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おはようございます。鶴岡慶子です。 この配信では花火や天気、言葉に関することなどをお話ししています。
司会やナレーションを通じて日々感じたことなどを語る声の日記です。 日本の秋田県から毎朝更新しています。
今日も、お相撲のお話です。 大相撲を張る場所で新入幕の武富氏が幕打ち最高優勝したことについては、昨日お話ししたんですが、
この新入幕優勝は110年ぶりのことだった、ということについて、 では110年前の新入幕優勝者は誰だったのか。
それは元関分の両國です。 現在の境川親方は新字体の両国と書きますが、元関分の両國は国の文字が旧字体で書きます。
ちょっと表記が違うんですね。 まずは最高位が東の関分けということが意外に感じました。
いろんな記事を調べていくと、この領国は細見ながら足腰腕力は強く、 稽古場では横綱大二式も勝てなかったほどだ、という記事が出てきました。
パワーと身体能力を生かした豪快な投げ技が得意だった、ということなんですが、 大技にこだわりすぎて明らかに格下な相手に取りこぼすことがあった、ということで最高位が関分けでした。
もっともっと丁寧にしっかりと相撲を取っていたら、大関は確実だったのではないか、とも言われています。
本名は伊藤雄二郎。1892年3月生まれ、秋田県出身。 1909年6月の夏場所で初土俵を踏みました。
1914年夏場所で新入幕。ということは、新入幕まで5年かかっている、ということなんですけれども、 当時は年二場所制だったはずなので、まあそのぐらいかかるでしょうね、という感じです。
というか、年二場所で5年かかっていると10場所目、ということですよね。 ということは、武藤と同じ10場所目、ということですよね。
当時の新聞では、番付発表を広報しています。 両国、釈迦方家の入幕は、東方にとって1000人力とはいかずとも、100人力くらいは受け合いなり。
ちなみにこの釈迦方家は、大柄ではないものの買い力だったみたいです。 釈迦方家とともに期待が大きかったことがわかります。
さて、こんなふうに大きな期待を背負った両国なんですが、東前頭14枚目で、初日から白星を並べていきます。
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8日目は対戦相手が急上したので、当時の規則によって自分も急上になりました。 当時のルールは不戦勝というルールがなくて、相手が休むと自分も休みになっちゃったんですね。
8日目は急上になったんですが、残り2日間も連勝するということで、成績は急勝1球ということになりました。
まあまあ全勝ですよね。 先週落について新聞では、全勝力士両国は化粧回しと大額面の懸賞エタルが土俵にて披露されるとき、
いかにも喜ばしげに微笑しつつ、花嫁のごとくうつむきいたりきと報じていたそうです。
当時は東型と西型の対抗戦で、どちらの勝利数が多いかに重きが置かれていたそうです。
そして優勝は個人勝の意味合いが強かったということなので、今の応援の仕方とはずいぶん違ったんだろうなと思います。
両国は1924年1月の春馬賞最後に引退し、年寄り竹熊を就命しました。
なんと竹熊ですよ。私の大好きな元大関合営堂、現在竹熊親方ですからね。
ここつながるんですね。とっても嬉しくなりました。 さて今回竹富寺が活躍したことで、
過去にこうやって活躍した方にまたスポットが当たりますよね。 この元関分け両国もそうなんですが、竹富寺が春馬賞11日目に新大関琴の幕を寄り切って11連勝となった時、
これまた2つの大きな記録があります。 1つ目は幕打ちデビュー馬賞での大関撃破という記録、2つ目は新入幕の初日からの連勝記録です。
まず1つ目の幕打ちデビュー馬賞での大関撃破という記録については、横綱テルノ富士が4場所目で大関琴勝役に勝ったという記録を超えました。
横綱テルノ富士は武富寺の同じ部屋の兄弟子なんですけれど、大関に一気に駆け上がりましたからね。
でもその後、膝の大怪我で序二段まで下がって、それから復活して横綱まで登り詰めているんです。
そのテルノ富士もやっぱりすごかったなぁと思い出しました。 それから2つ目の記録、新入幕の初日からの連勝記録についてなんですが、
歴代トップの大宝に並んだということだったんですよね。 で、やっぱり昭和の大横綱大宝って新入幕11連勝やってのけていたのかと、改めてすごい力士だったんだなと思いました。
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なおこの時、大宝の連勝を止めたのが柏戸だったそうです。 ここから柏戸大宝の時代が始まっていったんでしょうね。
今とはルールが違っていたりして単純に比較できない部分もあるんでしょうけれども、それでも大相撲の歴史を紐解くそのきっかけになるその瞬間を私たちは見たんだなぁと思いました。
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鶴岡慶子でした。