕事だったらいいんですよ。
それはAIに変わられるし。だけど、考えたり、考え抜いたり、人間だけしかできないんじゃないかみたいなやつを経験や体験を減らすと、サーフィンをやるのは別にね。サーフィンやってる人は冷やしてるわけじゃないですよ。
だけど、サーフィンをやる間に、何か考えてないなみたいな。波に乗るのは楽しいけど、何か物足りないなって多分なると思うんですよ。考えてる人ならね。
それならなかったら、それはそれだから、別に批判するわけでもなく、そういうものかなと思いながらも。要は浮いた時間に何するかっていうのは、浮き浮きワクワクするっていうよりも、そもそもAIで代替された時代で、
別に賢くも何ともなく、自動化された効率化で何ともなく、その人が浮いた時間で何か創造的なことをしようとかって言うと思うんですけど、それ何なのっていうのがまさに考えなきゃいけないことなんですよ。
思考の重要性
って僕は思ってます。だけど、どうもそれはT1、T2とかでちょっと考えただけで出るものじゃないじゃないですか。で、僕も分かってないんですよ。分かってないんですけど、正解がないしね。
だからそこで友人と話してますが、考え抜くとか考えることがどうってことが、多くの人はそこまでやりたくないんじゃないか。つまり楽じゃないんですよ。
なんでかというと、考えることで面白いって思える人以外は、頭を使うし脳を使うし、リソースというか負荷かかるし、腹減るわけですよ。
しかも結論も正解もないから、あくまでも仮説ベースでこんな風になるんじゃないかみたいな。だったら今こうしなきゃいけないんじゃないか。
まさに将棋で言えば、分かんないんだけど、多分相手は3手目5手目とかこういう風に打ってくるから、自分はこういう動きをした方がいいんじゃないか。
少なくとも相手の得意な戦法に持ち込まないように、こちらの長所を生かした何か攻めをやっとかないと、まず序盤で差をつけられて勝てないんじゃないかと。
もしくは差をつけられて挽回できないような状況になったら、こちらが苦しくなるんじゃないかみたいな。そういう読み合いが始まるわけです。
読み合いっていうと、相手の行動に対して対応するみたいなのが取り上げられがちなんだと思うんですけど、
そういう意味の枝端の話じゃなくて、そもそもそれって相手がそれだけ考えてやれるという前提のもとを成り立っているものなんですよね。
って思いません?だからそこで重要だなと思ったのは、AI時代だとかAIによって浮いた時間がとか、想像的にどうするかってことを考えなきゃいけないって言われたときに、
そこを考えているかどうかなんですよね。考えようとして、考えてみた、やってみたとかね。
っていうことの今の話は、T1、T2、T3、T4、T5とかになっていって、どんどんどんどん深くなってよくわからなくなってくるんですよ。
だからこの今、Podcastで話しているとちょっとわかりづらいとは思うんですが、これは別に書いて段階的に一個ずつ追うことは可能だと思います。
で、結局じゃあそのAIによって想像的な時間って何?想像的に誰に対して?会社なの?社会なの?自分なの?自分の家族とか世帯?家族とか世帯とかコミュニティなのか何なの?
で、想像っているの?どうしたら幸せになるの?豊かになるの?QOLとかベルビングとかありますけど、なるの?
で、なるってことは何なの?経済的なものだけじゃなくて、精神的なものとか、どうしたらなるの?
そこまでいくと、哲学者みたいなことをもしかしたら言う人がいるかもしれないですけど、哲学者じゃなくても、そういうのを考えていなければ、哲学者も考えていなければ、誰が考えるんですか?
社会全体のことでもいいし、社会の特定の問題でもいいし、専門家の人が、自分は医者だから、医療に関しては専門家だからそのことについて考えますって言って、じゃあ他は別に考えませんっていうことになるのかっていうと、考えたくないわけじゃなくて、考える時間がなかったり、考えられなかったりするわけじゃないですか、情報がなかったりね。
政治家とかもそうですよね。政治のことについて一般市民がめちゃくちゃ考えて、できたら政治家いらないじゃないですか。
社会における影響
という意味で政治のプロみたいなのを政治家に期待するんだけど、そこがどうなっているかはちょっと置いておいて、ビジネスのプロである企業家とか経営者みたいな人たちがビジネスについて考えてやるって言うのもいいんだけど、
それをやっていればいいんですみたいなのも、また言葉を選ばずに言うと浅いわけですよね。T1、T2っていうのは業界とか所属しているところだけを深めていけばいいなんていう話でもなく、もっと広く見てどういうふうに出てくるかってことを考えないといけないわけですよね。
なんでそんなことはいけないのか、それは別にお母さんが考えすぎているだけじゃないとか、もし思われる方がいらっしゃるかもしれないですけど、それはなくて、例えば将棋でいくと将棋のルールがいきなり変わる可能性があるわけですよ。
本当に。将棋がAIによっていろいろ研究してどうなりますけど、これがAIを禁止にするという方向はないかもしれないですけど、AIがあるという前提にしたときに、あまりにもAIの研究結果を実践で出すみたいになっちゃって面白くないと。
プロの将棋打ちが面白くないとなったら、AIが学んでいないようなルールに変えたり、AIがやらないようなことっていうものにするとか、なんか違うものになっていくと思うんですよ、エンタメとしてはね。
それに対応せざるを得ないという現場は少々大変だと思いますが、少なくともスポンサーとかからお金を出てやっているという、賞というふうになると、その対応はせざるを得なくなるんだろうなというのは思ったりします。
だからどういうことかというと、将棋だけやってればいいなんてことはなく、その将棋の周りで起きることとかをやっぱり見とかないといけないわけですよ。
それは将棋、プロキシだけの話を言っているわけじゃなくて、AIを研究してますみたいな人は最先端なイメージあるけど、別にAIだけと対峙していたらいいわけじゃなくて、
社会に適応されるためにはどうしたらいいかとか、適応されていったらどうなっていくんだろうとか。
例えばよくある話だと思うんですが、研究者とか技術者って生前説的な人が多いんじゃないかなと思うわけです。
生前説というのは、生まれたときから人々は良い感覚が良い行いを持っていると思っていて、放っておいても野良で在野で勝手にいいことをすると。
例えば荷物を置いておいたら、それは届けてくれるみたいな話ですよ。
でも制約説だと、荷物があったら取っていって財布とか取られるよみたいな話です。
AI自体も良い研究だと、良い技術だということで、それを扱ってもらっているのため、人のためってやるんだけど、
詐欺だとか、悪用する人もいるわけじゃないですか。上手く使わない。
上手く使わないというか、想定していない悪い使い方をされると。
フェイク動画とかフェイク広告みたいな投資詐欺みたいなのがありますよね。
フェイクアカウントとかフェイクで、それっぽい人間っぽい会話やチャットやDMもできますから、
レアアカウントを売買してね、闇でダークウェブでやっていくと、できてしまうというか、騙されてしまうというか、
まかり通ってしまうわけですよね。たくさんに大量にやってしまうことでね。
ダメですよ。だけど、そういう悪意のある反社会的なAIの使い方ができてしまうということで、
もともとそういう開発者とか技術者でAIを作って研究してきた人の善意ではないものに使われてしまうわけですよね。
悲しくないですか。
じゃあもちろんそれをやる、そうだからAIがダメとか。インターネットの例明記はそうだと思う。90年代、95年代、90年代ですよね。
インターネットっていうのは悪いと、なんか危ないとことは言われてたんで、AIも結局そういう感じもしますけど、
結局それが適合されてじゃあどうなるかって言った時に、を考えていく人があるわけですよ。
考えないといけないですよね。別に考えるふりをしていればいいってことじゃないですよ。本当に考えた時にやっぱり僕は、
AIのリズムの無さとか、人が対等にやりあった時に、人ではないから、感情とか体験とか知見とかないから、
会話で言ってるけど、AIが言うとか、AIが書いたとか、AIが出したって言うけど、AIであって人ではないわけですよね。
だからうまくそれを使うってことにはいいんだけど、使うためにはまずそこで考えなきゃいけないわけなんで、
AIが出してきてからOKっていうのは考えてないわけですよ。明確に考えるなら、今言ったT1、T2、T3みたいな感じで、
T1っていう、会話のね、AIとのやり取りの会話のフェーズの1回ラリーがT1なら、2回、3回って言ってるT2からT3っていうふうにやっていって、
Tの一定数以上をやり取りすると。で、そのやり取りするってことは、適当な合図値とか打ててやってたらダメなんですけど、そうじゃない、
深めてったり、他の視点を入れたり、他の考え方を入れたり、他のことを入れたり、もしくは気づいて自分でやり取りしていくってことが、
まさにTのNを増やすことであり、時間もかかりますし、あと自分の、何度もさっき言ってますけど、自分の人間側の頭が動くことってことですね。
だから脳の活動量みたいな、反応が活動量が増える。だから余計お腹も減るし、脳の使うので、
ブドウ糖も減るし、多分ね、糖が減る。で、補給しなきゃいけないし疲れるはずなんですよ。
っていうことが考えることなんじゃないかなと思います。合図値だけ打って、そこに何にも関心をせず聞いてたら、多分それは、
うんうん、みたいな。関係性が疑われますよね、その場合に。どうなの、みたいな。維持できないじゃないですか。
それはこうじゃないかっていうふうに思ったり考えたりして話したら、維持はできますよね。
そうそう、そんな話です。
なんで、これは偉そうに言わずに自戒を込めて言うんですけど、文明なりに戻ってきてもいいんですけど、
目の前のことに対して考えるっていうのもいいし、それは対応としてやるといいんだけど、
じゃあそれやったら次どうなるんですか。じゃあそれやったらさらにどうなるんですか。
1点、2点、3点、それは将棋の強さにもよるんですけど、考えられるよう、自分でやってみて、分からんなってなると思うんですよ、その先で。
もちろんその先って言ってるけど、前提が崩れたりすると全部変わるから、また考え直さなきゃいけなかったりするとは思うんですけど、
そういうのを考える癖をつけて、1点、2点、先を考えておかないと、全部場当たりで対応して、もうこうなっちゃった、ああなっちゃった、みたいになるわけですよね。
考え抜くことの重要性
それって僕は良くないなと思うし、それだと提案する誰かにとっていいこととかっていうのはできないわけなんですよね。
だからここが難しいですよね。そういう提案自体が考えすぎだよねっていうところには全然受け入れられないですよね。
そこまで考えてないよって。そうですかって。なりません?じゃなくて、その先を考えて提案したり考えてなんかやってくれる人を探してるよとか。
そういう仕事があるか分かりませんけど、そういうアウトプットに近いものとか寄せていくことができたら、それは仕事になりますよね。
少なくとも今、もう一個だけ繰り返しになるんですけど、やはり目の前のことじゃなくて次ですよね。
それに次みたいなところを考えるっていうことを欲している人とか、それを価値を認める場とか、そういうところに行かないといけないんで、そういうのを見抜かなきゃいけないですよね。
少なくとも社会がそういう考えるを全く必要としてなかったら、僕の役目っていうのはあんまりないし、つまんない社会だなってなるんじゃないかなと思います。
考えるとか考え抜くとか言ってますけど、ビジネスにおいても仕事づくりにおいても、勝手に何か考えずに適当にポンとできるなんてことはないですね。
だから考えが浅いとか考えてないっていうのは簡単に言えるんだけど、考え抜くってことを数式みたいに仮に捉えるとすると、
タイムとか試行回数ってことのtをとって、そのtのn回、1回2回3回じゃなくて、tのn回、nは2以上みたいなことで、その回数を意識してみると。
将棋のやり合いじゃないんだけど、それは将棋っていう厳密なルールとパターンみたいなのがあって考えてるんだけど、そうじゃないもので考えていったら、
企業が仮にパターンがあったとしても、それはアイデアを出したりアイデアに気づいたり課題を出してそれを解決していくってことをやって、
お金を生み出すっていう仕組みの作り方っていうのはもちろん大雑把にはあるんだけど、それどこからやってもいいだろうし、
それを考えて自分がやって試して得る一時体験みたいなものを積み重ねないと、それはtですよね。
考えて何かやる回数が深まっていかないし、試行錯誤でいろいろやっていって自分で得た見たものをしっかりと落とし込んでいかないと、
それは考えは浅いわけなんで進まないですよね。こうやっていうと1個決めたことをやれみたいなメッセージ、
もしかしたら映る方がいるかもしれませんが、そういうことではなく、仮に1個決めたものもどこまでやるかは多分ご自身が決めたものまででしかないから、
1回そこまで潜る必要がありますよね、先生感じないしスキーバー誰でもいいんですけど、一旦これで潜りましょうみたいな。
思考の深さと実践
で、潜ってその先に何があるかとか、こういうのを想定して見てみるっていうのはアリですよね。
で、終わったら一旦上がってもいいし、そこから横に行ってもいいわけなんで、横の方が大変なんでしょうけど、一旦上に上がっていった方が陸の方が動きやすいよねってあって、
でも一旦深く潜ってそこから横に行こうとすると、周りが見えなかったら怖いですからね。
だからそこをどういうふうに考えて展開するかはその人、僕もそうですけど、その一人ですけど自信になっていくかなと思ったりします。
何度か言ってるかわかりませんけど、思考量ですね。考える量みたいなものっていうのは、この思考回数と思考の深さになっていくんじゃないかなと思います。
これが深ければよりいろんなものが解像度高く見えるはずですけど、それを期待的にはやっぱりいろんなものに興味を持って試してやると。
もう全部やることは無理ですよ。それは無理だと思うんで、いろんな人の話聞いたり、いろんなものから得て、もしくは自分で考えてみて試していくと。
当たり前になっていくんですけど、そういうふうに考えていく作業っていうのがまさに至極理でもあるし、僕は好きだなと思いました。
リサーバーのあなたにとって考え抜くというのはどのようなイメージがありますか。よかったら教えてください。
今回は以上となります。至極理ラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。では失礼いたします。
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