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さあ始めましょう。 平野文のRadio23club、第6話です。
時刻は23秒まいりました。 こんばんは、ラジオDJの平野文です。
さあ今日はどんな一日だった? 何か美味しいもの食べたかな?
いろいろあった人も、そうでなかった人も、これからのひとときは一緒にのんぐりゆったり、深夜のラジオトークいたしましょう。
さあ始めましょう。 時刻は23秒まいりました。
23も日本語でフミと呼ばれるので、この番組は平野文のRadio23、違う、Radioフミクラブと呼ばれます。
こんばんは、フミ平野です。 ラジオDJです。
今日はどうだった? 何か美味しいもの食べたかな?
さあ、一緒に深夜のラジオトークをしましょう。
平野文のRadioフミクラブ、この番組はスタッフチームニサンガロクのブロガーのコグレさん、ウェブエンジニアのヤガーさん、お二人のサポートでお送りします。
この番組はスタッフチームニサンガロクのブロガーコグレさんとウェブエンジニアのヤガーさんのサポートでお送りします。
この番組はスタッフチームニサンガロクのブロガーのコグレさんとウェブエンジニアのヤガーさんのサポートでお送りします。
皆様からのお便りで成り立つ、便りが便りのこの番組ですね。
なぜかと言えば、何もストーリーがゼロから始まって、皆様のお便りを元に、
こんなことあったよね、そうそう、これ知ってるよねって言って、皆と一緒にラジオトークをするという、深夜のラジオ番組ってこんなものだったかなというようなものを一緒に体感したいなと思って始めたわけで。
当時のいわゆるラジオの深夜DJ番組と違うのは、今はYouTubeの左のところにチャットで書き込みが、生で皆様書き込むことができるというのが、かなり違った形態になりました。
この番組は木曜日の23時からオンエアしますけれど、今喋っているのは23時よりちょっと前にロックオンしたもので、このロックオンはほとんど話して終わりまで編集しないまま、
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コグレさんがその上に音楽やジングルを入れてくださって番組みたいにして、パッケージにして、木曜日の23時に公開するという形にして、ヤガーさんがその最終に音チェックをしてくださるというような仕組みになっているんですが、
このチャットというのは、このオンエアが終わった後でも右上にチャット項目というところをクリックすると、トピックスというのとライブでというので、また再生していると同時にライブチャットというのがビャーと横に出るようになっているので、そのチャットをまた楽しみながら再生していただいてもいいですね。
私もそれでさっきちょっと見直したら、前回のオンエア中にこういうチャットの中に入ったのはどこにお便り出せばいいのという書き込みがあったので、それにもオンエア中にもお答えしていましたが、
お便りがお便りの一番大事なのは画面の上にも右上にも書いてありますけど、radiofumikura.gmail.comでお願いします。
本当にこれがないと何にも話せない。
それで先週あたりからは皆様のお便りでお願いしているのは、うるせえ奴らの当時のオンエア時代、その頃みんながどんなことをして過ごしていたかというのと、どんなふうにしてこのアニメを楽しんでくれていたかということを知りたい人がいると。
それは今の現役高校生たちが、当時の皆さんをすごく羨ましいな、私もあの時にいればよかった、そういうメールをいただいたので、現役の女子高生から。
スメレギちゃんもそうですってお手紙をくださいましたけど、私も実は皆様がどうやってあの当時楽しんでいただいていたかというのを知らないので、そのあたりのことを教えてねという。
どうしてそういうことを私も聞きたいかというと、当時の様子を知りたいというのはもちろんなんですけど、
年代として人生の中で、やっぱりざっくり言うと高校時代をセンターに、前後トータル7,8年ぐらいの間に吸収したもの。
その当時って一番多感な時期で、それこそスポンジが水を吸い取るごとく情報というか、自分の中に学ぶことがどんどん吸収されていて、
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それがいいことも悪いことも混在となって吸収されて、自分の中で咀嚼されて、
私はその当時のものが人間関係のベースになっているだろうなというのを、今思い返しても実感しているので、
もちろん三つ子の魂といって小さい頃やっていたこと、それから仕付けられたことというのも一生ものになっているんですけど、
17,8ぐらいの時からの自我が目覚めて、こうあろうと、多少親に反発して、こうなんじゃないか、こっちが正しいんじゃないかと自分で思った道というのから吸収したものというのもすごく影響を受けるし、
人間形成の中でのベーシックなものになっているなというのは実感しているので、
皆さんがその時にどんなふうに、先週なんかはお兄さんが読んでいた単行本を読ませてもらっていたとかね、
お小遣いがないから法省さんがアニメ雑誌回し読みしていたとか、そういうことでのものすごく得たいものに関しては自分で工夫しながら自分の中の知識に取り込んでいたというのが、
そんなところのお知らせをいただいた中からも受け取れるので、やっぱり興味深いなと。
もちろんそれを聞いて、俺もこんなことをやっていたとか、そういえば俺ってこうだったなというのを思い出すのも楽しいじゃない。
つまりもうね、私はそろそろそうやって、自分の過ごしてきたところの出来事を思い出してもいいような年代になってきているのではないかなと思うのね。
グルーミップさんがね、若かりし頃は何しろ情報に飢えていましたという。
今の時代のことを、良いものか悪いものかというのは別として、全然違うわけじゃないです。
今はね、なんでもスマホすべてで全部わかっちゃうという、そういうものがなかった。
そういうツールがなかった頃のその上でいた時に、これと思うものに自分が邁進していたという、そういうことを振り返っても楽しいんじゃないかなと思うので、引き続き皆様にもお待ちしています。
それだからもちろんアニメに限らずとか、うるせえ奴らを見ていた時代ということに限らず、
自分が熱くなった時のことを振り返ると、いやこんなことしてたなという、そういうことですよ。
例えばプラモデル一つ、あれが欲しくて何軒もお店はしごしたとか、
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私なんか洋服欲しいって言ってウィンドウに飾ってあったのは欲しいけど、これは本当に自分で欲しいものか一晩考えてからまだ欲しかったら買いに来ようとか、
そんなことを今考えると幼い頃やってたなと思うんだけど、そういう振り返りの話って楽しいじゃない。
今日は皆様からのお話の刺激を受けて、私の10代の頃の話を思い出したことをお伝えしてみようかなと。
つまり10代っていうと、まだ深夜放送もやらない。
子役から初めてラジオのDJを初めてやった頃のことまでですよね。
なんか遠い遠い昔のことだけど、なんか私の中ではつい最近この間さっていう話なのよね。
こんなこともあったんだというのを聞いていただければと思いますが、
それで皆様ご承知のように、私12歳でNHKの少年ドラマの名探偵カッチンというのに出たじゃん。
それバレエの先生のご紹介だったんだけど、そこでやっぱりちゃんと児童劇団に入った方がいいですよって言われて、劇団こまどりに入れていただいたのね。
当時はその劇団こまどりの他には若草とかひまわりとか、そういう有名な児童劇団がいくつかあって。
で、私が入れていただいた時には池田秀一さんとか富永みいなちゃんはもうスターさんで、
憧れていた人たちと、ここに秀ちゃん、その時は秀ちゃんと呼べないけど秀一さんだと思いながらさ、
劇団にやっぱりそうやって出入りしている先輩たちを見ていた。
みいなちゃんは年下なんだけど、もう全然キャリアが長かったのでね。
劇団こまどりっていうのはね、Wikiなんかに出るとグループこまどりっていう風になっているのね。
ちょっと待ってね、ちょっと劇団こまどりじゃなくてグループこまどりでWikiで見てみますね。
ありましたね、1948年竹田良一によって児童劇団、劇団こまどりとして設立。
その後、代表となった西村細子が学業と仕事を両立できるよう所属する子に配慮した結果、
拘束時間の少ない声優の仕事が多く入るようになると書いてありますね。
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本当にこれは正しいことであって、私が入れていただいた時は竹田良一先生というのをみんな竹児、竹児って呼んでいて、
その竹児の下で、その後にグループこまどりとして引き継ぐ。
竹児がお亡くなりになっちゃったので、それで西村先生が代表となってグループこまどりという名前にしたんだけれど。
17、12、だから中学ぐらいで私そこに入ったじゃない。
とにかく学業優先というのがこの劇団ではものすごく言われる。
とにかくちゃんと勉強をしなさい。高校は卒業しなさい。
それからもう一つはドアを出たらば後陣であれという、そういう仕付け方をすごくされていたのね。
もちろんそこでも発声練習も早口言葉も時代劇の著作であったり着物の着方、日本舞踊とかそういうのも全部。
だからいわゆる大きな劇団があるじゃない。劇団指揮とか俳優座とかさ。
そういうのの子供版、教えることはほんと一緒。早口言葉もそうだったし。
そういう中で私がいわゆるNHKなんかでラジオドラマであったり、理科の時間とか、
ああいうののアシスタントみたいな女の子がいるじゃん。
ああいうのすごくいっぱいやってて、NHKなんかに行くと違う劇団の山田孝夫さんとか、
あと誰がいたかな。坂上忍さんなんかもいたかな。
そういう人たちとすれ違ったり、あああの人もいるんだみたいなさ。
そんなので、それなりの世界でも知ってる知らないとか挨拶するとか、そんなことがいろいろあったりして。
学院を優先だったから、私も何か覚えてるんですけど、
17歳でラジオDJをやったじゃん。その時に途中で、もう番組は続いているのにあなた降りなさいと言われた。
3本立て月間やっていたんですけど、それが1つのTBSの番組でもう降りなさいと言われて、
なんで降ろされなきゃいけないんだと言っていたし、
たけじんに自分で猛攻撃して泣きながら、なんでやめさせるんですかと言ったことがあってね。
そうしたら、お前よく聞けと。人生の中で今一番やらなければいけないことはなんだ。
大学に入るということを自分の中で最優先しなければいけないんだから、
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半年ぐらいそこで仕事を辞めたとしたって、人生の中でそんなのが問題のないことなんだということを延々と悟されて、
NHKのラジオ以外をその時に最後の半年間は辞めていました。
NHKは許すと言ってもらっていて、その時に学んだのは人生のたったの瞬きぐらいの時間なんだと。
それと、自分で今やらなきゃいけないことって一体何なんだという優先順位をつけろとすごく教わったので、
今でもClubhouseでもそうだけど、大学合格しましたとか、そういうのが来るとはよかったねって言って、
自分のことを思い出したりして、頑張ったんだろうなって、自分のやってたことと重ね合うというのはやっぱりありますね。
そういう意味ではすごくいい児童劇団に入れていただいてたなって、いろんなタイプのところの、
何しろ今はもう親の方がやらせたいみたいなところがちょっとしてあるかもしれないけど、
自分としてはとってもいい時代にいられたなと思いますね。
20歳になったら、ラジオのDJ・NHKで最後やってたときの選曲の方から、
ふみちゃん20歳になったんだから、大人になったんだから児童劇団じゃなくて、
それなりの事務所に入った方がいいと思うよって言って、20歳の時に移籍をしたんですよ。
だから、10代というと児童劇団にいたときの思い出というのとぴったり重なるということですかね。
みいなちゃんなんかは本当に子役のときから学業と両立をなさっていて、
小さな恋のメロディーとか大草原の小さな家だったかな、
そういうようなヨーガのアテレコをしていて、本当に憧れていましたね。
だから、声優になってみいなちゃんと再会したときには、
まだみいなちゃんには当時のグループ小戻りの西村先生がマネージャーとしてついててくれていて、
もう先生にわーって言って、久しぶりですというような話をしたのを覚えていますし、
またこの劇団小戻りに西村先生と草壁に園部先生というのがいらして、
その園部先生がいずれお話すると思いますけど、
私が声優になれたおかげのきっかけの新放送に行かれるときのきっかけの先生になるというのは、
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すごく運命的なものもあるので、ちゃんと普通に生きていると、
そういうターニングポイントというのがあるのかなとちょっと思ったりして、
それは人生のターニングポイントだけど、さっきのグルーミップちゃんの情報収集に飢えていましたという時代のことになると、
私は15歳ですかね、人生というよりも情報が来たみたいな、
それがだから15歳でもとにかくファッションと洋楽命でしたので、中学3年でね。
なんでここにガラッと変わったかというと、
アンアンというファッション雑誌が創刊されたのが15歳の時だったんです。
今までそれまでにファッション雑誌というのがなくて、いわゆるおしゃれなのがなかったので、
もうみんな飛びついたんですよ。
それこそ原宿から青山に向かって、今もブランドがなくなっちゃっているんだけど、
ビギーであるとかマドマーゼルノンノン、青山3丁目の方に行くとキラー通りに入ってニコルとかピンクハウスとか、
表参道を越えて246のところに行くと、エイコーといってアメリカのジーンズを売っている専門店が、
都内でたぶんそこに一軒しかなかったんじゃないかな、そこに。
それこそ確か森本レオさんに、ジーンズ買うならエイコーだよと言われて、それでわざわざ帰り、そこまで行ったという。
本当に情報というのは雑誌か人づてかで、
アンアンが素晴らしかったのはファッションもそうだし、生活全部に関してのアドバイスとか、
あとはうまいものマップ、お店のマップもそうだけど、それをわかりやすい地図を入れてくれて、
横浜の中華街なんかは一人で地図を片手に冒険しに、探検しに行ったというのもありますし、
ファッションに関してはアンアンで見て、同じようにみんな雑誌で見て、これ欲しいと言ってそのお店に行くというやつを、
典型的なことをやっていましたので、それからあとは誰かを真似するというやつ。
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今でも笑っちゃって恥ずかしいのは、18歳の時にTBSのDJをやっていた時に、ダウンタウンバンドがデビューしていらしてくださったのね。
その時に宇崎流道さんたちが白いつなぎを着てデビューしていたの。レイバーのサングラスをかけて。
その白いつなぎが欲しくて、流道さんに店を教えてもらったのか、私もつなぎを着て、ダバダバだからすごい裾をまくって、
バイオリンの子供用のケースをバッグ代わりにして、古着屋さんで買ったボルサリーノの帽子をかぶって、
生きがって、そんな格好をして行った時もあって、あの頃は本当にやりたい放題のファッション、全てファッション命みたいなことをやっていて、
多少勉強したんだけど、私は都立校に行って、多摩川学園の演劇院に行くというのを決めていたので、
それなりの勉強しかしなくて、もう学校の成績は低空飛行でいいや、卒業できればいいや、
外でもバレエやピアノや試験にあるからって、声楽をやっていたんだけど、
私の行っている校校は都立校で、制服は標準服という言い方をして、普段は私服でいいですよ、
試験の時には標準服を着ていないぐらいのすごい緩い学校だったので、
もう私はファッション大好きだったから、毎日何着てこう、何着てこう、みたいなことでやっていたら、
ある日家庭科の先生に呼び出しくらって、家庭科の時間ってあったじゃん、料理とかお裁縫とかする時間、女子は女子で、
男子は技術なんとか、木工か工具を使ってやるような仕事で授業をやっていた。
昼間に誰もいない教室にその先生に呼ばれて、机の隅っこのところで向かい同士に座って、
延々と悟されていたのよね。当時、私は何を言われていたのか全然わからなくて、遠極に言っていました。
知ったげきれいではないけど、バンバンどなるような、あなたはね、静かに深海魚みたいな言い方をされていました。
どうも総合すると、あなたは白の長いTシャツを着ているけれど、私服でOKだったから、それは下着に見えますから、はしたないからやめなさいという言葉でした。
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私は今でも覚えているけど、そのTシャツは白い普通のロングTシャツで、背中に絵が描いてあったの。
正面は真っ白なのよ。普通の丸首のTシャツで、学校の校章ってあるじゃない。
私服のときは校章さえつけていれば何着てもよかったのね、全然ルールがないからね。
校章も胸につけないで、この首の下のペンダントトップみたいな感じで、テレビのピンマイクをつけるような位置があるじゃん。
あそこにつけていて、ブローチみたいにして、それも気に入らなかったらしくて、そういうはしたないことはやめなさいと。
私は子役のときからずっと言われたことをやりなさいみたいなしつけを受けているから、
そうやって言われたからすみませんでしたみたいな感じで。
でもそんなにいけないことかなと思いながらも、じゃあ白いTシャツはやめようかなという。
少ししたらその家庭科のテストがあって、答案用紙を返されるのよね、授業で。
当時は一人ひとり呼ばれて、一枚ずつ誰ちゃんだれちゃんだって返されるわけ。
私、平野文さんと呼ばれて行ったら、その先生が嫌な顔をして私に答案用紙を返したから何かあったのかなと思って見たら、
それ点数が100点だったのよ。100点取ったから先生気が悪かったのかなと思って。
まあでもそれでツーペイじゃん。先生にとっては悪いことをしているけど、ちゃんと成績をしているんだからいいじゃんみたいな。
でも私はそれで反発するもなく、そんなものなのかなと流していたというか。
今となっては面白い思い出で、うるせえ奴らも当時、あんまり学校で見てはいけない番組に入っていたとか聞いたことがあったから、
そういうものかなという。
昔だってビートルズの髪の毛が長いのはいかがなものかみたいな風潮もあったりしたから、
でも伝統は作るものという言葉を築地で教わったから、
やっぱりそういう出る杭を打たれるんじゃなくて、伝統は作るものってそっちよねって。
いい言葉だなと思うよ。築地で教わったこともいっぱいあるので、
いろいろ私の人生の半分は築地にとついているので、
昭和からの遊び倒した年代と、築地で若狼として修行していた時代というのとちょうど半々になったので、
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これからお話しするのの半分以上は築地のこともお話しできるのかなと思いますが、
とにかく私の時代ってそういう意味ではファッションも例明記で、
腰の巡行の店がある、菊池武夫の店があるといって、
そういう前世になっている時代を見ていて、洋楽もそうだったんですよ。
洋楽も今で70年代黄金期というワードがいっぱい出てくるでしょ。
レッドセプリンやディープパープルだ、グランドファンクだ、サイモンのギャファンクであったり、
カーペンターズだったりというのを生で来日のコンサートに行かれていたという自分の時代をとてもありがたいなと思っていますね。
どちらかというと、歌謡曲よりも洋楽命だった気がしますね。
今でもあるのかな、私は15歳の時にラジオでたまたま見つけちゃったのが、
自分の勉強部屋に箱ラジオを置いていたので、AMでFENというところで、
ファーイーストネットワークFEN、在日の米軍向けラジオ局、810kHzだったかな。
今じゃ名前が変わってAFNになっているのかな、FENという名前は言われないみたいなんですけど、
在日米軍のファミリーのためにも日本語のコーナーもあったり、着物の着付けのコーナー、ラジオのコーナーでね。
その他に、ケイシー・ケイソンの全米トップ40、ウルフマンジャックというダミ声のかっこいい喋り方をして、
イントロ紹介も、なんだこの音楽みたいなリズムは、というのを15歳の時のラジオで知っちゃって、
ケイシー・ケイソンの全米トップ40というのが後の小林克也さんのアメリカントップ40のコピーというか、
克也さんもバイリンでむちゃくちゃかっこよく喋るじゃん、あれみたいなのが全部英語でFENでは流れていたので、
私はウルフマンジャックのダミ声がすごく好きで、英語って音楽みたいに聞こえるんだなというのと、
イントロ紹介のリズムが好きで好きでしょうがなくてね、毎日それを聞いていて、
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ちょうど18歳の時にアメリカングラフティという映画が入ってきたんです。
それはジョージ・ルーカスが監督で、その後に未知との遭遇の主人公になったリチャード・ドレイファスとか、
ハリソン・フォードも凄い若いのが出ていて、カリフォルニアの田舎の高校生たちが卒業して、
次の日にそれぞれの大学に行くから最後の夜にはっちゃけようという一晩のストーリーなのね。
みんな車でナンパとかカーチンスやりに行こうとか、お酒買っちゃおうかみたいな遊びをしているんだけど、
たまたまリチャード・ドレイファスがダンスパーティーに行く途中に車ですれ違った白いサンダーバードに乗っていたブロンドの美女に一目惚れしちゃって、
すれ違っちゃったから追いかけていかれないので、どうしたどうしたどうしよう、もう一度会いたいというので、
アメリカン・グルフティの映画では実名でウルフマン・ジャックがラジオ局のDJをやっているという実在の人物として登場してくれていて、
リチャード・ドレイファスがウルフマン・ジャックのラジオ局に電話をして、
俺は今金髪の美女に会ってどうしても会いたいからと言ってこの電話番号を彼女に教えてくれないかという中華予測の番組に頼むのよね。
それをウルフマン・ジャックは答えてあげて、一度その電話を公衆電話に彼女からのレスが入って、
リチャード・ドレイファスがその電話を受けるんだけど途中で切れちゃった。
どうしようというような。
だけどそういうラジオ局のDJがそんなことをしてくれているんだというアメリカのラジオ局でかっこいいなと思って。
一番最後の映画のエンディングはもう会えなくて、遊び倒して翌朝しょうがないやって行って、
大学に向かう飛行機がビューッと飛んでいって離陸してしばらくして下を見たら一本道のところに白いサンダーバードがビューッと走っている。
そういうのがエンディングだったんですよ。
ジョージ・ルーカスの本当にかっこいい自分の思い出を全部詰めたんじゃないかなというような映画で。
今見てみるときっとフルッチなってひょっとしたら思うかもしれないんだけど、
その時の私はアメリカン・グラフィティのストーリーというのもそこでウルフマン・ジャックが実際に出てきたというところのすごさで、
なんだもうというそんな思い出があったりしたんですけど、
とにかくその時代のティーネイジャーの時の思い出ってこれぐらい熱く語っちゃうぐらいに楽しい忘れられない思い出、濃いのかな。
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多感な頃にやったことというのはもう忘れないんじゃないかと思うんですよね。
その後にまた深夜放送を始まってラムちゃんにという移行をするんですけども、
この時のやっぱりウルフマン・ジャックを見たということに対してのラジオ、その頃自分も多少なりとDJをやってて、
曲紹介もすごい命かけてやってたんで、擦り込まれてた自分の中の好きなものというのは、
だから今になってもこうやって忘れられなくコグレさんがこうやりませんかって声をかけてくださったので、
なんか楽しいことがあるのかもなと言ってやり始めたという戦いがあります。
あの頃の燃えてた俺とかあの頃の私っていうあの時代のことをちょっと自分でも思い出したならば、
画面の上にメールアドレス書いてあります。お待ちしてます。
ひらのふみのラジオふみクラブ第6話、そろそろお別れです。
続きが待ち遠しいですか。私もあなたのお便りが待ち遠しいです。
お相手はひらのふみでした。
そしてサポートはスタッフ中のにさんがろくのプロガーのコグレさん、
そしてウェブエンジニアのヤンガーさんのお二人でした。
この続きは次週の木曜日また23時からね。ではまた。