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2025-01-01 35:45

第6話「ホレホレ 小悪魔JK時代の話だっきゃ!」2024/11/7 #Radio23club

📻 Radio23clubについて

ラジオDJ 平野文がお送りする深夜ラジオみたいな番組です。毎週木曜23時よりYouTubeで配信します。ListenではYouTubeのバックナンバーをアップロードしています。

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技術:ヤガー(ニサンガロク)
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企画・編集:コグレマサト(ニサンガロク)
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00:13
さあ始めましょう。 平野文のRadio23club第6話です。
時刻は23秒まいりました。こんばんは、ラジオDJの平野文です。 さあ今日はどんな一日だった?
何か美味しいもの食べたかな? いろいろあった人も、そうでなかった人も、これからのひとときは一緒にのんびりゆったり、深夜のラジオトークいたしましょう。
さあ始めましょう。時刻は23秒まいりました。 23は日本語でふうみとも呼ばれるので、この番組は平野文のラジオ23、いや、ラジオふうみクラブと呼ばれます。
こんばんは、これはふうみ平野のラジオDJです。 今日はどうだった?何か美味しいもの食べたかな?
これからは深夜のラジオトークを一緒にしましょう。
平野文のラジオふみクラブ。この番組はスタッフチームニサンガロクのブロガーのコグレさん、ウェブエンジニアのヤガーさんお二人のサポートでお送りします。
この番組はスタッフチームニサンガロクのブロガーのコグレさん、ウェブエンジニアのヤガーさんお二人のサポートでお送りします。
みなさまからのお便りで成り立つ、たよりがたよりのこの番組ですね。
なぜかといえば、何もストーリーがゼロから始まって、みなさまのお便りをもとに、こんなことあったよね、そうそう、これ知ってるよねって言って、みんなと一緒にラジオトークするっていう、
深夜のラジオ番組ってこんなものだったかなというようなものを一緒に体感したいなと思って始めたわけで、
当時のいわゆるラジオの深夜DJ番組と違うのは、今はYouTubeの左のところにチャットで書き込みが、
生でみなさま書き込むことができるというのが、かなり違った形態になりました。
この番組は木曜日の23時からオンエアしますけれど、今しゃべっているのは23時よりちょっと前にロックオンしたもので、
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このロックオンはほとんど話して終わりまで編集しないまま、コグレさんがその上に音楽やジングルを入れてくださって、
番組みたいにしてパッケージにして木曜日の23時に公開するという形にして、
ヤガーさんが最終に音チェックをしてくださるというような仕組みになっているんですが、
このチャットというのは、このオンエアが終わった後でも右上のチャット項目というところをクリックすると、
トピックスというのとライブでというので、また再生していると同時にライブチャットというのがビャーというふうに出るようになっているので、
そのチャットをまた楽しみながら再生していただいてもいいですね。
私もそれでさっきちょっと見直したら、前回のオンエア中にこういうチャットの中に入ったのは、
どこにお便り出せばいいのという書き込みがあったので、それにもオンエア中にもお答えしていましたが、
そう便りが便りの一番大事なのはその画面の上にも右上にも書いてありますけど、
radiofumikulove.gmail.comでお願いします。
本当にこれがないと何にも話せない。
それで先週あたりからは皆様のお便りでお願いしているのは、
うるせえ奴らの当時のオンエア時代、その頃みんながどんなことをして過ごしていたかというのと、
どんなふうにしてこのアニメを楽しんでくれていたかということを知りたい人がいると。
それは今の現役高校生たちが、当時の皆さんをすごく羨ましいな、私もあの時にいればよかった、
そういうメールをいただいたので、現役の女子高生から。
すめらげちゃんもそうですとお手紙をくださいました。
私も実は皆様がどうやってあの当時楽しんでいただいていたかというのを知らないので、
そのあたりのことを教えてねという。
どうしてそういうことを私も聞きたいかというと、当時の様子を知りたいというのはもちろんなんですけど、
年代として、人生の中でやっぱりざっくり言うと、
高校時代をセンターに前後トータル7,8年ぐらいの間に吸収したもの。
やっぱりその当時って一番多感な時期で、
それこそスポンジが水を吸い取るごとく情報というか、自分の中に学ぶことがどんどん吸収されていて、
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それがいいことも悪いことも混在となって吸収されて、自分の中で咀嚼されて、
私はその当時のものが人間関係のベースになっているだろうなというのを、
今思い返しても実感しているので、
もちろん三つ子の魂といって小さい頃やっていたこと、
それから仕付けられたことというのも一生ものになっているんですけど、
17,8ぐらいの時からの自我が目覚めて、
こうあろうと、多少親に反発して、こうなんじゃないか、
こっちが正しいんじゃないかと自分で思った道から吸収したものというのもすごく影響を受けるし、
人間形成の中でのベーシックなものになっているなというのは実感しているので、
皆さんがその時にどんなふうに、
先週はお兄さんが読んでいた単行本を読ませてもらっていたとかね、
お小遣いのないから法書さんがアニメ雑誌回し読みしていたとか、
そういうことでものすごく得たいものに関しては自分で工夫しながら、
自分の中の知識に取り込んでいたというのが、
そんなところのお知らせをいただいた中からも受け取れるので、興味深いなと。
それでもちろんそれを聞いて、俺もこんなことをやっていたとか、
そういえば俺ってこうだったなというのを思い出すのも楽しいじゃない。
つまりもうね、私はそろそろそうやって、
自分の過ごしてきたところの出来事を思い出してもいいような年代になってきているのではないかなと思うのね。
グルーミップさんなんかね、若かりし頃は何しろ情報に飢えていましたという。
今の時代のことを良いものか悪いものかというのは別として、全然違うわけじゃないです。
今はね、なんでもスマホすべてで全部分かってしまうという、そういうものがなかった。
そういうツールがなかった頃のその上でいた時に、これと思うものに自分が邁進していたという、
そういうことを振り返っても楽しいんじゃないかなと思うので、引き続き皆様にもお待ちしています。
それだからもちろんアニメに限らずとか、うるせえ奴らを見ていた時代ということに限らず、
なんか自分が熱くなった時のことを振り返ると、いやこんなことをしていたなという、そういうことですよ。
例えばプラモデル一つ、あれが欲しくて何軒もお店はしごしたとか、
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私なんか洋服欲しいって言ってウィンドウに飾ってあったのは欲しいけど、
これは本当に自分で欲しいものか、一晩考えてからまだ欲しかったら買いに来ようとか、
そんなことを今考えると幼い頃やってたなと思うんだけど、
そういう振り返りの話って楽しいじゃない。
今日は皆様からのそういうお話の刺激を受けて、私の10代の頃の話をちょっと思い出したことをお伝えしてみようかなと。
つまり10代というと、まだ深夜放送もやらない。
子役から始めて、ラジオのDJを初めてやった頃のことまでですよね。
遠い遠い昔のことだけど、私の中ではつい最近この間さっていう話なのよね。
こんなこともあったんだというのを聞いていただければと思いますが、
私の若い頃の話をお伝えしたいと思います。
これは、私が情報を欲しがっていた頃の話です。
それで皆様ご承知のように、私12歳でNHKの少年ドラマの名探偵カッチンというのに出たじゃん。
それはバレエの先生のご紹介だったんだけど、そこでやっぱりちゃんと児童劇団に入った方がいいですよって言われて、
劇団こまどりに入れていただいたのね。
当時はその劇団こまどりのほかには、若草とかひまわりとか、そういう有名な児童劇団がいくつかあって、
私が入れていただいた時には、池田秀一さんとか富永みいなちゃんはもうスターさんで、
憧れていた人たちと、その時は秀ちゃんと呼べないけど、秀一さんだと思いながらさ、
劇団に出入りしている先輩たちを見ていた。みいなちゃんは年下なんだけど、もう全然キャリアが長かったのでね。
で、劇団こまどりっていうのはね、Wikiなんかに出るとグループこまどりっていう風になっているのね。
ちょっと待ってね、ちょっと劇団こまどりじゃなくてグループこまどりでWikiでちょっと見てみますね。
ありましたね。1948年竹田良一によって児童劇団、劇団こまどりとして設立。
その後、代表となった西村細子が学業と仕事を両立できるよう所属する子に配慮をした結果、
拘束時間の少ない声優の仕事が多く入るようになると書いてありますね。
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本当にこれは正しいことであって、私が入れていただいた時は竹田良一先生っていうのをみんな竹児、竹児って呼んでいて、
その竹児の下で後にグループこまどりとして引き継ぐ、竹児がお亡くなりになっちゃったので、
それで西村先生が代表となってグループこまどりっていう名前にしたんだけれど、
17、12、だから中学ぐらいで私そこに入ったじゃない。
とにかく学業優先っていうのがこの劇団ではものすごく言われて、とにかくちゃんと勉強しなさい、高校は卒業しなさい、
それからもう一つはドアを出たらは後陣であれっていう、そういう仕付け方をすごくされていたのね。
もちろんそこでも発声練習も早口言葉も時代劇の著作であったり着物の着方、日本舞踊とかそういうのも全部、
だからいわゆる大きな劇団があるじゃない、劇団式とか俳優座とかさ、
そういうのの子供版、教えることはほんと一緒、早口言葉もそうだったし。
そういう中で私がいわゆるNHKなんかでラジオドラマであったり、理科の時間とか、
ああいうののアシスタントみたいな女の子がいるじゃん、ああいうのすごくいっぱいやってて、
NHKなんかに行くと違う劇団の山田隆さんとか、あと誰がいたかな、坂上忍さんなんかもいたかな、
そういう人たちとすれ違ったり、あああの人もいるんだみたいなさ、
そんなので、それなりの世界でもさ、やっぱり知ってる知らないとか挨拶するとかさ、
なんかそんなことがいろいろあったりして。
学院は優先だったから、私も何か覚えてるんですけど、
17歳でラジオDJをやったじゃん、その時に途中でもう番組は続いているのにあなた降りなさいって言われた。
3本立ち続けにやってたんですけど、それの1つのTBSの番組にもう降りなさいって言われて、
なんで降ろされなきゃいけないんだって言ってたし、
それこそ竹神に自分で猛攻撃して泣きながらなんで辞めさせるんですかって言ったことがあってね。
そうしたらお前よく聞けと、人生の中で今一番やらなければいけないことはなんだ。
大学に入るっていうことをね、自分の中の今の最優先しなきゃいけないんだから、
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半年ぐらいそこで仕事を辞めたとしたって、人生の中でそんなのが問題のないことなんだということを延々と悟されて、
NHKのラジオ以外をその時に最後の半年間は辞めてましたよね。
NHKは許すと言ってもらっていて、その時に学んだのは人生のたった瞬きぐらいの時間なんだと。
それと、自分で今やらなきゃいけないことって一体何なんだという優先順位をつけろというのをすごく教わったので、
今でもClubhouseでもそうだけど、大学合格しましたとか、そういうのが来るとはよかったねと言って、
自分のことを思い出したりして、頑張ったんだろうなと、自分のやってたことと重ね合うというのはやっぱりありますね。
そういう意味ではすごくいい児童劇団に入れていただいてたなと。
いろんなタイプのところで、今はもう親の方がやらせたいみたいなところがちょっとしてあるかもしれないけど、
自分としてはとてもいい時代にいられたなと思いますね。
20歳になったら、ラジオのDJ・NHKで最後やってたときの選曲の方から、
ふみちゃん、大人になったんだから児童劇団じゃなくて、それなりの事務所に入った方がいいと思うよと言って、
20歳の時に移籍をしたんですよ。
だから、10代というと児童劇団にいたときの思い出というのとぴったり重なるということですかね。
みいなちゃんは子役の時から学業と両立をなさっていて、
小さな恋のメロディーとか大草原の小さな家だったかな、そういうような洋画のアテレコをしていて、
本当に憧れていましたね。
だから、声優になってみいなちゃんと再会したときには、
まだみいなちゃんには当時のグループ小間取りの西村先生がマネージャーとしてついててくれてて、
もう先生にわーって言って、久しぶりですというような話をしたのを覚えていますし、
またこの劇団小間取りに西村先生と総壁に園部先生というのがいらして、
その園部先生がいずれお話しすると思いますけど、
私が声優になれたおかげのきっかけの新放送に行かれるときのきっかけの先生になるというのは、
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すごく運命的なものもあるので、ちゃんと普通に生きていると、
そういうターニングポイントというのがあるのかなとちょっと思ったりして、
それは人生のターニングポイントだけど、さっきのグループ小間取りの情報収集に飢えていましたという時代のことになると、
私は15歳ですかね、人生というよりも情報が来たみたいな、
それがだから15歳でもとにかくファッションと洋楽命でしたので、中学3年でね。
なんでここにガラッと変わったかというと、
アンアンというファッション雑誌が創刊されたのが15歳の時だったんです。
今までそれまでにファッション雑誌というのがなくて、いわゆるおしゃれなのがなかったので、
もうみんな飛びついたんですよ。
それこそ原宿から青山に向かって、今もブランドがなくなっちゃってるんだけど、
ビギーであるとかマドモアズルノンノン、青山3丁目の方に行くとキラー通りに入ってニコルとかピンクハウスとか、
尾本山道を越えて246のところに行くと、
エイコーといってアメリカのジーンズを売ってる専門店が、都内でたぶんそこ一軒しかなかったんじゃないかな。
それこそ確か森本良夫さんにね、ジーンズ買うならエイコーだよって言われて、それでわざわざ帰り、そこまで行ったっていう。
本当に情報ってのは雑誌か人捨てかで、
アウンアウンが素晴らしかったのはファッションもそうだし、暮らし生活全部に関してのアドバイスとか、
あとはうまいものマップ、お店のマップもそうだけど、それを分かりやすい地図を入れてくれて、
横浜の中華街なんかは一人でその地図を片手に冒険しに、探検しに行ったっていうのもありますし、
ファッションに関してはアウンアウンで見て、
同じようにみんな雑誌で見て、これ欲しいって言ってそのお店に行くっていうやつを、
典型的なことをやってましたので、それからあとは誰かを真似するってやつ。
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今でも笑っちゃって恥ずかしいのは、18の時にTBSのDJをやってた時に、
ダウンタウンバンドがデビューしていらしてくださったのね。
その時に宇崎龍道さんたちが白いつなぎを着てデビューしてたの。レイバーのサングラスかけて。
その白いつなぎが欲しくて、龍道さんに店を教えてもらったのかなんかで、
私もつなぎを着て、ダバダバだからすっごい裾をまくって、
バイオリンの子供用のケースをバッグ代わりにして、
古着屋さんで買ったボルサリーノの帽子からかかぶって、なんか意気がって、
そんな格好をして行った時もあって、
あの頃って本当にやりたい放題ファッション、全てファッション命みたいなことをやってて、
多少勉強したんだけど、私は都立校に行って、
多摩川学園の演劇院に行くって決めてたので、それなりの勉強しかしなくて、
もう学校の成績は低空飛行でいいや、卒業できればいいやって、
外でもバレエやピアノや、試験にあるからって生学をやってたりとかしたんだけれど、
私の行っている高校って都立校で、制服は標準服っていう言い方をして、
普段は私服でいいですよっていう、何かの式の時にはね、
制服っていうか標準服着てねえぐらいのすごい緩い学校だったんで、
もう私はファッション大好きだったから、毎日何着てこう、何着てこうみたいなことでやってたら、
ある日家庭科の先生に呼び出し食らって、家庭科の時間ってあったじゃん、
料理とかお裁縫とかする時間ね、女子は女子で、男子は技術なんとか木工か工具を使ってやるような仕事でやっててさ、
授業をやってて。私は放課後に、ちょっと映像として思い込む、
放課後に誰もいない教室にその先生に呼ばれて、机の隅っこのところで向かい同士に座って、
なんかねえ、延々と何か悟されていたのよね。
当時、私は何を言われていたのか全然わからなくて、遠極に言って、知ったげきれいじゃないけどさ、
バンバン怒鳴るようになって、あなたはね、静かにさ、深海魚みたいな言い方をされて、
どうも総合すると、あなたは白の長いTシャツを着ているけれど、私服でOKだったから、
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それは下着に見えますから、はしたないからやめなさいってそういう言葉だったんですよ。
でね、私今でも覚えているんだけど、そのTシャツって白い普通のロングTシャツね、背中に絵が描いてあったの。
で、白の、正面はだから真っ白なのよ。で、普通の丸首のTシャツで、で、ほら学校の校章ってあるじゃない。
私服の時は校章さえつけていれば何着てもよかったのね、全然ルールがないからね。
で、その校章も胸につけないで、この首の下のペンダントトップみたいな感じでさ、
テレビのピンマイクつけるような位置あるじゃん。あそこにつけてて、ブローチみたいにしてさ、
それも気に入らなかったらしくて、で、そういうはしたないことはやめなさいと。
で、まあ私はさ、ほら、子役の時からずっと言われたことをやりなさいみたいなしつけを受けているから、
そうやって言われたからすいませんでしたみたいな感じで、でもそんなにいけないことかなと思いながらも、
まあじゃあ白いTシャツやめようかなっていう風なね。
で、ただその、少ししたらさ、今度さ、その家庭科のテストがあって、
あの、答案用紙を返されるのよね、授業で。
当時はさ、一人一人さ、呼ばれて、一枚ずつ誰ちゃん誰ちゃんって返されるわけ。
で、私平野文さんと呼ばれて行ったらさ、その先生がさ、なんか嫌な顔をするのよね。
嫌な顔して私にその答案用紙を返したから、なんかあったのかなと思ってさ、見たらさ、それ点数が100点だったのよ。
でさ、あ、100点取ったから先生気が悪かったのかなと思ってさ。
まあでもそれで2ページじゃん。なんか先生にとっては悪いことしてるけどさ、ちゃんと成績ちゃんとしてるんだからいいじゃんみたいなさ。
で、でもなんか私はそれで反発するもなく、そんなもんなのかなって言って流してたっていうかさ。
今となっちゃうなんか面白い思い出で、ほらうるせえ奴らもさ、当時さ、なんかあんまり学校で見てはいけない番組に入ってたとかって聞いたことがあったからさ、そういうもんかなっていうさ。
昔だってさ、ビートルズのさ、髪の毛長いのはさ、いかがなものかみたいなさ、そんな風潮もあったりしたから。
でもさ、伝統は作るものっていう言葉をさ、築地で教わったから、やっぱりそういう出る杭を打たれるんじゃなくて、伝統は作るものって、そっち、そっちよねって。
いい言葉だなと思うよ。築地で教わったこともいっぱいあるので、まあいろいろおいおいね、私の人生の半分は築地にとついていてるので、
昭和からの遊び倒したその年代と築地で若狼として修行してた時代っていうのとちょうど半々になったので、
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これからお話しするのの半分以上は築地のこともお話しできるのかなと思いますが、
とにかく私の時代ってそういう意味ではファッションもそうやって黎明期で腰の巡行の店がある、菊池多郷の店があるっていって、そういうのの前世になっている時代を見てて、洋楽もそうだったんですよ。
洋楽も今でやっぱり70年代黄金期っていうワードはいっぱい出てくるでしょ。
レッドセプリンやディープパープルだ、グランドファンクだ、サイモン・ガーファンクルであったり、カーペンターズだったりっていうのを生で来日のコンサートに行かれてたという自分の時代をやっぱりとってもありがたいなと思っていますね。
どちらかというと、歌謡曲よりも洋楽命だった気がしますね。今でもあるのかな、私15歳の時にラジオでたまたま見つけちゃったのが、
自分の勉強部屋に箱ラジオを置いていたので、AMでFENという、ファーイーストネットワークFEN、在日の米軍向けラジオ局、810kHzだったかな。
今じゃ名前が変わって、AFNになっているのかな、FENという名前は言われないみたいなんですけど、
そこは在日米軍のファミリーのためにも、日本語のコーナーもあったり、着物の着付けのコーナー、ラジオのコーナーでね。
その他に、ケイシー・ケイソンの全米トップ40、ウルフマンジャックというダミ声のすごいかっこいい喋り方をして、
イントロ紹介も、なんだこの音楽みたいなリズムは、というのを15歳の時のそのラジオで知っちゃって、
ケイシー・ケイソンの全米トップ40というのが後の小林克也さんのアメリカントップ40のコピーというかさ、
克也さんもバイリンでむちゃくちゃかっこよく喋るじゃん、あれみたいなのが全部英語でFENでは流れていたので、
私はウルフマンジャックのダミ声がすごく好きで、英語って音楽みたいに聞こえるんだなというのと、
イントロ紹介のリズムが好きで好きでしょうがなくてね、毎日それを聞いていて、
30:00
ちょうど18歳の時にアメリカングラフティという映画が入ってきたんです。
それはジョージ・ルーカスが監督で、その後に未知との遭遇の主人公になったリチャード・ドレイファスとか、
ハリソン・フォードも出ていて、すごい若いのが出ていて、
キャリフォルニアの田舎の高校生たちが卒業して、次の日にそれぞれの大学に行くから最後の夜にはっちゃけようという一晩のストーリーなのね。
みんな車でナンパとかカーチンスやりに行こうとか、お酒買っちゃおうかみたいな遊びをしているんだけど、
たまたまリチャード・ドレイファスがダンスパーティーに行く途中に車ですれ違った、
白いサンダーバードに乗っていたブロンドの美女に一目惚れしちゃって、すれ違っちゃったから追いかけていかれないので、
どうしたどうしたどうしよう、もう一度会いたいというので、
アメリカン・グルフティの映画では実名でウルフマン・ジャックがラジオ局のDJをやっているという実在の人物として登場してくれていて、
リチャード・ドレイファスがウルフマン・ジャックのラジオ局に電話をして、
俺は今金髪の美女に会ってどうしても会いたいからと言って、この電話番号を彼女に教えてくれないかという中華予測の番組に頼むのよね。
ウルフマン・ジャックはそれに答えてあげて、一度その電話を公衆電話に彼女からのレスが入って、
リチャード・ドレイファスが電話を受けるんだけど途中で切れちゃった、どうしようという。
だけどそういうラジオ局のDJがそんなことをしてくれるんだというアメリカのラジオ局でかっこいいなと思って。
一番最後のエンディングはもう会えなくて、遊び倒して翌朝しょうがないやって言って、
大学に向かう飛行機を飛んでって離陸してしばらくして、下を見たら一本道のところに白いサンダーバードが走ってるっていう。
そういうのがエンディングだったんですよ。
ジョージ・ルーカスの本当にかっこいい、自分の思い出を全部詰めたんじゃないかなというような映画で。
今見てみるときっとフルッチなってひょっとしたら思うかもしれないんだけど、
その時の私はアメリカン・グラフティのストーリーというのもそこでウルフマンジャックが実際に出てきたっていうところの凄さで、
なんだもうっていう、そんな思い出があったりしたんですけど、
とにかくその時代のティーネイジャーの時の思い出ってこれぐらい熱く語っちゃうぐらいに楽しい。
忘れられない思い出。濃いのかな。やっぱり多感な頃にやったことっていうのはもうきっと忘れないんじゃないかと思うんですよね。
33:09
その後にまた支援放送を始まって、ラムちゃんにっていう移行をするんですけども、
この時のやっぱりウルフマンジャックを見たっていうことに対してのラジオ、
その頃自分も多少なりにDJをやってて、曲紹介もすごい命かけてやってたんで、
擦り込まれてた自分の中の好きなものっていうのは今になってもこうやって忘れられなく、
コグレさんがこうやりませんかって声をかけてくださったので、
なんか楽しいことがあるのかもなと言って、やり始めたっていういきさつがあります。
だからあの頃の燃えてた俺とかあの頃の私っていうあの時代のことをちょっと自分でも思い出したならば、
画面の上にメールアドレス書いてあります。お待ちしてます。
ひらのふみのラジオふみクラブ第6話、そろそろお別れです。
続きが待ち遠しいですか?私もあなたのお便りが待ち遠しいです。
お相手はひらのふみでした。
そしてサポートはスタッフチーム236のプロガーのコグレさん、
そしてウェブエンジニアのヤガーさんのお二人でした。
この続きは次週の木曜日、また23時からね。
ではまた。
Thank you for listening. Next time on Thursday at Toofumi.
See you soon again.
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