嬉野泉さんの活動と趣味の楽しみ
はい、おはようございます。本日の放送は2023年の12月13日、水曜日です。本日は第654回目のお話となりまーす。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことを、だらだらと話をしていくという番組です。
そんな親父の人ごとを気になりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、我気がなかったんです。
不幸な子の場合も勇気を持ってしまったら、ぜひ今後もご贔屓のほどよろしくお願いいたします。
本日はショートバージョンです。 数日前ですね、豊田有経さんが亡くなったという話をしましたけどね。
それを思い出した話を今回したいと思ってます。 豊田有経さんがね、SFマガジンのリーダーズストーリー
そのコーナーでですね、ショートショートの選票を行っていたという話をしましたけどね。
その中にですね、よく選ばれる人たちがいたんですね。
前からのようにですね、選ばれてまして、選票リストに載っている常連の方々です。
その常連の中にですね、一人ですね、気になっている方がいたんですね。
宮城県のですね、嬉野泉さんという方なんですよ。
嬉野原、嬉野泉さん。 県は違いますね。同じ東北に住むSF不安。
同じ東北に住むSF不安。 同じ東北に住むSF不安。
同じ東北に住むSF不安。 同じ東北に住むSF不安。
同じ東北に住むSF不安。 同じ東北に住むSF不安。
同じ東北に住むSF不安。 同じ東北に住むSF不安。
同じ東北に住むSF不安。 同じ東北に住むSF不安。
豊田さんによる場合ですね、本業はお医者さんらしいんですね。
専門的な医学の知識を使ったアイデアね、非常に面白かったんですね。
豊田さんも非常に褒めていました。
また嬉野さんはですね、柴野拓実さんが主催のね、伝説のSF同人誌、宇宙人。
そちらの同人誌の方でね、活躍されていたんですね。
柴野拓実さんも非常に褒めていらっしゃいました。
多分嬉野さんですね、自分と親子以上もね、年齢が違う方らしかったんですね。
でも、そのように同じ趣味を持っているというので、仲間意識を持っていたんですね。
その方がですね、東北にSF小説を、というのがですね、SF同人誌、そちらを主催されることになったんですよ。
で、SFマガジンね、同人募集を行ったんですね。
その同人誌の名前がですね、
SF同人誌、ボレラス。
ボレラスというのはね、北という意味もありますしね、北極星のね、星のね、ラムダ星でしたかね、そちらの方の意味もあったんですね。
そしてですね、嬉野さんの名本名がですね、菅原豊治さんという名前だったこと。
あと、嬉野さんのね、住んでいるところはね、石巻だということも知ったんですね。
そうですね、興味を控えてですね、その同人誌に参加したんです。
確か高校の2年生の頃に、その同人誌に参加したんです。
そういうところでしょうかね。
それでですね、お手紙をね、やり取りしてね、知って驚いたんですかね。
自分、中学生の時にですね、嬉野さんに会ったことがあるんですよ。
東北のですね、SF本が集まるイベントがあったんですね。
道の子SF祭りっていうのがあったんですよ。
中学生の時にですね、それに自分参加したことがあるんですね。
合宿船のイベントなんでね、なんだかよくわからないところにですね、中学生の自分が取り込んだわけですね。
よくですね、うちの方にね、許してくれたら。
と思うんですね。
その企画の一つにですね、珍しい病気について知ろうっていうのがあったんですね。
お医者さんがですね、仕事で使っているですね、治療用のね、患者のスライド。
それをですね、上映してね、解説するっていうものです。
菅原衛生博覧会っていう企画です。
今だとね、簡単にネット検索すれば出てくるものですけどね。
当時はそういう病気の写真って非常に珍しくてね、専門家しか目にすることができなかったんですね。
当時ですね、日常にあるSF的なものに非常にSF不安を植えていたんですね。
で、その病気についてね、解説したいものですね。
嬉しのさんだったんですね。
で、結局ですね、何度かお手紙をやり取りしましたね。
SF小説をね、もしも完成したらね、送ってくださいねっていうふうに言われ続けたんですね。
で、結局ですね、自分は送れなかったんですよ。
満足できるものができなかったんだよね。
なんでしょう、このSF同人誌に発表される。
で、自分はですね、嬉しのさんのレベルがね、高かったんですね。
またあとはですね、ここに書いてある方々のレベルも高かったんですよ。
後にですね、ファンタジーノベル大賞を受賞するですね、勝山海百合さんもね、この同人だったんですよ。
で、自分ですね、大学生になりましてね、引っ越ししたのにですね、住所が変わったことをね、ボレアスの方に連絡しなかったんですね。
で、会費もね、払わなかったんで、自然と同人から抜けてしまいました。
ボレアスはですね、そのまま出し続けていましたね。
皆さん、創作活動を頑張っているなというね、見ていました。
嬉野泉さんの影響と教訓
そして嬉しのさんはね、小説推理という雑誌があるんですよね。
そちらも別冊で、SFワールドというのが出たんですよ。
その時にもね、毎月毎月ですね、作品が発表されるようになったんですね。
で、もうほとんどプロになったなというふうに見ていました。
で、時はですね、そこから一気にですね、25年以上と流れるんですよね。
2011年の東日本大震災。
2012年の東日本大震災です。
あの時、自分大変でね、まあ、右往左往していたんですよね。
それは震災がね、2年ぐらい経った時ですね、
嬉しの泉さんが亡くなっていたということを知ったんですね。
東日本大震災を襲ったですね、石巻を襲った津波。
それで亡くなっていたらしいんですね。
自分ですね、直接お話ししたわけでもないですし、
まあ、お互いもね、何度かね、やり取りしただけなんですよね。
自分が影響を受けた方だったというので、
プロにならなくてもですね、趣味をね、深く楽しむ道があるってこと。
そうですよね、年齢も違ってもですね、趣味をね、同じだったらですね、一緒に楽しむことができるってこと。
そうすると、何歳になってもですね、趣味は楽しめるんだってこと。
それをですね、嬉しのさんから学んだと思っております。
というのでですね、今回はですね、ふと思い出したんですけどね、
東北にですね、SF小説を書く楽しみを広めました、嬉しの泉さんについての思い出話でした。
本当に東北でね、有名なSFファンの方ってのは珍しいと思います。
はい、それではまた次回お会いしましょう。
ペンキチョンのお話をお付き合いくださいね。
本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。