2025/12/20
サマリー
葬儀司会の体験を通じて、僧侶の特別な立場や異なる宗派の間での配慮について理解を深めています。葬儀の際、僧侶に個別の扱いが必要であることを学び、今後の司会者としての姿勢を見直す重要性を認識しています。
僧侶の特別な意義
おはようございます。花火鑑賞士、気象予報士の鶴岡慶子です。
この配信では、花火や天気、言葉に関することなどをお話ししています。
昨日の葬儀司会で、「へえ、そうなんだ!」と思う出来事がありました。
私は、司会者として、茎とか伝法に並ぶ名前は必ず目を通します。
茎っていうのは、お供えのお花のことです。
これ、きょうかと読むんじゃなくて、くげと読みます。
茎だけの方、頂殿だけの方、両方出していらっしゃる方もいます。
両方出しているのを見ると、この方は御遺族と近い関係なんだなという風に感じたりします。
それ以上のことはあまりなくて、あくまでどんな方々から届いているのかなというような目線です。
さて、昨日の御収支は臨済宗でした。
茎の中に、曹洞宗のお寺さんの名前があったんです。
どういう御縁なのかな、御遺族とは、という風には思いましたけれども、私から遺族に尋ねることはありません。
ところが、臨済宗の御住職が会場に到着されて、茎の札をご覧になったんですね。
曹洞宗のお寺さんの名前を見て、やっぱり少し引っかかってらっしゃったんです。
別の宗派のお寺さんのお名前だということで、宗派が違うとやっぱり気になるんだろうなと、それぐらいの感じで私はその空気を受け取っていました。
でもその後、住職が言っていることにすごく驚いたんです。
もしそのお寺さんが参列されたら、私の隣に席を用意してほしいと、そんな風に言ってるんですね。
別の宗派じゃないですか。どちらも禅宗で似てはいるんですけど、別の宗派なのに、お経を唱えているその場所、その前に出るんですか、ということをびっくりしたんです。
葬儀は隣在宗、茶宝も隣在宗、もちろんです。
でも、そこにその曹洞宗のお寺さんが座ったら、そのお寺さんだって居心地悪いんじゃないかな、みたいにちょっと思ったんですね。
でもこういうことだったんです。
仏教の葬儀では、僧侶というのは、在家の方、いわゆる一般の方々とは異なる立場にあると。
司会者としての姿勢
たとえ他の宗派であっても、僧侶という立場そのものが特別な存在になるわけですね。
ですから、住職が一般の方と一緒に座っているという形は、感覚的にも、作法的にも、なかなか成立しにくいということでした。
なので、僧侶という方が会場にいらしたら、たとえ他の宗派だったとしても、まずはこちらにお席をご用意しますがいかがでしょうか、と声を必ずかけるそうです。
その上で、今回は個人として参列していますから、とか、お気遣いなく一般席で結構です、とご本人が辞退されれば、そこで初めて一般席に座っていただくという、この流れが一番自然で一番丁寧な形です、ということでした。
司会者目線で考えますと、やはり臨済宗のお経の場に他の宗派の僧侶が並んでいるっていうのは、正直秩序感覚から外れる気がしてしまうんです。
でも結論としては、同志側から正式に席を用意するかどうかを伺い、そしてそのご本人がもう決めるということなんですね。
宗派が違うからダメっていう話じゃないということなんです。僧侶という立場だからこそ形式と配慮を大事にするという、これが仏教会の礼節なんだということを今回知りました。
もちろんこうした判断というのはすべてお寺さんにお任せすることですよね。司会者は判断者ではないですし、宗派の整理をする立場でもありません。
ですから今回こういうことを知ったということはとても大事なことなんですけど、知った上で今後同じような場面に出会っても私は見守るだけというのが司会者として正解な姿だと思います。
司会者が口を出したらやっぱりそれは越前行為だと思うからです。空気は空気として感じつつ、自分の役割をきちんと努めると、その姿勢でこれからも司会者として努めていこうと思います。
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それではまた明日。
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